震える身体。流れる血。それ以上に精神を蝕む痛みと喪失感。
すぐに昨晩の夢を見ているのだと、夢の中でククールは自覚することが出来た。
左肩を押さえて、足元に広がる赤い海の中で膝を着く。
血の海に踏み入れる靴先が、落とした剣を踏みつける。
痛みを少しでも殺す為に歯軋りをしながら、顔を上げた。
息が荒くなる。今すぐのた打ち回って、みっともなく叫びたい。
だが、それを防いだのは、すくいあげるようにして顎に伸ばされた白光の剣先と、昏い視線だった。
長髪に覆い隠されて顔は見えないというのに、こちらを探るようでいて、素通りするような視線を引き剥がせない。
少しでも気を抜けば、命を躊躇うことなく刈り取られるだろう。
永遠ともいえる時間が過ぎて、脂汗が額から伝い、目に入る。
瞬きすら許されない間も、ククールは男を見据えていた。
こんな場所で死ぬ気はないと、頭の中で繰り返し、激痛を払うように息を細く吐いた。
死が迫っているというのに、突然襲われた事による憤りのせいなのか、可笑しな事に頭は冷静だった。
今考えると、この時は極限の状態だったのかもしれない。
少しの隙でいい。目の前にいる襲来者から離れる手立てを考えていると、ぐらりとめまいに襲われた。
思った以上に出血が激しいようだ。回復しようにも、相手はその隙すら与えてくれないだろう。
男がゆらりと動く。
相も変わらず、顔は見えない。こちらを見下ろしたまま、剣を振り上げる動作が妙に遅く見えた。
せめての抵抗だと意志を貫くように青い瞳に強い光を宿して、目の前の敵を睨みつける。
決して絶望に染まることのないククールの目を見た男は、振り上げた姿勢のまま、息を呑んで固まった。
「……あおい、ひとみ……」
今まで威圧的だった雰囲気が、急にしぼんだように小さくなる。
「青い瞳。ああ、そうだ。――――も、まるで空のような瞳をしていた……。早く探さなくては。きっとまた泣いている。俺が見つけなければ……。また隠れて泣いているだろう。誰にも譲らない。俺の巫女だ」
狂ったように呟かれていく言葉の羅列の中で引っ掛かった言葉をククールは拾う。
「巫女……?」
だが、答えは返ってくるはずはない。
唐突に空気が目に見えるように揺らいだ。正しくは、遠くで大いなる魔力が動き、空を突き刺すように放たれたのだ。
脳裏に誰かの姿が浮かびかける。何処かで見た事のある少女に重なるようにして、古代の衣装を纏った女性がこちらを見ているように思えた。その側に控えるのは、やはり何処かで見慣れた青年の姿。
しかし、ククールが形をはっきりと掴む前に脳裏から掻き消え、空に浮かぶ満月に目を奪われる。
今までもそこに在った筈なのに、ククールはやけに明るい銀色の円の存在をはっきりと認識する。
すると、先程の比ではない全身が揺れるような目眩に襲われる。
ぐらぐらと閉ざされていく視界の中で、月を背にする男の姿が歪んでいるように見えて、意識がぷつりと途絶えたのだ。
しかし、すぐに誰かがククールの首の後ろに手を入れて、体を起こしてくれる感触に、再び意識が浮かび上がる。
今度こそ、夢から現実へと引き上げられるのだと分かった。
まぶたを押し上げて、視界に入った顔に微笑んだ。
「……お前の顔は、俺の繊細な心臓に悪い……」
「あっしは、その減らず口に心から感服いたしやす」
口元をぴくぴくとひきつらせたヤンガスの体はゼシカの氷に閉じ込められた際にできた凍傷だらけだ。
だが、肘には刺された傷はない。
それでも、誰よりも体に傷を負っているというのに彼は、傷の様子を見て黙り込んだククールに向かって明るく笑いかけてくる。
「お、心配してくれてるんでげすか」
「うっせえ」
「素直じゃないでげすなあ」
からかうような声を無視し、ククールは気だるげに半身を起こしたまま、視線を彷徨わせる。
不思議な泉の水面が、けぶるように輝いている。
その静かな光景は、ずっと緊張感を抱えていたククールを安心させるように迎えてくれた。
たわんだような空気も、異質な存在や気配もない。
それでも落ち着かないまま、視線を配った先で、華奢な背中を見つけてようやく安堵した。
ゼシカは流したままの髪を風に遊ばせながら、横になったままの情報屋を守るように座っていた。
その横顔に疲れが見える。それは、この場にいる全員がそうだろう。
「目が覚めたようで安心した」
声をかけられて視線を横へと移すと、あの時斬りつけられた老人が佇んでいた。
上から下まで眺めても、その細い体の何処にも怪我はない。
老人が、長い髭に隠れた奥で喉を鳴らすように笑った。
「惑わされたような顔をしているな」
「……ばっさりと斬られていたような気がするんだが」
「その通り。わしは斬られた。あの痛みも本物だった。おぬしも感じただろう」
「……あぁ」
あの衝撃と痛みを思い出して、口の中に苦味が広がる。先程の夢を見たせいか、何度も斬られたような感触に左腕をさする。
老人の言う通り、あの痛みは本物だった。二度も経験したククールだからこそ断言できる。
「あれは、現実だった」
囁くように言うと、老人は長い髭をそよがせて同意した。
「だが、同時に幻でもある」
謎かけのように唱えて老人は泉に視線をやった。
その中に沈むのは、一振りの杖。男に斬られた際に手放したものだ。
ククールが拾おうかと、尋ねると老人は首を横に振った。
「構わん。それよりも、あの御仁を一刻も早く救わねばならんのだろう。その身に呪いを刻んだ元凶は退いたようだが、油断はできまい」
「ククール、お願い」
ゼシカが疲れの滲んだ声で言った。
それにしっかりと頷いて、彼女と入れ替わるように情報屋の側に跪くと、背後からの仲間達の視線を感じながら、手を伸ばした。
ありったけの魔力は剣に注ぎ込んだが、この呪文を使うにはほんの少しあればじゅうぶんだ。
『大いなる力の源のもとに命ずる 揺らえたまえ 蝕むものよ ほどけよ 蝕む者よ キアリク』
ククールの手を通じて、柔らかい光が情報屋の体に沈んだかと思うと、内側にある邪悪なものを砕くかのように弾ける。
情報屋の体が跳ねて、呼吸の仕方を思い出したかのように大きく息をした。
「旦那! 旦那! あっしが分かりやすか!?」
ククールの肩から覗き込むようにヤンガスが大声を上げる。
その声に励まされたのか、情報屋がぎこちなく首を動かし、陸に上がった魚のように口を開閉した。
衰弱したせいで声が出ないのか。それとも、男に首の根を締め続けられていた影響なのか、言葉にならずに空気を漏らすのみ。
それでも、ようやく意識を取り戻した情報屋にヤンガスがむせび泣く。
「よ、良かった! 旦那! もう安心していいんでげすからね!」
耳元でがなり立てられ続けて、ククールは眉間に皺を刻みながら、肘でヤンガスの騒がしい顔を押しのけた。
「おい、ヤンガス。お前の顔や声は、繊細な人間や病人には辛いんだよ。うっとうしい。離れろ」
「だまらっしゃい!」
言い合いに、情報屋が苦笑いを浮かべた。
その間に、そんな男達の茶番を無視したゼシカが情報屋の体を優しく起こしてやり、老人がその口元に葉っぱで汲んだ泉の水をあてがった。
「よく頑張られた。泉は、あなたの呪いを解き、加護を与えるだろう」
老人の厳かで、優しい声に情報屋の目から涙が一筋溢れる。返事の代わりに、情報屋は乾いてひび割れた唇を開き、水を一口飲み込む。
その様子をククール達は一歩離れて、固唾を飲んで見守った。
水が喉を通った音がやけに大きく響いた後、二年前のトロデーンの姫の呪いを一時とはいえ解いた不思議な泉の力が、情報屋から奔流のように溢れる。
水面と同じように七色に輝く光の粒が踊るように漂う幻想的な光景は、きっと忘れる事は出来ないだろう。
その位に美しい光景だった。
幻想的な光はすぐに収まり、情報屋は同じように座り込んでいた。
「……体が、軽い……」
紫がかった青い瞳を見開き、しわがれた声で囁く。
鼓動を確かめるように皮と骨だけの両手を胸に当てて、身を震わせた後、流れていく涙を隠すように両手で覆った。
「これでようやく……」
後は言葉として聴き取ることは出来なかった。
それでも、アスカンタ王族の念願だったであろう解呪に手が届いた事に感極まったのか、すすり泣くような声が聞こえた。
その泣き声は、身に染まっていた呪いから解放されたという心からの安心感と、まるで友を惜しむかのような寂しさを湛えていた。
いつもの調子ではない情報屋に、ククールはどう接しようかと迷って、結局いつものような皮肉が口から漏れた。
「あんたも泣くんだな」
非難するような仲間達の視線が後ろから向けられるが、無視をした。
ふいに、晴れた笑みを浮かべる若き王の姿と、目の前にいる骸骨のような男の姿が重なる。
「……あんたを待っている弟がいるなら、会いに行ってやれ。しばらく休んでからな。それじゃあ、四つん這いにしか歩けないだろう」
「そうですね……。君らしい励ましに感謝しますよ。そうだ。お礼に握手でもしますか」
「礼は情報でいい。いい加減、ましな情報を寄越せ」
「おや、手厳しい」
眼鏡のない眉間を押さえた後、情報屋は笑いながら、こちらに手を伸ばしてきた。
一瞬だった。
骨と皮しかないというのに、力だけは残っていたようだった。
強く胸を押されて、ククールは仰向けに倒されていく間際、のけ反るように宙を視線で辿った。
自分の真後ろから突き出された白光の剣先が、真っ直ぐにククールを押し倒した人の薄い胸へと伸び、軽やかに背中から突き抜けた。
情報屋の体がびくりと痙攣して、ククールに重なるように倒れ込んでくる。
しかし、その前に突き刺さった剣が引き抜かれて、血飛沫がククールの視界を赤く染める。
仲間達の呻く声の間を縫うように、砂利を踏む音が耳に忍んでくる。
「その在処を奏でろ」
轟くような美しい声を、ククールは絶望的な気持ちで聞いた。
――雨の音が、聴こえる。
あの日の葬儀と同じ鬱陶しい雨音。それに混じる血の臭い。
立ち尽くしたククールの側で聞こえるのは、人目もはばからないヤンガスの吠えるような慟哭。
濡れそぼった髪をそのままにして、俯いたゼシカの細い肩が震えている。
まるで遠くから眺めているかのように、ククールはその場に立ち続ける。
目を閉じて横たわる情報屋の顔は、どこか晴れ晴れとしていて、眠っているようだ。
それでも、周囲に広がっている血の海が現実を知らしめる。
地面に染み込んだ赤を洗い流すように、雨は冷たく降り続けた。