―嗚呼、この音色が好きだった。
心地よくて、ぬけだせなくなってしまう程に。
―嗚呼、頬に触れる指の冷たさが好きだった。
こっそり泣いていた私を見つけてくれるあなたが、いつも不思議だった。
―嗚呼、あなたへの想いがあふれて、たまらない。
そうして、ゆるやかに開いた視界がぼやけるのだ。
***
「……また、泣いているの?」
まぶたをそっと押し上げて、彼女は囁いた。
自分のものではない感情が胸をぎゅっとしめつけ、まなじりからぱたぱたと、あたたかい涙が勝手に流れる。
微かにきしんだ寝台の上で、寝返りをうつと、天蓋を見上げた。
涙は止む気配はなく、彼女はそっと己の頬に触れた。
「どうか、泣かないでください」
ゆっくりと涙を拭って、慰めるように呟いた。
それでも、涙はこんこんと湧きだす泉のようにあふれ、心は悲しみに埋め尽くされた。
「また、あの夢だったわ」
最近、同じ夢を繰り返す。それは、長く短い旅が終わって、しばらくしてからだった。
初めは、たわいのない他の夢に混じるように断片的なものだったが、その夢は最近になって、まるで劇を観ているかのように鮮明に現れた。
ただの夢ならば、しばらくすれば忘れるだろうが、この夢は彼女の心に焼きつけるかのように、鮮やかに色づいている。
その夢の世界に広がるのは、見た事のない建物の中や、柔らかな日差しに包まれた庭の中と、細く長い廊下と様々だった。
だが、夢の終わりには、いつも同じ場面を見る。
顔の見えない二人の青年と“自分”が各々の楽器を使って、いにしえの旋律を楽しそうに奏でているものだ。“自分”は彼女ではなく、まるで“誰か”の目を通した情景を観ているようだった。
そして、視界が徐々にぼやけるのを合図に夢が終わり、目を開けば涙と悲しみがあふれた。
「……誰かが、誰かを想っているのかしら」
この夢のことを、彼に話すべきだろうか。笑うことなく、聞いてくれるだろう。
ようやく、涙がとまった頃に、扉を叩く音が聞こえた。
「ミーティア様、お目覚めでございますか」
部屋の外から響く侍女の声に、ミーティアは最後にこぼれた涙を拭って、寝台から体を起こした。
「はい、起きていますよ」
さらりとこぼれた美しい黒髪を耳にかけて、トロデーン国の姫は微笑んだ。
秋の始まりとはいえ、城の中庭のあちこちでは、まだ夏の花が咲き乱れ、また秋の花も沢山のつぼみを付け始めていた。
そのかぐわしい花々が一番見渡せる場所に白いテーブルと椅子を並べて、ミーティア達は話に花を咲かす。
「久しぶりに来たけど、お城、本当に元通りになったのよねえ」
辺りを見回しながら、艶のある栗色の髪を二つに結わえた娘の言葉に、ミーティアは嬉しそうに頷いた。
「はい。お城も人々も元通りになって、ここの庭の花もまた咲いてくれて、本当に安心しました」
あの廃墟のような光景は、とても心が痛かった。沢山の暖かい思い出が宿る場所だからこそ、尚更元通りになってよかったと、ミーティアは思うのだ。
すると、小さなテーブルを挟んで向かいに座る娘が目を細めて、微笑む。
「そうね。私もよかったと思うわ」
「これも、ゼシカさんや皆さんのおかげです」
「あと、エイトも?」
からかうような口調でゼシカが言うので、ミーティアは恥ずかしそうに視線を泳がせた。
「そういえば、招待状を受け取って下さって、ありがとうございます」
花のような香りが漂う紅茶のカップから顔をあげたゼシカは、笑みを深くした。
「こちらこそ。それにしても、二度目の結婚式なんて。王様もよくやるわね」
少しばかり呆れたような彼女に、ミーティは苦笑した。
「お父様は、この結婚式が国の人達との絆を強くするとおっしゃっていました」
二年前に世界は平和になった。暗黒神によって、おびやかされる死の恐怖から解放され、世界は喜びに包まれた。
「時が経てば、かつての恐怖は薄れる。けれど、それは同時に平和が薄れるのだと……」
恐怖は、時が経てば消えることはなくても、薄れていく。また平和という実感も、それと同じように薄れていくものだ。
人々の中には、この平和がいつかまた壊れるのではないかと不安に思う者もいるかもしれない。
父はそれを懸念し、そして思いついたのが、トロデーン国で盛大に行うミーティアとエイトの二度目の結婚式だった。
「……だからって、お祭りじゃなくて、結婚式っていう事を思いつくのは、ここの王様らしいわね。多分、誰も思いつかないわよ」
「ふふ。そうかもしれないです。でも、結婚式はトラペッタの教会で行うので、色んな人に会えるのが楽しみです。トロデーンの領地でもあるそこは、始まりの場所でもありますから」
「……エイトが真っ赤やら、真っ青で忙しくなりそうね……。そうだ、そのエイトはどうしたの? どんなに忙しくても、姫の可愛いお願いを聞かないなんてことはないでしょう」
またもや、からかう口調で尋ねるゼシカに、ミーティアは小さく咳をして、微かに眉を下げた。
「今、遠方からお客様がいらしているんです。それで、お父様の側に。世界を救った英雄を見たいと」
「なるほどね。まっ、仕方ないわね。近衛隊長ともなれば、やる事も要求される事も多くなるもの。……前と、同じにはいかないわ」
最後の部分はうんざりとしたようにゼシカが小さくため息をついた。まるで自分に言い聞かせるような彼女に、心配そうにミーティアは首を傾げる。
「もしかして……、またあれが届いていらっしゃるんですか」
返事の代わりに、ゼシカは酒でもあおるように紅茶を一息に飲み干した。淹れたてだったはずなのだが、熱さを感じている様子は微塵もない。
ミーティアは気をきかせて、ゼシカのカップに紅茶を注いだ。礼を言う彼女に、首を横に振って、席に戻る。
「うちは、賢者の血筋だからでしょうね」
口を開いたゼシカが、先程よりうんざりとした表情で銀製のフォークをゆらりと握った。
「世界を救った娘と縁を結びたいという輩が、魔物のようにうじゃうじゃと」
色とりどり様々な果物によって、綺麗に盛り付けられていたケーキにフォークが音を立てて、突き刺さる。
あまりにも鬼気迫る彼女の姿に、ミーティアは心の中で微かに悲鳴をあげた。それでも、表に出すことはなく、友人の話に必死に耳を傾け続けた。
「しかも、その山のようなお見合い用の肖像画の中に、元許嫁様の肖像画があったときは、本当うんざりしたわ……」
ざくりと突き刺しては、恐ろしい速さでケーキを口に運ぶ。
最後にゼシカは疲れたように、ぐいっと二杯目の紅茶を飲み干してみせた。
「結婚なんて、私にはまだ考えられないのに。最近、本当に母さんがうるさいのよ」
「きっと、ゼシカさんを心配していらっしゃるんですよ」
「……それは、分かっているんだけどね……」
ゼシカの父は早くに亡くなり、そして誰よりも彼女を理解してくれていた兄は、二年前に暗黒神の手により犠牲となった。
アルバート家には、母親と彼女の二人しかいない。いつか、置いていってしまう娘を心から心配して、見合い話を持ってくるのだという。
そんな彼女を、少しばかり羨ましいとミーティアは思う。ミーティアには、母との記憶があまり残っていない。
母が病で逝ってしまった後、父は新たに妻を娶ることなく、忘れ形見といえる彼女を一層愛してくれたが、それでも少しだけ寂しいと幼心に思っていたものだ。
少しの間、しんみりとした空気が流れる。それを壊したのは、青年の大きな声だった。
「遅れて、ごめん!」
ミーティアとゼシカが首を上げて振り返ると、黒髪の青年がわたわたと慌てたように駆け寄ってきた。
ゼシカが立ち上がって、彼に軽く手を振った。
「エイト」
「ゼシカ! やあ、久しぶりだね」
「久しぶり。隊長業はどう?」
「なんとか、だね。皆が協力してくれるから、助かっているよ。……でも、事務処理がどうも苦手で」
ゼシカとエイトは笑顔を浮かべながら、ゆるく握手を交わす。
隊服の窮屈な襟元のボタンを外しながら座るエイトの前に、ミーティアはカップを置いた。
「エイト、お客様はいかがでした?」
尋ねると、エイトは目を細めて、目元を和らげてこちらを見ると、どこか楽しそうに笑った。
その様子にミーティアは数回、目を瞬かせた。
「まあ、どうしたの?」
「なんでもないよ。うん、とてもいい人だったよ。今日の夜のパーティーで是非、ミーティアにも会いたいって」
「そう。夜にお会いできるなら、お話したいわ」
「きっと、ミーティアもあの人の事、好きになると思うな」
「エイトが言うのだから、とても素敵な人なのね」
ほんわりとした二人の間に漂う空気を黙って見ていたゼシカは口元に指を当てて、くすりと笑った。
「ふぅん。姫じゃなくて、ミーティアねえ……」
はっと我に返った二人に、ゼシカは濡れたように艶やかな唇を吊り上げて、にっこりと面白そうに目を細めた。
「ようやく、名前で呼んでもらえるようになったみたいね。姫?」
その瞬間、ミーティアはエイトの為に取り分けていたケーキを皿ごと、彼の頭の上に落とした。