吐いた息が白く透けて、夜空にすうっと溶ける。
それをぼんやりと眺めながら、ククールはアスカンタ地方とパルミド地方に続く道を歩き続けていた。
時間帯も夜中近くなると、比較的暖かいマイエラ地方でも、寒さに棘が増す。厚みのある布地のコートにも関わらず、冷たさが忍んできて、微かに身を震わせた。
仲間と共に雪に閉ざされた極寒の地方にも行ったが、それとは別物で寒さの感じ方が違ってくる。
狂暴な魔物が少なくなったとはいえ、ククールがこうして夜道を歩いているのは、今日の夕方頃までドニの町にいたからだ。
そこは昔なじみの連中がいたり、修道院では問題ばかり起こす自分が唯一息抜きできる寂れた小さな町。そして、幼い頃に亡くなった両親の薄汚れた墓が身を縮めるようにしてある。
別に花を手向けるわけでも、磨いてやるわけでもない。ただ気が済むまで墓の前に立ち、見下ろすだけだ。意味などない行為。それでも命日となれば、気が付けば足を運び、見下ろす。
今年もまた墓の前に立ち続けるだけの夜を過ごし、次の日になれば小さな町の中で唯一栄え続ける酒場でカードに興じる。
だが、この年だけは違った。
かつて、あの男の側近であった一人がククールに声を掛けてきたのだ。
その人物は側近の中でも特に抜きんでており、あの男の信頼が特に厚かった。多くの側近や団員には、あの男のカリスマ性に惹かれた妄信的な者達が多かったが、その者はそんな彼らとは一線を画していた。カリスマ性ではなく、純粋にあの男という器に陶酔していたように思う。
カードをめくっていた手を止めて渋い顔をしたが、話がしたいという元側近の男に言われて、酒場の裏へと付いていった。
すると、相手は前置きもなく単刀直入に話を切り出してきた。
「お前、あの方を捜しているそうだな」
僅かに反応が遅れたが、すぐに修道院の連中を苛立たせた薄い笑みを浮かべてみせる。
自分をたんこぶ扱いしていた男を捜す訳がないと皮肉を言おうとするも、その人物はそれを封じるように言葉を重ねてきた。
「誤魔化しても無駄だ。パルミドにいる情報屋本人から話を聞いた。ふた月には一度、自分の元にやってくるとな」
黙り込んでしまったククールに、彼は自分がずっと目を背けてきた疑問を投げかけてきた。
「お前は、あの方を捜しだしてどうするつもりだ?」
その後、相手とどのような会話をして別れたのかは覚えていない。我に返った時には、側近であった男はとうに姿を消していた。
そして、元側近と再会したその日の夕方、部屋を準備してくれた宿屋の女将に町を出ると告げた。
その女将は昔、父の屋敷で下働きとして働いていたという。その為か、この町の誰よりも目をかけてくれた。
その女将はとても悲しそうな顔をしたが、すぐに彼の背中を力一杯叩いて、「また帰っておいで」と子供を見守るような暖かい笑みを浮かべてくれた。
痛みに顔をしかめながらも、ククールはくすぐったいような暖かい気持ちになって、顔を逸らして頷いた。
次はいつ、ドニに戻るのかは分からないが、それでもここが自分の故郷なのだろうと改めて思ったものだ。
『お前は、あの方を捜しだしてどうするつもりだ?』
だが、女将の笑顔を思い出したのも束の間。歩き始めてから、言葉が影のように執拗についてくる。
知るかよ、とその度に心の中で吐き捨てて、胸の奥が詰まっていくような感覚に苛立つ。
こんな風になるのなら、まだ酒場に留まってカードに興じるべきだったかもしれない。
だが、あそこにいれば、また相手が姿を現しそうで嫌だったのだ。
あの男に会ってどうするのか。そんなことは頭の何処かで、いつも思っていた事だった。
いっそ、忘れてしまおうかと何度も思った。
その度に、忘れることを許さないとでもいうように、コートの懐にしまい込んだ指輪が鉛のように重くなるのだ。
コートの上からそっと、それを押さえる。
聖地が崩壊した時に放り投げられたこの指輪には、あの男の全てが詰まっていたのではないかと思う。
自分という存在が産まれたことによって、理不尽に追い出され、そしてようやく見つけたマイエラ修道院という揺らぐことのない安住の場所は、疫病神のように自分が来てしまったせいで、酷く脆いものへと変わってしまった。それでも、居場所を奪われまいとしたかのように、あの男は――兄はどんどんとのし上がっていったのだ。
そして、疫病神の自分はそのすべてを壊した。
世界の為だったと。仕方なかったのだと。そう思うこともできるだろう。
だが、それは兄のかけがえのないものをすべて奪うことになったのだ。
いつか助けたことを後悔するぞ、と憎しみに満ち溢れた声が、頭の中に響く。
その声を振り払うようにククールは、大きく白い息を吐いた。
元側近の言う通り、仲間との旅を終えてから、パルミドの情報屋の元へ足をよく運ぶようになった。
当初は、情報屋も警戒するように分厚い眼鏡の奥で目を細めていたが、男の情報を求めると納得したようだった。裏の住人には、自分と男の関係性など周知の事実だったらしい。
だが、訪れるたびに繰り返されるのは同じ言葉だった。
「残念ながら、君の求めるような情報は入ってきていません。消えた法皇の行方を知る者はおらず、私の情報網でもかすりもしません」
約一か月前、いつも通りの言葉を繰り返した情報屋は両手を組むと、その上に顎を乗せた。そのまま、こちらを見る。
一人で初めて隠れ家へ足を踏み込んだときよりも、ずっと鋭い視線だった。
「君は、何を知りたいのです?」
知らない内に、喉がひくりとひきつれた。
「……なにがだ」
返答が遅れた事がばれないように硬い声音で返すと、情報屋は片方の眉をあげた。
「生きているのか、お亡くなりになられているのか。どちらをお知りになりたいのか、ですよ」
そんなもの、と言いかけて、言葉に詰まった。
情報屋に言われて、初めて気づいた。自分は何が知りたいのだろうか。生死のどちらを知りたいのだろうか。
ただ、黙り込むしかない自分に、情報屋はさらに続けた。
「君は、血を分けた兄が生きていた方がいいですか?」
「……あんたは、情報を売るのが仕事じゃなかったのか? それとも人の事情に首を突っ込むのが仕事だったか?」
ようやく言い返すと、情報屋は我に返ったかのように顎を浮かせた。そして、眼鏡を押し上げて、唇に薄い笑みを浮かべた。何処か取り繕うようなものだった。
「これは、失礼しました。どうやら、歳を取るとおせっかいになってしまうようだ」
「そうかよ。……またくる」
金を置き、短く告げると、情報屋はにっこりと読めない笑みを浮かべて見送ってくれた。
情報屋や側近、そして自身が奥底にしまっていた疑問を忘れるように足を進める。
それと同時に道先を照らす満月のように、自分の前に答えを誰かが照らしだし、それを教えてほしいと思った。
答えは、いまだ見えない。答えの捜し方も、分からなくなっていた。
それでも、足を止める事は出来なかった。
誰も止めてくれるものはいなかった。