「そろそろ、かえ?」
兎の薬も残り僅か。この日々も終わりが近付いてきたという事ぞえ。
すでに終わった身、惜しくはない。そう、思っていたのに、今となっては教え子と共に生きていたい。それしか、思えぬ。
だがそれは、叶わぬ夢よの。私は終わり、教え子は先に進む。それが師としての役目、私がこの世界で存在する理由ぞ。だが、もし、叶うならあやつの側で、あやつの隣で、共に笑い、共に泣き、共に老い、共に終わりたい。
叶わぬ夢程、目映く映るものよ。あやつの巣立ち迄、残り僅か。まさか、八尾を斬り伏せるようになるとは、誠に誇らしいものよ。
残るは九尾のみ、それをあやつが越えた時が
「私の、最期……」
教え子よ、私はお主が愛おしい、決して諦めぬその目が、立ち向かう事を恐れぬ魂が、その優しい声が、綺麗な笑顔が、お主の全てが愛おしい。お主が欲しい、狂おしい程に、お主への想いが止まらぬ。
「教え子よ……」
一夏、私は……、私は、死にとうない。死にたくない、生きて、お主の未来を見てみたい。
側に居られなくても良い、お主が、築く未来を見たいぞえ。
「弱く、なったものぞ」
私が人の子を、ここまで想ってしまうとは、弱くなったものよ。たが、良いのぅ。今はこの弱さが嬉しい、嘗ての私では考えもせん事よ。これも、人の身になったゆえかえ?
「恋しいのぅ、一夏……」
この私に、ここまで想わせたのはお主が初めてぞえ。だから、私の全てをお主に遺そうぞ。
だが、出来る事なら……
「なあ、弾。俺、どうしたいんだろう?」
「一夏、それは俺から言えない」
半年近く連絡が無かった親友が、連絡してきたと思ったら、訳が分からん事になっていやがった。
大体は、虚さんから聞いてはいるが、まさかここまで重症だとは思わなかった。
このバカは、昔からこうだ。気遣いは得意な癖に、自分に関する想いに関しては、徹底的に鈍い。
今回もそうだ、明らかにその師匠って人に惚れている。
「どういう事なんだよ?」
「はぁ、良いか一夏。この件に関しては、俺からは何も言えない。だが、一つだけ言える事がある」
「な、なんだ?」
これに関しては、自分で気付け。そうでないといけない、こいつも師匠も先に進めなくなるかもしれない。
だから、俺が言ってやれる事はこれだけだ。
「今すぐに、師匠に会え」
「え?」
「そんで、話をしろ。一秒でも長く一緒に居ろ」
「え?どういう事だよ? 分からねぇよ」
「分かれ! 今、動かねぇと後悔するかもしれねぇぞ!」
「わ、分かった! 行ってくる!」
おう、行ってこい。
しかし、手間のかかる親友だ。変わらねぇな、アイツは。
虚さんからの話を聞く限りでは、アイツの人間関係は、かなり捻れちまってる。
あの鈴が、一夏を諦めて別の男に靡くとはなぁ。しかも、一夏をへし折ろうとしていたとは。
何があったのかは知らんが、もう前みたいにつるむ事は出来ないな。
一夏を諦める迄は納得は出来る、だけどな、アイツの心をへし折るのは筋が違うだろうが。
アイツは確かに鈍い、だが、それを理由にして良い行動じゃあない。
しかし
「井村謙吾、ねぇ?」
そんな奴、『原作』に居たっけか?
「師匠!」
「どうしたのだえ?教え子よ」
「あ、いや、あの……」
どうしよう、何を話せば良いんだ。普段は何気なく話せているのに、何で言葉が出ないんだ?
ベッドの端に腰掛けて、夕日を背にした師匠の優しい顔を見た瞬間、あの綺麗な目で見つめられた瞬間に、何を話せば良いのか分からなくなった。
「コココ、変な教え子よの」
「うっ」
「ココ、そんな顔をするでない。ほれ、近う寄れ」
変な教え子よの、いきなり部屋に飛び込んで来たと思ったら、私を見て吃りよる。
ほれほれ、そんな寂しそうな顔をするでない。何時ものような、柔らかな顔を見せておくれ。
「師匠、あの?」
「どうしたえ?教え子よ、師に抱かれたいのかえ?」
「あ、う……、はい……」
「ヒョッ!」
誠に素直な教え子よ、良い良い。狐の胸に抱かれるが良いぞえ。お主にしてみれば、母や姉に甘える様なものかもしれぬ。それでも、私は嬉しく想うぞ?
お主の温もりで、私は生きている事を実感出来るのだ。私は今生きている、お主の側で生きておるぞえ。
「どうだえ? 教え子よ、温いかえ?」
「はい、師匠……」
「ふむり、そうかえそうかえ」
師匠は温かい。何か話さないといけないのに、頭の中で言葉が浮かんでは消えていく。
師匠の腕に抱かれて、胸に耳を当て鼓動を聞いている。たったそれだけのことなのに、言葉を口から出せない。
師匠は、俺を母親や姉に甘える子供の様に思っているかもしれない。でもそれは、何か違う気がする。
こうやって、師匠と触れ合うだけで、とても幸せな気分になる。言葉を交わすだけで、嬉しくなる。
この気持ちを何と言うのだろう?誰かが言っていた気がする。誰だった?何と言っていた?
あぁ、あぁ、そう、なんだ。そうだったんだ、俺は師匠が、霧絵が、好きなんだ。
師としてでもなく、友人としてでもなく、一人の異性として、狐村霧絵のことが好きなんだ。
「あの、師匠」
「どうしたえ?教え子よ」
「あの……、今日の夕日は綺麗ですね」
「そうだのぅ、見事なものよ」
「師匠……、その……」
「ん?」
あぁ、ダメだ。やっぱり言葉が出ない、出せない。好きだ、と簡単な言葉が口から出せない。
「……今日の夕食は、何が良いですか?」
「コココ、そうよの。魚が良いのぅ」
「魚、ですか?」
「白身が嬉しいぞ?」
けど、それで良いのかもしれない。今は、言わなくても良い。俺はまだ半人前だから、一人前になったら、その時は、この想いを伝えよう。
逃げず、曲がらず、霧絵の目を見て伝えよう。
「じゃあ、準備してきますね」
「あ……」
「師匠?」
私としたことが、教え子の離れ際に声を出してしまうとは、やってしまったぞえ。
致し方あるまい、たまには私から甘えてみようかの。
「教え子よ……、焦らんでも、良いぞ?」
「はぁ?でもそれだと、夕食が遅くなりますよ?」
「ココ、それもたまには良かろう」
「分かりました。では、もう少しだけ」
「コココ、もう少しだけぞえ?」
今少し、今少しの時よ、この時間も。
教え子よ、お主の巣立ちも、もう目の前。私は先に逝く、お主は先に行くが良いぞ?
私はこの一時の思い出を手土産に、お主は私の全てを持って行くのだ。
だが、出来る事なら
生きて、いたいのぅ。
「私の愛しい愛しい出来の悪い教え子よ、出来る事なら最期は、お主の温もりの中で迎えたいぞえ?」