パープルアイズ・人が作りし神   作:Q弥

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九校戦へのツークッション。


洗脳

「株主総会?」

 

「それで6月最終土曜日に帰省しなくちゃならないの」

 

6月の最終営業日は企業による株主総会の集中日。21世紀の始めも終りも、それは同じで、澪さんのご実家の海運会社もその日に株主総会が行われる。

澪さんのご実家の会社は宇和島で株主総会を行うんだそうだ。十師族にはそれぞれ受け持つ地域があるので、どうしても宇和島でと言う事になるんだそう。

海運会社の収益は好調で、それも澪さんの健康が回復すると共に株価も上昇中。澪さんは自分も株主であり、同時に大企業五輪家の顔であり象徴であり、アイドルでもある。

これまでは虚弱体質のために出席していなかったから、正月以来の帰省もかねているんだって。

じゃあ僕も一緒に行こうかなって思ったけれど、その日は土曜日。もちろん、学校がある。先週まるまる休んだばかりなので休めない。

土曜の朝出かけて、月曜に戻ってくるって、警備もそのように手配済み。戦略魔法師は行動の自由がないのが大変だけれど、健康になっても澪さんは引きこもりだからなぁ。

 

いつもならここで響子さんが「夫婦水入らずね」ってチャチャを入れるところだ。

 

「土曜日曜は私も土浦で演習があるから帰宅できないのよね…」

 

ぼそりと、なんだか独り言みたいに呟いていた。あれ?土浦?茨城県の霞ヶ浦の横だったかな…?

 

「響子さんは土浦までいつも通っているの?土浦に駐屯地があったの?それともその日だけ土浦に行くの?」

 

響子さんがしまった、って顔になる。響子さんの所属部隊や勤務地は秘密になっている。響子さんは頭が良いし、こんな何気ない会話で漏らすほど迂闊じゃない。

 

実は、響子さんは今週の火曜日、生駒の九島家から帰宅して、ちょっと態度がおかしい。

澪さんは気づかなかったけれど、僕はなんとなく響子さんの異変に気がついた。すこし悩んでいるみたいな感じだ。光宣くんのことではないと思うけれど。生駒の九島家で何かあったのかな。

響子さんは軍属なので、僕たちには言えないことが多い。だから僕も不用意にどうしたの?って質問が出来ない。結構それがもどかしい。しかも、響子さんは祖父である烈くんとは軍閥が異なるので、九島家と軍との間ですこし微妙な立ち居地にいるみたいなんだ。

そのことを尋ねることができない。尋ねても答えてくれないだろうし、僕にはどうしようも出来ない問題だ。

微妙に大人になりきれていない澪さんは僕と話が合うし、同じ嗜好に引きこもりで基本的に何でも話し合っているけれど、響子さんは社会人で大人だ。大人の友人付き合いもしていて、外では響子さんは小悪魔的に相手をからかったり試したりするような話し方をする。

その性格が微妙に男性を遠ざけているのではと邪推してしまうけれど、自宅では響子さんは僕を子供、もしくは弟だと考えているから、僕をからかったりエッチないじわるもしてくる。けれど、僕じゃ対等の相手には不足だ。

早く響子さんにふさわしい男性が現れるといいんだけれど、それはそれで寂しい。

 

それじゃぁ土曜の夜は久しぶりに一人か…どのみち僕は引きこもりだから深夜徘徊はしないし、澪さんの部屋でアニメ三昧…もとい、試験前の追い込みをしなくちゃ。

って考えていたら、『真夜お母様』から電話があった。

今週の土曜日、四葉家に泊りがけで遊びに来ないか、というお誘いだった。

真夜お母様には去年の11月以降会っていないし、なにより完全思考型CADと、先日の数字落ち魔法師事件の『ヨル&ヤミ』、いや亜夜子さんと文弥くんの派遣のお礼を直接言いたいと思っていたから、ぜひ行きますってお答えした。

定期試験前だけれども、まるで僕がその日一人になるから寂しくて、お誘いを絶対に断らないことを知っている、みたいなタイミングだ。

以前のように亜夜子さんたちがリムジンでお迎えにくるのかと思っていたら、最寄の駅までキャビネットで来て欲しいそうだ。亜夜子さん達も高校に通っていて、そう簡単に東京には戻ってこられないみたいなんだ。どこの高校の入学したのかな。やっぱり双子そろってなのかな?

別の車を四葉家から最寄り駅まで迎えに出してくれるんだけれど、駅の名前を聞いたら、

 

「小淵沢駅に17時にお迎えの車をやりますので、それに乗ってくださいね」

 

「えぇと、それってどこですか?」

 

かつての山梨県と長野県の県境にある小さな駅だって。四葉家は保養地で有名な清里近くにあって温泉も湧いているんだって。

以前、お招きを受けたときはどこかさっぱりわからなかったから、意外な近さに驚いている。

 

「じゃぁ八王子の一高前駅から一本で行けますね」

 

時間的には二時間弱か、学校は昼に終わるから部活をして、直接向かえばちょうどいい。着替えや下着類は用意しておいてくれるって。

真夜お母様に直接会うのは8ヶ月以上ぶりだから凄く楽しみだ。またパイやパウンドケーキを用意して行こう。

でも、澪さんと響子さんには四葉家の場所は秘密だって。

 

「もっとも『電子の魔女』は四葉家の場所も知っているでしょうけれど」

 

そうだよなぁ、響子さんは隠し事、特にネットに流れている情報は知ろうと思えばどんなところにも進入できて、誰にも気がつかれない。

響子さんはネットで知った情報を誰にも言わないから良いんだけれど。ひょっとしたら誰にも言えない情報を入手してしまって悩んだりすることもあるのかな。

 

土曜日、僕と澪さん響子さんはそれぞれのスケジュールに合わせて行動する。

一高への登校は別に待ち合わせの約束をしているわけじゃないから、メンバーの組み合わせはその日によってばらばらだ。

一高前駅でキャビネットを降りたら、ちょうど達也くんと深雪さん、水波ちゃんがキャビネットから降りてきたところだった。僕は三人に駆け寄る。

 

「おはようございます、達也くん、深雪さん、水波ちゃん」

 

「おはよう久」

 

三人が挨拶してくれる。そして、僕が上機嫌なことにすぐ気がついた。代表して深雪さんが尋ねてくる。

 

「嬉しそうだけれど、何かあったの?」

 

「うん、『真夜お母様』が四葉家にご招待してくれたんだ」

 

「えっ!?」

 

僕の言葉に達也くんは無表情だけれど、深雪さんは緊張して、水波ちゃんは硬直する。僕はニコニコ笑いながら、

 

「今日、放課後に最寄の駅まで行くから、お迎えの車をよこしてくれるって」

 

「最寄の駅?四葉家の場所を教えられたのか?」

 

達也くんの目がすこし鋭くなった。

 

「うぅん、具体的な場所まではしらない。最寄の駅まではここからだと二時間弱くらいだよね」

 

「…そうだな。一人で、迷わず行けるのか?」

 

「平気だよ。キャビネットにここから乗るだけだから…たぶん」

 

三人は、動揺している?特に深雪さんの鉄壁の微笑が崩れているし、水波ちゃんは異常なまでに緊張している。そんなに僕の方向音痴が心配なのかな。

僕たちが微妙な雰囲気で会話をしているとき、七草の双子が一高前駅に降りる姿が見えた。

泉美さんが深雪さんに嬉しそうに駆け寄ってくる。香澄さんは僕の小さな身体を見つけて露骨に態度が変わった。どうやら本格的に嫌われてしまったみたいだ。

 

 

授業が終わって15時頃、一度自宅に帰ってから着替えてまたキャビネットに乗って出かけると、逆方向に向かうことになる。何となく時間的に損した気分になるので、一高駅から直接小淵沢駅向かうことにした。小淵沢駅は山に囲まれた田舎の小さな駅だった。人口の多かった時代はもう少し大きかったんだろうけれど、今は小さな無人駅。約束の17時まではあと15分ほどある。

内陸の田舎は、斑鳩の田園風景とは全然違って山が近くまで迫ってきている。6月最後の土曜日、人影のまったくない無人駅は照明がどことなく暗い。まだ明るい時間なのに、どこか寂しげな雰囲気の中、僕の一高の制服姿は、物凄く浮いている気がする。

その照明に誘われるようにふらふら飛んでいる蛾を見ながら、僕はやっぱり帰宅して着替えてくれば良かったかなって、ぼぅっと考えていた。

無人駅の待合室のベンチにぽつんと座っていると、待ち合わせの駅と時刻はここでよかったんだよなって、何となく不安になってくる。

不安を紛らわすために、少し近所を歩こうかなって考えたけれど、方向音痴の僕が不用意に歩くと気がついたら山の中なんてことになっているかも知れないので我慢。アナログの僕は携帯端末で時間を潰すことをしない。ただ、ぼうっと暮れ行く山の稜線と茜空を見ている。

知らない土地に一人で不安があるとは言え、どうしてこんなに孤独を感じるんだろう…

 

お迎えの車は、5分ほど待っていただけで小淵沢駅にやってきた。

運転手の男性が僕の姿を見つけると、慌てて車外に飛び出して遅れたことを謝り始めた。

 

「いえ、約束の時間は5時ですから、まだ時間前ですし、お迎えありがとうございます」

 

大人の男性が卑屈に謝る姿は、まわりに誰もいないとは言え落ち着かない。僕の手荷物はお土産のお手製お菓子だけなので、さっさと後部座席に腰掛けて車を出してもらう。

運転手さんは僕に対して、緊張感がある。水波ちゃんと同じ態度だ。運転中も僕の方をミラーでちらちら見ながらも、慎重に田舎道を運転していた。トンネルを走行中、ふと運転手が『魔法』を使った。『魔法』じゃないな…サイオンを少しだけ放出したみたいだ。トンネル内で車が曲がったのが慣性でわかった。

トンネルを抜けた風景は特にこれまでと変化がない。でも運転手さんがふぅっと息を吐いた。さっきまでの緊張感が少し抜けている。どうやら四葉家の防衛圏内に入ったみたいだ。小淵沢駅から北に向かったのか南に向かったのかも僕にはわからなかったけれど、以前の黒塗りリムジンと違って窓からは景色が見える。ここが四葉家のある町…村かな。

車が大きなお屋敷に吸い込まれていく。ここが四葉家の本家なのかな。でも七草家や北山家に比べると、ごく普通の田舎の大きな日本家屋くらいの規模みたいだ。

車寄せではなく、普通の玄関に、車がつけられた。玄関には老齢の執事、葉山さんと中年の家政婦の女性が姿勢も正しく並んでいた。運転手さんがまた緊張を深めた。

詳しくはわからないけれど、執事には序列があって真夜お母様つきの葉山さんは筆頭で中年の女性は白川夫人と言って葉山さんの補佐、序列6位のメイド長なんだそうだ。

僕が自分でドアを開けようとすると、運転手さんは慌てて外に出て、ドアを開けてくれた。

葉山さんがじっと運転手さんを見つめると、運転手さんの表情が青くなった。ちょっと悪いことをしてしまった気分だ。

以前来たときよりも皆さん緊張している気がする。前回は達也くんと深雪さんに黒羽の双子もいたけれど何が違うのかな。僕が今回はお泊りするけれど、あまり宿泊する人がいないからかな?わからないな…

運転手さんにお礼を言って、玄関前の二人に挨拶をする。葉山さんはいつも通り、背筋が伸びた綺麗な立ち姿だ。

僕は前回同様、四葉家の使用人の人たちの分のお菓子も作ってきた。葉山さんに手渡すと、メイド長に一言指示を出しながら手渡す。メイド長が深くお辞儀をしてきたけれど、やっぱり仰々しい。

 

「こんにちは葉山さん、今回はお招きありがとうございます」

 

「いらっしゃいませ多治見様。今回はご当主の指示のもと我々一同、誠心誠意お世話をいたします」

 

「よろしくおねがいいたします」

 

大げさだなってやっぱり思うけれど、僕は葉山さんに導かれて、母屋の書斎に向かう。

書斎か…生駒の烈くんの書斎はアニメのメディアやコミックスで埋め尽くされていたけれど、まさか真夜お母様のお部屋はそんな事は…ないと思う。

 

葉山さんが古風なデザインのドアをノックすると、室内から女性の張りのある声がした。葉山さんがドアを開け、僕が先に室内に入る。葉山さんが後から中に入ってドアを閉める。

 

「奥様、多治見久様をお連れいたしました」

 

一礼すると、定位置である真夜お母様の斜め後ろに立つ。

 

「いらっしゃい久、お久しぶりね」

 

「お久しぶりです、真夜お母様、本日はお招きいただきありがとうございます!」

 

僕が丁寧にお辞儀をする。『真夜お母様』はおやっと首をひねると、

 

「あら?今日は、私に抱きついてこないの?」

 

いたずらな笑顔を浮かべた。相変わらず若々しい。黒い衣装もいつものままだけれど、まるで前回お会いしたときから時間が停止しているみたいなたたずまいだ。

 

「だってお母様、ティーカップを片手に持っているから…」

 

背の高い本棚や年代を思わせるヨーロッパ調の家具。外観は日本家屋だけれど、室内は洋風の四葉家の書斎。九島家もそうだけれど十師族は数十年の歴史しかない家だ。どこか和洋折衷な成金な部分がある。伝統より歴代の当主の趣味が雑多に残っている感じだ。

真夜お母様はマイセンのティーカップを口につけている。雑多だけれど、落ち着いた書斎にはハーブの良い香りが満ちている。

黒い衣装の『真夜お母様』に白い磁器はその妖艶な容姿もあって妙に存在感があるけれど、今抱きつくとカップとお茶でお母様が悲惨なことになる。

 

「あら、そうね」

 

お母様はカップをソーサーに置くと、椅子に座ったまま、両手を広げて、

 

「いいのよ、いらっしゃい」

 

って艶やかに笑った。僕はお土産をその場にそっと置くと、お預け中の犬よろしくばっと駆け出して『真夜お母様』のお腹に抱きついた。どことなく演出っぽいし、条件反射みたいだなって思う、僕はやっぱり犬っぽいな。

葉山さんは無表情でまっすぐ立っている。

 

書斎ではCADや事件のお礼と試験前の勉強についてお話をした。試験前にお招きしてしまってとお母様は謝るけれど、一日サボった程度で僕の成績は微動だにしない!どうせ今日は勉強したって集中できないからいいんだ。よくはないけれど。

僕は制服だったから、お母様が葉山さんに指示してあまりフォーマルにならない程度の私服を用意してくれた。ざわざわメイドの数人が着替えを手伝ってくれる。脱いだ制服くらい自分でたためるのに…

 

19時、お食事の用意が出来たからと『真夜お母様』が僕の手を引いて食堂まで案内してくれた。『真夜お母様』の係りは当然、葉山さん。前回は水波ちゃんだったけれど、僕の後ろにはメイド長の白川夫人だった。ディナーはちゃんとしたコースで、以前と違って僕はしっかりマナーを守って綺麗にこぼさず食べる。マナーが上達したことをお母様が褒めてくれた。嬉しいなぁ。

 

お食事の後は、服を着替えていつもみたいなユニセックスな格好になった。自由時間だけれど、僕はくつろいで本を読んでいる『真夜お母様』の隣で、静かに前回読み切れなかった洋書を辞書をひきながら読んでいた。静かで、紙をめくる音や二人の呼吸音、心臓の鼓動まで聞こえてきそうな静寂。でも物凄く落ち着く。

しばらくして。

 

「久、そろそろお風呂に入りなさい。家のお風呂は温泉のお湯を引いて露天になっているからゆっくり入ると良いわ」

 

温泉か。僕は入ったことがないから楽しみだ。白川夫人の案内で温泉に行く。この時代、温泉なんかの公共のお風呂には湯着を着て入るんだそうだけれど、僕は服を着てお湯に入る時代の人間ではない。脱衣所のかごにぽぽいっと服を脱ぎ捨てタオルで長い髪を結い上げると、素っ裸で温泉に向かう。

夜の温泉は竹柵で囲われていたけれど、湯気だけでも何となくテンションが上がる。かなり広い、泳げそうだな。もっとも僕は泳いだことがないから、泳げるかどうかわからない…

温泉は硫黄の匂いがあるってイメージがあったけれど、無色透明で匂いもなかったから自然石で作られた普通のお風呂みたいに感じられた。あまり効能の強い温泉だと僕には身体に合わなそうだからいいけれど。

軽くお湯で身体を濡らして、片足をお湯に入れる。意外と温い。ゆっくりと肩までつかると、

 

「はふぅー」

 

思わずため息が漏れる。温めのお湯に、見上げると月と星空。寒くもなく暑くもない気温。あぁ日本人だなぁって、お湯が染み込むような心地よさに考えてしまう。まぁ僕が日本人なのかどうか疑問だけれど、戸籍上は確かにそうだ。

お湯に浮かぶようにお風呂に入っている。月が綺麗だ。星は月の明るさに隠れてあまり見えない。

お湯をすくって顔にぷはーってかける。うん気持ち良い。

ふっと腕を見る。細い。最低限の筋肉。貧弱だ。魔法師の弊害の象徴である澪さんも同じ境遇だけれど、お風呂に入るたびに考えてしまう。僕の身体はこの世界では異物なんじゃないだろうか。

『三次元化』『回復』『高位次元体』。複雑な状況にチグハグな精神性。なのに証明は一切出来ない。証拠は『ピクシー』の証言のみ。

僕の『能力』はこの世界には破格すぎる。『魔法師』としても機械音痴な事を差し引いても桁違いだ。僕が『メラ』を唱えても、その威力は『メラゾーマ』になってしまう。

独自の魔法を使っても普通の『魔法師』では再現できないことになるだろうから、この世界に貢献は出来ない。もっとも達也くんがあの『トーラス・シルバー』みたいに、僕専用のCADを作れたらエンジニアの腕とあいまってすごい魔法や技術が開発できるかもしれないけれど。九校戦では無難な魔法勝負に終始することになるかな…

 

そんな事を、らちもなく考えていたら…浴場の扉がカチャッって開いた。

おやって、目を向けたら、僕と同じように黒髪を結い上げて、湯着をまとった『真夜お母様』が立っていた。

月明かりに照らされて、黒髪に肌色、湯着の白が浮き上がっている。

僕は驚いてお湯から立ち上がった。僕は全裸だけれど、裸を見られることは研究所時代のせいで慣れている。

『真夜お母様』も、僕みたいな貧弱な子供の裸を見ても驚かない。

 

「お母様?」

 

「くすっ、『親子』ですもの、一緒に入っても問題ないでしょ」

 

「…はい!」

 

『親子』。その言葉だけで、僕は感動してしまう。天涯孤独な僕は『家族』という存在は憧れで願望だ。

お母様はお湯で軽く身体を流すと、僕の隣にゆっくり向かってくる。濡れた湯着が身体に密着して生々しい。お母様なのにドキドキしてしまう。

僕の隣で肩までお湯に浸かる。僕はちょっと身を縮める。お母様が僕の左腕にぴたっと右腕を重ねた。

 

『真夜お母様』から良い香りがしてくる。石鹸の類ではない、心が落ち着く香り…

 

「気持ち良いですね、久」

 

「はい、広いお風呂がこんな気持ち良いなんて知りませんでした」

 

「そう?いつでも入りに来ても良いのですよ」

 

「本当ですか?それなら『お母様』に会う機会が増えて僕も嬉しいな…」

 

「試験が終わると九校戦ですが、久は今年も氷倒しに出場するの?」

 

「わからないけれど…そうなったら頑張りたいです。じつはこっそり練習もしているんですよ」

 

「今年の九校戦の公式発表は週明けに行われます。ちょっと騒ぎになるでしょうね」

 

お母様は今年の九校戦に関してもう知っているんだ。でも、

 

「その前に、試験を乗り越えないと…今年は赤点を心配するほど酷くはないけれど、上位に食い込むほどには学力がないから、また他の生徒は僕を残念な目で見るんだろうなぁ」

 

僕自身を蔑むのは構わない。でも、僕の周りの人たちをもその蔑みの目で見ることには耐えられない。僕の友人や『家族』はすばらしい人たちばかりなんだ。

 

「でしたら九校戦で実力を発揮するのが一番ですね」

 

「…うん。今年は、勝てると思う…」

 

「でも、去年みたいに、ほぼ互角の勝負なら一条選手が勝利と言う判定になるでしょうね」

 

「どうしてですか?」

 

「氷倒しの判定は機械ではなく、審判員の価値基準と主観で決まります。審判員は当然、十師族よりの判定をするでしょう。

去年も達也さんが一条選手に勝った後も、他の十師族が問題にして、その後の競技に口出しをしていたのですよ。十文字さんが圧倒的に、過剰なまでに圧勝したのはそのためです」

 

僕と一条くんとの勝負はゼロコンマの世界だ。どちらが勝ちと判定されるかは審判の判断となる…

 

「じゃぁ僕が勝ったら、そのあと一高の競技がしにくくなる…?」

 

「あくまで、可能性ですよ。久はもう十師族の一員のような立場ですからね。でもまだ本当の十師族ではありませんから…」

 

「十師族って面倒くさいですね…あっごめんなさい」

 

「いいんですよ、でも四葉家は権力や権勢に興味はないの。もともと一族を『家族』を守るために研究開発をしてきた結果なのだから」

 

「…あぁ!」

 

『家族』を守る!それは僕が一番考えていることだ。『真夜お母様』と同じ事を考えている。

心の高まりを、恍惚を感じる…

 

僕は十師族に対しても素直な感情を向けられない。個人としては仲が良いし悪意はないけれど…

五輪家は澪さんは大好きだ。でも弟の洋史さんの頼りなさ、もっと言うと卑屈さにはあまり良い感情はない。

七草家は真由美さんは僕に優しいし何かとお世話になっている。双子も感情的には色々とあるけれど一高の後輩だ。でも当主の弘一さんは僕に思惑があるようだ。

九島家の烈くんと光宣くんは僕の一番の友人たちだ。響子さんは婚約者(仮)。でも現当主の真言さんは僕に関心がない。まったくの無視を決め込んでいる。

十文字克人先輩は個人としては僕に気をかけてくれるけれど、十師族としての考えには少し壁がある。

僕は、ぼうっと考えながら、真夜お母様から香ってくる良い香りに包まれていた。

少しずつ、少しずつ。僕の『回復』に影響を与えない速度で緩慢に、香りを肺に吸い込んでいく…

時間の感覚がなくなっている。僕は体力がないから長風呂はちょっときつい。お母様の隣でリラックスし過ぎたかな…

僕の頭がくらっと揺れる。良い香りだな…眠いようで眠くない、不思議な脱力感…

 

「そろそろ上がりましょうか、久、今夜は一緒に寝ましょうね」

 

「…はい」

 

僕の変化に気がついてくれた『真夜お母様』が立ち上がった。僕もつられて立ち上がる。

お母様とご一緒に眠れるなんて凄く嬉しい。僕は、湯当たりしたかのように、熱くなった身体で、お母様に手を引かれて温泉からあがる。

お母様が湯着のまとわり着いた身体のまま、僕の濡れた身体を拭いてくれる。僕はお母様のお顔、胸の谷間、白い肌、黒髪、微笑をたたえた唇をぼぅっと見つめていた。

すこし長風呂してしまったかな…

 

寝室でお水を飲むけれど、身体は熱いままだ。頭が重い。

ベッドの中で、お母様は僕を抱きしめてくれていた。僕も抱きしめ返す。

心地いい香りが肺から全身に染み渡って、僕自身がお母様に包まれているような、まるでお母様の一部になったかのような錯覚に陥っていた。

そのまま眠りに落ちる…眠っているようで眠っていない。レム睡眠…?うつつと夢の間の領域…

まるで赤子のように、お母様の柔らかい胸に顔をうずめて、僕の意識は混濁していた。呼吸が苦しい。全身が疼く。性的欲情とは違う、下半身がムズムズして、思考がぼんやりと、意識が薄まっていく…少しサイオンを感じた気がした…

お母様の声が脳内に聞こえる…不快じゃない…むしろ、もっとひとつになりたいって欲望に支配される。

 

捕獲したパラサイトがあなたは『高位次元体』だって言っていたけれど、本当?

 

わからない…僕には記憶がないから…

 

戸籍上は17歳だけれど、本当の年齢は?

 

僕は三歳以前の記憶もない…ただこの身体は11歳。これ以上は大人になりたくない…

 

精神とは何?

 

健全な精神は健全な肉体に宿る…

 

つまり精神は脳だけでなく肉体そのものに宿る、と?

 

精神は意識や魂、生命力や生命エネルギーと言った目や機械では測定できないもの。だけれど、肉体そのものの形をとる…

 

何かしらの不幸で体の一部が欠けていると精神も欠けたものになる?

 

よくわからない…僕は精神の存在に近いけれど、肉体の維持にそれのほとんどを当てている。それがなんなのか測定できない以上結局は想像するしかない…

 

肉体の三次元化?

 

もともと不安定な存在を無理に肉体化しているから酷くイビツでチグハグな存在だ…もしかしたら時間が全てを証明してくれるかもしれない…

 

…そう、答えは自分で見つけるしかないのね…

 

わからな…い

 

寝言で会話をしている…変な会話だ。夢の中の出来事みたいだ。夢は起きたら忘れてしまうだろう。

でも、僕の意識は混濁しつつも寂しいと感じている。

たぶん日にちがかわれば、『真夜お母様』とお別れしなくちゃいけないからだ。

帰宅したら、今夜は澪さんはいないけれど、響子さんはいるはずだ。響子さんの悩みが解決されていたらいいんだけれどな…

僕はまどろみの中、『真夜お母様』の香りに包まれて、多幸感を味わっている。

お布団が『真夜お母様』の体温で、物凄く温かい。

このまま消えてしまってもいいかなって思いながら、僕は深い眠りについた。

 

翌朝、目覚めたとき、お風呂から上がった後の事は覚えていなかった。

同じベッドの隣に『真夜お母様』が横になっていた。大人のワンピースの寝間着。カーテンの隙間から、6月のまだ弱い朝日が差し込んでいる。朝日が薄ぼんやりと並んで寝る二人を照らす。

『真夜お母様』が僕を見つめていた。たぶん慈愛に満ちた目だ。僕がそう思いたいから、そう見えるのかもしれないけれど…幸せな朝だった。

僕はお母様にしがみつくように抱きついて、また眠りに落ちていた…

 

あの甘い香りは、もうしていなかった…

 

 

 

 




捕獲した『パラサイト』が忠誠や依存に逆らえない事、そして『高位次元体』である久の情報を真夜は聞き出します。
久が世界を滅ぼす力を持つ存在であることも知りました。支配の方法も。
達也が久の事を知らないはずはないので、報告していないことをすこし不審に感じます。
達也でも気づかなかったのか、それとも…なので、古都内乱編で周公謹捜索を命令でなく依頼という形でだして忠誠をしらべます。

久は個人への好意はあるけれど、十師族そのものには好感はありません。これは一高に入学した当時から感じていたことです。
この回で、真夜は四葉家以外への十師族への不信感を久に植え付けます。
やがて、九校戦で現実のものとなる…

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