「それで、孟徳殿は無事が確認されたのですか?」
「はい」
田中と戯志才は鄴の町にある役所で話し合っていた。
彼らが会っている理由は他でもない戯志才との約束を果たすためであった。
田中の配下の諜報部隊の1人がついに曹操が無事であったのを確認したのだ。場所は済北の町。彼女は主のいなくなった済北の町を勝手に占拠し、自分が済北相であることを名乗ったのだ。実際、鮑信は慌てて逃げたために済北相の印綬を忘れており、誰でも名乗ることの出来る状況であった。
それをチャンスと思った曹操はいち早く済北の町を占拠したのだ。
この事態に対し、朝廷は静観を決め込んだ。
理由は簡単。ここを統治する人材が朝廷には残されていない上、統治する人間を選び済北の地に送り込んだにしても印綬は曹操の手元にあるため、強制的に追い返される可能性があったのだ。
元々、救出戦時に夏候惇がいたために、おそらくは曹操も生きてはいるであろうと田中は踏んでいたが、戯志才の能力は高く、そう簡単に手放したくはなかったために確実な存在が確認されるまでは言わなかったのだ。
しかし、先日曹操が声明を発表したために事は公の知るところとなった。この事態に接し田中は最早万策尽きたと判断し、袁紹にこの旨を戯志才に伝えることを決定したのだ。
そして今に致る。
「もちろん、ここにいたいのなら構わない。我々としては大歓迎だし、大いにその能力をふるってもらいたい。しかし、貴殿との約束は曹操が見つかるまでの間であった。見つかったからにはもう、我々は貴殿を止めておくことは出来ない。自由にしなさい」
「分かりました。では、私は本当に曹孟徳殿の元へ向かって構わないのですね?」
「ええ。大いに結構。旅費もこちらが負担しましょう」
「今まで、大変お世話になりました」
そう言って戯志才は部屋を出て行こうとする。
そこでふと立ち止まり、田中を見て言った。
「田中殿、あなたも共に来ないか?」
「何故です? 私のような凡人を連れて行って何のお役に立ちましょう?」
「貴殿の情報処理能力は目を見張るものがある。もし、その気があるのなら……」
「お断りいたす」
田中はきっぱりと言った。
「私は袁刺史に全てを尽くすと決めた。今更寝返ることは出来るはずがない」
「そうか。それは残念だ」
そう言って、戯志才は今度は振り返らずに出て行った。
「「いずれ、戦場でお会いしよう」」
お互いに小さく呟いて。
「郭奉孝殿、今までお世話になりました」
戯志才はすぐに南皮の町に戻り、郭嘉に面会し今までの経緯を伝えお礼を言った。
「そうですか。曹操が見つかったのですか……」
「ええ。我が主が見つかった以上、私もこうしてはおれません。すぐに主の元へ返り、ご恩に報いなければ」
「それは良かったですね。あなたには数多くのことでお世話になりましたし、これをあなたに進呈いたしましょう」
そう言って郭嘉は近くにあった袋を渡してきた。
「これは……」
「おそらくはそろそろあなたが離れる時期なのではないかと言うことを何となく感じ取っていましてね。念のため用意しておいたものです。おそらくは何かあったときに役に立つでしょう」
「ありがとうございます!」
「中を確認されないのですか?」
「今、確認したらつまらないではないですか」
「確かに」
「さて、私はそろそろ行きます」
「そうですか。お元気で」
「奉孝殿」
「何です?」
「私と共に主の元へ行きませんか?」
「どうしてまた?」
「以前、あなたが私に主のお話をお聞きになったときにかなり興味を示されていたようなので、もしかしたらと思いましてね」
「……」
「あなたほどの才覚をお持ちなのであれば、必ず主は重用いたします。来られるのであれば、是非」
「少し考えさせてください」
「ええ。もちろんですとも。私は旅の準備のために二日後までここにいます。その時までにお声を掛けていただければ、共に行きましょう」
そう言って戯志才はその場を後にした。
(私は何故あの時断り切れなかったのだろう)
郭嘉は戯志才が出て行った扉を見つめながら考えた。
もちろん、曹操に興味を持っていることは事実である。しかし、現状を考えれば曹操に付くことは危険すぎる。この乱世において弱小勢力に付くことほど悲惨なものは無い。
現状としては一番勢力が大きいのは間違いなく袁紹である。恐らく天下を取るのも袁紹であろう。
しかし、何故か郭嘉は曹操が気になって仕方が無かった。曹操は弱小勢力の内の一つであり、現に先の戦闘に置いて袁紹軍に滅多打ちにされたために軍師であった戯志才を囮に使う羽目になったのだ。
そのような勢力に加わる利点がまるでない。これが袁紹の元で冷や飯を食わされているような立場にいるのであれば、まだ話は別であろう。しかし、現状としては異例の大抜擢で、この重要な南皮の町の統治を任される役職にいる。おそらくは将来、袁紹の閣僚の1人になれることは間違いないであろう。
そのような好条件下にいるのに自ら危険な賭に出る必要は無い。
郭嘉は頭では理解している。しかし、心が理解しないのだ。
(私は一体、どうしたというのだろう……)
よく分からない感情に苛まれながら時間ばかりが過ぎていった。
約束の二日後。
戯志才は準備も終わり、馬に乗ろうとしていた。
(結局一度も私の元へ訪れはしなかったな……)
分かってはいたことだが、少し寂しい気もした。
「それでは、ありがとう」
宿の主人にお礼を言って戯志才は城門へ向かう。
その時、後ろから馬の蹄と鳴き声が聞こえてきた。
「戯志才殿! 戯志才殿!」
その声はちょうど二日前、話した懐かしい声であった。
「奉孝殿、如何なされた?」
戯志才は後ろを振り返りながら、聞いた。
「私も共に連れて行ってもらえないだろうか?」
「良いのですか? おそらく待ち受けるのは数々の困難であると思いますよ?」
「構いませぬ。私は決めたのです!」
その目には確かな決意の色が見えた。
そして示し合わせたわけでもなく互いに言った。
「分かりました。では、改めて名乗らせていただきしょう。我が名は戯志才。字はなく、真名は竜刃でございます。これから主の元へお連れいたす」
「私の名は郭嘉、字を奉孝。真名を稟と申します。宜しくお願いします」