ドラゴンクエストⅧ シアンの人   作:松ノ子

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第52話

塔のように天へ突きだす氷の白い冷気が、辺りの気温を奪いながら漂う。

 いまだに凛と佇み続ける背中が、ふいに斜めに揺れた。

 完全に立ち上がったククールは、彼女の元へ駆けて、その肩が崩れ落ちる前に包み込むように支える事が出来た。

 そして、触れた事によって、ゼシカの体に一切の魔力が残っていない事に息を呑む。

 やはり、魔力はベギラゴンを唱えた際に、殆ど空っぽになったのだ。

 推測すると、僅かに残った魔力を杖に乗せ、ヤンガスが投げた【氷のやいば】と共鳴させて、大気に漂う自然が持つ魔力を霧で集束させ、無理矢理、自分の力に変換したのだ。

 彼女だから出来る力技であり、同時にどれほど危険な事なのか。

 ゼシカが体を起こそうと身じろぎした。

「無理をするな!」

「……やっぱり、駄目だったみたい」

 ククールの言葉を無視して、彼女はまぶたを震わせた。

 何が、と問いかけようとすると、ゼシカの右手に握られたままの杖が震えたかと思うと、元の形も分からない程に粉々に砕ける。

 思わず、顔を跳ね上げる。

 男が閉じ込められたままの氷柱に、蜘蛛の巣状にひびが入った。ゆっくりではあるが、まるで内側から破壊するかのように男の周りから氷が割れていく。

 これ程の魔力を込めても、男を捕らえることは出来ない。

 出来ないのだ。

 後ろの方で、ヤンガスもまた体勢を整える気配がした。

 しかし、全員が満身創痍だ。動ける者は誰もいない。

 

「聞いて」

 

 いまだに焔を残した声音が、ククールの意識を釘付けにする。

 肩を支えたまま、ゼシカを見下ろすと、声音と同じように強い瞳が射抜いた。

 決して揺るがない眼差しに、ククールの息が止まる。

 

「今、ここは現実の世界じゃないわ。結界に阻まれた異界よ」

 

 彼女は続ける。

 魔力を込めた霧を広範囲に漂わせた際に、ある距離で霧を弾かれ、阻まれたのだという。

 指摘されて、ククールは今まで感じていた違和感をようやく思い出す。

 ずっと肌で感じていた。どこか隔離されたような感覚。昨晩も今の状況も、自分たち以外の音が聞こえなくなったのだ。

 

「いくら、あいつを捕らえても傷つけても意味がないって事か」

 

 つまり、厄介な結界を破壊しない限り、状況を打破できない。

 ゼシカの渾身の魔法でも破壊できなかったのだ。動ける者がいない状態で、結界を壊す事が出来る可能性はないに等しい。

 

「ああ、くそ。なんだってんだよ……」

「……あんたは、そればかりね」

 

 呆れたような、冷めたような眼差しでゼシカが嘆息する。

 いまも尚、氷の割れる音が響く。まるで、少しずつ恐怖を煽るような不穏な音。

 八つ当たりだと分かっていながらも、ククールは声を荒げる。

 

「当たり前だろう! 誰も動けない状況でやってられるか!」

「勝手に決めつけないで。私は、まだ諦めてないわ」

 

 億劫そうにゼシカは首を巡らせると、泉より奥に倒れ伏したままの老人と、情報屋を抱えたままのヤンガスを見た。

 

「ヤンガス。情報屋さんとおじいさんを抱えて、出来るだけ下がってちょうだい」

「分かりやした」

「何をする気だ」

「決まっているでしょう」

 

 強い瞳が、大きく煌めく。

 

「あいつを倒す事は無理でも、この場をしりぞかせる事は無理とは決まってない」

「そんな事……」

 

 不可能、だと言いかける。

 どう考えても、ゼシカの体では魔法を行使することは出来ない。

 ククールの表情で読み取ったのだろう。

 

「不可能じゃないわ。あんたにも手伝ってもらう」

「無理だ。……利き腕がない状態で、どうやってお前を守るんだ?」

 

 思い出したように、灼熱の痛みが走る。肩の先から途切れた左腕。

 息が急に上がり、ぐらぐらと視界が揺れて、曇っていく。

 そうだった。男に、自分の腕を斬り落とされたのだ。もう戦う術などない。

 このまま、何も守ることなく、死ぬのだ。

 

「誰も、守ってほしいなんて言ってない。私は、守られる存在じゃないわ」

 

 今までの淡々とした声音から一転して、ゼシカが初めて声を上げた。

 

「私は……、共に肩を並べて、一緒に戦う仲間よ!」

 

 絶望に死にかけたククールの心に響くような激昂だった。

 視界が再び晴れていく。ククールの霧を晴らすのは、赤みがかった瞳から発される眼光。

 

「私もヤンガスもまだ諦めてない。あんたも諦めないで。……しっかりと見なさい! 私達、仲間を!」

 

 細い手が、失った腕の方へと伸ばす。まるで、ここに在るというように力強く掴んだ。

 

「守るというのなら、まずは剣を握りなさい! あんたの剣は、まだ落ちてない!」

 

 痛みではない焔に似た熱が、小さな手を通じて、ククールの体の中を伝っていく。

 瞬間。頭の奥で、何かが弾けるような音が聞こえた。

 掴まれた部分から始まり、指先が在るのを感じた。次いで、手がぴくりと動く。失われた筈の感覚が戻っていく。

 それが逆に恐ろしくて、【左手】を探るように動かして、彼女の手を握る。

 ゼシカが目尻を下げながら笑って、握り返してくれた。

 

「ほら、私の言う通りでしょう?」

 

 利き腕は始めから斬り落とされてなどいなかった。

 それはパルミドの宿で確かめた時と同じ。

 方法は分からないが、男によって惑わされたのだと直感的に悟った。

 自身の腕をしっかりと眺める暇もなく、氷が大きく割れる音が響き、ゼシカと共に顔を上げて、互いを支え合うように立ち上がる。

 いよいよというように、ひびが氷柱隅々まで伸びていた。

 その氷の牢獄越しに向けられる異質な視線。

 

「ククール!」

 

 ヤンガスの太い声に振り返ると、鈍い光を放ちながら、それは弧を描き、伸ばした右手に吸いつくように収まる。

 先程、落とされて、手放してしまったククールの細剣だった。

 

「今度は、離すんじゃないでげすよ!」

 

 傷ついた拳を振り上げて、ヤンガスが歯を剥きだして笑っていた。

 ゼシカの言う通りだ。

 彼女も、ヤンガスも諦めていない。互いに信頼しているから、こんな状況でも笑顔が浮かべる事ができるのだ。

 

「今から、私はあんたの魔力をぎりぎりまで吸い上げる」

 

 手を握ったまま、ゼシカは言った。

 

「即席のマホトラだから、上手く出来るか分からないけど。絶対にやってみせる。その後、その魔力を使って、結界にひびを入れるわ。多分、今の私が出来るのはそこまで。だから……」

 

――その後は、任せるわ。

 

 笑みが眩しい。

 ここまできても、その信頼を受け取る覚悟が定まらない。

 返事の代わりに、剣を持ったまま、ククールは己の胸に手を当てた。

 

『緩めよ 祖より、刻まれた力よ 血から、生まれた力よ 抗うな阻むな 身を委ねよ ディバインスペル』

 

 うっすらとした光が体に染み渡る。

 これは、魔力や呪文への抵抗を圧倒的に下げる事で、術者の唱える呪文の威力が倍に跳ね上がる補助呪文。

 

「ありがとう」

 

 日向のような笑みはすぐに消えて、強い意志を用いて退けるという気迫をゼシカは纏い始めて、手を氷の方へ伸ばした。

 触れている彼女の体が僅かに熱を持ち始める。

 始まった。

 

「私を信じて。私も、私自身を信じているから」

 

 突きだされたままの小さな手に、躊躇いがちにククールは手を添える。

 

「俺は……」

 

 何を言えば良いのか迷うように口を開くと、それを遮ったのは強い声。

 

「ククール」

 

 再会して、初めて名を呼ばれた。

 揺るぎのない強さを湛えた瞳が、こちらを振り返る。彼女の赤みがかった両目に自分の情けない顔が映りこんだ。

 鋼のように硬く、大木のように揺るがず、かと思えば、水のようにしなやかで聖い。

 そんなゼシカが纏い、発する光に目がくらみそうになる。

 強い光だ。ぼやけた薄い月などよりもずっと強い。行き先を照らし出してほしいと思っていた焦がれた光。

 あの時、突き放し、傷つけた娘はもう何処にもいない。己の信じた道を進み、美しく成長した女性が目の前にいた。

 もう一度、口を開いた時には何も迷いがなくなっていた。

 

「信じている。俺が、お前の波長に合わせる。だから……」

「ええ、信じる。あなたを許し、信じるわ。ククール」

 

 力が、大気が彼女を中心として、渦を巻いていく。

 同時に――呪文の対抗力を削ぐ魔法をかけているとはいえ――己の魔力が急速に吸われていく感覚にククールは歯を食いしばって耐えた。

 本当にゼシカは、例え、賢者の血を引いてなかったとしても、紛れもない天才だ。初めて使うにも関わらず、無詠唱で魔力を吸う呪文マホトラと、それに並行して属性の違う別の呪文を唱えているのだから。

 それでも、時折よろめくように華奢な体が震える。ククールは足を踏ん張らせて、彼女の信頼を二度と裏切らないように支えた。

 ふつり、と吸われる感覚が止み、今度は添えた手に電撃のような痺れが走る。

 ゼシカの手を介して、己の魔力が塊となり、自分の身体が別のものに造り変えられて、彼女と一体化していくように混じる。

 痺れは、熱さと変わる。膨らんでいく魔力が最高潮に高まっていく。

 あとは、ただ一言だけ。魔力を解放する言の葉を乗せればいい。

 

「ゼシカ、お前に託す。俺の全てを」

「受け取ったわ。……さあ! 大穴をあけるわよ!」

 

 彼女の動きに合わせて、添えた手を持ち上げる。魔力が渦を巻いて塊となり、大きく発光した瞬間、彼女が唇を開いた。

 同時に、氷が完全に割れて、脱け出した男が剣を振り上げる。

 

『マダンテ』

 

 時が止まり、破壊が生まれて、男が一瞬で呑まれる。

 根を張った木々も地にしがみついていた土も大きく抉れて、宙へと巻き込まれ、一方的に、圧倒的に蹂躙される。すべてが彼女の前に回帰する。全てを無へと還す究極呪文。

 暴力的な光景がククールの目に刻まれながら、その時、周囲に張られた結界にひびが入っていくのをしっかりと肌で感じた。

 

「…………っ」

 

 吐息を一つこぼしたゼシカの体から一切の力が抜けて、こちらに寄り掛かる。

 咄嗟に、膝裏に手を入れて、右手だけで抱え上げる。

 覗きこめば、力を今度こそ使い果たし、意識を失ったゼシカが小さく寝息を立てている。

 綺麗になったと思っていたが、この寝顔はまだあどけなさが残っていた。それに安心したと同時に、その額にそっと口づける。

 

「感謝する、ゼシカ」

 

 彼女のお陰で、少しだけ見えた光に笑みが浮かんだ。

 それを輝かせるか、吹き消させるかは、ククールの役目だ。

 これ以上、仲間達に無様な姿は晒す事はできない。

 先程まで、彼女の腕に触れていた左手で剣を握り締め、大きく集中すると、剣を地中に突き刺して、自身の体に残されたありったけの魔力を注ぎ込む。

 複雑な魔方陣が剣を中心に描かれて、ずるりと地を這うように、いかずちが漏れ出し始める。

 魔力の残っていない今の身体には、この技は負荷が大きい。

 

「ぐぅっ……!」

 

 唇に歯を突き立てて、痛みで自分を保った。

 少しでも怯めば、隙を見せれば、地獄にいるであろう悪魔達に魔方陣を通して、魂ごと持っていかれるのを、全身全霊の意思を寄せ集めて防ぐ。

 そして、魔方陣に力が満ちて、大きく輝いた瞬間、地獄のいかずちを、結界のひびへと解き放った。

 視界がいかずちのまばゆさに真っ白になりながらも、目を凝らす。

 いかずちの触手が、ひびを無理矢理抉じ開けていくのを見届けたククールは、ゼシカを抱き込んだまま、地面に倒れ伏す。

 意識が落ちる間際、ククールのジゴスパークが結界を覆うと同時に、結界の外側からも強い魔力が重なったような気がした。

 そして、今度こそ完全に結界が壊された。


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