遊戯王が当たり前?→ならプロデュエリストになる!   作:v!sion

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第百二十三話 Collying Glass & Gunlly’s Vice

2010年6月2日

1人の女性が月下に降りた

齢は21

日本で学生の身であったが、諸々の処理を終えたその女性はその日から国籍を月下に変える

 

故郷で両親に別れを告げ

1人で慎ましく暮らしていた部屋を空け

通っていた大学の退学書類をまとめた

次にS・D・T(スペシャル・デュエリスト・チ-ム)との契約書やらと、ここ最近は紙と睨めっこする日々が続いていた

 

だが月下に来てもしばらくそれが続いた

改名手続きはパスしたが、それでも適正テストやらで指が疲れてしまったものだ

 

 

「”神瑞希唯一(かんみずきゆい)”、君は今日から...」

 

 

彼女に任せられた仕事は月下唯一の事務業務

月下開発資金の記入や、月下国民の収入、税金、はたまた他業務の稟議書の作成など幅広い仕事だった

 

それ故に人手が足りていないからか、学生時代に習得していた簿記資格の存在からか唯一は月下に来てすぐに配属となった

比較的何事もスムーズに事が進んでいた

元々一人暮らしの経験があったためか、不安は残りつつも月下の生活に馴染むのに時間はさほど掛からなかった

 

 

 

2011年5月3日

この頃の彼女は多忙だった

突如現れたLL∵Huna=E-t0S0n(ルナイトサン)の言う国との繋がりを求める月下本部にやるべき事が増えてしまったため、抱えきれなくなった業務が彼女達の元へ流れてきたのだ

 

しかし月下の国内放送を見た彼女は、それに反対の意見を持つこと無く勤しんだ

確かに汗の流れるような日々だった

しかしやっと掴んだ新たな生活とやりがいの為に愚痴を零さないように生きた

何度も挫けそうになったが、その日彼女の元に訪れた意外な来客がまた活動力を与えたくれたからだ

 

 

「唯一、君にお客さんだよ」

 

 

上司にあたる男性に名を呼ばれると、唯一は作業の手を止めた

皆が多忙に振り回される中自分だけ席を外すのは気が引けたが、そんな事を嫌味に指摘するような人間はこの中に居ない

 

軽く頭を下げれば気にするなと送ってくれる

戻ってきた時に再開しやすいようメモを走り書きしておくと彼女は直ぐに応接間へ向かった

 

 

「お待たせしま...っ!」

 

 

簡易的な一室に入ると、直ぐに誰か分かった

琴乃唯衣

神奈川県警巡査の女性だったが、確か日本で最後に会った時にはS・D・T(スペシャル・デュエリスト・チ-ム)に身を置いていたはずだ

 

詳しい経緯は教えてくれなかったが、日本で唯一を救う為に自ら動いたのは確か

恩人と言うのに値する人だ

その恩人が今目の前にいるのだ

 

 

「久しぶりね、唯一」

 

「こ、琴乃...さん?」

 

「1年ぐらいかしら...あまり変わらないようで良かったわ」

 

 

当たり障り無い会話をした

琴乃はあれからの日本の事を

サイブートの倒産や、自身がS・D・T(スペシャル・デュエリスト・チ-ム)の巡査に正式に身を置いた事

唯一はいままでの月下の事を

自身の今の仕事や、LL∵Huna=E-t0S0n(ルナイトサン)の事を

 

 

「えぇっ!何よそんな話しらないわ。さっきまで快凪さんと会ってたのに...おかしいわね」

 

「そうなんですか?」

 

「えぇ、化野さんの...あぁ私の上司ね、その人の計らいで月下の定期報告受理を私に行かせてくれたの。だから今こうして月下にいるのだけれど...そんな報告は無かったわね」

 

「...その定期報告と言うのはどれくらいの間隔で?」

 

「一月に一度だけれど?」

 

 

話の食い違いに亀裂が入った瞬間だった

月下がLL∵Huna=E-t0S0n(ルナイトサン)を初めて知ったのは今から二月も前の話

琴乃の言う通りならそれから2度の定期報告があるはずなのだが、S・D・T(スペシャル・デュエリスト・チ-ム)が知らないあたり今回だけでなく前回の報告でも伝えていなかった事になる

 

まるで隠蔽しているかのようだ

 

 

「...まぁいいわ、お仕事の邪魔しちゃって悪かったわね、また来るわ」

 

「あっ、はい...また」

 

 

時計を見ると少し話し過ぎたと考えさせられる程針が動いていた。

それに気付いた琴乃は暇を決意し、短く言葉を残してその場を去った

 

 

 

*

 

 

 

「...」

 

 

やはり解せなかった

琴乃の階級は高くは無いが決して下っ端では無い

化野に引っ張られたというのもあるが、S・D・T(スペシャル・デュエリスト・チ-ム)では巡査を担い、永世界の事も把握し月下に直接足を運ぶまでにある

 

これ以上に無い極秘情報を知っているのだ

今更月下最高管理者に何か隠し事をされる筋合いも無いはずなのだ

それ故に快凪の報告書が薄っぺらく感じてしまった

 

唯一と別れてからもその事ばかりが頭に募り、半ば無意識の内に月下本部まで足を運んでいた

予定では既に日本行きのトラックに乗り込んでいるはずだったのだが、残業を自ら作り上げてしまったものだ

 

 

S・D・T(スペシャル・デュエリスト・チ-ム)巡査琴乃唯衣です。報告書についてもう一度快凪最高責任者とお話がしたく参りました」

 

「かしこまりました。少々お待ちください」

 

 

月下の本部の中でも限られた人間しか足を運ばないエリア。そこの受付に静かに座っていた若いスーツの男性に要件を伝えれば直ぐに話をつけてくれた

 

同じS・D・T(スペシャル・デュエリスト・チ-ム)の刑事

話はしやすく、まだ二回目の月下来訪だが慣れたものだ

 

何やら手続きに勤しんでいるが、手持ちぶたさが気になり、琴乃はとある質問を投げかけようとした

LL∵Huna=E-t0S0n(ルナイトサン)について彼は知っているのだろうか、と

 

 

「ねぇ、貴方」

 

「なんでしょう」

 

「貴方は月下の...あの」

 

 

顔をあげずに男は質問に応じようとするが、その質問は琴乃の方から取りやめた

目的の人物が姿を現したからだ

 

 

「よぉ、眼鏡」

 

「快凪さん、琴乃ですよ」

 

「いいじゃねぇか眼鏡の刑事よ」

 

 

眼鏡の刑事

琴乃にとってあまり嬉しくない日本でのあだ名だ

その名で呼ぶ人物は月下には快凪しか存在しない

 

茶化すような口調で快凪はその名を使うが、日本で警察をやっていた頃の馴染みとは言えるだろうか

軽い挨拶を終えると琴乃は、快凪に案内され奥の部屋へと進んだ

小一時間前にも入った部屋だ

 

 

「それで、もう俺に会いたくなって戻ってきたのか?」

 

「そうですね、それと1つお伺いしたい事があって」

 

「...なんだ?」

 

 

何か深刻そう表情に移ろうと、快凪は琴乃と向き合うように座った

快凪は昔からこういう男だった

普段はマイペースでふざけた事を抜かすのに、オンオフの切り替えが凄まじく早い

 

部下を尊重する故に茶化すのだろう。実力も申し分なく、日本での刑事時代も安山と並んで競いたっていた程だ

だからこそ月下に身を置き、全てを管理していると話を聞いた時も不安は無かった

誰にも無かった

 

 

「...LL∵Huna=E-t0S0n(ルナイトサン)についての報告がありませんでした」

 

「ん?...あぁ、報告書になかったか?おかしいな...」

 

「ただの記入漏れ...でしょうか」

 

「そう...だな...いや、こんな大きな事を書き忘れるはずが...」

 

 

歯切れ悪く快凪は狼狽えながら同じ内容が記された紙を手に取り検め始めた

無論琴乃が持つものと同じなのだからそこにLL∵Huna=E-t0S0n(ルナイトサン)の事は書かれていない

 

それを確認すると快凪は唸り始めた

こんな些細なミスをする男ではないと分かっている琴乃も不安そうに眺めていた

 

 

「あぁ...申し訳ない、俺のミスだ」

 

「分かりました。でしたら新しいものを...」

 

「あぁ...」

 

「...らしくないですね快凪さん。貴方がこんなミスを...お疲れ様でしょうか?」

 

「あぁ...」

 

「...」

 

「あぁ...」

 

「あの、快凪さん?」

 

「あぁ...っ!」

 

 

壊れた傀儡にでもなりさがったのか、快凪の様子はおかしかった

琴乃が何を聞いても呻き声のようなものしか発しない

 

だが突如何かを思い出したかのように声が上ずった

立ち上がり、琴乃を見下ろす形で突然流暢に語りだした

 

 

「そうだ、今日の21時に俺はクーデターを起こすんだ」

 

「...はぁ!?」

 

「日本には秘密裏にな、LL∵Huna=E-t0S0n(ルナイトサン)と手を組んでな、やるんだよ。だから日本には報告しないで隠してたんだよ!そうだ思いだしたよ!」

 

「ちょっちょっと待ってください!」

 

LL∵Huna=E-t0S0n(ルナイトサン)はな、月下の王家と俺を使って日本と月下をぶつけるつもりなんだよ。俺と王家の記憶を使ってな。だから俺はLL∵Huna=E-t0S0n(ルナイトサン)の言う通り月下を支配して...ゆくゆくは日本も」

 

「...面白くないジョークですよ」

 

 

気付かぬうちに琴乃は快凪から距離を取っていた

それは心のどこかで快凪の戯言が本当の事だと理解していたからだろうか

 

目だ

口調も内容も突飛なものだが目が本気だった

クーデターの事よりも、快凪の様子がおかしい事を日本に伝えるべきだ

そう判断した琴乃はなるべく刺激しないように去ろうと決意した

 

 

「...分かりましたよ、LL∵Huna=E-t0S0n(ルナイトサン)の事は日本に報告しないでおくので...わ、私はもう日本に戻りますね」

 

 

認知症患者に話を合わせる時、恐らく同じ心境で接するだろう

そんな意味の無い事を考えてながら快凪に背を向けあゆみ始めるが、琴乃の記憶はそこで途絶えた

 

 

 

ーーー

ーー

 

 

 

2011年5月3日21時

まだその日の仕事は終えていないが、唯一の女性という事からか周りの職員が気を利かさて先に上がらせてくれた

それでも帰りは随分と遅くなってしまった

普段よりも4時間遅れての帰路は暗く、寂しげなものだが特別気にはならなかった

その瞬間までは

 

 

 

 

ドゴォッ!!

 

 

 

聞いた事も無い轟音が響くが、何故か月下を囲う壁が破損した音だと分かった

どこか工事でもしていただろうか

そんな曖昧な感想しか湧き出てこないが、それも次に目に入ったものが現実を知らしめた

 

 

「...えっ」

 

 

真っ黒なロングコートを纏う恐らく男性の集団が暴れ回っていた

とある男は重機を乗りこなし目につくもの全てを破壊

とある男は建物内に侵入し、叫び声を上げる女性の髪を掴み外へ連れ出す

 

何が起こっているのだろうか

平和だと思っていた月下に似合わない出来事に脳が処理を諦め始めていた

 

 

 

 

*

 

 

 

「うっ...うぅん...」

 

 

朧気な眠気に刺す爆音で琴乃は目を覚ました

嫌に肌寒い

くしゃみ1つすると、自分が屋外で眠っていた事に気が付いた

 

コンクリートの上で雑魚寝だ

何故そんなことをしていたのだろうかと一先ず時間を確認すると、唯一と別れてから6時間も経過していた

そこで思い出した

 

21時

快凪の妄言どおりなら今クーデターが起こっているはずだ

 

 

「...何よこれ」

 

 

何処かの屋上にいるようだ

風の吹く方へ少し歩めば月下の街並みが見下ろせた

 

琴乃は昼過ぎに月下に来たため、月下夜の街並みは見た事がなかった

が、それとは関係無しに見た事のない景色が拡がっているのだ

 

闇夜の中動き回る漆黒の衣を纏う集団

逃げ惑う恐らく月下の民

そして破壊の限りを尽くされ、瓦礫と化した建物から煙が上がっている

幸いにも火災には繋がっていないようだとぼんやり感想を浮かべると、また別の所で爆音が轟いた

溜息が出るようだが、その付近から細い火が上がり始めた

 

そこでやっと琴乃の理解が追いついた

快凪の言葉は妄言でも虚言でも戯言でも無かった

月下は今この瞬間蹂躙されているのだ

 

その刹那答え合わせをするかのように快凪の声が耳に届いた

 

 

「目が覚めたか?」

 

「快凪...っ!」

 

 

今度の琴乃は早かった

振り返るとほぼ同時にコンクリートを蹴飛ばし快凪の元へ距離を詰めた

 

その快凪は特別何かする訳でもなくただ琴乃の動きを目で追うだけ

すると勢いを纏った琴乃の拳が快凪の頬目掛けて飛翔した

確かに命中するはずの間合いだった

しかし快凪に手首を掴まれる感触がしたかと思えば、その勢いのまま琴乃は宙に舞った

受身などとれるはずも無い

ただ琴乃の攻撃は虚しく無に帰し、逆に投げ飛ばされてしまったのだ

 

 

「ぐっ!」

 

「はしゃぐなよ、落ち着け」

 

 

冗談でも言うようなイタズラな笑顔で快凪は答える

体格差が開いているのもあるが、たったこれだけのやり取りで琴乃は快凪に絶対適わない事を悟った

 

まだ充分すぎる余力を持っているのだ

肉弾戦では届きはしない

 

 

「まさか本当にこんな事を...っ!どうして!」

 

「もう忘れたのか?LL∵Huna=E-t0S0n(ルナイトサン)が月下と日本を支配するためだよ。これはまだ始まりに過ぎないんだよ」

 

「このっ!」

 

 

見下す快凪に再び飛び付くが、今度は触れる事すら出来なかった

必要最低限の動きで交わされてしまった

大地に感触を味わうが早く、3度目の突撃に以降するがやはり届かない

 

終いにはがら空きの右頬に快凪の拳がくい込んだ

鈍く痛みよりも違和感を覚えるような快凪の拳は凄まじく、体が動かないと理解した後から激痛が走った

 

スレッジハンマーで殴られたような気分だ

やはり適うはずも無いのかと諦めかけた時、快凪は無理やり琴乃を掴み上げると、破壊されつつある月下の街並みが見えるように首を捕らえた

 

 

「がっ...っ!」

 

「確か...あの辺のはずだ」

 

 

左腕が琴乃の細く柔らかい首にしっかりと喰いこんでいる。息苦しさよりも痛みが強く、快凪が耳元で囁いた内容も、指さしの動作が無ければ理解出来ない程だった

 

何かがある何処かを指さしている

なぞる様に目で追って行くと、唯一の勤務地から少し離れた位置だと分かった

その辺に随分と人が集まっていた

一体何をしているかなど、眼鏡の視力では確認できないほど離れていた

 

 

「そう言えばな、お前が大事にしてる神瑞希って女の子がいるだろ?」

 

「なっ...なによ...っ!」

 

「あの子が働いてる...いや、S・D・T(スペシャル・デュエリスト・チ-ム)が出入りする様な箇所全てには盗聴器を仕掛けてたんだよ。だからお前がLL∵Huna=E-t0S0n(ルナイトサン)の事を知っちまった事も知ってた」

 

「だから...なによっ!」

 

「だからあの子はこんな目に合っちまうんだよな」

 

 

空いている右手で懐から何かを取りだし、琴乃に見えるように掲げた

それは説明なしではなんの器具なのか分からないそれだが、盗聴器のワードからそれに関する物だと辛うじて理解出来た

 

随分とボタンの多い機械だ

器用に片手で何やら操作するとまずノイズが響いた

するとその機械を琴乃を縊ようとする左手に持ち直し、再び空いた右手でまたあの付近を指さした

 

 

《ザザッ..ザ...やっ...ザァッ...やめて...さい!》

 

 

女性の悲鳴声

雑音にまみれ聞き取りにくいが、琴乃が聞き間違えるはずの無い声だった

 

唯一だ

神瑞希唯一の悲鳴だった

 

 

「まっ...まさか!」

 

「おっと、こんな物も用意したんだが」

 

 

そう言って快凪が取り出したのは誰もが一度は見た事のある物

望遠鏡だった

 

特別何かある訳でもなく、日本でも普通に手に入るようなものだ

だが今程憎いと思った事は無い

快凪にあてがわれたスコープには、複数人から暴行を受ける半裸の唯一が写ったからだ

 

 

「あの子もいつも通りに過ごしていればここまではされなかっただろうに...」

 

「やめろ!こんな事早くやめなさい!」

 

 

全身の筋肉を動かしているはずだが、快凪の捕縛に全く響はしない

それどころか首にかかる左腕の力が増した様にも感じる

 

だがもはや痛みも苦しみも無かった

あの惨状の中心で慰め者と化している唯一に比べれば

 

 

《ガッ...ザ...全く活きがい...ザッ...もう全部...ひん剥くか?》

 

《.ザッ..いやぁっ!》

 

「やめ...もう辞めて...こんな事!あの子はこれ以上に無いほど苦しんだのよ!?」

 

 

尚も機械を経て耳に届く唯一の悲痛な声に琴乃も心が折れかけていた

日本ではサイブートの悪行に指をくわえるだけ

唯一の月下行きも結局は本人に一任してしまった

 

そして何よりも、その過去が今の惨状に繋がった

やはり琴乃の行いに正しかった事は無かった

 

サイブート会長もS・D・T(スペシャル・デュエリスト・チ-ム)の権限で捉えただけ

その後の爪痕のケアも出来はしなかった

今回も唯一に会いたいと私情で動いたばかりに月下とLL∵Huna=E-t0S0n(ルナイトサン)のいざこざに巻き込まれたのだ

 

全ては人一倍強い正義感によるもの

歪んだ正義感だ

 

 

 

 

 

ーーー

ーー

 

 

2011年5月4日6時

 

 

「泊まりの予定は無かったはずだが」

 

 

あの悲劇から翌日

琴乃唯衣は無事日本に帰還した

 

厳密には締められた首は痛むし、何よりも心が荒んでしまっていた

それでも忌々しき月下から離れた

やろうと思えばこのまま日本で彼女自身の日常に戻る事も、快凪やLL∵Huna=E-t0S0n(ルナイトサン)のクーデターを告発し、戦う事も出来る

 

だが後者には大きな犠牲を払う事になると分かっていた

その中に唯一も含まれている

 

 

 

《Glay》「眼鏡、お前は日本に帰るといい。後はお前の自由だ。だがあの子は違う...分かっているな?」《/glay》

 

 

 

月下最後快凪の言葉だ

要約すれば唯一は人質となってしまったということだ

 

あれだけの事を見てしまえば、人質という事単語の重みは増すだろう

 

 

「...おい、どうした」

 

 

彼女の直上にあたる化野の言葉で我に返った

本来であれば昨日の内に帰還し報告書を手渡すのだったため、予定に無い帰還の遅れに化野から苦言を受けている所だった

 

当たり障りない謝罪で交わすと、快凪による隠蔽だらけの報告書を琴乃は手渡した

 

 

「...今回も特にねぇな。下がれ」

 

「はい」

 

 

初めはパラパラと流し読みし、琴乃に下がるよう命じた後で丁寧に読み直し始めた

化野が報告書の3ページ目に差し掛かったあたり、彼は未だデスクの前から離れようとしない無表情の琴乃に気が付いた

 

 

「なんだ、まだ何かあるのか」

 

「...化野さん」

 

 

琴乃が決意した日

それは生まれてから初めてまともに口にした我儘だった

 

 

 

ーーー

ーー

 

 

 

2011年5月14日

 

 

「正直意外だったよ」

 

 

あれから数日後

琴乃はまたも月下にいた

 

定期報告を受け取りに来た訳では無い

これから定期報告を送る側になるのだ

 

 

S・D・T(スペシャル・デュエリスト・チ-ム)刑事課巡査琴乃唯衣、お前は今日からS・D・T(スペシャル・デュエリスト・チ-ム)月下管理課の...めんどくせぇな、俺の部下だ。よろしくな」

 

「...」

 

 

琴乃が化野に申し出たのは課の異動

異例も異例だが、永世界の事を知る人間であり、何よりも化野の直属部下という事と、快凪との接点から比較的スムーズに話が進んだ

 

通常ならあまり有り得る話では無いが、通常では無い組織だ。少し時間を要してしまったが、琴乃は目的である月下潜入を果たした

 

 

「それで、何が目的なんだ?」

 

「...1つだけよ」

 

 

月下国内はより快凪の目が光る

日本で準備したのは月下に行くためのものばかりであり、クーデターに反発するためのものは無かった

 

彼女は身一つで敵国へやってきたという事だ

目的を果たすために、戦う必要が無いからだ

 

 

「唯一は何処にいるの」

 

「彼女なら罰名(シンメイ)処理を終えて...本部で召使いでもやってるんじゃないか?」

 

罰名(シンメイ)...?」

 

 

突飛な単語に疑問を隠さなかった琴乃に対し、快凪は楽しそうに自らの政策について語った

個性を封じる罰名(シンメイ)

 

聞いていて楽しいはずもなく、どれだけ彼女から奪えば気が済むのか疑問よりも怒りが勝った

だが今はそれで済ますしかない

琴乃の目的はまだ果たせていないのだ

 

 

「勿論だがお前にも罰名(シンメイ)は必要だ。見てろ、特別にお前の新しい名前が決まる瞬間を見せてやるよ」

 

 

そこから案内されたのは随分と遠く感じる別の部屋だった。何度も扉を開き、昇り降りも同じ数こなした

最後の扉では何か数字を入力していたが、そこまで厳重に人を拒む必要がある一室なのか疑問に思える

 

加えて快凪はその番号を口ずさみながら打ち込んでいた。琴乃に筒抜けと言うのも些かセキュリティーが矛盾している

 

 

「もうお前がここに来る事は無いしな、別に困らねぇよ」

 

 

普段もあまり好きになれない快凪の性格だが、今で憎き思いすら抱いている

だがまだ辛抱だ

もしも全てが無事に解決したらこの男の喉仏を噛みちぎってしまえばいいだけだ

 

重々しい扉の先にはこれまた巨大な機械が鎮座していた

これがその罰名(シンメイ)を作るためのものなのかと初めは思考したが、それにしては機能が有り余る規模だ

 

何時だか耳にした月下全てを管理するメインコンピューターという物だろう

それが琴乃の罰名(シンメイ)を決める

心底どうでもいい事だ

 

降月(おりげつ)日は5月14日。本名琴乃唯衣の新たな人生スタートの瞬間だ!」

 

 

特別説明は無かったが降月(おりげつ)の意味は分かった。要は月下に戸籍を持つことだろう

やはりどうでもいい事だ

 

 

「出たようだ、ほう?」

 

 

1枚の厚紙が排出される

そこには様々な情報が記されており、月下で通用する身分証明書のようなものらしい

だがそこには琴乃唯衣の名前は無い

 

カタカナ3文字の、ただ他者と区別するためだけの文字の羅列があった

 

 

「”グラス”...ははっ!眼鏡の刑事にはピッタリの罰名(シンメイ)じゃないか!」

 

「...」

 

 

とにかく罰名(シンメイ)手続きは終えた

それ以上でもそれ以下でも無いが、彼女の27年間の歴史が無に期した瞬間だった

 

琴乃唯衣がグラスになった悪しき日だ

 

 

 

ーーー

ーー

 

 

 

 

「ヒグッ...ッ...」

 

 

1人の可憐な女性が静かに咽び泣いていた

だが彼女が居る一室に悲観は似合わなかった

 

白を基調とした汚れ1つない壁

天井から伸びるささやかな金色が主張するシャンデリア

小難しいタイトルの本が美しく整列する本棚

どんな作用が有るかも分からないミストを噴出する機械

 

しかし肌触りの良いベッドは乱れ汚れていた

誰のものかも分からない汗や体液で

 

 

「なんで.....どう....どうして..グスツ..」

 

 

壊れた傀儡のように女性は宛先のない疑問ばかりを口にする

一目で暴行を受けた事は明らかであり、また彼女は過去にも似た経験を持っていた

 

金、名声、地位

それらをまとめて力と呼ぶのなら、その男は力を持っていた

その力から逃れられなかった1年前日本にいた彼女は、性のはけ口として男の慰め者となった

 

今も同じだ

厳密には今彼女を貪るのは月下の王家であり、抵抗は数倍も難しくなった

まだ若い当主の息子が思うままに彼女の女性らしさを主食にしているのだ

 

 

「...グスッ」

 

 

月下で新たな人生を始めたはずだった

それなのに捨てるつもりもなかった名前まで捨て、日本と同じ、それ以上の辱めを受けるはめになった

 

もう何がなんだか分からない

あの時は一歩遅れて琴乃が助けてくれたと、最早昔話のように記憶していた

 

 

「唯一!」

 

 

誰かが誰かの名前を叫んだ

唯一とは誰のことだろうか

その名前を聞いた事はある様な気もしないではないが、その声には聞き覚えが確かにあった

 

 

「唯一...っ!また...遅かったのね...」

 

「こと...の.....さん?」 

 

「そうよ...」

 

 

助けに来たのよ

そう口走りそうになってしまったが、そんな恩着せがましく無責任な言葉を吐くわけにはいかない

 

考えてもみればいつもそうだった

己の真っ直ぐで歪んだ正義感で誰かを救えた事があったのだろうか

 

 

「唯一...本当にごめんなさい...私はいつも...」

 

「...違う」

 

 

唯一と呼ばれた女性は力なく起き上がると、乱れた前髪が彼女の表情を隠した

どこを見ているのかと分からない虚ろな瞳は実に痛々しく、琴乃はいつの間にか途方に暮れた涙を流していた

 

本人が泣いていないというのに皮肉にも思える

 

 

「私は...ガンリ...神瑞希唯一の名前はもう無い...」

 

「あぁ...唯一...」

 

「だからガンリなの!何しに来たんだよ琴乃さん!」

 

 

実の娘に反抗期が訪れたとしてもここまでは苦しくはないだろう

前はあんなに素直で純粋で...

いや、それは初めてであったユイの記憶だった

 

目の前のユイは全てが手遅れだったのだ

S・D・T(スペシャル・デュエリスト・チ-ム)という力を手にしやっと罪をぶつけたのも唯一が純血を失った後

そして今に繋がる

今度こそ過去とは違う選択をするためにここまで来たのだ

 

 

「私もよ」

 

「...は?」

 

「私も琴乃じゃない。グラス、私の罰名(シンメイ)はグラスよ」

 

「......まさか」

 

「そう、私も降月を「どうして!」

 

 

やっと感情らしいものを顕にした

ガンリに続いてグラスまでもが月下に降りたのだ

ガンリにとっては意味がわからない選択だ

 

 

「なんで琴乃さんまで!どうして...っ!」

 

「貴女のためよ」

 

「...何が」

 

 

グラスは日本で南のユイを助けるために自ら必要以上に動き、結局上層部にもみ消されてしまった

今思えば堅実に動けば手遅れにならなかったかもしれない

神瑞希のユイの時もそうだ

化野とS・D・T(スペシャル・デュエリスト・チ-ム)の後ろ盾を手にしてからではやはり手遅れだった

自分自身の力や思想では足りない

一度はそうも考え諦めたが、そうでは無い

 

どちらも最後まで自分自身の魂のままに動かなかったのだ

あれがやりたいからこれをやる

それが邪魔をするから他者に紆余曲折する

それが間違いだったのだ

最後の正解に繋がるとは分からないが、後悔を残さないのはこれしか無かった

 

 

「貴女を助けたいと思った時、最後まで出来るのは共に堕ちる事だけだったの...私の意思と力ではこれしか出来ない...ごめんなさい」

 

「...」

 

 

ガンリは自分の悪運と運命を呪っていた

夢見て上京したのが悪かったのか

サイブートと繋がりのある秀皇に入学したのが悪かったのか

無理やりにでも拒まずに慰め者となったのが悪かったのか

それらを無かったことにしたいと願い、月下に降りたのがいけなかったのだ

そのせいでグラスまでも巻き込み、同じ目に合わされるのだ

 

 

「...違う」

 

 

違った

自分自身で言うのもおかしな話だが、彼女達が悪いはずは無かった

 

好き嫌いはしないし、門限は守る

制服のシャツはしまうし、髪も染めていない

講義を休んだ事も無いし、提出物は期限厳守する

 

大学から捨てられた時、初めて服を着崩したぐらいだ。

爪を噛むような悪癖も無かった

真面目が過ぎるのか悪い事はそれぐらいしか思い浮かばない

とにかく彼女は正しく生きてきた

これは誰がなんと言おうと彼女自身がそう信じている

 

では何故こんな目に合わされているのか

それは全て他者が悪い

歪んだ悪癖が生まれた時だった

 

 

「...あんたは悪くない...よ」

 

「唯一...?」

 

 

こんな正義感溢れる真っ直ぐな刑事が間違っているはずも悪いはずもない

自分もそうだ

 

全ては周りを目まぐるしく這いずる悪しき他者なのだ

 

 

「全部...全部!アイツらが悪いんだよ!」

 

「唯一!」

 

 

力一杯グラスはガンリを抱き締めた

もう彼女は荒んでしまい、元には戻らない

助ける事も出来ない

 

抱きしめたところで何も変わらない

変わってしまったガンリを帰ることは出来ない

だが、それしか出来なかった

 

 

「1人増えたと聞いたんだが...あんまり若くないんだな」

 

 

そこに邪な客が現れた

つい先程ガンリを貪ったばかりの王子だった

 

いやらしく舌なめずりをしながら目にとらえているのは新たな玩具、グラスの肉体だった

 

 

「...はじめまして、今日からお世話させて頂く...グラスと申します」

 

「お世話させて頂く?何言ってんだよ」

 

 

グラスをガンリから引き剥がすと、王子は別のベットに投げ込んだ

そのまま乱暴に衣服を引き裂くと、収まりを知らない男性のそれをグラスに突き刺した

 

 

「つっ...っ!」

 

「俺があんたを世話してやんだよ、有難く思え!」

 

「琴乃さん!」

 

 

男性経験など彼女になかった

一般的に遅い初めてだが、別に気にした事も今この瞬間まではなかった

 

彼女もまた汚されるのだ

だが、この子と共に堕ちる

何も解決しない目的が達成された瞬間だった

 

 

 

 

 

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◐月下-南側大通り / 午前8時26分

 

 

「...そんな事が」

 

「えぇ、全て事実よ...」

 

 

結衣に抱き抱えられながら、唯衣は唯一との過去を語った

唯衣がグラスに

唯一がガンリに

全てが悪い方向へ変わってしまった過去

塗り替えられない過去を知る必要も無かった南に語った

 

南は南であれから行方も知らなかった手を差し伸べてくれた優しい刑事に会いたかっただけ

それが敵として再開し、敗れ

聞きたくもなかった過去を知ってしまった

 

誰も救われない

 

 

「...ごめんなさい。失望したでしょ?私は貴女の事も救えず...唯一も、私自身も駄目たった...弱いのよ」

 

「...」

 

 

南は何も語れなかった

それを少し離れた位置で見守っていた慎也も、渡邉もそうだった

 

皆が皆敵を見失っているのだ

きっと正しいと曖昧に信じて戦ってきたのも、失彩の道化団(モノクロ・アクタ-ズ)の悲惨すぎる過去が蒙昧の中に誘っている

 

沈黙を己の発現タイミングと認識したカムイは、そこに追い討ちをかけるように慎也を煽りだした

 

 

「...ゲホッ...ほら、行きなよ村上...そこの絶望してるお嬢さんは置いて、君一人で行くんだ...正しいと信じるなら...最後まで貫けよっ!」

 

「...」

 

「村上」

 

 

慎也は何も答えない

南もそうだ

 

だが渡邉は違った

わざわざ聞こえるような足音を立てながら歩み、慎也の肩を掴むと右拳で おもい 一撃を与えた

 

 

「ぐぁっ...何...すんだよ!」

 

「今度は俺が敵か?」

 

 

自分で殴っておいて渡邉は慎也に手を貸し立たせた

殴れた左頬が痛むが、慎也は渡邉が何を言いたいのか何となく察しがついた

 

慰めでは無い、激励のようなものが近いか

人によっては教鞭ともとるだろうか

 

 

「お前は戦うんだ。誰が悪いとかそんな事を一々考えるな。お前が正しい限り、お前は正しいんだ」

 

「...渡邉...さん」

 

「何のために来たのか思い出せ。皆木を救うんだろ?なら果たせ、難しいなら俺が手伝おう」

 

 

慎也の瞳の色が変わった

それを確認すると渡邉は少しだけ歩き、南の元へ距離を詰めた

 

 

「南結衣、お前は負傷者だ。無理しなくていいが、出来るなら俺と一緒に戦え。それがお前の役目になる」

 

「私...の?」

 

「あぁ、恩人の過去を憂うならそれもいい。弔いとして戦うならもっとだ」

 

「...」

 

「お前が選べ。俺は戦う。どんなに不条理でも戦う事はやめない。過去へ侮辱になるからだ」

 

 

2人の戦士が僅かながら闘志を取り戻した

戦うしかないのだ

単純にそれに終わる現状に気付い他だけなのだが、渡邉の存在はやはり大きかった

 

頼れる戦士

一度敗北を期したからか、慎也にも南にも響く声を持っている

 

 

「...渡邉さん。俺行くよ」

 

「まずは医療班で応急手当だぞ?それからでも間に合うぐらいに暴れておく。俺達を信じて行くんだ」

 

「.....分かった...っ!」

 

 

カムイから受けとった端末をズボンのポケットに押し込んだ

が、何かが引っかかかった

 

取り出してみるとそれは懐かしくも感じる物だった

肌ざりのいい一輪の花

 

初めて月下に行く道中、氷染に教授されながら制作したモールアート。パセリの花だった

 

 

「...なんだ、モールアートの趣味があったのか?」

 

「これは...攫われた先輩に教えて作ったものです」

 

 

一ノ宮や、氷染。形谷や編風の顔が脳裏に浮かんだ

そうだ、最早引き返せないほどに戦った先人が居るのだ

 

彼らの為にも今の慎也は戦うのだ

崩れないようにそれをもう一度しまい込むと、渡邉が笑みを浮かべてそのパセリについて口にした

 

 

「”勝利”」

 

「えっ?」

 

「パセリの花言葉だ。今の俺達にはピッタリだと思わないか?」

 

 

慎也が何か言う前に渡邉は彼の背中を押した

医療班や北の戦地への方角だ

 

 

「行け、勝利を懐に...戦え!」

 

 

渡邉に押されたままの動作で慎也は走り出した

この激励を無くしには惜しい

 

そして最早語る事も無い

必要な治療と必要な戦闘だけが残っているのだ

 

 

「ここは...任せました!」

 

 

慎也を見送ると、渡邉はディスクを構えた

南もよろよろと立ち上がると模す

 

灰被(シンデレラ)はその時まで戦うのを律儀にも待っていたが、それもお終いだ

加えていつの間にか永夜河を破った(フロ-)もこちらに睨みを効かせている

 

その(フロ-)シッドは、渡邉を敵と認識したのか彼のアンカーが届く位置に移動すると、こう呟いた

 

 

「花言葉なんて可愛い知識持ってんな?えっと、渡邉の兄ちゃんよ」

 

「アロマ使いの嗜みだ」

 

 

気が付けばギリギリまで燃えたタバコを吐き捨てると、シッドはこう続けた

言う必要も無い情報だった

 

 

「”死の前兆”」

 

「...」

 

「パセリにはそんな花言葉もあるんだが...知らないわけないよな?」

 

 

渡邉はアンカーの射出で答えた

無論知識にある

 

だが今の彼らには、”勝利”以外の意味は必要無かった

存在もしなかった

 

 

「パセリの花言葉を決めよう。俺が”勝利”の言葉を肯定してやる」

 

「健気なもんだ」

 

 

戦いは終わっていない

これからだった

ぶっちゃけどうですか?

  • 読みたいからやめて欲しくない
  • 読みたいけど無くなったら読まない
  • 普通
  • 無くてもいい
  • 読むのが億劫

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