息苦しい程に、空気が炎のような熱を孕んでいる。
その原因は、ククールの後ろから少し離れた場所にいる娘だ。
彼女は、先程まで正気を失っていたと思えない凛とした声音で、男に命令する。
「今すぐ言いなさい」
「二度も言わねば、理解できないのか」
「言えと、言っているのよ」
声音は静かなままなのに、彼女の高まる感情に比例して、纏う魔力の密度が大きくなっていくのが振り返らずともククールには分かった。
それでも、男は動じない。いまだに情報屋の首の根を掴んだまま、わざとらしい程にゆっくりと口を開いた。
「足元に転がる様は、惨めなものだった事だけは教えてやろう」
その言葉が、炎を焔へと転じさせるには充分だった。
熱風が波打つ波紋のように巻き起こる。
今まで以上の怒りを感じ、ククールは霞がかった思考を振り払う。痛みさえも押し退けて、肩越しになんとか振り向いた。
杖を抱き込むように腕を交差させて、集中するように目を閉じているゼシカの周りが陽炎のように揺らいでいる。それは、徐々に範囲を広げていき、まるで生き物のように蠢いた。
今にも爆発しそうな状態を、彼女は更に極限まで高めようとしているのが分かった。
それは、今の彼女にとって危険極まりない行為。
「それ以上……、その体で呪文を使うな! 命を削るぞ!」
今のゼシカに魔力が殆ど残っていないのだと気づいたのは、ここに向かう際のあの時。
だが、魔力が残っていないというのに、彼女は仲間一人の為に怒り、魔力の代わりに命をも使おうとしている。
ゼシカは、答えない。それ程に集中しないと、残り少ない魔力を高める事が出来ないのだと分かった。
いよいよ、陽炎が伸び上がるように大きく揺らいだ瞬間、彼女が動いた。
それを見越していた男もまたヤンガスの肘から易々と剣を引き抜き、もう片方の手には情報屋の首を掴んだまま、立ち向かう為に前へ出る。
「ヤンガス! 分けてもらった魔力を使わせてもらうわ!」
小柄な体がしなやかに、遥か高く宙に舞う。交差していた腕を振り解くと、杖を真下にいる男に向けた。
『邪よ 蛇よ 赤を纏え とぐろを巻け 牙を研げ 鮮烈を彩れ 炎を象れ 灼熱を纏い、その焔を起こせ 穢れをその赤で払いたまえ ベギラゴン』
唱えた呪文が発動し、大蛇を象った大きな焔が彼女の意に沿って、男へと牙を剥いた。
しかし、その大蛇に込められた魔力は薄っぺらいとククールは気付く。やはり、彼女の魔力は圧倒的に足りないのだ。
見てくれだけの大蛇は、男に首の根をつかまれたままの情報屋ごと丸呑みしようと、あぎとを広げるも、男が静かに笑った。
どうやらククールと同じように大蛇が張りぼてだと気付いたらしい。
片腕だけで、辺りを剣で払う。その剣圧は、彼女の渾身であったであろう焔を一瞬であっという間に吹き消した。
その剣圧と吹き飛ばされた魔力の反動に煽られて、小柄な体は更に高く宙へと飛ばされた。
それに追い打ちをかけるかのように男も情報屋を掴んだまま、彼女へと向かって飛んで、剣を下から上へと持ち上げるように斬りつけた。
その剣撃を、ゼシカは頭をよじってなんとか躱すも、躱しきれなかったのか二つに括っていた髪が大きく広がった。
動こうにも、ククールの体では足手まといだ。抉りそうになるほどに、左肩を掴む手に力がこもっていく。
自分の不甲斐なさに怒りが増していく間にも、男のさらなる剣の一撃。と見せかけて、鋭い蹴りが彼女の肩に当たってしまう。とうとう彼女の体が地面へ降下していった。
こんな状況にそぐわない獣が唸るような声に、ククールは再び視線を隣へと戻す。
すると、知らない間にヤンガスが傷だらけの体を引きずりながら起こして、左手で懐を探ると、一本の短剣を引き抜く。
「大人しくしてもらいやすぜ! ラバ!」
不穏な気配を感じたのか、男が僅かにヤンガスの方を振り返る。
同時にヤンガスが引き抜いた短剣を投げる。刀身が氷のように透き通ったそれは男から逸れて、受け身をとれないまま、地面へと落ちるゼシカへと向かった。
「ゼシカ!」
ククールの体が、意識を越えて、彼女を守ろうと腕を支えに勝手に立ち上がる。
すると、ゼシカは不敵に笑った。
華奢な体をよじり、呻るような速さで杖先を、短剣にぶつけたのだ。
魔力を持った短剣と杖の共鳴によって眩い光が目を強く灼き、魔力によって緻密に編み込まれた白い霧がぶわりと発生する。霧は、あっという間に辺りを包み込んだ。
「その人を離してもらうわ」
全方位から響く静かな声音の後、突如として地が揺らぐような焔の柱が、霧を裂くように生まれた。
まだ終わっていない。終わらせないという彼女の意に沿って、今度は霧が蠢いて、魔力に満ちた風が大きく吹き荒れる。先程の見かけだけの薄っぺらい焔蛇とは違った濃厚な魔力だった。
霧の間から吐き出されるようにして、意識を失ったままの情報屋の体が落ちてくる。
「旦那!」
地面にぶつかる前に、ヤンガスがぎりぎりのところで受け止めて倒れ込むように転がる。
だが、その間も彼女の猛攻は止んでいなかった。
そして、焔もまだ消えてはいなかった。
真っ白な霧が焔の元へと集い始め、根元から覆うように集束していく瞬間。
『凍りつけ 息吹と共に 止まれ 刻と共に ヒャダルコ』
囁くようで、力強い言の葉が呪文を完成させるのをククールは確かに聞いた。
つんざくような音と共に、霧と焔の柱が一瞬にして、別のものへと成り代わる。
先程の氷とは異質な程に、巨大な氷柱が形成されて、その氷柱の中に男が閉じ込められていた。
そして、その氷の根元に立つのは、腰まで長い赤みがかかった髪をなびかせた背中だった。