パープルアイズ・人が作りし神   作:Q弥

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お久しぶりです。


狂気

淡い良い香りがする。

芳香剤とは違う、自然の香り。この宿の建材に使われている紫檀の香りだ。紫檀は東南アジア原産で、極楽の香りだと言われているそうだ。勿論、僕がそんな知識を持っているわけがなく、この宿の仲居さん、コンシェルジュが教えてくれた事だ。

でも、何処か懐かしい、記憶の隅に残っている香りだ。

以前、四葉本家に訪れた時にも嗅いだ記憶がある。時間をかけて、肺の奥までじっくりと染み込んでくる香り…

 

ぱちり。

 

豪華なマントルピースに囲まれた暖炉から、薪の爆ぜる音がした。

 

「静かだな…」

 

僕の呟きも、暖炉の炎の揺らめきに融けて行きそうなほど、静かだ。大きなガラス窓の外は、深々と雪が降っている。広い室内は暖炉の熱で暑いくらい温められている。

今日は12月31日。大晦日を清里の高級温泉宿で過ごしている。今は、澪さんはいない。僕だけが一人、暖炉のある、やや都会的なインテリアのあるリビングのロッキングチェアにゆっくりと腰掛けている。

膝には毛布をかけて、健康な澪さんなら暑すぎるけれど、ただでさえ体温が低い僕は、今はまごう事無く病人だ。暑過ぎるくらいの室温がちょうど良い。

ぱちぱちとミズナラの薪がゆっくりと燃えている。その炎をぼうっと見つめながら僕は『念力』で新しい薪を暖炉にくべた。いつもの僕なら、『念力』に頼らないのだけれど、残念ながら今は腕を動かすのも億劫だ。

澪さんが隣にいるときはその『念力』で身体を動かして、努めて元気のふりをしていた。澪さんが他出している今は、ぐったりとロッキングチェアに横たわっている。

 

時刻は16時、夕食前のまったりとした時間だ。時間は贅沢に流れているけれど、正直僕自身は体調不良であまり贅沢を味わえない。本当は、魔法科高校の課題を済ませなくてはいけないのだけれど…肉体も気分も落ち込んでいる。

これは、去年の2月、僕が生駒の九島家に現れた頃と同じような体調だ。あの頃はそれでも一生懸命勉強して、魔法科高校に入学したよな…あの頃は光宣くんが隣にいてくれた。現在は『戦略級魔法師』の澪さんと響子さんがいつも隣にいてくれる。これはすごく心強い。今の僕は、あの頃みたいに不確かな身分じゃない。『魔法師』の世界では超有名人。非魔法師にも知られた存在で、立場的には将来はそれなりに約束されている。まぁ、その分、自由はなくなるけれど、それは大学を卒業してからの話。その前に高校を卒業出来たらの話だ…

澪さんは昨日、宿に到着してから僕の側から離れようとはしなかった。自宅にいる時もそうなんだけれど、それ以上にお風呂に入る時も寝る時も一緒(僕は素っ裸だけれど、澪さんは湯着を着ていたよ、勿論)。

その澪さんは今、エステに行っている。この宿のプランの一つで、コンシェルジュのお勧めだった。これが響子さんなら真っ先に食いつきそうなプランだけれど、仲居さんの説明に、澪さんが興味を示したのはちょっと意外だった。

澪さんは世間一般から見ても美女で、どちらかと言えば…いやどう見ても高校生程度の容姿だから、美少女なんだけれど、普段の生活が生活なので、日頃はあまり化粧っけがない。

化粧なんていらないほど肌も若々しい。それこそ十代の肌なので、エステとかには興味なんてないと思ったのだけれど、やっぱり女性なんだな。

澪さんが綺麗になるなら僕も嬉しい。その間は、僕は本来の病人に、力を抜いて戻れるわけだ…

 

 

プルルルー♪

 

ん?電話だ…

うとうとと船を漕ぎ始めていた僕をテーブルに置いていた携帯が起こした。高級宿の静かな部屋にはそぐわない、日常的なコール音。

携帯は手を伸ばせば届く距離においてあるけれど、僕は『念力』で携帯をとった。宙に浮いた携帯の画面を確認する。

相手を確認すると、携帯を左手に握り耳に当てる。携帯電話は左耳じゃないと何処か落ち着かない。機械音痴の僕もずいぶんと慣れた事だ。

 

「こんにちは、『真夜お母様』」

 

「こんにちは、久。宿の居心地はいかがかしら?」

 

電話の相手は『真夜お母様』だった。

 

「はい、静かで落ち着きます。温泉も食べ物も素晴らしいです。今回はご招待いただき有難うございました」

 

僕は携帯に向かってお辞儀をする。携帯は音声モードだから、僕の姿は『真夜お母様』には見えないけれど。

 

「なら良かったわ。おくつろぎの所悪いのだけれど、今すぐこちらに来てくれる?」

 

「はい、『四葉家』に向かえば良いんですか?」

 

『真夜お母様』は僕の体調の事は知らない。宿のお礼をしなくちゃと思っていたからちょうど良いや。

 

「私の居る書斎に」

 

ん?妙に限定的だな。

 

「ええと、以前のように運転手さんがお迎えに来られて、その車に乗れば?」

 

「いいえ、今すぐ私の前に来てちょうだいな。大事なお話があるの。ちょっと時間がかかるけれど、五輪澪さんの事なら心配は要らないわ。エステの後も色々と身づくろいの予定があるから」

 

澪さんのエステは宿のコースだから『真夜お母様』もご存知なんだ。身づくろいの事はよくわからない。それも宿のプランなんだろう。

 

「今すぐ…人目についてはいけないって事ですね」

 

宿の周りは国が手配した『魔法師』たちが十重二十重に僕と澪さんを警護している。

 

「貴方の『能力』なら一瞬でしょう?」

 

「わかりました」

 

返事をし終わるより早く、僕は暖炉の前から書斎へ『瞬間移動』していた。風格のある木製の机や本棚に囲まれた部屋、ソファにドレス姿の『真夜お母様』。その斜め後ろに、当然の様に葉山さんが立っている。葉山さんはいつものように背筋をぴんと伸ばしていたけれど、それほど広くも無い書斎に何の前触れもなく僕が現れて、流石に驚いたみたいだ。

『真夜お母様』に変化は無い。

 

「こんにちは『真夜お母様』、葉山さん」

 

僕は携帯端末をパジャマのポケットに入れてから挨拶をする。

僕が『瞬間移動』出来る事を『真夜お母様』は知っていたんだ。達也くんから聞いたのかな。

 

「こんにちは久。私の居場所が良くわかったわね。書斎とは言ったけれど、どこのとまでは言っていなかったのに。貴方の『能力』で私の居場所がわかるのね。誰の『意識』も感じられるの?」

 

そこまで知っているんだ。さすが『真夜お母様』だ。

 

「いいえ、『真夜お母様』の他には、澪さん、響子さん、達也くん、深雪さん、真由美さん、市原先輩に香澄ちゃん、光宣くんに…十文字先輩、烈くん…かな」

 

指折り考えながら『意識認識』できる人物の名前を言う。『パラサイト』は数に入れなくても良いか。

 

「くすっ、女性が多いわね」

 

多いとは思わないけれど、『真夜お母様』は僕の女性関係に興味があるみたいなんだ。まぁ『お母様』だからって言っていたし。

僕は書斎を失礼にならない程度に見回した。黒に近い深紅のドレス姿の『真夜お母様』にスーツ姿の葉山さん。だらしなくパジャマ姿の僕は、この部屋の雰囲気に合わないな。

 

「あ、着替えてから『飛んで』くればよかったです」

 

「あら良いのよ、くつろいでいるところを呼び出したのだし。でも、そうね、葉山さん。久の着替えを持って来てくれるかしら」

 

葉山さんは執事だけれど、そんな雑事をするような立場じゃない。でも文句一つ言わず書斎を後にする。

 

「こちらにいらっしゃい」

 

椅子に座ったままの『真夜お母様』が軽く両腕を広げたので、僕は吸い込まれるように『真夜お母様』の腕に抱かれる。

『真夜お母様』から良い香りがする。

 

「少し痩せたかしら?」

 

この香りは香水なのかな。それとも『真夜お母様』の香りかな。『真夜お母様』が僕の頭を撫ぜてくれる。葉山さんはすぐに戻って来た。手に四角い漆器の盆を持っている。盆には丁寧に折りたたまれた衣装。

ん?何だかフリルやリボンが沢山ある服だな…ん?この流れは、女装させられる?深雪さんとは近い親戚だものなぁと考える。

ただ、何だか僕は『真夜お母様』の香りに包まれて、ぼうっとして来ていた。

 

「さあ、立って。私が着替えさせてあげる」

 

「…はい」

 

『真夜お母様』が僕のパジャマのボタンをひとつひとつ外していく。書斎は暖房が効いていて肌をさらしても寒くはなかった。『真夜お母様』は何故か僕の下着まで脱がす。

脱いだ服は葉山さんが受け取って丁寧にたたんでいる。

完全思考型CADのペンダント型のデバイスと指輪だけの全裸になった僕を『真夜お母様』が見つめる。肉が薄くて骨が浮いている僕の身体は、いつにも増して弱弱しい。

『真夜お母様』の手が僕の左肩に触れた。狙撃されて失われたけれど無理やり『回復』させた部分。『真夜お母様』はじっとその箇所を見ている。『真夜お母様』の掌が熱い。

一緒に温泉に入った事もあるから裸を見られても別に恥ずかしくないけれど、『真夜お母様』の視線が僕の全身を見回したあと、僕の股間で止まって、

 

「まだ子供ね」

 

と言われた時は、どう反応すれば良いかわからなかった。まぁ子供だけれど…

 

「やはりまだ早かったかしら。でも、戸籍上はあと三ヶ月で18歳だし…」

 

なんの意味だろう。

『真夜お母様』が着させてくれた服は、3段フリルのノースリーブタイプのワンピースだった。ヘッドドレスのリボンのレースが物凄く綺麗でとてつもなく可愛い。

胸元と背中が大胆に開いている、どう見ても女の子の服だ。さすがにブラはなかったけれど、穿かされた下着は女性物だった。

僕に女装をさせる時の深雪さんは意地悪ですごく楽しそうだけれど、『真夜お母様』も全く同じだ。着替えさせられた僕を満足げに見つめて、

 

「すごく似合っていると思わない?葉山さん」

 

「はい、とても男性とは思えないほど、幼き日の深雪様に瓜二つです」

 

「そうね、このまま大人になったら、さぞ綺麗な娘になるでしょうね」

 

いや、男なんですけれど。

 

「久の遺伝子情報を研究し尽くして生まれたのが深雪さんなのだから、似ていて当然だけれども…」

 

ん?『真夜お母様』の呟きは、衣擦れの音に隠れてよく聞こえなかった。尋ねようとした僕を『真夜お母様』が後ろから抱きしめてくれた。柔らかい胸が僕の肩甲骨にあたる。温かい。そのまま椅子に座って、僕を自分の太ももに座らせる。

小さな僕の頭の上に『真夜お母様』のアゴがのった。包まれるように抱きしめられる僕は、少し前から『意識』が混濁している…

香りが強くなった。

『真夜お母様』がヘッドドレスが崩れないように僕の頭を撫ぜている。何だか『真夜お母様』の愛玩人形になった気分。いや、実際そうとしか見えない光景だろう。ただでさえ僕は人形じみた容姿をしている。

全身から力が抜ける。もともと今の僕は病人だからかな。『真夜お母様』に身も心も委ねられて物凄くリラックスできている。

うとうと…眠い。もう半分眠っているようだ。そのまま一時間以上も『真夜お母様』は僕を抱きしめていてくれた。子供をあやす母親みたいに…ああ、なんて優しいんだろう。

 

 

「奥様、夕食の準備が整いました」

 

葉山さんが腕時計で時刻を確認しながら言った。

 

「あら、もうそんな時刻?」

 

『真夜お母様』が僕を後ろ抱きにしたまま立ち上がった。お姫様抱っこされた僕は、部屋の隅の一人がけのソファにそっと座らされた。

 

「ねぇ、久。しばらくお人形さんのようにじっとしていてくれるかしら」

 

『真夜お母様』のお顔が目の前にある。

 

「…はい」

 

「良い子ね。ご褒美をあげる」

 

そう悪戯に笑うと、僕の唇に赤い唇を合わせてきた。汁気の多い果物でもしゃぶるようなじゅるじゅるとした音が聞こえる。

『真夜お母様』にキスをされている。

僕は性的な事は苦手だし、ちょっと嫌悪感もあるけれど、『お母様』が『子供』にするキスなんだから、妙な意味なんて無い。愛情表現のひとつだ。僕には愛情がわからないけれど…

甘い香りが全身を貫く。

口づけは僕の呼吸が止まるほど長かった。まるで、獲物に毒を流し込む蛇のようだ…なんて変な事を考えながら、僕はまどろんでいる…

 

「大人しくしているのよ」

 

「…は…い」

 

僕が恍惚としている間に、『真夜お母様』と葉山さんは書斎を出て行った。明かりは消されていたけれど、僕はそんな事気にもならなかった。

僕の口の周りにべったりと『真夜お母様』の口紅がついているのがわかる。

大人しくしているって言ったけれど、さっき『真夜お母様』にまじまじと見られた僕の『子供』がムズムズする…背中が落ち着かない。

恍惚ってこんな気持ちになる事を言うのかな。僕は書斎で一人、人形になっていた。

 

 

どれくらい時間が経過しただろう。書斎に『真夜お母様』と葉山さんが戻ってきた。一緒に達也くんも。葉山さんがドアを閉めた。

書斎に入るなり、達也くんは僕に気がついた。ちょっと驚いているけれど、それ以上の衝撃をすでに受けているみたいだ。

 

「叔母上、あれは?」

 

「あれは気にしなくても良いわ。このお部屋の、私の『お人形さん』よ」

 

僕は『真夜お母様』のお人形さんだ。

 

「『人形』…あまり良い趣味とは言えませんね。かなり弱っているようですが」

 

それきり達也くんの注意は『真夜お母様』に向けられた。

僕は部屋の一部になって三人の会話を聞いている。その後の『真夜お母様』と達也くんの会話は紅茶とコーヒーの香りの中で行われた。当事者じゃない僕には難しい話だったけれど…

 

「何故あのような嘘をついたのです?」

 

「嘘?」

 

「深雪が俺の妹ではない、と言う嘘です」

 

この書斎は完全なオフラインである事は別にどうでも良い情報だとして、深雪さんが達也くんの妹ではないと告げられ、深雪さんが次期当主になって、達也くんと婚約をしたそうだ。でも、物質の構成要素に対する異能者である達也くんは『真夜お母様』が嘘をついていると見抜いていた。

達也くんの能力が『魔法』じゃなくて『分解』だって事は、なるほど、納得できる。でも達也くんは深雪さんとの婚約と結婚は、納得できていないようだった。

僕的には喜ばしい事だ。多分、深雪さんも喜んでいる。

深雪さんが達也くんの為に生まれた存在ならなおさらだ。「もう結婚しちゃいなよ」って、深雪さんに何度か言ったけれど、実現するんだなぁ。

深雪さんは達也くんの能力を抑えるために遺伝子を調整されて生まれた『完全調整体』なんだって。

光宣くんも同様の存在なんだそうだけれど、『九島家』では失敗したんだって…何がいけなかったんだろう。

 

その後、『真夜お母様』の説明は炎を帯びていて、その熱に僕の狂気も焦がされていた。

『真夜お母様』は自分の世界への復讐心が達也くんを生み出したと言っている。『精神干渉魔法』が使えない『真夜お母様』にそんな事は出来ないと達也くんは考えている。そこに二人の考えの相違があるけれど、『真夜お母様』の狂気は達也くんの疑問を受け入れない。

達也くんが『破壊神』で『人類の鏖殺者』。

なるほど、初めて達也くんに会った時に、『僕とどこか似ている』と感じたのは錯覚じゃなかったんだ…

僕も簡単に世界を破壊できる。もちろん、そんな無意味な事はしないけれど…でも。

『真夜お母様』の告白は続いている。お姉さんへの複雑な感情、達也くんの感情が乏しいのはそのお姉さんの『魔法』と深雪さんのせいだと。

 

「何て素敵なことなのかしら。何て素敵な私の息子。貴方は私の復讐を成し遂げてくれる。十二歳で死んでしまった『四葉真夜』の仇をとってくれる」

 

「叔母上。貴女は狂っている」

 

本来、『真夜お母様』のこの告白は去年行われる予定だったけれど、達也くんが『魔法』で派手な事件を起こして、その後も事件が続いたからだそうだ。派手な事件…?

 

追加のコーヒーを断って、達也くんは書斎を後にした。その際、僕をちらっと見たけれど、僕は『人形』だから目はあわせなかった。

 

達也くんが書斎を出て行った後、部屋には『真夜お母様』と葉山さん、僕が残された。コーヒーや紅茶の香りはもうしない。でも、『真夜お母様』の狂気の余熱は残っていた。

『真夜お母様』は達也くんの出て行った扉を見つめていたけれど、ソファに深くもたれかかると、すうっと視線だけ僕に向けた。

僕も吸い寄せられるように『真夜お母様』を見つめる。『真夜お母様』の後ろに佇立する葉山さんの存在は『意識』の外になっている。

達也くんは『真夜お母様』を狂っていると言ったけれど、その狂気は普段、知性で押さえられている。

深雪さんや水波ちゃんが『真夜お母様』を恐れるのは、四葉家の内情が関係しているんだと思う。『十師族』や『魔法師』の世界は表も裏も剣呑だから。四葉家の裏を僕は知らない。

でも、僕は全然、『真夜お母様』を狂っているとは思わない。

狂気と言う分野においては、僕は誰よりも距離を重ねている。戦争の時代、戦場や研究所の非人間性の渦中にいて、僕は狂気に麻痺している。磨耗しているのか、鈍感なだけなのかも知れないけれど。

 

達也くんと深雪さんが兄妹じゃなくて実は従兄妹で、将来結婚する間柄になった。達也くんは少し思うところがあるようだけれど、すごく嬉しい。

『意識』の繋がった二人が、いつまでも共にいられるなんて、僕が昔抱いた理想の存在だ。

対外的に達也くんの真のお母さんが『真夜お母様』と言う事は、深雪さんとは一卵性双生児の姉妹を親に持つ、ずいぶんと近い遺伝子の従兄妹だ。

でも、僕はそれも別に気にしない。近親婚は時代によって考え方が違う。

この国の草創期、皇室では兄妹婚が当たり前だった。古代エジプトだって王家の継承権が女性にあったから兄妹や親子での結婚もあった。ハプスブルク家もそうだ。

現代の法律的に問題がないなら、何も気にすることが無い。この辺りの感覚も僕は磨耗している。

 

第一、『真夜お母様』のすることに間違いなんてないんだし。

 

『真夜お母様』は自身の狂気に晒されて、熱っぽい頬が赤みを帯びている。自分の言動を思い出してちょっと照れているのかな。

でも、微笑を浮かべた唇に稚気を感じるのは気のせいだろうか。

『真夜お母様』の深いお考えは僕にはわからない。達也くんの存在は『真夜お母様』のつっかえ棒みたいになっている。ただ、達也くんはちょっと迷惑そうだったな。

 

『真夜お母様』は、こんなプライベートな現場に僕を同伴させたんだから、真意はわからないけれど、何かをさせたいんだ。

何だろう。

いつも素晴らしいモノを頂くばかりで何かお返しをしなくちゃいけない、もしくは僕にも何か出来ないかなって、鈍い思考で考える。

 

「僕に出来ることはないですか?『真夜お母様』の為なら何でもします」

 

目と口しか動かせないから、人形がしゃべっているみたいで、とても強い決意が込められた声じゃないな。僕の弱弱しい声は『真夜お母様』に届いているだろうか。

 

「…そう、何でも」

 

『真夜お母様』は、ちょっと考えている。僕の真意を疑っているのか、言葉を捜しているようだ。

 

「何でも、ねぇ」

 

上品に腕を組んで、指をあごに当てて呟いている。何だか忠誠を誓う騎士の前に立つ女王みたいな気配だ。何でもは言い過ぎたかな。でも、

 

「『真夜お母様』の為なら何でもします」

 

もう一度、はっきり言う。

 

「そう…じゃあ、こちら側に来なさい」

 

『真夜お母様』は、僕の薄紫色の両目を覗きながら、そうはっきり言った。『真夜お母様』の側に行く?おそばに行けば良いのだろうか。僕は座っていたソファからゆっくり立ち上がる。

足に力が入らないけれど、自力で1歩進む。その足取りは酩酊しているみたいに頼りない。視界がふらふらしている。

『真夜お母様』の表情が、わずかに曇る。自分の真意が伝わっていないと思っているみたいだ。

 

「私の為に、死んでくれる?」

 

『真夜お母様』の熱が狭い書斎に満ち満ちてくる。極楽の香りがする。

 

死ぬ?死んで欲しい?僕に?

 

『真夜お母様』の熱を宿した双眸は、僕を見ているようで見ていない。

なんだか目の奥の、別の『次元』を覗いているみたいだ。

 

「この世界で貴方は異物よ」

 

まったく、その通りだ。『真夜お母様』は、正しい。確固たる肉体ですら曖昧な僕。

 

「あなたは危険。破壊神は達也さんだけでいい。あの子には深雪さんがいる。あの二人は繋がっている。でも、貴方には誰もいない」

 

まったくもって正しい。僕の想いは、所詮は独りよがりだ。

 

「私の為に何でもするなら、私のために、死んでちょうだい。貴方が世界を滅ぼす前に」

 

 

弱っているところを説得する。過去のファシストの言葉ね。

貴方は『高位次元体』。死を厭う本能は常人より強固。他人の、借り物の恐怖とは違う。

強烈な死への恐怖を味わわされれば、目覚めさせることは容易い…

貴方は死を選べない。

その完全に『三次元化』できなかった未熟な『肉体』を私に開放なさい。

私の存在を、貴方の『精神』に刻みなさい。死よりも、私を選びなさい。

私なら、貴方を制御できる。

私の狂気を達也が叶えてくれるように、貴方の不安定は私が包み込んであげる。

私が導いてあげる。これまでもそうだった様に。

貴方の『意識』は私が開放してあげる。

そして、見せてちょうだい、『異次元への扉の鍵』を!

『高位』を!

『意識』を!

『精神』の深淵を。私が深淵を覗くとき、貴方も私の深淵を覗くことができる。

人でない狂気の貴方なら、誰よりも深く私と繋がることが出来るわ!

貴方は一人じゃない。さあ、私と共に在りなさい!

私と共に生き、私と共に死になさい!

 

『真夜お母様』が語っている。その口唇から、激しい音楽のような言葉が紡がれている。妖艶な笑みを浮かべながら難しい語彙がとめどなく僕を襲っている。

なんだか愛の告白みたいだ。

 

でも、僕には恋愛は微塵もわからない。

 

考えてみると、僕の最初の『三次元化』は3年かかっている。僕の『精神年齢』はもっと幼いのかも。

混濁した『意識』の僕に『真夜お母様』の言葉の意味は半分も理解できない。夢の中の出来事みたいに、すぐに消えて行ってしまう。

今の『真夜お母様』のイメージする僕は、現実の僕よりも高尚な存在のようだ。まるで『ピクシー』が語るときの『高位次元体の王』の敬意や畏怖が、感じられる。

『高位次元体』の『記憶』が戻れば、『真夜お母様』が知りたかった何かを僕が答えられると考えているのかな。

でも、現実の僕はただの『サイキック』だ。肉体に『意識』が縛られている。『意識』だけの存在だった『パラサイト』は『高位』での記憶を保っていた。

『意識』だけの存在になれば記憶が戻るのかな?

周公瑾さんのように『意識』と肉体を分かつ方法が僕には無い。

肉体を破壊しても『三次元化』でいずれ元に戻るから、周公瑾さんと同じ方法では『意識』の分離が出来ないかも。

『三次元化』は『高位次元』側のシステムだから、僕にはコントロールできないし。

『精神』が肉体に宿る以上、『真夜お母様』の質問には答えられない。

 

早く死ななくちゃ。

 

『真夜お母様』は僕が死を選択出来ないと思っている。

僕はこれまで何度か言及してきた。僕だって脳を破壊すれば死ぬだろう、と。

そして、70年前、僕は死を選択した。

…人の『死』はどこからなんだろう。『意識』が肉体にも宿るなら、脳が死んでも、肉体には『意識』が残るはずだ。やがて『意識』は虚空に解けて消えていくだろうけれど、常人なら刹那の時間でも、僕ならもう少し在り続けることが出来るのかもれない。

答えを知るために、そのわずかな時間を『真夜お母様』は欲しているのかな。

良くわかんないな。達也くんみたいに頭が良いとわかるのか。

『真夜お母様』には達也くんがいるのだし…破壊しか出来ない僕はいらないんだ。

 

『真夜お母様』のために僕が出来ることは、早く死ぬことだけなんだ。

 

脳内の誰かがそうしろと言っている。『真夜お母様』は『共に生き、死んでくれる?』と言ったけれど、その言葉が脳内で独り歩きしている。強くなってくる。『共に生き』の部分は何故か消えてしまった。やがて『死』しか考えられなくなる。

『真夜お母様』の言葉は、究極の選択に直結しているのに、悲しさが湧いてこない。

この感覚は覚えがある。

 

これは『精神支配』だ。

 

でも『真夜お母様』がそんな事をするわけがない。『精神支配』はかけ続けなくちゃ効果が無い。僕と『真夜お母様』は数えるほどしかお会いできていない。

これまでも、僕に無償で色々としてくれた。この指輪だって。

右手薬指の指輪を見る。まるで、首輪のようだって、変な事を考える。飼いならされる?違う。

生への執着が強いと言う『高位次元体』の僕が、8月の富士の樹海の『パラサイト』のような恐怖を感じないのだから、『真夜お母様』は、絶対的に正しい。

 

ぼうっと『真夜お母様』を見つめ返す。微笑を湛えた妖艶な口唇には、僕には表現できない情熱への歪んだ悦びが浮かんでいるようだ。

容易く世界を滅ぼせる僕を自分の物にできれば、世界の命運を握ったも同然で、人によっては、特に権力を持つ人たちには愉悦だろう。でも、『真夜お母様』は権力には興味がない。

『四葉家』は『家族』を護るためにある。

今感じる、『真夜お母様』の不安定さは、欠落した記憶と過去に捕らわれているからだ。

僕は今しか興味がないから、僕と『真夜お母様』の稚気と狂気は似ているようで全然違う。

書斎には葉山さんも同室しているけれど、僕の風景は『真夜お母様』しかいない。静かだな。自分の心音すら聞こえない。

死への、消失への恐怖は今まではあった。でも『真夜お母様』が望むのなら、そうしなくちゃいけないって思いのほうが強い。

今日は大晦日。大掃除は年がかわる前に終わらせなくちゃいけないから、たぶん、今日のこの場所は、死ぬには良いタイミングだ。

 

死ぬには良い日だよ。

 

僕の中の誰かがそう言い続けている。これは『精神支配』…70年前の最後の日のような…

いや、これまでの『真夜お母様』に間違いはひとつもなかった。だから間違っているのは僕のほうだ。

焦燥が胸の奥の奥で揺れているけれど…早く『真夜お母様』の為に死ななくちゃいけない。

老猫は誰も目に付かないところで死ぬって言うけど、僕は猫よりは犬だ。『真夜お母様』の前で確実に、死ななくちゃ。どうやって死ねば『真夜お母様』は悦んでくれるかな。

 

『真夜お母様』が悦んでくれるなら何でもするよ。

 

僕は、もう一度指輪を見る。この世界で僕は『魔法科高校』に通っている。僕は『魔法師』だ。だったら『サイキック』じゃなくて『魔法』で死のう。

『真夜お母様』の目の前で死ぬ。あっ、でも、派手に頭を潰すと、お部屋を汚しちゃう。先日、狙撃された時みたいに、床が僕の血と肉片で汚れてしまう。

あの時の床は澪さんと響子さんが『魔法』で綺麗にしてくれたけれど、迷惑かけちゃいけないよな。

『真夜お母様』が自ら掃除をするとは思わないけれど…死のうとしているのに、変な事を考えている。これは、稚気だな。

 

うん、床を汚さないように死のう。

 

『真夜お母様』が不思議そうに腕を組んで、指を唇に当てた。稚気と言うより演技っぽいな。でも、可愛らしい。

僕の考えている姿はためらっているように見えたかも。失望させたくない。

そもそも、今の僕は人形そのものだ。人形に表情なんてない。『真夜お母様』の表情が曇る。僕の沈黙に戸惑っているのかもしれないけれど…失望させちゃいけない。

 

「はい、『真夜お母様』のために死にます」

 

僕は、完全思考型CADの指輪をはめた右手を銃の形にすると、人差し指の先端をこめかみにあてた。特に、覚悟なんかもしない。

 

「『真夜お母様』、お元気で」

 

「えっ!?」

 

『真夜お母様』が目を見開いた。初めて見る表情で、僕が見る最後の光景だ。

僕は笑顔を作ろうとしたけれど、上手く作れただろうか。

ふっと一瞬、書斎に風が吹いた。CADから余剰サイオンが溢れるような下手はしないから、衝撃で僕の頭部が動いたから生まれた風だ。だから、風を感じられたのは僕だけかな?

胸のデバイスにサイオンを流し込む。使う『魔法』は『稲妻』。小指の先ほどのプラズマを、僕の脳内に出現させる。

小さな、本当に小さな『稲妻』だけれど、その温度は数万度。それ以上大きいと、頭蓋骨まで破壊してしまうからその程度だ。

瞬きよりも短い時間、膨れ上がった空気と水蒸気爆発で、僕の脳は一片のかけらも残さず蒸発した。

自身を殺す『魔法』をここまで上手にコントロールできるなんて、『魔法師』としての僕は中々優秀だな。『真夜お母様』にいただいて、達也くんが調整してくれた指輪型CADのおかげか。

でも、鼻腔と鼓膜が破壊の圧力に耐えられずに破れた。ああ、頭蓋骨の事しか考えてなかった…脳は蒸発させたけれど、破れた部分から鮮血がだらりと垂れてくる。

僕の淡く薄紫色に光る両目からも、鮮血が溢れた。なるほど、目は脳の一部だって説は正しいな。血が、まるで涙みたい…

自分の身体が朽木のように倒れたのがわかる。からっぽの頭が床を打った。当然、痛くは無い。書斎は暖房が効いていたけれど、床が温かいかどうかはわかんない。

血が飛び散る。ちょっと床が血で汚れちゃったな。

『真夜お母様』が今どのような表情をしているかはわからない。何となく悲鳴のような声をあげたような気がするけれど確かめようが無い。

良い香りがする…気のせいのはずだ。脳がなければ香りもわからない筈なのに、脳を破壊してから床に倒れるまで僕の『意識』は確実にあった。あぁ、やっぱり『意識』は脳以外にもあるんだな。

『意識』と『精神』は同じ物。この事を『真夜お母様』にお教えしないと…ん?どうやって?

中世ヨーロッパで行われたギロチン実験では瞬きをして『意識』の証明をしたそうだけれど、脳がない今の僕は『サイキック』でも『エスパー』でもない。ただの肉の器、人形だ。

一つに集中すると他に気が回らなくなるのは僕の悪い癖だ。もどかしいな。

『意識』は、常人よりももったのかな?比較対象がわからないんだからこれもわからないや。

最後の最後まで僕は馬鹿だなぁ。

でも、『真夜お母様』のために死ねたんだから、まぁいいや。『意識』が消えていく。

僕のいた時間は過去になるわけだ。過去は黒なのか白色なのか…香りはもうしない。

 

どうやら、極楽はないみたいだな。

 

 

 

 

 

 





いやー大難産でした。
今回の話は、このSSの最初の構想の時から考えていたんですが、
同時に自分の能力では表現できないとも思っていました。
三ヶ月のあいだ、思いついた事を順不同で書いたので同じような表現があって、
とても読みにくいと思います。
難産でも、一気に書いたほうがいいんだなぁと猛省しております。
真夜と達也の会話シーンは原作で補完していただくとして、
なんとかココまで形にできました。
しかし、このSS開始から約1年、この程度の表現しかできないのは無念であります。
可能でしたら、読者の方で加筆修正をお願いいたします(笑)。
ぜひとも、遠慮なく加筆修正してくださいませ。

この話のラスト時点で、久は絶賛死亡進行中です。
久は真夜と達也の会話に同席していましたが、それでも達也の『再生』の事は知りません。
意図的に達也の能力の事は久に知らせなかったのはこの回のためです。
次回は、久に春が来ます(笑)。そのかわり四葉家とずぶずぶになります。
いまでもそうですけれど。
では、また次回。

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