それでは、どうぞ。
青白く光る満月が、東の空に薄っすらと浮かび上がった。
沢山の人々で賑わっていた人里の大通りも、だんだんと夜の静寂に飲み込まれようとしていた。普段ならもう少し人影があってもいいのだが、やはり
こうなってしまっては、もう取材はできそうにない。仕方がないので、私は大人しく家に帰ることにした。
翼を広げ、茜色の空を翔ける。夏の湿気を帯びた風が肌にまとわりついた。
ちょうど森の上空を飛んでいた時だった。炭の焼ける香ばしい匂いが私の鼻腔を刺激した。取材に夢中で朝から何も食べてなかった私には、その誘惑はとても抗えるようなものではなかった。翼を閉じ、森の中へ下降する。
薄暗い木々の中にひっそりと佇んでいたのは、一軒の屋台だった。もくもくと舞い上がる灰色の煙の中に、一人の少女が見える。小豆色の装束を身にまとい、背中には大きな翼が生えていた。見るからに妖怪だろう。
少女は私の姿を瞳にとらえると、にっこりと笑みを浮かべた。私は誘われるがままに暖簾をくぐり、カウンターに腰を落とした。
「初見さんね。天狗ってことは、文のおすすめかしら?」
文……、私の同僚であり、同じ新聞記者だ。確かに、文から森の中においしい屋台があるって聞いたことがある。引きこもりの貴方には関係ないでしょうけど、という皮肉付きで。
私は木の札に書かれたメニューを見渡しながら、
「いいえ。たまたまお腹を空かせていたら、いい匂いがしたから。注文は……お任せでいいかしら?」
「もちろん。初見さんにはサービスしちゃうわよ」
少女は手際よく串に肉や鰻を刺していき、それらを炭火の上に並べた。滴る油が火に溶け、ぎゅわーっと食欲を誘う音がした。
「見た感じあんたも新聞記者っぽいけど、名前は?」
串をくるくると回転させながら、少女が問いかけてきた。
「姫海棠はたて。文とは昔からの知り合いよ。貴方は確か……みすちーだったっけ?」
「ミスティア・ローレライ。みすちーでいいわ。よろしくね」
「ええ、よろしく」
私は巻き上がる炎をまじまじと眺めながら、曖昧に返事をした。
文によると店主のミスティアは夜雀だそうだ。その能力で人間たちを鳥目にして、八目鰻を食べさせ回復させるという、自作自演の商売をしているらしい。何とも胡散臭い話だが、味だけは確かだという。
ミスティアは串を火の元から離し、皿にのせて私の前に運んだ。八目鰻と、……何かの肉だろうか?
串を口に入れて、モグモグと咀嚼する。溶けるように柔らかい。今まで食べたことのないような食感だった。初めは戸惑いを覚えたが、慣れてみるとなかなか美味しかった。流石、あの文が絶賛していただけはある。
「美味しいわね。初めて食べた味だわ」
「ふふっ、それは当然ね。うちにしか出せない味だもの」
ミスティアが悪戯っぽく笑った。額から溢れる汗が、妙に艶っぽく見える。文曰く、ミスティア目当てで店に来る客も多いのだとか。
私はミスティアに勧められるがまま、食事を堪能した。会話も弾んでいたせいか、気がついた時には皿の山がテーブルに積み重ねられてた。お腹は満腹だった。
「それでさぁ、その事件が随分とおっかないのよ」
どうしてその話になったのかは覚えていない。完璧に酔っていた。明日は二日酔いだろうなと思いつつ、私はまた酒瓶を飲み干した。
「どんな事件だったの?」
「人里で妊婦が殺されるって事件。死体はみんな腹を切り裂かれていて、そこにあるはずのものがなくなってたの。何だと思う?」
「さあ、分からないわ」
「子供よ。お腹の中の子供がいなくなってたの。ほんと、不気味ったらありゃしないわね。人里の人間たちはみんな幽霊の仕業っていうし……それじゃあ新聞の記事にならないわよ!」
私は空になった酒瓶をドンとテーブルに叩きつけた。
「幽霊ねえ。ホントに幽霊が犯人かもしれないわよ。ほら、間引きされた幼子の幽霊とか」
「……怖いこと言わないでよ。折角の酔いが覚めちゃうわ」
私の言葉を聞いて、ミスティアが子供っぽく笑った。私はちょっとだけ頬を膨らませてから、もう何本目かも忘れてしまった酒瓶に手を伸ばした。
◇ ◇ ◇ ◇
飲みすぎた。頭痛がする。視界がくらくらと歪み、まるで洗濯機の中を覗いているかのような気分だった。
何とか妖怪の山にある自宅まで帰れたはいいものの、筆をとって記事を書く気にはとてもなれなかった。拙い足取りで寝室に向かい、ベッドに身体を沈み込ませる。
ポケットからカメラを取り出した。夜、寝る前にその日撮った写真を確認するのが、私のいつもの習慣だ。前までは折り畳み式のカメラを使っていたが、最近は指で画面を操作できるタイプのものを使っている。河童曰く、この形が最新型らしい。何が変わったのかはよくわからないが、新聞記者は早いもの勝ちの世界だ。常に最新のカメラを持つことが一流の新聞記者の条件だと、私は勝手に自負している。
一枚一枚写真を確認していくが、特に目新しいものは見当たらなかった。順に画像を回していくと、一週間前に撮った、腹が綺麗に裂けた女の死体が画面に映った。初めこそ驚いたが、流石に五人目となると慣れてくるものだ。
意識が闇に落ちる直前、私はふと思い立ち、念写してみることにした。念写とは私の能力で、キーワードのカメラに打ち込むだけでそれと関連した画像を見つけ出すことができる。この能力のおかげで、私は家に引きこもったままでも記事が書けるのだ。まあ、出てくる画像のほとんどは既出のものなので、能力だけに頼った記事ではいい新聞は書けないのだけど。
打ち込むキーワードはもちろん事件についてだ。
「妊婦」、「胎児」、「殺人」と、私はカメラにキーワードを打ち込んだ。我がながら悪趣味なワードだが、情報を得るためには仕方がないだろう。
まもなく一枚の画像がカメラの画面の映し出された。
__どす黒い紫色の肉塊。
手と足がなければ、それが人となるはずのものだったとは分からなかっただろう。ゼリーのような不気味な塊が、辛うじて人の姿を形成していた。また、その肉塊を取り囲むように、鈴蘭の白い花が咲いていた。花と肉塊、それはあまりにも異様な光景だった。
手から力が抜け、カメラが胸の上に落ちた。酔いは完璧に覚めていた。喉の奥から何か熱いものがこみ上げてくる感覚がした。
私は布団の中にもぐって固く目を瞑ったが、カメラに映されたあの光景はいつまで経っても私の脳裏に焼き付いたままだった。
◇ ◇ ◇ ◇
私がベッドから起き上がったのは、次の日の夕方だった。
炭の匂いが染み込んだブラウスを脱ぎ捨て、新しいものに着替えた。鏡の前に立ち、雑草のように飛び跳ねた髪の毛を何とか整える。カメラとメモ帳、ペンをポケットに詰め込み、私は部屋を出た。
扉を開け、まず瞳に映ったのは、西の山々の奥から垣間見える赤い太陽。東の空は既に夜の闇に侵食されていて、空全体は混沌とした配色だった。もし西と東が逆だったら、私は気持ちのいい夜明けを迎えていただろう。
小さくため息を吐いた後、私は自慢の翼を大きく広げ、空に飛び立った。
今の所、五つの妊婦の殺人事件は全て夜に行われている。インターバルは約一週間だ。殺された妊婦に共通点はなく、年齢も二十代前半から三十代後半までと、疎らだった。全ての死体が腹を切り裂かれ、胎児を奪われているという点から、犯人は偏癖を持つ人物だと推測される。
そして特筆すべき点として、これだけの事件を起こしておいて、まだ犯人の足取りさえも分かってなかった。本当に犯人は幽霊なのかと疑いたくなるほどである。
森を抜け、人里についた。時刻は午後6時前後。西日は力を失い、隠されていた星々が薄っすらとその姿を瞬かせ始めた。
間隔的にはもうそろそろ次の犯行が起きてもいい頃合いだ。次こそは私が犯人をカメラに収めてやる。
そう意気込んで上空から空を見張っていると、背後からよく知った声が聞こえた。
「あら、はたてじゃない。貴方と人里で会うなんて、珍しいこともあるものね」
振り返ると、文がニコニコとした笑顔で私を見つめていた。流石の営業用スマイルだ。
「まあね。それより、文は何でここにいるの? ……まあ、聞くまでもないか」
「妊婦殺しの犯人を直接カメラに収めてやろうと思って。あんまり人殺しの記事は書きたくないのだけど、ここまで大事になったら見過ごすわけにはいかないでしょ?」
「ネタがなさ過ぎて、ついには殺人事件にまで手を出してしまったのね。かわいそうに」
「そう云うはたてこそ、今回の事件はなかなか乗り気じゃない。……まさか、はたてが犯人だったりして。幸せそうな夫婦の姿が許せなかったのよね?」
「確かに許せないけど、お腹の子供はいらないわ」
そういった他愛もない会話を繰り広げていると、遠くの闇から誰かが私たちの元に近づいてきた。いや、闇そのものが近づいてきたと云ったほうが正しい。
闇は私たちの前で動きを止めると、霧散したように空気に溶け、その中から一人の少女が姿を現した。血のように鮮やかなそのリボン……、ルーミアだ。森の中に住んでいる人食い妖怪である。
「面白そうな会話してるわねー。お腹の子供がどうかしたの?」
ルーミアは興味深々といった様子で、私と文との間に割って入ってきた。私はめんどくさそうにため息を吐いてから、
「事件よ、事件。知らないの? 妊婦が殺されて、中の胎児がいなくなったっていう話」
「ああ、知ってるわ。決まって夜に殺されるっていう、あれね。じゃっく・ざ・りっぱー……だったかしら?」
「ジャック・ザ・リッパー?」
首をかしげる私を見て、文が口を開いた。
「人里ではそう呼ばれてるの。外の世界の殺人鬼が、幻想郷の中に迷い込んだんじゃないかって」
「へえ。詳しいわね」
「はたてが無知なだけよ。引きこもりだから仕方ないけど」
「うるさいっ」
文はいつも最後の一言が余計だ。私も似たようなところがあるので、あまり人のことは云えないけど。
「ねえねえ、天狗さんたちは犯人が誰だか分かったのー?」
ルーミアが伸ばした両手をパタパタさせながら、問いかけてきた。文は右手をあごの下に添えて、
「皆目見当がつかないわ。目撃者の証言が、みんないまいち曖昧なのよ」
「幽霊だったり、外の世界の殺人鬼だったり、犯人も忙しいわね。ルーミアは何か知ってる?」
「ううん。知らない」
ルーミアは首を横に振った。「知ってたら私が捕まえているわ。そんな、食べ物を粗末にするような輩わね」
私と文は同時に苦笑いを浮かべた。
……その時だ。
地上から、女性の悲鳴が聞こえた。それも助けを求めるのではなく、断末魔のような気迫のある叫び声だった。
「これって……?」
「多分、また妊婦が殺されたのでしょうね」
冷静な声色で文が云う。その額には冷や汗が流れていた。
「今ならまだ犯人がいるかも。早く行きましょ」
ルーミアが叫び声の上がった方角に下降する。私達もその後についていった。
殺された妊婦が住んでいたであろう木造の一軒家には、既に沢山の人間たちが集まっていた。日は暮れて辺りは暗くなっていたので、皆手に提灯をぶら下げている。騒ぎを聞きつけて、慌てて家から飛び出してきたのだろう。
「少女の幽霊だ」
「黒いシルエットしか見えなかったが、あれは確かに少女だった」
「ジャック・ザ・リッパーだ。そうに違いない」
野次馬たちが思い思いの憶測を云い合う中、私たちはその一軒家に足を踏み入れた。
居間に入る。まず目に映ったのは、鮮烈な赤色だった。まるで赤い花が咲いたように、死体を中心に真っ赤な血が飛び散っていた。
死体は若い女性のものだった。大きく膨らんだ腹が真っ二つに切り裂かれており、妊婦だったと予想される。胎児の姿は見当たらなかった。これまでの事件と同一犯だと見て間違いないだろう。女性の隣には夫らしき人物の死体が転がっていた。
私はカメラを構えて、その残酷な死体を写真に収めた。
「酷い死体ね。これで六人目。いい加減にしないと、そろそろ人里から妊婦がいなくなっちゃうわよ」
文が冗談っぽく云ったが、その顔は青白く変色していた。案外ホラー系は苦手なのだろうか?
「ねえねえ、これで食べていいの?」
と、ルーミア。こちらは動揺の欠片もない。この程度の死体は彼女にとっては餌でしかないそうだ。
「ダメよ。せめて写真を撮り終えるまでは待ちなさい」
「えー、分かったよ」
私は現場も状況を何枚かに分けて撮影したが、どれもこれも手がかりらしきものは映っていなかった。
次に私と文は犯人らしき姿を目撃したという人間に話を伺った。しかし、闇の中に溶けていった、幽霊となって姿を消した、など、どの証言も曖昧で決定打に欠けていた。あれだけの人数がいて、誰も犯人の姿を捉えられなかったのだ。やはり、犯人は幽霊なのだろうか?
「あんな大胆な殺し方をすれば、相当な量の返り血を浴びているはずだけど。犯人はどうやって逃げたのかしらね?」
文がメモ帳と睨めっこしながら呟いた。
「うーん……、分からないわ」
ルーミアが応えた。私も全くの同意見だ。
結局、私達は何も収穫がないまま、人里を後にした。
◇ ◇ ◇ ◇
人里でルーミアと別れた後、私は文は一緒に妖怪の山へ帰っていたのだが、その道中で私は昨日の写真を思い出し、文を置いて夜の空へと羽ばたいた。本当は一人だと不安だったが、文にネタを横取りされるわけにはいかない。
……鈴蘭の花。おそらくだが、あれは無名の丘だろう。
無名の丘とは、人里から見える少し背の低い山で、その中腹には鈴蘭畑がある。昔は幼子の間引き場として使われていたらしい。もしかしたら、妊婦を殺したのは本当に間引きされた幼子の幽霊なのかもしれない。
夏の夜だと云うのに、その場所だけは凍ったようにシンと静まり返っていた。肝試しをするのなら最適な場所だろう。今度文を誘ってみようかしら?
丘に降り立ち、私は注意深く辺りを見渡した。風になびかれ、鈴蘭の白い花々がゆらゆらと揺れる。まるで無数の魂が、私を黄泉の世界へ誘っているかのようだった。
満天の星空の下、私は鈴蘭畑に乾いた足音を響かせる。不気味さを感じるほどの静寂だった。自然と鼓動も早くなっていく。私はじっと息を殺して、写真の中にあったものを探した。
……不意に、柔らかくブニョブニョとした何かが、足に当たった。パッと目線を下げる。瞳に映ったのは、昨日の写真と全く同じ光景だった。
____紫色の肉塊と、それを取り囲む鈴蘭畑の花々。
私は声にならない悲鳴をあげ、思わずその場に立ちすくんだ。息が詰まって呼吸ができない。恐怖で身体中がビクビクと震え上がった。
「かわいそうにね」
幼い少女の声がした。振り返る。声の主はメディスン・メランコリーだった。ここ鈴蘭畑に住んでいる、人形の付喪神だ。
メディスンは愛おしそうに肉塊を抱きしめ、その冷たい頬に涙を流した。
「捨てられたのよ。私と一緒だわ」
……間引きされた? いいや、妊婦を殺した犯人が、胎児だけを鈴蘭畑に捨てたのだろうか。どちらにしろ、正気の沙汰ではない。
____肉塊を我が子のように愛でる人形と、華麗に咲き誇った鈴蘭の花々。その光景は、まるで写真のように、私の脳裏に深く刻み込まれた。
そろそろ連載を書こうと思ったのですが、いざ書いてみると全然上手く書けない。仕方なく短編の方で修行し直そうと思いました。思っていたよりも続きを楽しみにしてくださっている読者様がいて、嬉しかったのも理由の一つです。
今回は簡単ですね。難しいのが書きたい。そして抜いた親知らずが痛い。後3本もあるのかよぉー、マジかよぉー。
まだ生えてもない親知らずを抜くだなんて、残虐の極みですよね。そもそも高校生で親知らずを抜いた奴なんて聞いたことないですよ。とりあえず痛いです。皆様も早いうちから抜いておくことをお勧めします。