痛みや恐怖が急に遠のいて行く。
慣れた『死』とは言え、少し悲しく、悔しい感情は、胸の内にわだかまって…
ん?
視界が広がる。
月の周辺に鈍色の雲が浮いている。
その雲がゆっくりと、でもそうとはっきりわかる程の速度で動いている。
空に沢山の星が瞬いている。
この時代の空気は綺麗で、冬の夜空は都会なのに、まるでプラネタリウムのようだ。
見下ろすと、月と星の明かりが地上に雲の影を作っている。
地上の明かりも、星のようで、玄関の淡い照明が、夜の暗闇を深くしている。僕の家の狭い庭の植木が、闇にうずくまっている。
自宅周辺には国から派遣された魔法師が常駐している。道路の死角に立哨する魔法師が見える。他にも待機する家があり、僕と今夜は不在だけど同じ戦略級魔法師の澪さんを護衛している。テロ事件以降、魔法師が増員されていた。毎日お疲れ様です。
いつもと変わらない、普通の夜なのに、警護の魔法師は抜け目なく、自宅周囲を『魔法』的に警戒している。
その魔法師の動きがにわかに慌ただしくなった。2人の魔法師が音もなく駆け出すと、自宅玄関の電子ロックをカードキーで解除した。
自宅内に入ると土足のまま廊下を進み、リビングのドアを開く。
僕もその後ろをついていく。
リビングの床には、パジャマ姿の僕が横たわっていた。
警護の一人が、僕の呼吸と脈を調べている。彼は医師免許を持っていて、蘇生治療に長けている。
僕のあえかな身体はまるで死んでいるようだ。長い黒髪が乱れて首に絡まっている。
でも、片膝をついた警護が僕の身体を揺すると、赤い唇が小さく開いた。薄い呼吸で、胸が上下しているのが僕にもわかる。痛みや苦しみのない安らかな表情だ。
警護の2人が戸惑いと安堵の表情で、お互いの顔を見合わせた。
生きてはいるけど、生命活動が明らかに鈍い。
警護が携帯で響子さんと会話を始めた。
気を失った僕に驚いた光宣くんが響子さんに連絡を入れてくれて、響子さんが警護に急を告げたんだ。
「四葉久殿は呼吸、脈拍、体温ともに低下しています。いただいたデータよりも数値は低いですが、まるで眠っている…いえ、熟睡しているようです。命に別状は…ないかと思われます」
澪さんと響子さんが不在の時、僕の身に何か起きた時は、響子さんが警護に連絡、玄関のロックを遠隔操作で解除して、警護でも入れるように普段からマニュアルで決まっている。
僕の身体データ、脈や体温は常人のそれよりもかなり低く、その事実を知らないと、かなり戸惑う数値だ。
警護が僕を抱きかかえると、そのままソファに寝かせて、リビングの収納からタオルケットを出して僕にかけた。
警護が僕を病院に移送しようかと響子さんに尋ねている。
響子さんの電話越しの声は聞こえない。
僕の身体は時間でしか治らない。響子さんは帰宅途中で、すぐ戻って来るそうだ。警備が響子さんの指示にしたがって、室内の温度を上げた。
まるで夏のような室温になって、警備の2人は汗ばんでいる。それでも、2人の緊張が弛緩したことが目に見えて分かった。
2人は土足のままなのに気づいて、靴を玄関に戻した。外で待機する警護も、それぞれ待機場所に移動する。
夜の住宅街が、また静かになった。
その光景を僕は、リビングの青い天井から見下ろしていた。
僕の身体は一糸まとわぬ姿で、中空に浮いている。僕の裸体は、ひどく痩せていて、普段食いしん坊なのに、カロリーがどこに行っているのか疑問になる。
白い雪のような肌は、今は半透明で、見つめる手のひらを透かして、ソファに横になる僕の姿が見える。
僕の寝顔は本当に深雪さんにそっくりだ。子供らしい丸みがないので男の子には見えない。
綺麗に整えられた足の爪は澪さんが切ってくれた。人に裸を見られることに、特に抵抗がないけど、そのつま先が警護の顔の前をふらふらと左右に揺れていた。
現代魔法師の彼らは僕に気が付いていない。
これが幹比古くんや烈くん、八雲さんのような古式魔法師ならすぐ気が付いただろうし、勘の鋭い達也くんも、たぶん気が付いただろう。
僕は、今、いわゆる幽体離脱をしている。
『魔法』が科学として現実になったこの時代、『幽体』は精神と肉体をつなぐ霊質で作られた、肉体と同じ形をした情報体、と定義されている。
吸血鬼騒動の時、レオくんが『パラサイト』にこの『幽体』を奪われ一時入院をしていた。『幽体』は生気や生命力の塊だと幹比古くんが解説していた。
僕が今、素っ裸なのはそのせいだと思われる。
僕も『パラサイト』に体内のサイオンを吸い取られた。『幽体』は『魂』を包む膜、つまりは『精神』や『意識』と同じで、言葉や定義としては別のものだけど、サイオンやプシオンで構成されている以上、多くの部分で同一のものである。
『幽体』は、純粋な物質なのだから、見ることや思考することはできない。
僕が見ている景色は、『幽体』の一部が肉体とつながっていて、脳が夢として再構築しているんだ。
現代科学的で証明できるとなれば、僕の心も落ち着いてくる。
『老化魔法・終』を使用したことで、僕の肉体は、かなり不安定になっている。
幽体離脱した僕の『幽体』は、重力のくびきから解放されていて、文字通り身軽だけど、『幽体』が抜け出て、肉体の方は防御力と生命力が極端に低下している。
さっきまで感じていた魂を殴られるような頭痛は、『幽体』が抜け出て感じなくなっている。痛いのはいやだけど、早く戻らなくちゃ。
…ん?誰かが家を見ている。
視線を感じた。
僕の自宅は、警護だけでなく、響子さんのセキュリティで周囲を警戒しているし、八雲さんのテリトリーでもあるから不審な人物は、長期間滞在できない。
それでも、企業や各国の調査員がうろついているそうだ。魔法師のスパイは、逆に簡単に見つけられるそうで、ひょいひょい結界に入り込める八雲さんや周公瑾さんが異常な…
僕の家を見張っているのではなく、今の僕を見つめている。
そう、感じる。
視線の方に意識を向けると、『幽体』が容易く壁をすり抜けた。
低く差してくる月光に照らされた僕の薄い裸体は二フラムで簡単に消えそうだ。
このあたりは高級住宅街なので、夜はいつも静かだ。街灯や家屋から漏れる光を見下ろす。
視線が、僕の『幽体』を引き続き見つめて、追っている。
街灯の当たらないアセビとイチイの生垣に囲まれた信号のない交差点に、少女が立っていた。短い黒髪に月光が滑り、濡れたような光を放っている。
妖…魔性、夜の闇を呼吸している人にならざるモノの雰囲気。
路と路が交わる辻は、魔性の通り路だよって、あの八雲さんがいたら言いそうだ。
少女が上目遣いに僕の背後の月を…いや、確実に、夜の闇が凝った大きな瞳で、訴えかける様に僕を見つめている。
…あの子は、数日前、レストラン会議の帰り、駅前で僕を見つめていた赤い風船の女の子だ。
今夜は眼鏡をかけていない。黒く大きな瞳。でも、どこか生気がなく、ガラス玉のような瞳だ。
真冬にはそぐわないリボンボタンが可愛い白いチェックのワンピースを着ている。それよりも白い、さえざえとした手足が、ひんやりとした夜気に溶けそうだ。
暗い風が吹いて、少女の髪を揺らす。
僕はすうっと、その少女の前に移動した。月光の下、白い女の子と向かい合う。
少女は僕をじっと見ている。
「幽霊」
少女が呟いた。
僕が見えている。
確かに今の僕は幽霊みたいなものだけど、その少女も茫漠として存在感が薄い。
「裸の幽霊」
寒さで口が悴んでいるのか、少女は片言で話す。
声が聞こえるように感じるのは、相手の唇の動きを見て、僕の脳が再生しているせいだから、本当の声はわからない。
僕の方は、声どころか物音一つ出せない。
「幽霊のおちんちん」
どっ、どこを見ているか、あなたも元は男でしょうが!
少女の顔を見る。こんな顔だったかな?先日見た時の顔はよく思い出せない。
少女が左手のひらをすうっと僕に差し出した。闇の中から僕を誘っている。握り返したらいいのだろうか。
おいでおいでするようにひらひら白い手が揺れる。
君は本当に何者なのかと胸の内で尋ねる。その手を握った刹那、僕の『幽体』は肉体から引っこ抜かれるのでは?
そう逡巡した時、少女の背後から、電動カーのヘッドライトが、僕たちを貫いた。
少女の身体は、まるでいなかったように光に消えた。
道の向こうに目を凝らしても、濃い闇だけがあった。
『奇門遁甲』か…。
どうやら、彼…少女は僕との接触を試みようとしているけど、警備が厳重で近づけず、入れ物である肉体と昇仙した『意識』がまだ馴染んでいないのかもしれない。
電動カーは一瞬減速して、そのまま僕たちのいた場所を走りすぎた。法定速度ギリギリで走り去るあのセダンは響子さんの電脳マシンだ。
響子さんの運転姿をイメージした瞬間、僕の『幽体』は肉体に戻された。
急激に僕は重力に引きずり込まれる。身体が重たい。
忘れていた呼吸を思い出したように息を吸って、耐えられない不快感も思いだす。
頭が殴られているように痛む。
急に目覚めてせき込む僕に、警備の2人が慌て出した。
「だっ大丈夫です。ちょっと唾液を誤嚥してしまって…げほっ」
医師免許を持つ警護が僕の背中をさする。
玄関ドアが静かに開けられた。響子さんが帰宅したんだ。響子さんは、僕の咳を聞いて、小走りでリビングに入って来た。
「久君?」
「響子さん、おかえりなさい」
僕は努めて平気を装う。警護がほっと息を吐いた。
「ありがとうございました」
「いえ、大事に至らず、こちらも安心しました。おそらく、心労と過労が重なったものと思われますので、お大事にしてください。四葉久殿はこの国にとって大事な方ですから」
玄関で響子さんが護衛と話している。
警護の2人が出ていく。警護達は響子さんが僕の家に住んでいることに特に疑問を挟まない。十師族の複雑さは彼らも知っているし、余計な詮索は身の破滅になるからだ。なにしろ相手は四葉と五輪と九島に戦略級魔法師だ。
響子さんが廊下で、澪さんと光宣くんに電話をしていた。その話声を聞きながら僕は、ソファに身を沈めて、ぐったりしている。
僕の病状は、多くの人に不安を与えるから、他人の前では努めて元気を装う。
響子さんには今さら取り繕った僕を見せても意味がない。
頭痛と全身の気だるさは、まだ酷い。
僕の隣に座った響子さんが僕を抱きしめる。
「澪さんと光宣くんには、過労で倒れたって連絡しておいたわ」
響子さんの豊かな胸に顔を沈めて、お母様に抱かれた時の恍惚感とは違う、安心感に心が落ち着く。
澪さんと響子さんが不在な時、いつも体調を崩す。
やっぱり2人がいないと僕はダメなんだなぁ、って思う。それに、思い出すと、やはり恐怖が浮かんでくる。
「響子さん」
「ん」
響子さんは僕を抱きしめたまま、じっとしている。
「僕、一瞬、死んでたよ」
「そう」
細い背中がかすかに震えた。不安と脅えが体温とともに伝わって来る。
「赤い月に雲がかかってた。町の光や、暗闇や、女の子とか、変な夢を見ていた。記憶の混乱なのかよくわからないけど」
響子さんの上下の歯がかちかちと鳴っている。
響子さんの身体から汗の香りがする。室温のせいだけではない。
一人でいると、そのまま闇に落ちて戻って来られない気持ちになる。それは僕だけでなく、響子さんも同じ気持ちだ…と思う。
「響子さん、結婚式を挙げよう」
「ん」
「秘密の結婚式」
澪さんとは公私ともに認められた存在で、4月1日に結婚式も行われる。
雲はつねに形を変える。
人の心も風にひらひらと舞う鳥の羽のように、その時その時で色をかえるのだろうか。
響子さんとの関係は不確かで、不安定で…
「響子さんの存在を、僕の中でもっと確かにしたい。嫌ならやめるよ。響子さんを縛り付けたくないし」
「嫌じゃないわよ」
「今後、何が起きるかわからない。一日でも後悔したくない。響子さんが大好きだもの、他の誰にもとられたくない」
不安定な僕は、いつどうなるかわからない。僕はあまり欲望が強いほうじゃないから、きちんと言葉にする。
抱き合ったままだから、響子さんの表情はわからない。ひゅうって息が漏れてる。涙をこらえているみたいだ。
大事な人を失う痛みを響子さんは知っている。
こんな素敵な人をもう泣かせたくない。
「もう、この手を絶対離さないから」
強く抱きしめられる。
「プロポーズされちゃったわね」
「何度もしているよ?」
「私一人に対してははじめてよ」
でも、声は嬉しそうだ。
恋愛がわからない僕は、何度も言葉にしている。でも、どこかで、澪さんと響子さんを平等に扱わないとって思いがあるせいか、2人一緒にって言う時が多いんだ。
「そうだったかな。それで返事は?」
「イエスよ」
照れながらも、即答してくれた!
言葉は呪であり、呪は縛りだよって、やっぱりこれも八雲さんなら言いそうだけど、言葉にすることが大事だよね。
平和は戦争と戦争の間の準備期間で、テロの起きる日常が平和かはともかく、僕の知らない場所で何かしら次の事の準備が行われている。
後悔しないよう、その日を、2人と一緒の時間を大事にしないと。そして、響子さんの心の奥に眠る、亡くなった婚約者の影を僕が追い出すんだ!
夜道を行く心細さも、2人なら乗り越えられる。
長い時間を傍にいてくれる人がいるって素敵なことだよね。
そのあと、光宣くんにお礼とお詫びの電話をして、予定を変更して押っ取り刀で帰宅した澪さんと家族会議を開いた。
僕が倒れるのはいつも一人の時だから、これからは絶対に一人にしない事。
どうしても一人になる時は、真夜お母様の家に行くか、平日だとそれは難しいので、香澄さんに自宅に来てもらう、香澄さんには、僕から学校で話をする事になった。
香澄さんの同居がまた一歩確定に近づいてしまった。
実際は澪さんが不在な日はほとんどないので、これまで以上に動きにくくなった事は否定できない。
まぁ、僕は正義の味方じゃないので、自分から火中の栗を拾いに行く事なんてないんだけど。
明日は将輝くんが一高に通いだすし、僕の体調も明日までに回復するといいな。
これ以上勉強が遅れると、お母様に失望されちゃうし、四葉が軽く見られては、次期当主である深雪さんの評価にまで響いてしまう。
そうなったら達也くんに殺されちゃう。
もう死ぬのはかんべんだよ。
護るものは増え、色々なしがらみに囚われていく。
これこそが縛り、『呪』だ。
これで、澪と響子と真夜の立場が確定しました。
千葉長兄が傀儡になった遠因になった自分に罪悪感を抱く響子さんのフォローもばっちりです。
それにしても千葉長兄を含めた、魔法科高校の警察の役立たずぶりは半端ないですね。
役に立たないだけでなく、国防軍に踊らされ、テロの犯人には利用され…
千葉長兄は、エリカを本人にその気がなかったにせよいじめ、父と姉の態度にも気が付かず、
次兄より剣の腕が落ちると言われ、妹には嫌われ、部下の変化にも気が付かず、
響子とはほとんど無縁で終わりながらも、響子の心に後悔の気持ちを残す。
もっと、他人に敏感にならないといけません…手遅れですが。
原作も少し進みましたし、香澄と真由美の話を絡めつつ、
原作のストーリーに進めます。
ではまた、次回。