「それで、そこで兄貴がねえ……ひっく。こりゃあ、失礼しやした、お嬢さん」
「……誰が、お嬢さんだ。よく見やがれ、この酔っ払い」
迫ってきた赤ら顔を、手に持っていたジョッキでぐいと押しのけて、ククールはため息をついた。
「でねえ、お嬢さんー……」
「とうとう、耳と頭まで酒に浸かったか……」
安酒をたらふく呑んで酔っ払ったヤンガスの目には、ククールが、酒場の給仕係の娘に見えるのか、先程からひどく絡んでくる。
あまりに酔いがまわったヤンガスに、ククールが試しに「おごれ、ヤンガス」と言うと、「よーしよし、おいちゃんがおごってやるでげすー」とありがたい返答を頂いたので、この酒はヤンガスの懐から呑ませて頂いている。
だが、この酔っ払いのせいで呑む気もすっかり失せた。泡の消えたまずい酒を口にするのも諦めて、ククールはカウンターのがたついた椅子から立ち上がった。
「おい、ヤンガス。……ジョッキに話しかけてんじゃねえ」
気が付けば、カウンターの横に積まれたジョッキの山に向かって、へらへらとヤンガスが何やら話し込んでは頷いている。
「そうなんでげすかー……。えっ? ああ、そうでげすねえー」
その瞬間、こいつを放って、どこかの宿屋に引っ込もうと、ククールは決めた。
ヤンガスの脇を押しのけて、その体で隠れていた窓の外を見て、雨でも降っていないかと確かめる。
次の瞬間、彼は大きく目を見開いた。
「お、お客さん!?」
酒場の亭主の驚いた声が後ろで聞こえたが、ククールは構うこともせず、扉を蹴破るような勢いで、店を飛び出す。
夜をすっかり迎えた空は、小さな星々の光でぼんやりと明るく、道は家々から漏れる光によって明るい。
きっとアスカンタの家々では、家族が顔を寄せ合って、暖かい食事をしているだろう。
だが、そんな事を考えることもなく、ククールは辺りを見回して、すぐに落胆の表情を見せた。
「……気のせいか」
「何がでげすか」
そんな彼の背に、のんびりした声が掛かる。
「お前、酔ってたんじゃねえのかよ……」
振り返ったククールに、ヤンガスは空のジョッキをかかげてみせる。
「あんたが、あまりにも血相を変えて、店を飛び出すもんでげすから、何かあったのかと思いやしてね」
先程まで、ジョッキを話相手にしていたと思えないしっかりとした受け答えでヤンガスは言った。
「それで、なにかありやした?」
「……なんでもねえよ」
ククールは視線を逸らしながら、ぶっきらぼうに言うと、追及を拒絶するように背を向けてしまった。
ヤンガスは小さくため息をつく。
「お、お客さーん、お勘定を……」
「そういや、忘れていやしたな」
飛び出した彼らを追ってきたのであろう禿げ面の亭主の声に、ヤンガスは手に持っていたジョッキに目を向けた。
次いで、少しばかし期待を込めた視線をククールの背に向けるが、どこか遠くを見る彼は振り向きもしなかった。
「あー……。あっしが払いやす」
しなびた財布から銀貨を二枚だして、日頃の運動不足がたたったのか、ぜいぜいと息を吐く亭主に手渡す。
「確かにお代は頂きました。どうぞ、またうちの店をごひいきに」
営業用の満面の笑みを浮かべた彼に、ヤンガスはジョッキを返しながら、尋ねた。
「ここいらで、一番安い宿はどこでげすかね」
「ああ、それなら……」
親切に教えてくれた亭主に礼を言って、ヤンガスはいまだに背を向けて彫像のように佇んでいるククールの肩を叩いた。
「ククール、そろそろ宿にいきやしょう」
ああ、と返ってきた硬い声音に、彼は静かに囁く。
「あんまり追いつめると、体を壊しやすよ?」
ようやく、のろのろと振り向いた青年に、ヤンガスは歯を見せて笑ってみせた。
「探そうとするから、そこらに転がってる小石みてえな小さなものにまで、それを鏡のように見るんでげす。見分けがつかなくなってしまうまで疲れきってしまえば、人間は動けなくなっちまいます」
諭すようにヤンガスがゆっくりと言うと、ククールは「……分かっている」と小さくつぶやいて、前髪をくしゃりとかきあげた。
「分かっている……」
もう一度、囁いた彼の背を、ヤンガスは労わるように叩くと、共に宿の方へと歩き始めた。
瞬く星々を纏った夜空は、そんな彼らを静かに見おろしていた。