叔母上は久が『瞬間移動』出来る事を知っていたのですね。
過去の行動の分析だけれど、とても便利な『魔法』よね。
久本人しか使えない『能力』ですが。俺以上の危険な『能力』でもありますよ。
使い道はいくらでもあるでしょう?それより達也さん、久とその『能力』について一切報告がなかったわね。
俺の役目は深雪の警護であって、久の監視は任務外ですから。久の監視役は他にいたのでしょう?捕獲した『パラサイト』からも『ピクシー』と同じ情報を聴きだしていたでしょうし。
『パラサイト』『高位次元体』は生存本能が強い。死への恐れと、肉体と心が弱っている所を突いて、より深く支配する。単純だけど効果的な方法よね。ただ、『精神支配』の方が恐怖を上回るなんてね。
『パラサイト』が知っているのは、久が『肉体の三次元化』によってこの世に顕現した所までです。現実の久の『精神』は10歳そこそこで未熟です。相手を量るような遠まわしな物言いは伝わらない場合があります。集中力も足りませんし。
思わせぶり、言葉が足らなかった事は認めるわ。
そうですね。四葉には察しの良い人物が溢れていますし、叔母上も言葉で遊ぶ癖があります。
耳が痛いわね。でも、いきなり自分の脳を破壊するなんて、ね。
70年前、久に何があったかまでは不明です。その記録は残っていない。その頃の経験が、久を創り上げている。今とは違う、戦争の時代。『魔法師』も戦争の一道具だった時代です。九島烈と久、それと八雲師匠くらいでしょうね、詳細を知っているのは。
九重八雲…知りたがり屋さんは久の周りをうろついていたわね。
永続する『魔法』はない。久の『精神支配』も、極論すれば『思い込み』です。『高位次元体』の依存性の強さも影響していますが、俺が『視た』久の脳に異常はなかった。
久は自分自身の長い時間をかけた『思い込み』に縛られています。『呪い』と言っても良いですが、脳を破壊して、リセットしたと思い込ませれば、ヒナの刷り込みと同じように、叔母上にだけ従う最狂の『魔法師』を作り出すことが出来るでしょう。
私が、それを狙っていたと勘ぐっているの?
久の自殺後、まったく考えていなかったとは思えませんが?
…久の過去の『精神支配』を駆逐する事もできるわね。
ええ。久は自分の命を軽く考えています。天涯孤独の身で誰も自分の死を悲しまないと。
久の行動を軽く受け取ってはいないわ。私にとって大事なのは久の過去ではなく、今、そして未来なのは真実よ。
後は叔母上次第ですが…他の十師族が黙っていないのでは?
それは平気よ。根回しもしているし。
現当主と久は疎遠らしいですね。九島烈も後見役とは言え久の行動に一切の掣肘は加えていませんし。
煮え切らない九島家が悪いのよ。まぁ、親が偉大だと子供は大変でしょうけれど、『高位次元体』以前に、久は『十四使徒』の一人なのだから。逃がした魚が大きすぎる事に後悔しても遅いわ。
藤林さんは…いえ、何でもないです。
達也さんは本当に察しが良いわね。久もそれほど愚かではないはずだけれど。
久は、恋愛感情に関しては俺以上にわからないんですよ。
そうね、達也さんはわかっていても切り離せるけれど、久ははなっから理解できていない。あんな美女二人と寝食を共にしているのに…
子供ですから。
そうね、子供だわ。本当に…子供だわ。
…
ひ…さ、ひさ、久。
名前を呼ばれている。脳は破壊したし、鼓膜も破れているんだから音が聞こえるわけがないんだけれど…
床に仰向けに寝かされていて、首と背中に熱を感じる。誰かが僕を膝枕してくれているんだ。その人が僕の顔にかかった髪を整えてくれている。
背中に熱を感じるのは、着ている衣装が可愛いけれど背中が大きく開いているからで、熱は人肌のぬくもり…
「久?」
ぬくもり?
身体が重い。全身の感覚が戻ってきている。指が動く。衣擦れの音が聞こえる。淡い良い香りがする。
まぶたを開く。目の前にふたつの膨らみ、谷間、おっぱ…、『真夜お母様』の顔。
憂い顔で、少し涙目だ。
横たわったまま頭を動かす。『真夜お母様』の太ももに僕の頭が乗っている。格子状の天井、紙の本が一杯詰まった高い本棚。葉山さんがドアの前に姿勢よく立っている。
『真夜お母様』の書斎だ。
「…くっぅ」
誰かの呻きが聞こえた。この声は…達也くんだ。
重厚な両袖机の前で、達也くんが片膝をついて苦悶の表情を浮かべている。その左手には銀色の拳銃型CAD。
達也くんと目が合った。
「おかしいな」
「…何がだ?」
「『魔法』は確実に発動した。発動した以上、僕は確実に死んだのに、何故、今、この時代で生きているんだろう」
「正確には死にかけていた、だが」
「どれくらい?」
「脳を破壊してから4分26秒だ」
「常人なら即死のはずだけれど…」
復活が早すぎるな。『肉体の三次元化』で復活したわけじゃない。『意識』がないから『回復』でもない。達也くんの表情、CAD、4分26秒って妙に正確な時間。
体調が悪いのは相変わらずだけれど、頭の中はすっきりしている、気がする。逆に、達也くんの方が苦しそうだ。
さっきまでは何の問題もなさそうだったし、この短時間、達也くんがこの部屋を後にしてから戻って来るまで、全力で運動をしていない限り、あんな疲れた態度は見せないだろう。そもそも、着ている服がさっきと同じスーツだ。
「ああ、そうか。『物質の構成要素に対する異能者』だ」
ぴんと来る。
「?」
さっきの二人の会話を思い出した。
「達也くんは、物質の構成要素を視るだけじゃなくて、絶対記憶を使って再構築する『異能者』なんだ。九校戦で将輝くんのオーバーアタックの時もこれで治した…バックアップで上書きしたんだ。過去から、記憶から数値化した情報を呼び出して…」
この部屋にいる、僕以外の三人が気配でもわかるほど驚いていた。
「…察しが良いな。恋愛感情以外は恐ろしく、察しが良い。まさにライトノベル主人公体質だ」
達也くんが舌を巻く。
「ライトノベル主人公体質は達也くんも…あぁ、達也くんはわかっていて切り離しているんだった」
「まったく…察しが良い」
「でも、その上書きも時間制限があるんだね。だから『真夜お母様』の傷は治せなかったし、『現代魔法』はデジタルで緻密だから達也くんの負担も大きいんだ。ひょっとして、対象者の痛みや恐怖も感じちゃうの?」
「…ふぅ」
達也くんが息を吐いた。僕の察しの良さに脱帽しているみたいだ。その察しの良さをどうして勉強に向けられないのか…ぶつぶつ。ん?変な呟きが聞こえたような。勉強は記憶力と集中力と向上心が重要で、勘働きは別の能力だよ。
「俺が『再成』出来るのは24時間までだ。勿論、一律ではないが…久は死への恐怖は全く感じていなかった。脳がなかった以上、久は感じられなかっただろうが痛みはあった。床に倒れた時に打った頭の怪我も地味に痛かったな」
「ごめんなさい。ああ、そうだ『真夜お母様』」
僕は視線を達也くんから『真夜お母様』に向ける。お顔を真下から見上げる格好だけれど、『真夜お母様』はどの方向から見ても綺麗だな。
「脳を破壊した後も、僕には『意識』がありました。やっぱり『意識』や『精神』は脳以外にも宿っているようです。『意識』が残っていたから即死にはならなかったんだと思います。もっとも、僕じゃ特殊すぎてサンプルにはならないかもしれないですが」
「それは…そう、貴重な情報ね。でも、久の命と交換にはできないわ」
「『真夜お母様』の為に死ななくちゃ…死ねなかったけれど…あれ?なんで僕は死のうとしたんだろう。優しい『真夜お母様』がそんな事言うわけがないのに。でも、死に直すなら、今度は確実に死ぬ方法をとらないと」
「久っ!」
『真夜お母様』が僕の指輪型CADをはめている右手をぎゅっと握った。
「本当にごめんなさい、久。達也さんがいなかったら取り返しのつかない事態になっていたわ」
『真夜お母様』の目から涙がこぼれた。僕の顔にぽつぽつと降り注ぐ。温かい雨だ。
「言葉が足りなかった事は、私の至らなさだけれど、それより、どこまで覚えているの?」
『真夜お母様』が探るように聞いてくる。
「ええと」
『真夜お母様』からの連絡で、書斎に『瞬間移動』して、女装させられて…そこから…『真夜お母様』がキスしてくれて、達也くんが書斎に入ってきて、難しい会話をしていて…
うーん、そこからの記憶が曖昧だな…思い出そうとしても、夢の中の出来事のようで、どんどん失われていく。
こんな事以前にもあったな。『真夜お母様』と一緒に温泉に入った時の…
「達也くんが部屋から出て行ってからは途切れ途切れ…あれ?思い出せないな…うーん」
「そう」
『真夜お母様』が少しほっとした。
「久、私が『共に生き、共に死んで』と言った事は思い出せる?」
「えぇと、はい」
奇妙だけれど、『真夜お母様』が言われた部分は、急に靄が晴れたみたいに見通しが良くなって思い出せる。
「それはね、言葉が足らなくて…いえ、少し演技がかっていたのは反省するけれど、久に私と本当の『親子』にならないかって言う提案の前ふりだったのよ」
今日は『真夜お母様』の色々な表情が見られるな。今度は照れているようだ。でも、
「『オヤコ』?」
僕は、ぽかーんとしている。オヤコ。えーと、何語だろう。
「ああ、恋愛感情や自分の事は良くわからなかったのよね。これまで久には『お母様』と呼ばせていたけれど、形だけでなく、正式に、本当の『お母様』と『息子』の関係になって欲しいのよ」
?
「四葉の次期当主は深雪さんに決まって、そのパートナーも達也さんに決まった。私も憂い無く後継者に席を譲れて、余裕ができるの。これまでの中途半端な関係を正式な物に、久には私の養子になって欲しいの」
!?
「養子と言っても、四葉の継承権は、他の親族の手前あげられないけれど」
「ぁ…あう」
僕の喉から変な音が漏れた。胸が、身体が熱い。熱い塊が込み上げてくる。
「久?」
僕はもともと情緒が不安定で、些細なことで感動したり共感したり、逆に無感動で無慈悲だったりするけれど、ここは、この場は泣いても良い場面だ。
僕の涙がぼろぼろ落ちて、『真夜お母様』のドレスを濡らしている。
「あぅ、嬉しい、嬉しいです。こんな嬉しい事は他にないです。『家族』、僕が、欲しくて堪らなかったモノ。今は恵まれているから望んではいなかったけれど…本当に欲しかったのは、勝手な思い込みじゃなくて本物の…」
「養子となれば、公式の場で見知らぬふりをしなくてもいいし、『戦略級魔法師・多治見久』を四葉家で護る事もできるわ」
「うぁ」
僕はもう感動で言葉を失っている。お母様の柔らかい胸に抱きついて、泣きじゃくっている。
過剰なほど、感情が爆発している。
『孤児』。生まれた瞬間から一人。誰とも繋がりの無い存在。『孤児』と言う言葉を思うだけで、背筋に冷たいものが走る。これはいかに聡い達也くんでも、家族の中で生きてきた人には理解できない感情だろう。
孤独は僕の人生の一部だったから、乾いた心になっていた70年前は逆に超然としていられたけれど、色々な物を手に入れてしまった今の僕は、この温もりの中にいつまでも浸っていたいと考えてしまう。僕は所詮、子供なんだ。
自分の感情の表現には自信がないし、それ以上に他人の感情はわからない。
お母様、達也くん、葉山さんが、それぞれどのような表情をしているかはわからないけれど、祝福していてくれると嬉しい。
やがて、お母様の胸から、もう少し温もりを感じていたいけれど、顔を放す。お母様の顔を真正面から見つめて、はっきりと返答する。
「僕、お母様の息子になります」
落ち着いた僕はソファに腰掛け、お母様も隣に座った。達也くんはCADを胸のホルスターにしまって、静かに立っている。相変わらず無表情だけれど、まだ苦しそうだ。
「葉山さん、では、早速ですけれど、そのように手続きをお願いしますね」
「はい」
年末年始で役所は閉まっているのでは、と言う心配はデジタル化が進んだこの時代には不要なんだろう。
「久、事後承諾のようだけれど、九島先生に許可を得なくても構わないの?」
僕はティッシュで鼻をかんで、涙をしっかり拭いた。口の周りも拭く。赤い口紅がまだ少し残っていた。お母様の質問にちょっと考えて、
「烈くんは僕に自由にして良いって言ってくれているし、養子になっても烈くんが僕の後見人である事にはかわりがないですよね」
「そうね。でも九島家とは疎遠になるわよ」
「もともと僕と烈くんは個人的な知り合いで、九島家そのものとは関わりはないんです。光宣くんと響子さんは別ですけれど…」
響子さんと光宣くんは姉弟みたいで…
「あっそうだ、僕がお母様の養子になるって事は、僕は達也くんのお義兄さんになるわけだ」
「そうね」
「達也くん、これからは僕の事を『久お兄ちゃん』って呼んでも良いよ」
「ひ…断る」
今、言いかけたな。
「ああっ、僕、急に目が見えなくなってきた…もう…だめだ…達也く…ど…こ?」
「達也さん、最後に『お兄ちゃん』と言ってあげなさい」
お母様も乗ってきた。
「断ります。敵だった父親キャラの死亡シーンを再現とかやめてくれ。元気じゃないか」
いや、全然元気ではないけれど、笑う余裕はある。
「達也くんが深雪さんと結婚したら、僕は深雪さんのお義兄さんにもなるわけだ」
「そうよ」
すばらっ!
「達也くん!深雪さんと早く結婚しなよ、今すぐにでも!いやむしろ、今、この場でっ!」
「それは、無理だ。俺も深雪もまだ結婚可能な年齢になっていない」
「まだ達也さんには覚悟が決まっていないようなのね。だから久」
「うん!お義兄さんとして、深雪さんが18歳の誕生日を迎える日まで、毎日、二人の結婚を催促するよ!これからは『もう結婚しちゃいなよ』が『結婚式の日取りはいつ?』になるわけだ。何なら達也くんの寝室に『瞬間移動』して、毎夜、耳元に囁き続けるのも良いかも。僕は1週間は寝なくても平気だし!」
「流石に起きる。俺と深雪も久ほど単純ではない。それに、それは『精神支配』だ」
久を養子に迎えたのは、それが目的ですか…達也くんがお母様をじろりと睨んだ。
ぐー
お腹がなった。
時刻は21時過ぎ、そう言えば夕飯を食べていない。
「あらあら、お招きしておいてお食事も出さずにごめんなさい。何か用意を…」
「いえ、宿に戻ってから食事します。澪さんも待たせているだろうし」
「そう、そうね。澪さんを一人にしてはいけないわね。『家族』なんですもの」
『家族』にいやに力が入っていたけれど?
「はい」
「その衣装は着て行って良いのよ」
「いきなり僕が女装してたら、澪さんは驚いちゃいます」
澪さんは僕を女装させようとしない数少ない女性なんだ。
僕は着させられていたお人形さんの衣装を、お母様、達也くん、葉山さんが同室しているけれど構わず丁寧に脱いでいく。脱いだ衣装を葉山さんがたたもうとするけれど、ことわって自分でする。このあたり僕は相変わらず主夫だ。たたみながら、衣装に僕の血がついていない事を確認する。
達也くんの『異能』は、その事象をなかった事に、過去に戻す事が出来るんだな。
僕は確実に死んでいた。『肉体の三次元化』で復活するとしても、数年、もしくは何十年もかかっていただろう。
それを、達也くんが救ってくれた。今、この時代で生きていけるように『異能』を使ってくれた。
達也くんは、まだ苦しそうな表情だ。4分と言う時間は、それ以上に達也くんに負担をかけるんだろう…
達也くんは、僕の命の恩人だ。僕に、再び命を与えてくれた。
お母様は僕に本物の『家族』をくれた。
この人たちの為ならなんでもしなくちゃ。
パジャマに着替え終わった僕は、たぶん、物凄くキラキラした目で二人の『家族』を見つめている。
「では、お母様、達也くん、葉山さん、今年はとってもお世話になりました。良いお年を」
「良いお年を」
お母様と葉山さんは四葉家の行事の準備で忙しいだろうし、達也くんは深雪さんとしっぽり?
今の僕はお邪魔にしかならないから年末の挨拶を終わらせると、早々に僕は『飛んだ』。
宿のリビングは十分すぎるほど温められていたけれど、暖炉は炎が小さくなっていた。お母様の書斎に『瞬間移動』してから4時間が経っている。
澪さんはまだ戻ってきていないな。
僕はロッキングチェアに腰掛ける。ポケットの携帯端末を机に置いて、手すりにかけておいた毛布を太ももに広げた。『念力』で薪を暖炉にくべて、炎が大きくなるのを確認する。
めらめら、ぱちぱちと赤い炎が踊っている。
ふう、と息を吐くと椅子に横になる。
「お腹すいたな」
呟きながら天井を見つめる。相変わらず、リビングは静かだ。
「…」
ぶるっと、震えが来た。部屋は寒くない。炎は力強く立ち上がっている。
けれど…
さっきまで僕は死んでいたんだ。
そう思い出した。
嫌な事を思い出したな…
形容しがたい怖気がお腹の下のほうから、ぞわぞわと湧き上がってきた。
恐怖心や安堵感、幸福感、興奮、多幸感、色々な感情が膨れ上がる。
四葉家の書斎で起こった事は全部は思い出せない。幸せなはずだけれど…
呼吸が苦しいな。色々な事が同時に起きて、過呼吸になっている。炎で温められた空気が肺の中に一杯になる。熱い。
一人の部屋で、一人で、孤独で、いや、僕はもう一人じゃない!
一人で思い悩んで、まるで馬鹿みたいだよな。悩んでいたってお腹はすくんだ。
そうだよ、お腹がすいているから嫌な事を考えようとするんだよ。
何か食べ物…自宅じゃないからおやつはない。体調は相変わらず絶不調で、自ら調理する気持ちにもならない。
晩御飯の前に何か軽食でも…ぞわぞわと沸き起こるお腹の中の不安を食べ物で追い出してやる。
僕はお腹が一杯になれれば、それだけで幸せなんだ。
僕は、仲居さんを呼ぼうと、テーブルのコールチャイムを『念力』で押そうとした。
そこに。
コンコン。
遠慮がちなノックがドアを叩いた。『意識』がドアに向かう。澪さんだ。
「久君、入るわよ」
「うん?うん、どう…ぞ…?」
華やかな衣装がリビングに入ってきた。
室内の照明と暖炉の炎に映える、赤よりは落ち着いた色の着物。金糸で彩られて、鞠や花が縫い取られている。黒髪にかんざしがしゃらしゃらと揺れていた。
室内だから足袋はだしだ。しずしずとすり足で、僕を熱っぽく見つめながら歩いてくる。
華があるのにしっとりとしているな。
いつもの中学生を思わせる容姿とは全く異なる、たおやかな大人の女性が、僕のすぐ前に立った。公式の場に出席する時、澪さんはきちんと身なりを整えて、その時は大人の女性に変身するんだけれど、今回は、特に気合が入っている。
去年は、僕は九島家に行っていたし、澪さんの晴れ着姿を見るのは初めてだ。ああ、お正月になるんだな。
「どっどうしたの?黙っちゃって」
僕はチェアから上半身を起こしたまま、しばらく固まっていた。
空腹も恐怖も虚空に吹っ飛ぶくらい、澪さんの立ち姿は綺麗で…
「澪さん、綺麗、素敵、大好き!」
何だか、妙なテンションで、感情が爆発してしまった。
「おっ、お待たせしてしまったわね。お腹すいたでしょう、ここのスタイリストさんが物凄く気合を入れて着付けをしてくれて、時間がかかってしまって」
澪さんも褒められて嬉しいんだろう、それはもう衣装に負けない、いや、それ以上に華のある笑顔になった。なるほど、お母様が行っていた『身づくろい』はこのことだったんだ。
「私も久君に見せびらかしたかったので、空腹を我慢して座ってたんですよ」
あはは、澪さんも子供っぽい。
澪さんの後ろから二人の仲居さんが室内に入って来た。仲居さんは、澪さんの圧倒的存在の後ろで、完全に黒子になって、僕の隣に澪さん用の椅子を用意する。澪さんが椅子に座る。しゃんと背筋を伸ばして、胸を張る。身体のラインがわかる。盛っているわけじゃないから、やっぱり澪さん少し胸が大きくなったな。
澪さんは『戦略級魔法師』としての重圧や体質のせいで、虚弱で色気どころか生命力も欠けていたんだけれど、僕と生活するようになって、常人の、いやそれ以上に遅れて春が来た。桜の花が咲いているみたい。幸せの、華やかな香りがする!
「一幅の絵みたいに、綺麗だ。それも美人画だ」
「あっ、その、褒めすぎです」
「僕はお世辞とか言えないから、本心だよ。うっとりだ。もう、一生見つめていたい」
「そっそれは、ぷろぽーず…ぶつぶつ」
もじもじしながら呟いている。あはは、いつもの澪さんが戻って来ている。
仲居さんがテーブルにディナーを用意している。和食、天ぷら、お蕎麦。
「あっ、年越し蕎麦だ」
思い出したように僕のお腹がぐーってなった。仲居さんが椅子を引いてくれて、僕と澪さんは席に着いた。
ディナーはかなり豪華で洗練されている。それに、ちょっと量が多い。僕が食いしん坊なのを宿側は知ってくれている。
澪さんも行儀は良いけれど、空腹なんだね、箸が止まらない。
着物姿でお食事は面倒そうだなぁと考えていると、
「本当は久君とこの着物姿で二年参りに行きたいのだけれど、久君はその体調だから、リビングで、久君だけに見せたかったの」
「うん、澪さん可愛い」
「…ぽっ」
顔を真っ赤にして、本当に澪さんは可愛いな。
「このヒラメの龍飛巻きも美味しいよ」
ご飯は美味しい、澪さんは綺麗で素敵で、部屋は暖かくて、僕は、幸せだな。
お腹が満たされて、僕はすぐに眠ってしまった。
元日も、まったりと宿で過ごして、これは寝正月だなぁ。
澪さんも、僕と一緒にパジャマ姿でのんびりと、持ち込んだコミックスを熱中して読んでいた。いつも通りの、引きこもりの二人だ。
平和だ。僕は体調不良も忘れて、澪さんと暖炉の炎を見つめていた…
西暦2097年1月2日。四葉家から魔法協会を通じて十師族、師補十八家、百家数字付きなどの有力魔法師に対し通知が出された。
司波深雪を四葉家次期当主に指名したこと。
司波達也を四葉真夜の息子として認知すること。ただし姓名は司波達也のままとすること。
司波深雪と司波達也が婚約したこと。
魔法大学付属第一高校2年A組、戦略級魔法師・多治見久を四葉真夜の養子に迎えること。これ以降、多治見久は四葉久と名乗ること。ただし、四葉家の継承権は一切持たないこと。
戦略級魔法師・五輪澪と四葉久が『正式』に婚約したこと。
四葉久が18歳になる4月1日に五輪澪と結婚をすること。
…ん?
このSSを書きはじめて構想した時、この四葉家の1月2日の発表の部分まで話を考えました。
ちょうど、発売されていた原作がそこまでだったんです。
久はついに本当の家族を得ました。
久と澪は相性ばっちりですが、その他の人物の思惑はいろいろとあります。
宿題も残っていますしね。
第四章はここでおしまいです。
では、第五章『四葉久』でお会いしましょう。