その夜は、暖炉の明かりに照らされただけの暗い部屋で一人、苦悩していた。
暖炉の燃える炎に照らされた顔は鏡を見なくても悲しみと絶望に染まっているのが分かる。いつもなら座り心地を楽しむソファも今は、硬く冷たい石の上に腰かけているかのようだった。
のどから迸りそうになる激情を押さえこむように、両手で顔を覆う。指の間から、絞り出すように弱々しい声音で一人の名を呼んだ。
だが、それは暖炉の薪が爆ぜる音でかき消される。
しばらくそうしたまま、唐突に顔を上げた。訝しげに眉間にしわを寄せて、広い部屋の中を見回す。
「……誰か、いるのか?」
その筈はない。この部屋に誰も寄らせるなと、臣下に厳命した。火急でもなければ、こちらに来るはずはない。
かわいた唇を舌で湿らせて、囁く。
「……キラか?」
心優しいあの娘が心配して、やって来たのだろうか。
だが、返事は返ってこない。なにより、彼女が命令に背くことはないと自分が誰よりも知っていた。
では、誰だ。
警戒するようにゆっくりと立ち上がった瞬間、暖炉の炎が水をかけられたかのように、じゅっと音を立てて消え、部屋が一瞬にして闇に包まれた。
驚いて振り返った視線の先に、闇より深く、暗い影があった。
恐怖に包まれた彼が声をあげる暇もなく、影は滑るように近寄ると、炎が燃え上がるように大きく伸びあがり……――
「我が国の英雄はどちらに」
部屋に入るなり、穏やかな声で言ってきた大臣を見ることなく、分厚いカーテンに隠れた窓の方へと向けた。
大臣が扉を開けた時に運んできた風によって、カーテンから漏れる日差しが踊るように揺れる。
窓の外は青い空や海が広がっているだろう。
だが、今は青というものが見たくはなかった。見れば、思い出す。そして、絶望を繰り返す。
暖炉の薪が昨晩と同じように爆ぜて、思考に囚われてしまいそうになるのを止めてくれた。
暖炉の炎は激しく身悶えるように膨らんで燃えているが、体の芯はいまだに寒さを感じている。
「王よ、寝台へとお戻り下さい。まだ御身は回復してはおりません。倒れられては、また城の者達が心配します」
さあ、と優しげに言う大臣の顔をパヴァンはようやく真正面から見返した。
「大臣、この市を中止とする。手筈を整えてくれ」
皺が緩く刻まれた目元は、ぴくりとも動く事はなかった。
エイトがこの部屋にいた時点で、この男は予想していたのだろうという事は考えなくても分かった。
昔から、ローレイという男が少し苦手であった。
国を大事にしている事は分かる。もしかしたら、王である自身よりもずっと強く思っているかもしれないと感じる時もある。
ローレイが国を思い、こだわる理由。寝台の側で二つに裂いた手紙の主のせいでもあろう。
破かれて目を背けられた手紙に気付いているのか、いないのか、ローレイは胸元に手を当てる。
「それは賛成できません、我が王よ。それが国にどのような損失をもたらすのか、お分かりになった上で仰られているのですか」
怒りも失望も含まない穏やかな声音でローレイは言う。
「国より、民だ。民に何かあれば、国という形や枠などあっという間に崩れる。昨日はエイトさん達が再び救ってくれたが、今日は明日に同じ事が起こらない保証がどこにある?」
「保証などありません。逆に言ってしまえば、魔物がまた現われるという保証もございません」
「ローレイ」
苛立ちを隠す事無く、大臣の名を強く呼んだ。
ふらつきそうになる体を叱咤して、四肢に力を込める。言う事の聞かない体は、ひどく冷たい。しかし、それだけだ。
「市を一度中止した所で、国は消えない。お前の思う国は、その程度の弱さしかないのか」
ここで初めて、ローレイは動揺したように胸元に置いた手を僅かに動かした。
「そんな事は思っておりません。私は、民の暮らしを思って……」
「ローレイ。お前は、誰に仕えているのだ」
唐突に切り出した質問に、困惑したようにローレイがこちらを見上げてきた後、すぐに跪く。
「我が王パヴァン様とアスカンタに」
「違うだろう。お前は、お前が今も仕えているのは……」
見上げると優しく笑って、頭を撫でてくれた人の顔が浮かぶ。目元に消えない隈を作り、いつ忍び寄るか分からない恐怖に怯えながらも、優しさを忘れなかった人。
悲しいくらいに青い手紙を指差して、唇を噛んだ。
「お前が今も心から仕えているのは、私や国ではない。……兄上だろう」
その時、扉の外が騒がしくなる。
ローレイが膝をついたまま、外に向かって声を上げた。
「何事だ。騒がしい」
「申し訳ございません! ですが、火急の知らせにございます! トロデーン国の使者が突然、アスカンタ城に!」
「なんだと?」
突然のトロデーンの使者の訪問に顔を合わせたパヴァンと大臣に、外にいる兵士が声を上ずらせて続ける。
「トロデーンの姫君が本日昼頃、お倒れになられたと……!」