小さい頃から時々変な物を見た
他の人には見えないらしい、それはおそらく妖怪と呼ばれるものの類
「おい夏目、こんな朝早くからついてきてみれば。ここはどこなのだ!」
「ついてきたって、先生は鞄の中で寝てただろ」
「ふん、そんなのは関係ないわ!」
「まったく」
おれは西村と北本のおかげで自転車に乗れるようになった日、ふと昔遭った妖を思
い出した。塔子さんに引き取られる前、少しだけ通っていた学校の帰り道で遭った変わった妖だった。
「夏目、まさかこの坂をのぼるわけではなかろうな」
「そのまさかだよ、先生。重いんだから鞄から出て自分で歩いてくれ」
「ふん、断る」
以前通っていた学校は緩やかだけど距離が短い正門坂と、傾斜がきつくて距離の短い裏門坂の二つがあり今おれとニャンコ先生は裏門坂の前にいた。
「下から見たら凄く急な坂だったんだな」
この坂を使ったのはたった一度だけでそれも降りる時だけだったから、のぼるのはこれが初めてか。
「よし、行くか」
「そんなひょろい体でのぼれるのか」
「なら先生も自分で歩いてくれ」
「私は連れてこられたのだ、こんな坂を歩く気はない!」
まぁ、ニャンコ先生ならそう言うと思っていた。おれは坂を登るために一歩足を踏み出した。
「ところで夏目、その妖とはどんな妖なのだ?」
「そうだな、ちょっと変わった妖だったんだ」
思い出して少し微笑む。
「おれが初めて遭った時、枝の上で坂を見下ろしていた。
おれが妖を見えるって事がすぐに分かったみたいで、枝から降りてきても襲う事はせずにただ一つだけ『自転車に乗せろ』ってそれだけ言って来たんだ。その頃のおれは自転車なんて乗れなかったし、自転車が欲しいなんて言える状況じゃなかった。
そのことを逃げながら叫ぶように言うと残念そうに枝の上に戻っていくのが見えた。それから正門坂の方を使っていたから、あの後あの妖がどうなったのかおれは知らない」
あの妖がどうして自転車に乗りたかったのか。もしかしたら、すでに別の場所に行ってしまったかもしれない。でも、まだあそこにいるなら自転車に乗せてやりたいと思ってしまった。
「ふん、変な妖もいたものだ。だが夏目、その妖私にはおよばないが相当力が強いだろう」
「ああ、分かっているよ先生」
大抵の妖はおれが反応するか、レイコさんの友人帳の夏目だと知らないと襲ってはこなかった。それなのに、あの妖は一目でおれが見えると分かった。でも、そこまで危ない妖の様にはおれには思えない。
ようやく、坂の三分の一くらいまでのぼったかな。やっぱりこの坂、のぼるとなるとかなりきつい。呼吸するだけで精一杯だ。
「この程度で息が乱れるとは、やはり夏目はもやしか」
「…なら……自分で歩いて……くれよ……先生……重いん…だって」
「ふん、断ると言ったであろう」
「……鞄ごと…置いて行ってもいいん……だぞ」
「な!こんなところに置いてきぼりにする気か!」
「仕方…ないだろ……先生重い…んだから」
休憩をするために一度立ち止まって鞄を下ろし、深く深呼吸をした。
「まさか本当に置いてきぼりにする気か、夏目!」
「疲れたから休憩するだけだよ」
少しは呼吸が整ったみたいだ。
「でも先生、そろそろ自分で歩いてくれないと………」
「………ヒーメヒメ!」
「先生、何か言った?」
「いや、何も言っておらんぞ」
「じゃあ、この声は」
「………きらきらりん☆大きくなあれ」
誰かが歌っている声がだんだん近くなってきているけど車の音は全然しない。こんな坂をおれ以外が歩いてのぼるなんて考えられないし、自転車でのぼるなんて考えられないんだけど。
「ヒメはヒメなの、ヒメなのだ!ヒ…うわぁぁぁぁぁぁぁ!」
「うお!」
凄い勢いで自転車が下からのぼってきて、驚いた顔をして自転車から落ちた!
「……き、君!大丈夫か!」
転んだ少年に駆け寄り倒れた自転車を急いで起こした。自転車に取りつけられているスピーカーからは聞き慣れない音楽が聞こえてきている。
「あ、だ、大丈夫です!自転車で転ぶのは慣れていますから!」
そう言ってすぐに立ちあがり怪我がない事をアピールしていた。ヘルメットも被っているし怪我はなさそうかな。
「そうか、良かった」
「あ、自転車ありがとうございます」
おれから自転車を受け取るとどこも壊れていないかを確認した後、音楽が鳴りっぱなしなのに気がついたらしくすぐに止めて。
「あ、えっと、あの、すみません!前見て運転してなかったから、その、ぶつかりかけまして」
「いいよ、おれに何もなかったし。それより、君の怪我の方が心配だよ」
「いえいえ、大丈夫です!えっと、あの………」
……何を、ああ。
「おれは、夏目。夏目貴志、よろしく」
「あ、僕は小野田です。小野田坂道」
「小野田君か、この坂を自転車でのぼるなんて凄いな」
「あ、いえ、僕なんかまだまだで、僕よりもっとすごい人はたくさんいて」
「それでもだよ。おれにはこの坂を自転車でのぼるなんてとても無理だから」
「そ、そんな、ありがとうございます」
「そう言えば急いでいたみたいだったけど、大丈夫?」
「え、あ、すす、すみません!これから補習なんでした!」
「なら、早くいかないとな」
「夏目さん、本当にすみませんでした!」
「そんな頭を下げなくていいって。あと、夏目でいいよ」
「そ、そんな呼び捨てなんて!あの、じゃあ、夏目くんで」
「ああ、呼びやすいように呼んでくれ」
「それじゃあ。あ、また会えるといいですね」
「おれは夕方くらいまでここに居るつもりだから、もし見かけたら声をかけてくれないかな」
「はい!分かりました!」
小野田君はこの坂を自転車なのに凄い勢いでのぼっていく。
「凄いな、小野田君は」
「どこかのもやしよりはな」
「先生、置いて行くぞ」
おれは文句を言う先生の入った鞄を下げて、休みながらようやく目的の坂の半分にたどり着いた。
「やっと……着いた………」
道の横にある木陰に入って鞄と腰を下ろした。
「素直に、正門坂を使った方が、良かった」
正門坂をのぼってから裏門坂を降りた方が本当によかったかもしれなかったな。
「ふん、もやしめ」
「先生は、ずっと寝ていただろ」
「私は連れてこられたのだ!」
「くくく、丸々太ったしろぶたと人間の子供がいると持ったらお前か、斑」
「ふん、やはりお前だったか『マワリ』」
「まったく、そんな姿になっちまって」
「この姿の良さがわからないとは」
木の枝に座って見下ろしているその妖は、あの時の妖だった。黒い着流しの上からなぜか真っ白な白衣を着て煙管を咥えていた。
「よっと、そっちの人間も見たことあるな。どこかで会ったことあるか?」
マワリと呼ばれた妖は枝から飛び降り、おれの横に同じように座った。
「えっと、少し前にここで」
「ん~ああ、あの時の子供か。いや、あの時は悪かったな」
どこか人間に近い感じのする妖だ。
「おれの方こそ、いきなり逃げて」
「いや、妖に声をかけられて逃げるのは正解だ」
そう言って、煙管を咥えて煙を空に向かって吐き出した。その煙がおれのシルエットになり、同じく煙でできた妖に襲われていた。
「こうなるからな」
さっきまでの害がないような笑顔ではなく、背筋が凍るような笑顔でおれを見た。
「まぁ、斑がいるのならその心配はないか。いや、この姿じゃ心配だらけだな」
「なにを!」
「お前、その姿だとかなり制限されてるだろうが」
「今すぐ本来の姿に戻って喰ってやろうか!」
おれを間に入れて言い合いしないでくれ。
「へぇ、友人帳の夏目だったのか」
「はい、もし名前があれば」
「いや、夏目レイコには一度も合っていないしその名前も知らない。友人帳の事も風の噂程度で知っているだけだからな」
友人帳の話には興味がないのか、口から吐き出される煙で遊んでいた。数台の自転車が入れ代り立ち替わり坂をのぼっているように見えた。その自転車は普通の自転車と違って、カゴがなかったりハンドルが変な形をしている自転車だった。
「そうだ、あの時おれに言ったこと憶えてますか?」
「あ~なんだったか」
「『自転車に乗せろ』って言ったんです。あの時は自転車に乗れなかったし、自転車自体持ってなかったんですけど、おれ、あれから自転車に乗れるようになったんです。だから、できたら自転車に乗ってもらいたくて」
「本当か!」
友人帳の時とは違い、目をきらめかせおれの目の前まで顔を近づけた。
「え、ええ、本当です。でも、おれが住んでいるのはここじゃないのでそこまで来てもらえますか?」
「……悪いな、おれはここから動く事はできないんだ」
「そう、ですか……いえ、それなら仕方ないですね」
少し残念そうに苦笑したマワリは煙管を口にして煙で遊び始めた。
「そうだ、ニャンコ先生が……」
「私は手伝わんぞ」
「どうして」
「夏目、それはお前がやろうとしていた事だ。私の力を借りてどうする」
「……そうだな、先生の言う通りだ」
自転車でここまで来るのはおれじゃ無理だ。かといって電車に自転車を乗せるのはマナー違反だし。さすがに折りたたみ自転車を買ってもらうのは……あ、そうだ。
ダメもとで頼んでみようか。でも、断れるだろうし……いや、やってみよう。
「マワリ、ダメもとかもしれないけど乗れるかもしれない」
「夏目、気を使わなくていいんだぜ」
「おれが自転車に乗れた時、すごく嬉しかったし楽しかった。それをマワリにも知ってほしいんだ」
今日はすごく嬉かった。駄目だと思っていたインターハイのチームジャージを、主将さんから託されたから。
補習が終わって、チームジャージを着ていつもの正門坂から裏門坂の練習コースを走っている時、すごく楽しかった。これで真波くんとの約束を守ることができるんだ。あ、その時はボトルを忘れないようにしないと。
練習中に夏目くんが猫?と一緒に道のわきに座っていたのが見えたと思ったんだけど、どうなのかな?今日はいい天気だから倒れてなきゃいいけど。ボトルを持っていった方がいいかな。あ、夕方まで居るって言っていたから見間違いじゃなかったかも!帰りに声かけてみようかな、夏目くん優しそうだったし。友達に、なってくれるかな。
「なんや小野田くん、そんなにジャージをもろたんが嬉しいんかいな」
「あ、鳴子くん。うん、これでボクもインターハイに出れるから」
「カッカッカ、せやの。インターハイや、インターハイでワイは派手に目立ったる!!」
「鳴子、うるさい」
「なんやとスカシ!!」
ボクは鳴子くんと今泉くんとインターハイに出れるんだ。そう考えると、ボクは自然と口が緩んでいた。
「今年の一年は元気が良すぎっショ」
「ガハハ、そりゃ当たり前だ。一年でインターハイに出れるんだからな」
「だが、少し小野田が気になるな」
「あ、金城。小野田をメンバーに入れたのは……」
「……プレッシャーって事っショ」
「ああ、小野田はこれまでスポーツをやってこなかったと言っていた。性格も考えれば、今まで何かの代表に選ばれたことはないだろう」
「なるほど、小野田ならありそうだな」
「田所、巻島、少しでも気になったらできるだけフォローをしてやってくれ」
「分かったショ」
「めんどくせぇな。ま、気になったらフォローでも何でもしてやるさ」
ボクはチームジャージを貰った事に喜んでいたけど、この後そのジャージの重さに気がついてしまった。
急いでジャージから制服に着替えて、ボクは早めに部室の外に出た。
「で、では、お先に失礼します」
「今日はいつになく早いな小野田くん」
「小野田、ちゃんと休んでおけよ」
「うん、じゃあまた明日」
夏目くん、まだいるかな。
「…小野田くん、そんなに嬉しかったんかいな」
「まぁ、あれだけ出たがっていたからな」
急いで自転車を取りに行って、裏門坂をゆっくり下りながら夏目くんを探していた。ちょうど坂の半分くらいまで来た時に一人坂の脇に立っている人影が見えた。
「あ、夏目くん。ごめん、遅くなって」
「いや、ちゃんと約束をしていた訳じゃないからいいさ。それに、小野田君は忙しかっただろうし」
夏目くんは優しくそう言ってくれた。
「昼過ぎ頃に小野田君がこの坂をのぼっていくところ見たけど、すごい勢いでのぼるんだね。すぐに見えなくなっちゃって驚いたよ」
「そんな、ボクはまだまだで、先輩達はもっとすごくて」
「小野田君は十分凄いとおれは思うよ」
夏目くんは良い人だ。
「えっと、ちょっと小野田君にお願があるんだけど、いいかな?」
「ボクに、ですか?ボクにできる事ならいいですよ」
「小野田君助かるよ。おれの知り合いが小野田君たちが自転車に乗っている姿を見て自分も自転車に乗りたがっているんだけど、ちょっと事情があってそれが難しくて。できたら乗せてもらえないかな」
「夏目くんの知り合いはロードバイクに乗りたいんですね」
「えっと、あれはロードバイクって言うのか」
「はい、スピードを出すためにスタンドもドロよけもカゴも取り外した自転車です」
受け売りですけどね、とボク付け加えて笑った。夏目くんと話していると楽しい。
「ボクのでいいんでしたら貸しますよ。ボクも実はあのロードバイクを借りているんですけど。あの、それで夏目くんの知り合いはどこに?」
今からボクのロードバイクを取ってくるとしたら、ちょっと時間がかかっちゃうし。
「ああ、マワリ出てきてくれ」
夏目くんが背後の茂みに呼びかけると木の上から人が飛び降りてきた。
「うわぁぁぁぁぁ!」
ボクは驚いて尻もちをついてしまった。木の上から飛び降りてきた人は、総北の制服の上からなぜか白衣を着た背が高く凄くかっこいい人だった。
「小野田君大丈夫!」
ボクに向かって手を伸ばした夏目くんの手を掴んで立ちあがり、木の上から飛び降りてきた人は、えっと、き、き、そう、煙管を回しながらボクを見て笑っていた。…ハッ!この人、ボクと同じでアニメが好きなんじゃ……いや、ないない。
「マワリ、あんまり驚かせるなよ」
「いや、悪いね。人を驚かせるのは癖なんだよ」
「まったく。ああ、小野田君悪かった。彼がおれの知り合いのマワリ」
「いやぁ、悪かったね、少年。俺が夏目の知り合い、マワリだ。よろしく」
マワリさんはボクに向かて手を出してきたので、握り返した。
「あ、こ、こちらこそよろしくお願いします」
夏目くんはこの人に会いに来たのか。
「それで、君が乗っているロードバイク、に乗せてくれるのかい?」
「は、はい。でも、今から部室に戻って準備しないと」
多分まだ部室に誰かいると思うから鍵は空いているかな。
「ふむ、なら君は先に行って準備をしていてもらえるか。俺達はあとで行くから」
「はい、分かりました……あの、歩いてのぼるんですか?」
「ん、あ~、いや、迎えが来ることになってるんだよ」
「あ、なら安心ですね。では、先に行っています。先についたら裏門坂の入口あたりでまっていてください」
自転車に乗ってさっき下ってきた坂をのぼりはじめた。早くのぼって準備しないと。
「小野田、帰ったんじゃなかったのか」
部室には主将さんが一人で三本ローラーに乗っていました。
「あ、はい。ちょっと用事が出来ちゃいまして」
「そうか。俺はあと一時間ほどこいでいる、その間であれば俺が鍵を返しておこう」
「あ、ありがとうございます」
ボクは自分のロードバイクとバンドを持って裏門坂の方へ急いだ。ボクが遅れちゃいけないから。
のぼり終わった後に坂の方を見たけど、まだ来ていなかったから間に合うかな。
「あれ?」
いつのまにか夏目くんとマワリさん、それに夏目くんの抱いている猫?がボクを待っていた。
「ごめん、遅くなって」
「いや、おれ達も今来たばかりだよ」
「あの、夏目くん、抱えているのは猫ですか?」
凄く大きな猫?で本当に猫かどうかわからなかったけど。
「ああ、おれが飼っている猫で名前はニャンコ先生なんだ」
「あの、撫でても」
「もちろん」
夏目くんは抱えていたニャンコ先生を地面に下ろして、ニャンコ先生がボクの前まで歩いてきていた。
「ああ、そのロードバイクは俺が持っておこう」
「あ、ありがとうございます」
マワリさんにロードバイクを預けて、ボクはしゃがんでそっと背中を撫でた。
……なんだろう、このさわり心地。ふわふわしていると思ったらつるつるしている感じもしているし、ずっとなでていたいな。
「………のだ…ん………おのだく……小野田君」
「は、はいぃ!」
「小野田君、そろそろマワリに教えてやってくれないかな」
あ、ついニャンコ先生の撫で心地が良かったから。ボクはマワリさんに持ってもらっていたロードバイクを受け取った。
「うん、じゃあ白衣は脱いでもらっていいですか」
「ああ、そう言えば着ていたな」
マワリさんは白衣を脱いで夏目くんに渡した。
「えっと、次はこのバンドを右足につけてもらえますか」
バンドをしないとズボンの裾がギアにからんじゃうから。
「こんな感じか?」
マワリさんはバンドを膝の下あたりで止めていた。
「あ、くるぶしあたりでいいですよ」
「なるほど」
バンドを外してくるぶしのあたりで再度止めたのを確認して、ボクは説明を始めた。
「ロードバイクは普通の自転車とちょっと違っていまして、ブレーキがこんなふうに横じゃなくて縦になっています」
ロードバイクの横に立ってハンドルを握り、実際にブレーキを動かした。
「それで、前と後ろにそれぞれ変速のためのギアがあって、右が後ろのギアで左が前のギアです」
「へぇ、普通の自転車といろいろ違うんだな」
「スピードを出すために作られている自転車ですから。えっと、右のハンドルは内側にあるレバーでギアを重くして、ブレーキレバーをこうやって内側に倒すとギアが軽くなります」
「ブレーキって横にも動くのか、凄いな」
ボクも最初の頃はびっくりしたなぁ。
「それで左の方は内側のレバーがこの内側の小さいギアに変えて、ブレーキレバーの方が外側の大きなギアに変える事ができます」
「なるほど、だいたい分かった」
ボクでも分かるように、マワリさんはロードバイクに乗りたくてウズウズしていて視線はもうロードバイウの方に向けられていた。それは、今日の鳴子くんと今泉くんみたいだった。
「じゃあ、マワリさん乗ってみてください」
「ああ、ようやく乗れるのか」
「あ、すぐにサドルに乗らないでサドルの前のフレームのところで立ってみてください」
「っと、こうか」
「はい、そうです。あ、このヘルメットをかぶってもらえますか」
ボクがかぶっていたヘルメットを急いで外してマワリさんに手渡した。
「ふむ、怪我をしたら危ないからな」
しっかりとずれないように固定してこれで大丈夫かな。
「そう言えばマワリ、普通の自転車に乗った事ってあるのか?」
「確か、かなり昔に一度だけ乗ったことがあるな」
「それは、大丈夫なのか」
「なに、一度でも乗れば感覚は憶えているもんだ」
そう言って、マワリさんはペダルに足を乗せてこぎ始めた。
「これは、楽しいな」
マワリさんはこのあたりを何周も走りながらギアを変えたり、ダンシングをしてみたりと凄く楽しそうに乗っていた。ボクは夏目くんとその様子を見ながらニャンコ先生をまた撫でさせてもらっていた。
「小野田君は最近ロードバイクに乗り始めたんだ」
「うん、本当はアニメ研究部に入ろうと思っていたんだけど、アニ研が廃部になっていて人を集めなきゃ活動ができない状態でね。
ボクが部員を集めている時に今泉君が自転車で勝負しよう、ってボクに声をかけてくれて。それから自転車レースになってボクは負けちゃったんだけど、すごく楽しいと思ったんだ。今泉君が自転車競技部に一緒に入らないかって誘われたんだけど、でも、ボクはアニ研を復活させたかったから。
それで、ちょっとしてから鳴子くんとアキバで出会ったんだ。その時鳴子くんと一緒に走って、鳴子くんと学校で再会して自転車競技部の練習を見て、ボクはボクの可能性を確かめてみたくなった。その頃はアニ研の部員が集まってなかったんだけどね」
あ、今泉くんと鳴子くんの事は夏目くん知らないんだった。
「えっと、今泉くんっていうのは……」
「凄く楽しそうだね」
夏目くんの優しい笑顔、でも、なんだか悲しい感じがしたような気がした。
「なつめく………」
「いやぁ、これは楽しい自転車だ」
すべるようにマワリさんがボク達の前に戻ってきた。
「少年、楽しかったよ。君とレースをしてみたかったが、さすがに時間がないだろう。いや、本当に楽しかった」
マワリさんは本当に楽しかったのか、物凄く楽しそうにロードバイクを撫でていた。
「そうだ夏目、お前も乗ってみろ」
「え、おれが……いや、やめておくよ」
「なにごとも経験だぞ」
そう言って夏目くんにロードバイクとヘルメット、取り外したバンドを手渡した。
「はぁ、分かったよ。小野田君、おれも乗ってみていいかな」
「うん、夏目くんにも乗ってほしかったから」
「ありがとう」
「あ、自転車持ってるから先にバンドをつけた方が」
「あ、そうか。小野田君ありがとう」
バンドをつけた後、ついでにヘルメットをかぶってロードバイクを受け取った。同じようにまずまたがって、ペダルに足をかけて進みだした。
「うわ、ハンドルが低い。見てるのと乗るのじゃ全然違う」
夏目くんはフラフラ揺れながらだけど、ゆっくり進んでいく。
「さて、少年。お礼として一つだけちょっとした話をしてあげよう」
「話、ですか?」
「そう、話だ。話ではあるが、会話ではない。おそらくだが、一方的な話になるだろうからね。場合によっては忠告となるかもしれないが」
下から見上げたマワリさんの表情は、なぜかよくわからなかった。
「少年は今年、自転車部の代表になったみたいだが」
「え!なんで知っているんですか!」
「ふむ、今日の練習で同じジャージを着ていたのを見たのでね」
あ、そうか。
「話を戻すが、少年は昔から何かの代表選手になった事がないだろう。なぜ分かるのか、と言う顔をしているが、なに、見ればわかると言うものだ。
さて、君は代表になった事を喜んでいると思うが、代表に選ばれたと言う意味を、着ていたジャージの意味をよくよく考えてみた方がいいだろう」
「それって……」
「小野田君、これに乗れるなんて凄いな」
気がつくと夏目くんが戻ってきていた。
「夏目くんどうだった?」
「普通の自転車と違って、少し乗りにくかったかな」
「乗っていればすぐに慣れるよ」
夏目くんからロードバイクとヘルメット、バンドを受け取った。
「じゃあ、ボクは片づけてくるから」
「ああ、今日はありがとう。本当はもっと話したかったけど、もう帰らないといけないんだ」
「あ、それなら早く帰った方がいいですね」
「また、会えるかな?」
「はい、また来てください!」
「うん、じゃあまた」
夏目くんはニャンコ先生を抱えて、裏門坂の方へ向かって行く背中をボクは眺めていた。
「俺も行く事にしよう。ああ、少年。少なくとも一晩は考えてくれよ」
では、と最後に付け加えてマワリさんは白衣をひるがえして夏目くんの後を追って裏門坂に向かった。
「……ジャージの意味」
ボクは………
「マワリ、どうだった」
「ああ、最高だった」
満足そうな顔をしているマワリを見て、おれは来て良かったと思った。今度は小野田君に会いに来よう。
「そう言えば、小野田君と何を話していたんだ?」
「なに、彼が試合の代表に選ばれたみたいだ、と昼間言ったのは憶えているだろう」
「ああ」
「彼が代表に選ばれた事に対して、本当に選ばれて大丈夫なのか、と聞いたまでだ」
「ふん、相変わらずだったな、お前は」
「おい、マワリ。なんでそんな事!」
そんな事を言って小野田君に失礼だろ、と続けようと口を開こうとしたがマワリの表情を見て何か理由があると気がついた。
「俺はね、ずっとこの坂に居たんだ。ずっと、この坂をのぼる彼等を見てきた。毎年、見ているだけだった。毎年、彼等が努力する姿を見てきた。
彼等がどれだけ努力して来ていたか知っているんだよ。その中で俺だけが気がついたことは多くあった。それを伝えれていれば、優勝できたかもしれない。しかし、俺はそれができないでいた。人間と言うのは素人の言葉を、まったく聞きはしない生き物なんだよ。何を言ったとしても、取り合おうとはしなかった。
だが、今日は夏目、お前が来てくれた。今年のメンバーは歴代最高のメンバーだ。その中でも、彼、小野田坂道は初心者だが一番何かを秘めている。今年は彼が鍵になるだろう。しかし、彼には迷いがあった。小さい迷いであったが、不安要素は取っておきたい。夏目が彼と知り合いだと知った時は内心喜んだ」
マワリの真面目な表情を見ると口を挟むことができなかった。
「彼の悩みはそれこそ、不安なんだよ。代表に選ばれたことによる不安。自分でいいのか、迷惑をかけないだろうか、プレッシャーを抱えていた。
それをどうにかするのは彼自身でしかない。それに、そのことを自覚するのは早い方がいいのさ」
「……悪い、怒鳴って」
「いや、いいさ」
「でも、小野田君は大丈夫なのか?」
「乗り越えられるかって事か。まぁ、彼一人じゃ無理だろうな」
「それじゃあ!」
「一人じゃ無理だ、だが別にレースは一人でやるものではない」
「つまり?」
「彼の仲間が彼を支えるだろうさ」
マワリはいつの間にか着流しに戻っており、煙管を口に咥えた。
「さて夏目よ、坂の下まで送ろう。今日はいい日になった」
おれの肩に手を置き地面を強く蹴ると、いきなり浮遊感が襲って来た。そのまま数秒間の浮遊感を終えると、そこはもう坂の下だった。
「ありがとうマワリ」
「いやいや、礼を言うのはこっちの方だ。じゃあ、またな夏目。ついでに斑も」
「ああ、また会いに来るよ」
「ついでとはなんだ!」
マワリはまた足を踏みならし行ってしまった。
「人間よりなのは相変わらずか」
「昔からあんな感じなのか?」
「さぁ、どうだったか。それよりも夏目!甘い物を買って帰れ!」
「はいはい、分かったよ。そうだ、塔子さんにもお土産買って帰るか」
おれは夏に小野田君が出るインターハイを、名取さんに頼んで見に行かせてもらった。インターハイは三日間おこなわれるらしく、おれは三日目の富士山に作られたゴールで小野田君が来るのを待っていた。
その時に小野田君と同じ部活の人たちが中継のアナウンスを聞いてハラハラしていた。その近くに居たマワリを見つけて一緒になってレースの行方を聞きながら小野田君の学校、総北待っていた。名取さんとマワリのやり取りは見ていてハラハラしていたけど、どうにか何事もなく収まった。レースが終盤になり、選手がもうすぐこのゴールに向かってのぼってくる、そうアナウンスが流れて十数分後。
小野田君は……………