さて、どうしたものか。一夏は首を傾げる。
学園で仕事をしていたら、急に休みを貰った。始めは、クビにされるのかと身構えたが、事実はただの気遣いだった。
「織斑先生、君ね、少し働き過ぎで頑張り過ぎ」
確かに、仕事が多かった自覚はあった。しかし、学園長直々に休みを、それも長期の休みを貰った。
「夫が、妻を蔑ろにするのは感心出来ませんよ?」
蔑ろにしているつもりは無かった。
只、霧絵に認めてほしかった。ただ、それだけだった。
国家代表となり、モンド・グロッソを三連覇したのも、霧絵が自分の弟子だと、胸を張って言える様な男になりたかったからだけ、他の理由なんて無かった。
だが、それはもう違う。
霧絵は傍に居て、共に居る。
だから
「帰るか、家に」
無理に休もうとせず、素直に家に帰ろう。
一夏は大人しく家路に就くことにした。
教員になって初めての長期休暇だ。
何をする訳でもなく、霧絵と二人で過ごすのも良い。
テレビを観ながら茶を飲んで、煎餅でもかじりながら話をしよう。霧絵は餅や煎餅等の米菓子が好きだからな。
それで、珠には外出するのも良い。
通販(未だに電話注文)で自分の買い物を済ませている霧絵を連れて、商店街に行って買い食いなんかしながら歩いて、姉の千冬の所に寄り道して話をして、などと考えながら家路を歩いていると、見覚えのある人物が自宅の手前の曲がり角で、隠れる様にして手招きをしているのが見えた。
「織斑さん、織斑さん、こっちです」
「貴方は確か、霧絵の担当の」
「はい、担当編集の峰岸です」
霧絵の担当編集の峰岸が、小声で一夏に話し掛けてきた。
いつもは、ハキハキとした受け答えをする人物だけに不思議に思った一夏が疑問する。
「どうしたんですか?」
「いや、それが、先生の自宅がこの付近にあると、どこからか他社に情報が漏れてしまったらしくて、記者が彷徨いているんですよ」
霧絵は『霧村夕狐』という筆名の覆面作家として執筆活動をしている。
幅広い作風と独自の世界観で、あっという間に有名になり数々の賞を獲得、授賞式等に呼ばれるが、そのどれにも出席せず、代理人が出席している。
年齢性別本名、全てが不明。得たのは、この付近に住んでいるかもしれないという不確かな情報のみ。
今をときめく覆面作家の情報、不確かとは言え、それを得たのだ。雑誌記者にとっては、特ダネを得る絶好のチャンスなのだろう。
そう言えば、ここまで来る途中、普段よりやけに人が行き来していると思ったが、成る程それが理由か。
――けど、俺、誰にも気付かれなかったな――
内心、ほんの少しだけ肩を落としていると、峰岸が付近を見回して、自宅の裏口まで先導してくれていた。
「では、私はここで。先生には締め切り手前に、一度連絡すると伝えてください」
「あ、はい。峰岸さんも、お気をつけて?」
峰岸は言うとさっさと走り去って行った。中々に早い。
「さて、ただいま、と」
勝手口から台所へ、作り置きしておいた『鶏挽き肉の巾着煮』が消えている。
――あれ、今晩の夕飯の予定だったのにな~――
と思いながら、隣の鍋を見てみると
――増えてる……――
恐らく、霧絵が食べ足りなくて継ぎ足したのだろう。
巾着と輪切りにした大根が追加で煮込まれていた。
霧絵は見た目より、よく食べる。足りないかもと思ったが、まさか継ぎ足すとは、一夏も予想外だった。
「おや、一夏。仕事はどうしたのだえ?」
「霧絵」
霧絵が徳利を摘まみながら、少し赤みが差した顔で台所に現れた。
まだ日も高いうちから、巾着煮を肴に呑んでいたようだ。
細目を御機嫌に歪めて、喉奥で笑っている。
「ああ、うん。働き過ぎだって、長期の休みを貰ったんだ」
「おやおや、それはそれは、善哉善哉、コココ」
霧絵は本当に御機嫌な様だ。
先程から、右へ左へと僅かだが揺れながら同じ単語を繰り返している。
「霧絵、外に記者の人達が彷徨いてるって、峰岸さんが」
霧絵が外出する事は無いだろうし、峰岸さんから伝えられているだろうけど、念の為に伝えておく。
少しとは言え、酔っているのだ。御機嫌になった霧絵が何を言うか解らない。
「コココ、狐の寝屋を暴こうとは、胆の太い輩共よ。ココ」
今日の霧絵はよく笑う。いつも笑っているけど、今日程笑っているのは、久しぶりだ。
「のう、一夏よ。休みを貰うたのであろう?共に呑まぬか」
「う~ん、昼間酒か……」
一夏も酒は嫌いではない。あまり呑まないが、一仕事終えた後の酒は、身に沁みるものがある。
だがしかし、昼間酒はどうだろう?
あまり呑んだ事は無い。酒は夜に呑むものだと、知らない内に決めていたから。
そんな事を考えていると、服の裾を軽く引かれる。
「……狐の酌では呑めぬか?一夏」
寂しそうな霧絵が裾を摘まみながら、潤んだ瞳でこちらを見上げてきた。
ああ、これは、断れない。断れる訳が無い。
「霧絵、燗は?」
「ふむり、上燗が良いぞえ」
「解った」
黒地に白の徳利から猪口へと、酒がとくとくと注がれる。
僅かな湯気の向こうに、狐が笑みを浮かべる。
「ココ、狐の酌はどうだえ?」
「良いものだね」
「それは、重畳重畳」
巾着を箸で割り、出汁を含ませ口に運び、広がる味を酒で流し込み、籠った熱を吐く。
「のう、一夏よ」
「どうしたの、霧絵」
「最近は、朝晩が冷えてきたのう」
おお、寒い寒いと、狐が身震いして両腕で身を包み、ゆるりゆるりと愛しい白狐に撓垂れ掛かる。
「ああ、最近冷えてきたね」
「ココ、お主の腕の中は相変わらず温いのう」
白狐の温もりの中で、九天の狐が微笑み胸に手を這わせる。
「霧絵?」
「一夏、冷える夜に狐の一人寝は寂しいものぞえ?」
だから
「今宵からは、のう?」
唇を一舐め湿して、狐が白狐の唇を軽く食み、白狐が狐の背に手を回し、抱き寄せる。
熱の籠った息を吐き、静かに二人の狐が身を寄せ合った。
次回予定
おや? 幸せ兎から手紙が来たぞ?