どうか彼女に笑顔をと、彼は願った   作:アマネ・リィラ

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第二話 憧れが、ずっと

 

 ボーダーの技術により、トリオン兵が出現する〝門(ゲート)〟は開く場所をある程度操作されている。そのため、防衛任務に当たる隊員たちはゲートが開くことがわかった時点で急行し、ある程度待ち構えることも可能である。

 この防衛任務は基本的に部隊の持ち回りだが、B級隊員はその給与が歩合制ということもあって防衛任務に出たがる者も多い。そのため混成部隊が組織されることも多いし、部隊に一時的に編入されることもある。今回の場合は後者だった。

 

「よろしくね、出木さん」

 

 優しい笑みと共にそう告げたのは、鈴鳴支部の〝鈴鳴第一〟部隊隊長、来馬辰也だ。その仏と見紛う大海のように広い心と温和で思いやりに満ちた人物であり、彼を慕う者はボーダー内でも非常に多い。

 そんな彼が挨拶したのは、B級の個人隊員――出木希だ。彼女は来馬の言葉に対し、静かに頭を下げる。

 

「…………よろしく、お願いします……」

 

 蚊の鳴くような声だが、何度か組んでいることもあって彼女の性質にも随分慣れてきたと来馬は思う。噂ではネイバーに対して強い憎悪を抱いているという話だが、前髪の奥にある瞳からはそんな感情は読み取れない。

 しかし、隊員である別役太一によると割と有名な話らしい。実際、彼女はトリオン兵と戦う時に真っ先に突撃し、危険な役目を買って出る。

 

「えっと、いつも通り鋼と一緒に前衛を任せたいんだけど……いいかな?」

「…………了解、しました……」

 

 出木が頷く。彼女は基本的に――というより、来馬が知る限りではこちらの指示に外れたことをした記憶はない。だから、ますますわからない。

 

「よろしく」

 

 側にいた村上鋼――№4攻撃手である来馬隊のエース――が手を差し出すと、出木は肩を震わせた。前髪の間から覗く瞳は、僅かに揺らいでいるように見える。

 だが彼女は何も言わず、ゆっくりと手を差し出した。柔らかい握手。二人は同い年ということもあり、更に言うと鋼の友人である荒船と同じ進学校に出木が通っていることもあって繋がりはある。特にレイガストの使い手として共にマスタークラスということもあり、たまに個人戦をしているようだ。

 だが、そんな鋼ですら彼女の内側については何も知らないらしい。いや、鋼だけではない。彼女は決して、己の奥にある感情を他者に話すことをしないのだ。

 

(少しでも、楽にしてあげることができればいいんだけど)

 

 彼女の背負った過去であり、意志であり、理由である。そこには相応の覚悟と想いがあるはずで、自分達が踏み込むべきでないのかもしれない。だが、かつて鋼が彼に言ったのだ。

 ――一人で佇むその背中が寂しそうに見えた、と。

 何かできないだろうか――合同でチームを組む度に思い、しかし、できないままでいることに小さく息を吐いた。その瞬間。

 

『ゲート発生、座標誘導誤差8.78』

 

 来馬隊のオペレーターである今結花が通信を飛ばしてきた。直後、三人が集まっている場所から少し離れた前方に黒い穴のようなものが出現する。

 

「俺たちが出ます」

 

 右手に孤月を、左手にレイガストを携えた鋼が冷静に告げた。すでに出木もトリガーを構えており、両腕のレイガストがシールドモードで展開されている。

 

『モールモッド二体! 後続はありません!』

 

 現れたのは、鋭い複数のブレードを持つトリオン兵――モールモッド。ある程度熟練した隊員でなければ苦戦するトリオン兵だ。そのブレードをまともに受ければ、トリオン体は容易く破壊される。

 

「援護するよ!」

 

 声を張る。同時、測ったように二人の前衛が左右に飛んだ。鋼が左に、出木が右に。そして奇しくも、二人の初撃は同じだ。

 スラスターを用いたシールドモードのレイガストによるタックル。勢いのついたそれに、モールモッドの体勢が崩れる。

 

「太一!」

 

 少し離れた位置からこちらを援護する手筈となっていた狙撃手――別役太一に声をかける。はい、という声と共に弾丸が戦場を貫いた。

 日頃の訓練の成果か、放たれた弾丸は出木の相対するモールモッドに直撃した。だが、微妙に動いていたためかコアを掠めるようにして弾丸が突き抜ける。

 

「――――」

 

 更に体勢が崩れたその一瞬を、出木は見逃さない。レイガストを振り上げ、モールモッドを一閃する。コアを切り裂かれ、一体のモールモッドが沈黙した。

 

「アステロイド!」

 

 そして、来馬自身もただ突っ立っているわけではない。鋼がかち上げ、空いた口――そこにあるコアへと、アステロイドの弾丸を叩き込む。

 二体のモールモッドは殆ど同時に沈黙した。こちらのダメージもなく、完勝である。

 

『沈黙を確認』

「よし、お疲れ様」

 

 オペレーターである今の言葉を聞き、来馬は笑顔で告げた。流石というべきか、上位の攻撃手が二人もいると戦闘自体がかなりスムーズである。

 

「流石だね、鋼。出木さんも」

「いえ、来馬先輩の援護のお陰です」

「…………別役さんの、お陰です……」

 

 妙なところで似た反応を返す二人である。思わず苦笑すると、さっきから黙ったままの太一へと来馬が連絡を取ろうとした。

 

「太一? お疲れ様――」

『ッ、ゲート発生! イレギュラーゲートです! 場所は――太一くん!』

 

 今が叫んだ。同時、ここから約200m離れた場所に、漆黒のゲートが展開される。

 そこはマンションの屋上であり、太一が狙撃ポイントにしていた場所だ。まずい、と来馬は太一へと通信を飛ばす。

 

「逃げるんだ太一!」

『わ、わわっ! 来馬先輩!』

 

 慌てる声が聞こえてきた。最悪ベイルアウトという手段がある。しかし、狙撃手である太一だけでは至近距離のトリオン兵は捌けない。

 狙撃手とは狙撃をするからこその狙撃手だ。至近距離の戦闘はとある例外を除いてそもそも想定していない。

 

『モールモッド――四体!』

「退くんだ太一!」

 

 言うと共に走り出す。だが距離が遠い。太一がやられる前に辿り着けるか――焦りが脳裏を過ぎった瞬間。

 

「「スラスター、オン」」

 

 二人の攻撃手が、空を舞うようにして宙へとその身を投げ出した。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 別役太一は、鈴鳴第一における最年少隊員である。

 隊長である来馬を抜きには語れないと言われ、一心同体を地で行く隊。そんな中で太一は隊長である来馬を筆頭に他の三人を心から尊敬している。

 オペレーターの今結花などは少々怖いところがあるが、それでもいつも助けてくれる人だ。苦言もこちらを思ってのことだと太一は知っている。

 

『退きなさい! 早く!』

 

 今結花というオペレーターは常に冷静な言葉をくれる人だ。書道をやっているためか、その立ち振る舞いに落ち着きと気品がある。

 その今が焦った声を上げている――それはつまり、それだけ状況が良くないということ。

 

(ベイルアウト……!? でも……!)

 

 狙撃手とは遠隔から相手を撃つのが役目だ。そのため、寄られるとその瞬間に生存が難しくなる。

 ベイルアウトによる離脱が一瞬、頭を過ぎる。しかし、太一がいるのはビルの屋上。それも警戒区域の境界線上だ。ここを放棄すれば、目の前に現れたモールモッドたちが街へと向かう可能性が出てくる。

 本来、こんな場所にゲートは出現しないはずなのだ。最近噂になっているイレギュラーゲート――それがこれだというのか。

 

「…………ッ」

 

 逡巡の隙に、四体のモールモッドがこちらを捉える。一体だけならシールドを用いてどうにか対処することもできただろう。だが、四体を同時に捌く技量は太一には無い。

 ここで自分がベイルアウトしたとして、モールモッドが市内へ攻撃を開始する前に三人が到着する可能性は大いにある。しかし、それでも。僅かな可能性がそれを躊躇わせた。

 別役太一はボーダー隊員なのだ。ネイバーから市民を守るためにボーダーへと入隊した。その想いが、逃げることを許さない。

 

「――――!」

 

 引き金を絞り、〝イーグレット〟の弾丸を叩き込む。正確にコアへ直撃すれば一撃で倒せる弾丸はしかし、当たりはしたものの倒せはしない。

 先頭のモールモッドがブレードを振り上げた。その刃が、太一に迫る。

 

「――スラスター、オン」

 

 だが、ブレードの直撃が無かった。代わりに鈍い音を立て、モールモッドの身体が屋上を滑る。その脇腹に、ブレード状態――槍のように細く鋭い棒となったそれが突き刺さっていた。

 

「ハウンド!」

 

 同時、残る三体をその場に釘付けにするような弾丸が降り注ぐ。来馬のハウンドだ。その一撃が、モールモッド達の動きを鈍らせる。

 

「太一!」

 

 声と共に、一閃。屋上へと上がってきた村上が淵にいたモールモッドのブレードを三本、斬り捨てた。だが、もう一体。モールモッドが太一へ迫る。

 イーグレットを構える。外せば敗北、その刹那。

 

「――――」

 

 短い吐息と共に、少女の拳が振り抜かれた。

 横殴りの一撃モールモッドが吹き飛び、屋上の床を滑っていく。

 ――出木希。

 噂では誰とも会話をしようとせず、ただひたすら近界民とトリオン兵に復讐する技術のみを鍛え上げ続ける人物。

仲間のことも、同僚のことも一切気にも留めていないと太一は噂で聞いていた。様々な部隊から誘いを受けているにも関わらず、どこにも所属しないのも彼女の目的を共に共有できる者がないからだと。

だが、その彼女は〝玉狛第一〟の〝完璧万能手〟木崎レイジの得意とするスラスターの加速を乗せた拳の一撃によって太一を救った。すぐさまレイガストをシールドモードに変えると、太一を庇うように盾を構える。

 

「な、なんで――」

「…………」

 

 彼女は答えない。ただ、同時に二方向から襲い来るモールモッドのブレードを、一つ盾だけで防ぎ続ける。

 鈍い音が響く中、彼女は反撃をしない。当たり前だ。一本のレイガストはモールモッドの腹に刺さっており、更に眼前には彼女を挟むようにして襲い来る二体のモールモッド。そしてその背後には太一がいるのだ。その状態で踏み込むことは難しい。

 

『太一! 撃つんだ!』

 

 こちらに向かっているのであろう来馬からの通信が入る。その声に、太一は体を震わせた。

 屋上は狭く、そのせいでモールモッドを一瞬で斬り捨てる実力がある村上も僅かに苦戦している。ほとんど動ける場所の無い中、それぞれ二体のモールモッドによる連撃を捌く二人の技量が異常なのであり、普通ならとっくに押し込まれている。

 援護のためだろう。来馬のハウンドが再び降ってきた。しかし今度の一撃は四体全てを狙ったモノではなく、村上が相手取る二体を狙ったモノだ。

 鋼が僅かに動きを止めたモールモッドのブレードを斬り飛ばす。ブレードの硬度は容易く斬れるようなものではないはずなのだが、彼には問題にならないらしい。

 そして、それに合わせるように出木が前に出た。踏み込みと共にスラスターを起動し、シールドによるタックルを行う。

 だが、挟まれた状態だ。必然、片方のモールモッドには背中を見せることとなる。その隙を見逃さんと、ブレードが振り上げられた。

 

 ――ここだ。

 

太一はほとんど反射的に引き金を引いていた。真横からの狙撃。その一撃がコアを撃ち抜き、モールモッドの動きが止まる。

 

「出木!」

 

 村上がモールモッドのコアを絶ち、それと共に腹に刺さっていたレイガストを出木に向かって投げ渡した。それに手を伸ばすと共に、出木がレイガストのシールドを消す。

 

「…………」

 

 短い、息を吐き出す音が聞こえた気がした。レイガストの切れ味は孤月やスコーピオンに比べてよくはない。故に襲い来るブレードに刃を合わせ、かち上げるようにして軌道を逸らす。

 飛来するトリガーを手にすると共に、剛速の突きが放たれた。ブレードの生成とスラスターの起動がほぼ同時に行われた必殺の一撃。その拳にコアを貫かれ、モールモッドが沈黙する。

 残る一体も村上がコアを切り裂き、四体のモールモッドは全て沈黙した。昇ってきた来馬の姿を見ると、太一は思わずその場に座り込む。

 

「お、終わったぁ……」

「大丈夫かい、太一?」

 

 来馬がそんな太一の下へと駆け寄っていく。村上もそんな彼へと近付きながら、今へと通信を繋いだ。

 

「他に反応は?」

『大丈夫。回収班も手配したわ。後は警戒しつつ、巡回続行ね』

 

 その確認をし、村上は息を吐いた。その彼に、出木が頭を下げる。

 

「…………ありがとう、ございました……」

 

 先程の、トリガーの受け渡しのことだろう。村上は苦笑し、いや、と首を振った。

 

「こちらこそ、太一を助けてくれてありがとう」

 

 二人して礼儀正しく頭を下げる18歳という珍妙な光景が展開される。そして出木は太一の下へと歩みよると、あの、と蚊の鳴くような声で彼へと話しかける。

 

「…………ありがとう、ございました……」

「えっ?」

 

 何か叱責されるのかと思った太一は、その言葉に思わず変な声を漏らした。出木は頭を上げると、相変わらず感情の読めない瞳をこちらへと向けてくる。

 

「…………別役さんが、撃ってくださらなければ……私は……」

 

 あのモールモッドを倒したことについてのことだと気付き、太一は慌てて立ち上がった。思わず首を振る。

 

「い、いやっ、こっちこそその、ありがとうございます! 守ってもらって……!」

「………………」

 

 出木は静かに首を振った。そしてレイガストを腰のホルスターに納めると、周囲を見回す。

 何か探しているのだろうか、と太一は首を傾げたが、その思考へ来馬の言葉が割って入った。

 

「だけど、さっきのゲートは何なんだろう? 時間差で、それもこんな境界ギリギリの場所に現れるなんて……」

『おそらくイレギュラーゲートですね。今週だけで五件確認されていて、今のところ偶然近くに正隊員がいたため大きな問題にはなっていないようですが……』

「そうなのかい? 厄介だね……」

 

 オペレーターである今の言葉に困った顔をして来馬が考え込む。そうして考え込む鈴鳴第一の三人と、そこから距離をとってこちらを見ている出木。変わらず、その表情から感情は読めないままだ。

 

「出木さん、太一を守ってくれてありがとう」

 

 そんな彼女に来馬は微笑みながら礼を言った。ああして一人で佇んでいる彼女に声をかける勇気のある者はそういないのだが、その辺り来馬と村上、二人の先輩は凄いと思う。村上に至っては個人戦を提案することもあるらしい。正直太一はできる気がしない。

 

「………………」

 

 変わらず無言のまま、出木は首を左右に振った。その彼女に、よかったら、と来馬が提案する。

 

「防衛任務が終わった後に皆でご飯に行くんだけど、出木さんもどうかな?」

 

 その言葉に、出木は肩を大きく震わせた。いつも変わらない瞳が、僅かに揺れているように見える。

 怒った――そんなことが脳裏に過ぎった太一だったが、続く彼女の言葉でその思考が間違っていると理解する。

 

「…………いいの、ですか……?」

 

 それは本気で驚いているようだった。勿論だよ、と来馬は笑う。

 

「あ、予定があるなら無理にとは言えないんだけど……」

「…………いえ、ありがとう、ございます……」

 

 そう言って、出木は深々と頭を下げた。その態度と言葉が、噂に聞いていた彼女とギャップがあり過ぎて太一は混乱してしまう。

 

『出木さんとご飯に行くのは初めてね』

「歓迎するぞ、出木。……太一、今日はコップを倒すなよ」

「酷い!?」

 

 村上の言葉に反論する太一。その瞬間。

 

 

「…………ふふっ…………」

 

 

 微かに聞こえたその声に、三人が驚愕で目を見開いた。普段から冷静沈着な村上でさえ、目を見開いて驚いている。

 だが、こちらが視線を向けた時にはいつもの表情だった。いきなり三人で見つめたからか、びくりと肩を震わせている。

 

 噂では、復讐の鬼であり、バリバリの城戸派であり、あの三輪秀次が唯一心を許す相手で、己の復讐について来れる者がいないからこそのソロ隊員という話だった。

 他人と極力関わろうとせず、常に一人で居続ける人物。現に前回、気を遣った来馬の誘いを彼女は断っていた。

 そういう人なのだと思っていた。自分たちとは全く違うのだと。

 ……けれど。

 もしかしたら、本当は違うのかもしれない。

 そんな風に、ふと思った。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 サイドエフェクトを発現する条件は高いトリオン能力を有していることという話があるが、詳しいことはわかっていないし出木希はよく知らない。

 絶対的な記憶能力を持っていても、それが即座に理解へと繋がるわけではない。そういう意味では村上の様な〝強化睡眠記憶〟の方が遥かに有用性が高いだろう。

 記憶することと、習得することは違う。故に希は腕を磨くにも相応の努力は積み重ねてきたし、優秀な隊員の動きを見たらそれを研究もした。有用だったのは一度見てしまえば見返す必要がないことと、鮮明な記憶が残り続けることだ。

 しかし、希のサイドエフェクトが強力であることは事実であり、ボーダー内では開発室長の鬼怒田やチーフエンジニアである寺島雷蔵を中心に彼女のサイドエフェクトについて研究が行なわれている。その過程でわかったのだが、出木希は記憶操作を受け付けない。

 

〝あまり言いたくはないが、ボーダーには世に出すべきではない機密情報も多い。そのため、重大な違反者には記憶の消去――いや、封印を行うこともある。市民が巻き込まれた時も、必要とあらばネイバーとの接触について記憶を操作する場合もある〟

 

 だが、お前が相手ではそれができない――鬼怒田は何度もそう言っている。

 

〝最悪の場合、秘密裏に抹殺などという意見すら出かねん。軽はずみなことだけは決してせんようにな〟

 

 そう言った時の鬼怒田の表情は上司というより父親のそれだったように思う。だがそれよりも、己の記憶をボーダーですら操作できないという事実が希の心を打ちのめした。

 思い出したくないことはいくらでもある。だが、思い出してしまう。少しでも考えれば――思い出したくないと考えてしまえば、脳裏に鮮明に浮かび上がってしまう。

 

 自分が他者と違うと知った。

 それが他者にとって妬みの対象にしかならず、ただの呪いであると理解した。

 

〝でもさ、いいじゃん。絶対忘れないんだろ? 俺、こっちのじいちゃんとばあちゃんのこととか覚えてないからさ。写真とかあるけど、覚えてないのはやっぱ寂しいよ。だから、そこはちょっと姉ちゃんが羨ましい〟

 

 世界の全てが敵になったのではないかと思っていた時、塞ぎ込むようになった自分へ弟はそう言った。それは僅かな救いとなり、しかし、今は枷となっている。

 

(駄目だよ、やっぱり)

 

 変わりたいと、変われるかもしれないと、そう思っていた。

 けれど――できない。

 踏み出そうとしたその時に、その記憶が蘇る。

 

〝私たちを見下してんの?〟

〝卑怯だよね。そういう才能、ってやつ〟

〝私たちとは見てる世界が違うもんね〟

 

 悪意が、ずっと消えない。

 今は、そうじゃない。遠巻きに見られることはあっても、正面から何かを言われたことはない。緑川や米屋、出水といったランク戦で色々話しかけてくれる人もいるし、昨日の鈴鳴第一のように食事に誘ってくれる人たちもいる。

 だが、彼らが正面切って自分に悪意を向けてこないのは知らないからだと希は思う。思いたくないのに、心と記憶に刻まれた消えない過去が、それを疑わせる。

 ――そんな風に思う自分が、一番嫌いだ。

 

「………………」

 

 勇気を出せと、人は言うけれど。

 その勇気が無謀でないという保証は、誰がしてくれるのだろうか――?

 

 

『――緊急警報! 緊急警報! ゲートが市街地に発生します! 市民の皆様は直ちに避難してください!』

 

 堕ちて行こうとしていた思考が、響き渡る警報によって止められた。同時、漆黒の門が遠方に開かれる。

 

(あそこにあるのは)

 

 その記憶に三門市の地図は全て入っている。あの場所には、中学校がある。

 

「――トリガー、オン」

 

 判断は即時だ。研究への協力があったので学校には昼から登校する予定だったが、この状況では仕方がない。

 ここは警戒区域外だ。そして事前の警告が無かったところを察するに、あれが昨日鈴鳴第一のオペレーター、今結花が言っていた〝イレギュラーゲート〟なのだろう。

 地面を蹴り、飛び跳ねるようにして最短距離を進んでいく。

 

 出木希は一人でいる時、常に何かしらの本を読んでいる。

 基地内部にいる時、その時間のほとんどを修練で過ごす。

 それは他にやることがないからであり、己を鍛える目的があるからだ。だが、それとは別に最も重要な理由がある。

 

 己の心を、何かに集中させる時。

 彼女の記憶は、唯一その時閉ざされる。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 学校に希が辿り着いた時、すでに事態は終息していた。生徒たちがトリガーを装備して現れた自分に好奇の視線を向けてくるが、努めて無視する。

 

「………………」

 

 周囲に視線を向け、教師を探す。やたらと見事にぶった斬られているモールモッドが気になるが、それよりまず負傷者の確認だ。

 

「…………遅れてすみません。負傷者は……?」

 

 威嚇にならないよう、ゆっくりとレイガストを消しながら近くの教師へと希は声をかける。ただの会話ならばともかく、業務会話なら難しくない。声があまり大きくないのが不安だが、その教師は特にそこへは言及しなかった。

 

「今、確認できました。全員無事です」

 

 ほっ、と息を吐く教師によかった、と希も息を吐いた。負傷者が出なかったことが何よりの幸いだ。あんな光景は、もう見たくない。

 だが、それなら誰が。この学校に正隊員でもいたのだろうか。とにかく、トリオン兵の状態を確認しようと希が歩き出した時。

 

「なんだ、これは……!? もう終わってる……!?」

「嵐山隊、現着しました」

 

 現れたのは、三人のボーダー隊員だった。見覚えのあるその姿に希が僅かに表情を変えたが、彼女が何かを言う前に周囲の生徒たちが騒ぎ出す。

 

「嵐山隊だ!」

「A級部隊の嵐山隊!」

 

 ボーダー本部A級五位部隊、嵐山隊。広報部隊としての側面も持つ彼らはメディアへの露出も多く、ボーダーの顔ともいえる存在だ。隊長である嵐山准は教師へと声をかけようとするが、その前に希の姿を確認する。

 

「出木……! キミがやったのか?」

「…………いえ……」

 

 嵐山の問いに希は首を左右に振った。嵐山の後ろに控えていた木虎が自分を見て少し嫌そうな顔をしたが、敢えて無視した。少し前から彼女はあんな態度をとるようになっている。入隊が同時で、その頃は何度か個人戦をしたこともあったのだが。

 

「…………私が来た時には、すでに……」

 

 来た時には既に終わっていたのだ。しかもこのモールモッドの状態を見るにかなりの実力者である。

 

「ならば誰が……、もしかして、キミが?」

 

 こちらに来てモールモッドを眺める嵐山が、歩み出てきた眼鏡の少年に問いかける。地味な雰囲気をした少年だ。その少年は緊張した面持ちで言葉を紡ぐ。

 

「C級隊員の三雲修です。他の隊員を待っていては間に合わないと思ったので……、自分の判断でやりました?」

「C級隊員……!?」

「C級……!?」

 

 驚く嵐山の言葉に続いて、木虎も声を上げる。C級隊員――それは訓練生の総称だ。彼らはトリガーを与えられているがその性能は低く、正隊員のそれとは大きな差がある。

 そんなトリガーで、ここまで見事に。思わず希の胸中には称賛の想いが浮かんだが、三雲自身はまるで刑の執行を待つかのように俯いている。

 そんな彼に、嵐山は手を伸ばし――

 

「――よくやってくれた!」

 

 手放しに称賛した。

 

「…………えっ?」

「キミがいなかったら犠牲者が出ていたかもしれない! うちの弟と妹もこの学校の生徒なんだ!」

「えっ、あ、あの……」

「うおーッ! 副、佐補! 心配したぞー!」

「げっ、兄ちゃん!」

 

 そして呆然とする三雲を置き去りにして、自身の家族の下へと走っていく嵐山。何というか、あの人は本当に変わらないと思う。

 熱血で、まっすぐで、真面目で。だから、自分にも声をかけてくれたのだろうけれど。

 

「始まったみたいですね。とりあえず、中の様子を見てきます」

「…………私も行きます……」

 

 嵐山隊の万能手、時枝充の言葉に頷き、校舎内へ入る。嵐山隊は嵐山と綾辻の二人が数少ない希から声をかける事のある相手であるためか、他の隊員たちも声をかけてくれる。エースの木虎の同期であるということもあるのだろう。

 そして更に、時枝は数少ない希にちゃんと敬語を使う人物でもある。希自身が他人と話すことが少ないのもあるが、本来年下であるはずの隊員が同い年、或いは年下と思って敬語を使わないのも珍しいことではない。

 

「見事ですね、これは。ブレードを斬って、更に胴体も正面から真っ二つ。……本当に訓練用トリガーかと思うくらいです」

「…………………」

 

 時枝の言葉に首肯する。自分が同じことをやれと言われても、訓練用のトリガーだと正直できる自信はない。訓練用はあくまで訓練用だ。その切れ味は控えめに言っても悪い。

 

「まあでも、実際訓練用のトリガーで倒したみたいですし……有望な新人ですね」

「…………そう、ですね……、ただ、そんなに優秀なら……」

「確かに。聞いたことがあると思うんですが……」

 

 普段C級と絡むことがほとんどない希はともかく、嵐山隊は入隊式の進行を行っている。その彼らが知らないということはないと思うのだが。

 

「まあ、とにかく回収班も要請したし撤収しましょう。木虎も少し機嫌が悪いみたいですしね」

「…………すみません……」

 

 反射的に謝ってしまう。彼女がどうしてあんな態度をとるようになったのかはわからない。だが、原因はきっと自分にある。

 だが、時枝は苦笑を零した。

 

「出木さんのせいじゃありませんよ。アレは木虎が――」

「――日本だと人を助けるのにも誰かの許可がいるのか?」

 

 校舎内から外に出た瞬間、そんな言葉が聞こえてきた。視線を向けると、木虎と三雲の側にいる白髪の小柄な少年が向かい合っている。

 

「……それはもちろん個人の自由よ。ただし、トリガーを使わないならの話だけど。トリガーはボーダーのものなんだから、使うなら許可が必要。当然でしょ?」

 

 どうも、三雲のことについての言い合いらしい。おそらくだが、C級隊員でありながら規律を破って戦った彼を木虎が責めているのだろう。

 木虎の言い分は正しい。規律とは守らなければ不都合が起こり、下手をすれば無用な被害を生むからこその規律だ。そう易々と破られては規律が規律として成り立たない。

 

「……ちょっと、まずいね」

 

 ポツリと時枝が呟く。彼女の言うことは正しい。だが、世界が正しいことだけで回っていたら誰も泣くことなんてないのだ。

 三雲修という少年は規律を破り、人を救った。それを完全に否定してしまうことは、人を救う行為さえも否定してしまいかねない。

 

「何言ってんだ? トリガーは元々ネイバーのもんだろ? お前らはいちいちネイバーに許可取ってトリガー使ってんの?」

「な……あ、あなたボーダーの活動を否定する気!?」

「……ていうかお前、オサムが褒められるのが気に食わないだけだろ」

「なっ……」

 

 びくり、と体を震わせて木虎が一歩後退する。「あ、図星」と時枝が呟いた。

 

「何を言ってるの!? 私はただ組織の規律の話を……!」

「ふーん。――おまえ、つまんないウソつくね」

 

 ぞくり、と背筋に悪寒が走った。少年の視界に入っているわけではない。なのに、彼の気配に出木希は僅かに身震いする。

 

「はいはい、そこまで。現場検証は終わった。回収班も呼んでるから、撤収するよ」

 

 しかし、不穏な空気を切り裂くように時枝が割って入る。でも、と言いかけた木虎に時枝は息を吐いて応じた。

 

「木虎の言い分もわかるけど、賞罰を決めるのはオレたちじゃない」

「…………私たちには、彼の処罰を決定する権利は……」

「………ッ!」

 

 フォローするつもりで言ったのだが、睨まれてしまった。嵐山が、そうだな、と大きく頷く。

 

「今回のことはうちのほうから報告しておこう。三雲くんは今日中に本部へ出頭するように。処罰が重くならないように力を尽くすよ。きみには弟と妹を守ってもらった恩がある」

 

 本当にありがとう――そう言って三雲と握手を交わす嵐山。そして彼はこの後のことについて教師陣と話を始めた。それと入れ替わるように、希は三雲の前に立つ。

 

「…………犠牲者が出なかったのは、三雲くんの……おかげです……」

 

 えっ、と三雲が驚いた顔をした。そして、希はゆっくりと頭を下げる。

 

「…………本当に、ありがとうございます……」

 

 犠牲を出さないこと。もう二度と、あんな光景を見ないこと。

 それが、出木希の願いだから。

 

「…………私は、あまり力になれないかもしれませんが……、私の方からも、頼んでおきます……」

 

 その言葉に、何故か隣の少年が楽しそうに微笑んでいだ。

 

 

 三雲修。

 そして、空閑遊真。

 この出会いが、少女の未来を少しずつ変えていく――……

 












出木希から見たボーダーの皆さん


・来馬辰也
 超いい人。その菩薩の如き心で希の在り方を心配するという聖人。おそらくボーダー内で最も優しい人なのではないかと希は思っている。

・村上鋼
 とてもいい人。たまに個人戦に誘ってくれる。ただし互いに会話はほとんどない。レイガストの戦い方について希が参考にした人その二。その一は木崎レイジという最強の筋肉。

・別役太一
 とてもいい子。ただし鈴鳴第一に行くと高確率でカップ麺の中身がぶちまけられると聞いて恐怖している。向こうも若干こっちを怖がっているのが地味にダメージ入っている。

・今結花
 凄く字が綺麗ないい人。というか鈴鳴第一に嫌な人はいない。ご飯に行った時に前髪を切ることを提案されたが、それは全力で拒否した。

・嵐山准
 片手で数えられるくらいしかいない、挨拶以外で希が声をかけることのできる人の一人。イケメンであり超いい人という完璧超人。希には入隊時に声をかけており、それがきっかけで彼女の中でいい人という刷り込みが入った。

・木虎藍
 同期であり、スカウトした加古以外では最初に声をかけてくれた人。ただ最近は少し疎遠になっている。

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