(まさか、私がロシア人としてこの国に来る事になるとは……)
かつてマリー=グランと名乗っていた組織の幹部、ラムの側近。
キュラソーは、過ごしやすい夏のロシアの街を一人歩いていた。
先日まで共に仕事をしていた女は、今はいない。
(あの女……日本でやり残した事があるなどと言っていたが……何をするつもりだ?)
あまり長い事一緒にいたいとは思わない女――とある女優のイラつく意味深な笑みを思い出して、キュラソーは忌々しげにため息を吐いた。
(いや、今は任務か……)
自分の受けている命令は一つ。
老人――枡山憲三を始末しろ。
そのついでに老人の持っている財や部下達を接収してこいという話だが、そちらについては女優――ベルモットに押し付ける気だ。
金やそれに関わる書類や証文などを抜きとるくらいならば別にいいが、人が絡む面倒な話はまっぴらごめんだった。
『貴女……例の事務所に入ってから少し図太くなったわね』
数日前に、あの女から言われた言葉をまた思い出し、思わずポケットの中の煙草の箱を握りつぶしてしまう。
腹立たしい事この上ない。
(あの老人、本当にこの国に来ているのか?)
スイスに渡った所まではどうにか追跡出来たが、そこから先はさっぱりだ。
組織の方でも、どうにかしてあの老人――正確にはその下にいた人員を引きこもうと四苦八苦しているようだが、少なくとも日本の中ではあの老人に良いように転がされている。
あの老人の部下――アイリッシュを通して老人と連絡を、あるいは彼を排除して国内での影響力を削ろうと思えば、派遣した人員は大抵死体になって転がされる。
適当なカフェに入り、テーブルについて注文をする。
満腹は頭の回転を鈍くするが、かといって空腹が続くのもよろしくない。
先ほど、とりあえず情報を手に入れようと購入した新聞を広げて目を通しながら、注文したボルシチを待つのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
(おいっ! なんであの女がここにいるんだ!? 日本で働く探偵じゃなかったのか!?)
(知るかーぃ! いいからもっと声を下げろ、次元!)
そのカフェの隅の席、周囲から余り目立たないそのテーブルに二人の男が座っていた。
一人は黒のスーツに黒のソフトハットを被り、もう一人は赤いジャケットを羽織った黒髪の男だ、
(あの女……アイツの下にいるはずだよな……まさか、あの馬鹿も来てやがるのか?)
(勘弁してくれよぅ……ただでさえ気になる事ばっかりだって言うのに、よりにもよって脳みその代わりに炸薬詰まってるデンジャラスボーイまで乗り込んでくるとか……)
男達は、女の顔を知っていた。とくに黒スーツの男は、ここにはいないもう一人の仲間と共に死線をくぐり抜けた仲である。
ようするに、顔を知られ過ぎているのだ。
二人とも軽く咳払いをして気持ちを落ちつかせ、それでも雑誌や新聞で顔を隠しながら話を続ける。
「それで、なんだってロシアに来たんだ?」
「というか、なんだってお前さんまで付いて来たのよ。今回の件は俺一人でやろうと思ってたのにさ」
「ふん! お前さんがそう言う時は、金や宝じゃなくて妙な因縁の絡みと相場が決まってらぁ」
変な所でドジ踏まれちゃ敵わねぇよとボヤくスーツの男に、赤いジャケットの男はへいへい、と軽く返す。
「ったく……」
「それに、お前がやけにこだわるヤマだ」
スーツの男は、顔を隠すのに使っていた新聞を畳んでテーブルに置き、代わりにハットを深く被り直して少し顔を近づける。
「女……だな?」
違うか? と、確信を込めてそう言うスーツの男の言葉に、赤ジャケットの男は深いため息を吐く。
「それだよ」
「それ?」
んっ、と顎で示されたのは、スーツの男が置いた新聞だった。
なんの偶然か、離れたテーブルでかつて肩を並べた女が目を通しているのと同じ新聞。
適当に畳まれているその新聞の
『……ヴェスパニア王国、女王と王子の身に降りかかった突然の不幸』
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「……くっ、がは……っ」
どうにか痛みが引きかかっていた足をまたやられたぞちくしょう。
ギリッギリで爆発そのものには巻き込まれなかったけど、いつぞやのダイナミック不法投棄の時同様爆風で吹き飛ばされた。あ、そういやこれも森谷の仕業だったじゃん。ちくしょうぶちのめしてやる。
とりあえず白鳥さんの盾になる事はできたけど……
「あ、浅見君! 大丈夫かい!?」
額を押さえながら白鳥さんがそう言ってこっちに駆け寄ってくる。
……ん、あれ? ……というか今気がついたけど白鳥さん――白鳥さん? というかアナタは……。
(いや、まぁ今はいいか……)
ひょっとしたら一瞬気を失っていたのかもしれないが、今の所爆発は小規模なのが数か所――離れた所で起こっている。
調べたハズの方向からも聞こえてくるが……ちくしょう、よほど上手く隠されていやがったのか。
(枡山さん……なんでよりによってあのクソ野郎を取り込んじゃったのさ)
絶対に下で大人しくしているタイプじゃないだろうに。
多分、あの積み木もあいつのサインなんだろう。
左右が違う積み木の塔。アイツの美学に反するアシンメトリーの塔を現場に残すとか……。
ひょっとしたら、指紋すら残しているかもしれねーな、アイツなら。
「白鳥さん、先に書斎へ行って地下道へ。コナン達と合流してくれませんか?」
メアリーの話から、彼女本人に加えて瑞紀ちゃんに沖矢さん、キャメルさんと十分な人員が付いているのは確認している。加えて服部君に真純までいる。
が、やはり懸念となるのは爆発が起こった施設で主人公とヒロインが一緒にいる事だ。
おまけにライバル(?)枠の服部君が、そちら側のヒロイン枠である和葉ちゃんまで連れて来て……
いやもう服部君も和葉ちゃんもごめんね? 去年くらいに俺が四国のお礼でプロデュースした東京観光も結局コナンとエンカウントして殺人事件発生したらしいし。
「先にって……君はどうするんだい?!」
「時間を稼ぎます」
森谷が出てきたとなると他人事じゃない。
俺の脳内ぶん殴りたい奴リストの中ではカリオストロのロリコン伯爵と一位二位を争う奴だ。
加えて、ある意味で俺が今の立ち位置になった要員の一つ。
「時間を?」
「はい、アイツの性格ならば、おそらくこちらを嬲り殺したいんだと思いますが……」
あの連続爆弾事件の時の謎掛け、そしてあの米花シティービルに仕掛けられた嫌らしいダミーコード付きの爆弾――こっちは処理班の手で、即座に凍結処理をされたが。
「それにしてはなんというか、建物が崩壊してないんですよね。重要個所だけとか残すように壊しそうですけど」
腹立つ事にアイツは建築家としては優秀で、そしてその知識と経験がアイツを優秀な爆弾魔にしている。
蘭ちゃんと工藤新一を狙ったあの爆弾も、的確に映画館区画を孤立させるようにセットされていた。
爆弾処理班の人からの話と、うちのコクーンでのシミュレート結果も一致している。
まぁ、世界の流れがそうだったというのも大きいだろう。
「となると、多分別の思惑があるんだと思います。で、先ほどとある経由で聞いた話なんですけど――」
水無怜奈――CIA工作員にして、俺と『白くて大きい家のお金持ち』との繋ぎ役からの緊急連絡。
「香坂夏美さん。分かりますよね?」
いや、『この人』は分からないかもしれないけど。
「先ほど、とあるツテから妙な報告が上がったんですが……」
「とあるツテ?」
そっちに反応するんですか白鳥さん(仮)。いやまぁいいんですけど。
「どういうわけか、彼女がロシアへ亡命申請を出している事になっておりまして。えぇ、永住権じゃなく……しかもなぜか本来外務省側の義務である審査や面接もなしで通っているみたいなんですよね」
まだここにいるのに。この下にいるはずなのに。
一応審査をしたという形には書類上なっているようだが、教えてもらった日時はあり得ん。例の1階のお店の打ち合わせで一日中ウチにいた日なんだから。
月日だけなら怪しいが、年まで明記されているなら間違い様がない。
この進まない世界でも、年だけはなぜか動くんだ。
「……どう言う事だい?」
さぁ? とんでもない厄介事に巻き込まれたんでしょ。
コナンと一緒にいる美人だってんならあり得るあり得る。
ようするに、今はなぜを考える時ではなく――
「多分、こっそり彼女をロシアに連れ込みたい人間がいるんでしょう」
なんでかは知らんけど。となれば、次にありそうな事態は多分――
ガシャン! と音がする。
ステンドグラスやガラスが割れる音ではない。
重い物を持った人間――それも複数が高い所から着地した音だ。
なぜ分かるか? 散々聞いたからだ。
――俺の初めての、海外での事件で。
「まさか、お前らまで取り込まれているとはな」
そういえば、カリオストロじゃあなくてスイスに拘禁されてたっけお前ら。
あぁ、だから枡山さんはスイスに行ったのか。
だから、スイス以降の足取りが追えないのか。
すごく、見覚えのある格好の連中がいる。
すごく、見覚えのある『黒』がいる。
「白鳥さん、早く行って下さい」
手持ちは、あの一件以来念のために隠し持っている自動拳銃のみ。
あの時使ったライフルのような火器はない。
しかも、まだまだ爆弾が仕掛けられている可能性がある。
しかも、あの狙撃手がいる可能性もある。
「ホントにもう」
しかも、なんらかの厄介事に巻き込まれたほぼ身内の女性が下にいる。
しかも――この手で決着を付けたい女が、下にいる。
「……泣けるぜ」
カリオストロ公国最暗部。かつて、俺や安室さん達の敵だった連中。
そして、なんとしても取り込みたかった連中がまたも敵に回ったとか。
死ね。お前らじゃない、この世界死ね。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、か……。いやはや、言葉という物は難しい。そうは思わないか、麗子君」
「ねぇ、おじ様。私、そういう話は嫌いって言わなかったかしら?」
この国――ロシアに来てから購入した、寂しいやや大きめの一軒家。
とりあえずの隠れ家として使っている家の裏庭に、一人の老人と若い女がいた。
「やれやれ、少しは会話を楽しんでくれないかね? これなら誘拐してでも紅子君を連れてくるのだった」
「何? そんな歳になっても若い方がいいっていうの?」
「話相手になってくれるのならば歳は関係ないさ」
二人共、揃ってヘッドフォンの様な物を付けていた。
似たような防寒具を付けている二人に違いがあるとすれば、老人は耳を押さえながら立っていて、女はライフルを構えてシートを敷いた地面に寝そべっていた。
ライフルの先にあるのは、裏の森。その中の一本の木に掛けられた
一定のリズムを守った呼吸を続けながらスコープを覗く女は、しばらくそうしていたが、やがて根負けしたとため息を吐く。
「で、将がなんですって?」
会話に乗ってきてくれた事に、老人は小さく笑いヘッドフォン――イヤーガードを外す。
「何、欲しい物を手に入れるためにはまず、その下を狙えということわざさ」
「そんな事は知っているわよ」
ライフルを一休みするためのガンホルダーに立てかけ、咥えた煙草に火を付けながら、忌々しそうに女は先を促す。
「うむ、失礼した。だがこのことわざは、将を何とするかで変わると思わないかね?」
「……欲しい物はさっさと直接奪えばいいのよ」
女の身も蓋もない感想に、だが老人は愉快そうに笑う。
「うむ、うむ。それも正解だ。真理だ。……だが、彼はそうしなかった」
「……浅見透」
女にとって、ある意味越えなくてはならない壁。
正確には、振り向かせたい男が真っ直ぐ見続ける男。
「彼は、『彼ら』の全てを欲した。諜報、護衛、警備、警護、潜入、工作、暗殺……なによりそれらを可能とする『数』と、それを率いる『頭』を」
女が煙草を咥えたのを見て自分も吸いたくなったのか、老人は思い出したように胸ポケットから煙草を取り出す。
「彼が本当に欲しかったのは『数』なのだろう。当然だ」
老人は近くにセットしていた野外用のテーブルセットに腰を下ろす。
その足元には、この国では珍しい蝉の死骸が転がっていた。
一匹の、虫のなかでは巨大なその亡骸は、今無数の蟻によって食い荒らされていた。
「どれだけ優秀だろうと、少数精鋭の組織と謳った所で、物量には勝てん」
「貴方が、向こう側に火種を残したのはそれ?」
「くっくっく……」
老人は、蝉の死骸を踏みつぶした。
群がる、生きている蟻の群れと共に。
「彼がそれに気付かないはずがない。そう、このままでは勝てない。だが、無意味に数を揃えた所でそれは弱点を増やすだけだ」
火を付けてから2,3度程しか吸っていない煙草からゆっくり口を離し、老人を手元でクルクルと煙草を回転させる。
「だからこそ、最初に『頭』を抱え込もうとしたのだろう。確実に『数』を統率できる、『頭』を――」
「そこを突いたのね? おじ様」
ずっと不機嫌そうな美人の顔が、ようやく少しだけ緩んだ。
あの男が足を引っ張られたのが、嬉しかったのだろう。
「あぁ、彼の全力を――輝きを見るには、もっともっと彼を追い込まねばならないからね」
老人は煙草を灰皿ではなく、足元に落とした。
踏みつぶした蝉と、蟻の真上。
立ち上る紫煙に、それ以外の煙がゆっくりと混ざる。
「あーさーみくぅ……ん」
そして老人は呟くのだ。
「あーそーぼー」
自分の、望みを。
副題と主題を二、三回ひっくり返したくらい……なんか……悩んだ。
早くこの話終わらせて、あさみんにまた元気に死にかかってもらわないと