062:学者、ホームズ、名無しの動向 (副題:発端)
朝の天気予報で言われた通り、雨が降り始めた。
九月になったばかりで、まだジメジメしていると言うのにそれに磨きがかかっている。
「まさか、貴方と同じ学校で小学生をやる事になるなんてね」
「おい、おめーの薬が原因だろうが……ったく」
二学期が始まるのと同時に、一人の転校生がやって来た。
灰原哀。――本名、宮野志保。
ペンション荒らしの事件を解決し、毛利探偵事務所に帰宅した俺を待っていたのは阿笠博士からの電話だった。
浅見さんが、あの薬の開発者を保護したという信じられない内容のモノだった。
なんでも、俺の家に置いていた衣類や私物を回収しに戻ろうとしていた時に倒れていたコイツを助けたらしい。
「分かってるわ。それに貴方達にはお姉ちゃんを助けてもらった恩もあるし……」
そういや阿笠博士が言ってたな。浅見さんから連絡をもらって俺の家に着いた時に、浅見さんの首に絞められた跡がついてて、ちょっと襟元がボロボロだったって。
……締め上げられたな。まぁ、いつものことか。
「ま、今度瑞紀さんが場を整えてくれるって言うからそん時に会えんだろ。ま、その瑞紀さんも今は浅見さん達と一緒にアメリカに行ってるけど」
「組織の人間と……でしょ? 彼、ちゃんと無事に帰ってこれるんでしょうね」
「無事にかどうかはともかく、帰ってくるだろうさ」
「…………」
「んだよ?」
「まるで、あの人が怪我する事前提で話すのね」
「………………」
「なに? どうかした?」
「いや……浅見さんが無傷で帰ってくる姿が想像できなくて」
思わず頭を抱えてしまった俺を、灰原が白い目で見てくる。
「聞いていたよりもハードなのね、あの人」
「……組織の中じゃどういう話になってるんだ、浅見さん」
「幹部の変装を一目で見破る洞察力を持ち、彼にいくつもの計画を潰されたと見られるが証拠が見つからない。疑わしきは消せで刺客を送れば誰も帰ってこない。幹部も恐れる得体の知れない男」
「ひとっつも聞いた事ねぇぞ!?」
「ま、どこまで本当なんだか……」
帰ってきたら問いただすことがまた増えた。雪だるま式に質問事項が増えていく。
ちょうどあの人がぶっ倒れている時に越水さんとも話したけど、聞きたいことを聞こうとする時に限ってあの人大体死にかけてるよな。
「あー、またコナン君と灰原さん内緒話してるー!」
「おい、何の話だよ! 晩飯のことか!?」
「元太君……君の頭はいつもどおり、食べる事で一杯ですね……」
「元太君、もっと運動しないと身体に悪いよ!!」
灰原と、いつもの面子から一歩下がった所で話していた所を大きな声で咎められた。
歩美ちゃん、元太、光彦、そして楓ちゃん。
「あ、いや……わりぃわりぃ。浅見さん、いつ帰ってくるのかなぁってさ」
「帰って来る日、決まってないんですか?」
光彦が尋ねると、灰原が肩をすくめて答える。
米花公園を横切り、青になったばかりの横断歩道を渡りながら、
「えぇ。そもそも正式な依頼なのかしら? 白鳥刑事って人の妹さんのパーティ辞退したらしいし」
「アタシ、空港まで見送りにいった時にお兄ちゃんに聞いたら、『多分一、二週間くらい』って言ってたよ。ね、哀ちゃん?」
今、灰原は浅見さんの家にいる。
今日からしばらく紅葉御殿に戻るらしいが、ここ数日は今まで通り浅見さんの家にいた。
つまり、灰原と楓ちゃんは同じ家に住んでいるのだ。
「えぇ、桜子さんが食事の献立予定で悩んでいたわね。まったく、アバウトよね……一、二週間くらいって」
「ね、哀ちゃん。ふなちと二人で本当に大丈夫? やっぱり、アタシも家にいようか?」
はっはーっ。ふなち、小学生に頼りにされてねぇ……。
「大丈夫よ。ああ見えてふなちさんは結構頼りになるし、桜子さんもいるしね」
あの家の住人、楓ちゃんはともかく他の連中は全員家事得意だからな。
……ふなちは少し、浅見さんはかなり片付けが苦手だけど。
「ん?」
ちょうど今渡ったばかりの横断歩道近くの電話ボックスに、一人の男が入って電話をしながらメモを取っている。
黒っぽい表紙の手帳を縦に開いて、横書きでメモを取っている。
あれは、刑事が警察手帳に何か書きこむ時の仕草にそっくりだ。
(警察の人、か……)
なんとなく目で追っていると、そこに誰かが近づいてくる。
黒い傘に、灰色という地味な出で立ちだ。
その人物は並ぶように、その電話ボックスの前に立つ。ちょうど同じタイミングで刑事らしき男は受話器を置き、外に出ようとして――
――その何者かに、消音器付きの銃で射撃された。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
『今日午後2時ごろ、米花公園交差点にて米花署勤務の警察官
名前を捨ててから、
備え付けられているテレビでは、起こったばかりの殺人事件の速報が流れている。
「浅見透は?」
「アメリカへ行ったみたいよ。事務所は仕事量をかなり絞っているみたいね」
「……アメリカ、か」
そういえば、テレビの方でも水無怜奈が長期休暇を取ると言っていた。
何かが動こうとしているのだろう。
はたして、あの女はどの顔で動いているのか……。
キールとしてか、水無怜奈か、……あるいは俺がまだ見ていない、もう一つの顔か。
(願うならば水無怜奈として、本当にただの休暇であればいいのだが……)
弾丸を抜いたピースメーカーを弄び、手に馴染ませる作業を続けながらテレビに目を向ける。
「見た限り、かなり出来る連中のほとんどは一緒に付いていったみたいね」
「……戦争でも起こすつもりか? あの男は」
「あり得そうで笑えないわね」
テーブルの上には、化粧などで顔の陰影を変えたスコーピオンが、ここ数日警戒の薄くなった浅見探偵事務所の様子を隠し撮りした写真を並べている。
「……この女、気付いているな」
防弾だけではなく、レーザー照射型の盗聴装置すら対策している窓ガラスごしに、カーテンを閉めながらカメラに目線を合わせているメイド服の女性が写真に写っている。
確か、双子の従業員だったはずだ。
「それと、この女もやっかいね」
青蘭が指し示す写真は、髪を後ろで束ねた女だ。この女も、雑誌の記事で見たことある。
「鳥羽初穂。……確か、もと看護師だったか」
「かなり視線に敏感だったわ。窓越しでも気付いていると思う」
「呆れるほどに層が厚いな。主力が抜けたというのに、それでもまだ油断は出来ない」
所長であり底の見えない浅見透はもちろん、組織を抜けた今ではバーボン、キュラソーの二人もあの事務所の中で大きな脅威だ。
「やはり、情報が足りんな」
「浅見探偵事務所の?」
「それもあるが……奴自身の事が知りたい」
あれだけの技術、一体どこで手に入れたのか。
調べた限り、経歴だけは普通の男だった。
幼少期に両親を失くし、一時施設にいたようだが……。
「となると、辿っていくしかないわね」
「あぁ」
奴の足跡を逆から辿っていくしかない。
浅見探偵事務所を開く前。爆弾魔、森谷帝二と対決するさらに前。黒川邸で舞台に立つその前。
確実に奴と繋がっているのに、その繋がりが不透明な存在――
「「工藤 新一」」
あの男の本来の相棒。あの男を使っていたという男。
組織が殺したと言う事だが……いや、そうか。それならあの時アクアクリスタルに現れたのも納得できる。
「出かける」
「あら、いいの? 追手が来るかもしれないんじゃなくて?」
「その時はその時だ。このまま籠っていると、いざという時に困る事になりそうだ」
リボルバーをくるっと回して肩に吊るタイプのホルスターに差し入れ、ジャケットを羽織る。
「それに、浅見透の周囲の力を見れるかもしれないしな……」
ニュース番組のアナウンサーは、急きょ入った情報を慌てて読みあげている。
――城南警察署勤務 芝 陽一郎巡査部長。射殺される。
テロップにはそう書かれていた。
「動くぞ、あいつらは。間違いなく」
浅見探偵事務所本隊の動向。
(手っ取り早く三行で)
・正式に依頼を受けた浅見透、安室、マリー、瑞紀、水無怜奈の4人を連れて、チャーターした飛行機で現地ヨーロッパへ飛ぶ。
・アメリカに残った越水達。鈴木財閥の人間と共に仕事に入る。
・浅見一行搭乗のチャーター機、エンジン爆発。