あの時まで、世界には明るさが満ちていた。
青い空と海に手を伸ばす。
「――――よ。見るがいい。お前が将来、守っていく国と民の姿を」
父の大きな手が、肩に置かれる。
はい、と力強く返事をすると、そばにいた母が細腕に抱えた産まれたばかりの弟をあやしながら、話しかけてくる。
「――――。あなたが守っていく全ては、あなたを護るでしょう。だから、パヴァンと力を合わせるのですよ」
弟が産まれた数日後、城で一番見晴らしのいい両親の部屋の外で、家族と共に世界を眺めていた。
あの頃までは見下ろす全てが大きく、力強く思えた。広く、雄大な国の姿に誇らしさが幼い体を満たしていく。
疑っていなかった。いつまでもこの日々が続き、成長し、国を守り、国に護られていくのだと。
「父上、母上。私は誓います。このアスカンタをずっと守ることを」
もう一度、世界へと――。
***
「申し訳ありません。わたしの力が足りなかった為に、殿下をお救いする事は叶いませんでした」
窓という窓のカーテンを閉めきった薄暗い自室。
カーテンの隙間から室内へ伸びる光は、明るい。城の上を青空が覆っているのだろう。
寝台から起き上がった自分に、側に立つ老人が皺だらけの顔を苦痛に歪めて、謝罪してきた。
いいえ、と力なく答える。
全身が重い。体の節々が氷のように冷えきっている。まるで自分の体でなくなってしまったかのようだった。
それは間違いではない。この命も、身体も。アスカンタ国が抱え続けている呪いのものになってしまった。
どこか投げやりになりながらも、薄く笑む。
「あなたは、すぐに死を迎える筈だった私の呪いを抑え込んでくれました。本来ならばなかった刻限を手に入れることが出来たんです。ですから、ご自身を責めないで下さい。オディロ様」
法衣を纏ったマイエラ修道院の長であるオディロに礼を言う。
王である父が、必死になって我が子の呪いを解こうと、世界中の僧侶や修道女を募った。結局、解く事は叶わなかったが、唯一、目の前にいる老人だけが呪いを抑え込む事が出来た。
それだけでも、あれ程絶望にいたぶられ、喰い尽されてきた家族がどんなに喜んでいる事か。
老人は首を横にゆるく振る。
「……ですが、わたしが出来たのは呪いの進行を遅くしただけです。代わりに殿下は魔力を失ってしまった」
まるで自分が呪いを受けているかのように悲しげに話す院長は、本当に優しい老人なのだろう。聞けば、その修道院では身寄りのいない子供達を受け入れているのだという。
「魔力など大したことではありません。代償を払う事で、猶予が出来るなら……、私はきっとどんなものでも捧げたでしょう」
「殿下……」
咎めるような響きに、自嘲する。
「分かっています。そんな事をしてまで、生きようとは思っていません。民を守る王族が、民に害をなす事はしてはいけない。ただ、私はもう、父の後を継ぐことは出来ないでしょう。……だから、この国を出ようと思います」
老人の目が驚いたように見開かれる。
「どうなさるつもりですか」
「この呪いを解く為の方法を探そうと思います」
きっと両親たちは、余生を静かに過ごしてくれというだろう。
けれども、オディロが繋いでくれた猶予をないがしろにしてはいけないと思った。
「この呪いは、何代かに一人に与えられるものだといいます。私の数代後に、また呪いを受ける者がいる。この国の未来の為に、私の命に懸けて、呪いを解く手立て探しに……」
そこまで言って、語尾が消えていく。
目頭が熱くなって、握り締めた両拳が震える。本当は愛する国を捨てたくない。死が恐ろしい。
それでも、と心の中で呟き、俯きかけた顔を上げた。
王の道は閉ざされたが、今まで培ってきたものは国や民の為だった。王でなくても、国を守りたい。それが、王族としての責務だ。
「それがきっと、私だけが出来る国の守り方だと思います。でも……、ローレイは」
自分より年上である大臣の跡取り息子。
いつも柔和な顔に笑みを浮かべ、貴婦人たちを騒がせる彼が、こうべを下げて膝を着き、剣を差し出してきたのだ。
――殿下。このローレイ、あなたに忠誠を誓い、この命を捧げましょう。どうか、良き王におなりください。
彼は、忠誠を誓ってくれたというのに。
きっとローレイなら分かってくれるだろう。これからは弟に忠誠を誓い、仕えてくれることを自分勝手に願う。
気付けば、窓から差し込む光は橙色になっており、側にいた筈のオディロも気を利かせたのかいなくなっていた。
そんな細い光さえも、今は眩しく感じる。
思い返すのは、あの日の青。両親と産まれたばかりの弟の四人で見た空と世界。幸福だった時間。
目を閉じる。
その幸せな記憶に、厚い扉で閉めて鍵をかけた。
時は流れ、十年経った。
その時間以上に様々な場所を巡り、行くあてのない放浪をし続けたが、いまだに呪いを解く術は見つからない。その尾すら、掴めなかった。
「もしかしたら、城の書庫に手掛かりがあるかもしれない……」
苦悩の末、手掛かりを求めて、故郷へ立ち寄る事にしたのだ。
そして、そこで再会を果たしてしまう。
王族しか知らない隠し通路を使って城へと忍び込み、王族のみが許された禁書が並んだ書庫で目を血走らせて書物を読んでいると、線の細い少年がやってきた。
王妃である母によく似た面持ち。すぐに弟のパヴァンだと分かった。
パヴァンは、本を両腕で抱えたまま、目を丸くさせていた。
その驚いた顔を見て、すぐさま身を翻す。
「ま、待って! 待って下さい!」
縋る声を振り払い、すぐに忍び込むために使った隠し通路の方へと走る。
「兄上!」
だが、切なさが混じった悲痛な呼び声が、動きを縛りつけた。
そんな声など振り払ってしまえばよかったのかもしれない。
死んだことになっている王子が国へと戻る危険を冒してまで――国の書庫室に手掛かりがあるはずだと言い訳をして――城に戻ったのは、決意が揺らぎつつあったからだ。
身分を捨てて十年。世界中を歩き、果てまで探しても一向に呪いを解く為の手掛かりすら見つける事が出来ない。
もう気づいていたのかもしれない。本当は、この身から呪いを消す方法などない事を。
もう忘れたかったのかもしれない。本当は、死ぬのが恐ろしい事を。
「兄上、ですよね? 僕はパヴァンです。あなたの弟です」
恐る恐る近寄ってくる声に振り向けない。かといって、逃げる事も出来なかった。
「父上と母上から聞いております。兄上がいると。亡くなられた事になっているけれど、本当は国を守る為に、国を出たのだと」
少し弾むような足取りで、とうとう真後ろまで弟が迫ってくる。
これ以上、近付かせてはいけない。自分は、存在しないのだ。それなのに、足は凍りついたように動かない。
「あ、兄上……?」
決して振り向かない兄の姿に躊躇ったようだ。
息を吸って、気持ちを落ち着ける。
ゆっくりと振り返ると、こちらを見上げる澄んだ青い目には、期待と親愛が満ちていた。
「……パヴァン、大きくなりましたね。産まれた頃の姿しか知らなかったから、こんなにも成長しているとは思いませんでした」
「やはり、兄上なのですね! ずっと、お会いしたかったのです! 肖像画で見たより、ずっと背が高いのですね。僕も、兄上と同じ位になりますか? いっぱいお話を聞かせて下さい!」
こちらを見上げながら、パヴァンは満面の笑みで口早に言うと、本を抱えていない方の手を伸ばしてきた。
「早く、父上と母上の元に行きましょう。兄上が帰ってきたと知れば、きっと喜びます!」
両親の顔が浮かんだ瞬間、伸ばされた手が触れる寸前でその手が触れない位置にまで両手を持ち上げた。
パヴァンが不思議そうに首を傾げた。
「兄上、どうなされたのですか?」
「パヴァン。今日、私が戻ってきたことは秘密です。父上や母上に、心配をさせたくない。いいですね?」
「どうして、ですか……? 兄上は、父上と母上に会いたくないのですか」
答える事が出来ない。
最初の時に縋る声を振り払っていればよかった。
「あ、にうえ……」
繋がりを感じられる呼び方をされて、胸の奥に巣食う感情が暴れ出す。
あてのない旅をし続けて、堪えたのは家族の団欒だった。
アスカンタ王族は、その課せられてきた【罰】だという呪詛のせいか家族を想う一族だった。
どんなに政務が忙しくとも、家族揃っての食事の一時を父は欠かさなかった。
しかし、国を出てからは果てのない孤独を知った。
家族との暖かな食事の時間を過ごしていた故に、味気のない食事をする辛さを痛い程思い知り、いつどこで素性がばれてしまうかもしれない危険性から人と関わることも最小限に抑えていた。
腹の底から飢えていたのだ。
孤独は、死を蝕む呪いより、自身を深くまで蝕み続けていた。
兄上、と躊躇いがちに繰り返される血の繋がりが、恋しくて堪らなかった。
――もういいだろうか。ここまで耐えて、頑張ったのだ。残りの余生は、家族と共に過ごしたい。
力を失った手が、暖かいであろう弟の手へと伸ばされる。
それを遮ったのは、ぶつりと首元から聞こえた何かが切れる音。一瞬の間の後、足元に転がるようにそれは落ちた。
拳大の大きさのそれは、アスカンタ王国の紋章が描かれたペンダント。頑丈な筈の金の鎖が真ん中で千切れている。
この国に語り継がれてきたおとぎ話の通り、月影の窓と二つの魂が刻まれている。魂が抱えるのは、【罪と罰】なのだと、王である父から教えられた記憶が蘇った。
『――――よ。国を支える我ら王家の一族の根幹にあるものは、罰だ。そして、もう片方の語り部を担っていた一族の根幹にあるのは罪。決して、千切れぬ因縁の忌まわしき呪いなのだ』
もう一度、紋章を目でなぞる。
まるで二つの魂は、使命を思い出せといわんばかりに、自分を責め立てている気がした。
なんと惨いのだろう。心を折らせはてくれないのか。こんなにも、飢えているというのに。
凍りついた気持ちでペンダント憎々しげに見つめていると、首を傾げたパヴァンが重そうな本をなんとか脇に抱えて、拾う為に膝を折る。
「落としましたよ、兄上」
呼ばれた瞬間、小さな手のひらが紋章に触れる前に、転がったままのペンダントを素早く拾い上げた。ぐっと握り締めると、紋章の冷たさが返ってくる。何度も味わった孤独や飢餓感のようだ。
そして、これからも味わっていくのだろう。一族の本願を果たすまで。
そんな辛さを、生きている弟に味あわせたくない。これは、あの時に死んでいた筈の自分の役目だ。
「兄上……?」
心配そうな声に、鼻の奥がつんと痛み、じんと目頭が熱くなる。
声を出すのが苦しい。
それでも、なんとか絞り出す。弟の前では、【尊敬できる兄】となっていたいから。
「……私は……行けないよ、パヴァン。もちろん。父上と母上にも会いたいけれど、会ったら、本当に心が揺らいでしまうから。これは、私達家族の為なんだ。分かってくれるね?」
「兄上……」
「私を兄と呼んでくれて、ありがとう」
揺らいでいた心を今度こそ定めさせてくれたのは、家族だという繋がりを繰り返してくれた弟の声だった。
「せっかく、兄上に会えたのに!」
焦れたように弟の手がもう一度こちらへと伸びるのを防ぐ為に、首を横に振って一歩下がる。
「それ以上はいけない。私は、この国には存在しない者だ。お前が、この国を守る唯一の王子なのだから」
「ですが、兄上も!」
優しい子だと思った。優しすぎるきらいがあるが、たくさんの事を重ねて乗り越えれば、きっと良い王になるだろう。
「私は、存在しない。王子でもない」
繰り返し、繋がりを今度こそ絶つ。
けれども。本願が叶わず、命がいよいよ残り少なくなった時。
「私の終わりが近付くとき、青い手紙を送ろう」
青は水を指し、それは雫となり、流れて溢れ、すべてが源へ――すなわち、家族のもとへ――と還るという言い伝えがアスカンタにはある。
終わり、と言った時、弟の顔が強張った。
笑った。
ずっと緊張を強いられた生活で笑っていなかったから、少しばかり不恰好な笑みだったが。
紋章を胸に押し当てて、同じ目線にかがむ。
「いいかい。パヴァン。私は、決して諦めないよ。この王家の紋章に懸けて、呪いを解いてみせる。そうしたら、会いに行くから。絶対に」
「絶対、ですか?」
頷くと、首から力が抜けて、弟は晴れやかに笑ってくれた。
「待っています、兄上。それまでに、僕は頑張って国を守ります。早くお帰りになってください」
「ああ、必ず。かえるよ」
帰るではなく、還る、になったとしても。
魂は、いつでもそばに。