ドラゴンクエストⅧ シアンの人   作:松ノ子

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第39話

 

 丘を登りきると、あれ程漂っていた重苦しい空気は薄れていった。

 辺りには澄み渡った空気が満ち満ちていて、エイトとキラはしばらくの間、肺の中にたまった澱んだものを追い出すように深呼吸を繰り返した。

 緊張が溶けるように体から出ていくのを感じて、エイトはキラの方を見た。

 

「なんというか、空気がおいしいね」

「そうですね。……私、ようやく息が出来た気がします」

 

 だが、下の方に比べればましであっても、頂上にも異変が起きているのは確かだった。

 以前、ここから見る空は青く澄んでいて、手を伸ばせば届きそうだと思っていたが、今は妙に重くて遠く、足を踏み入れる前に丘を見上げた時に思った暗さが近寄ってくるのを感じていた。

 念の為、エイトは頂上一帯に魔除けの呪文を唱えた。広範囲であれば多少、手には余るが、この位の広さなら対象が人ではなく、土地にでも使う事が出来る。二年前、各地方の教会が襲われなかったのは同じような魔法が教会でも使われているからだと仲間の一人から聞いた。

 空気に交じるように魔力が辺りに広がっていくのを感じながらも警戒を怠らずにあちこちに視線を配る。

 願いの丘の至る所には建物の残骸があり、頂上にもまた、紋様の描かれた床の一部が草に埋もれている。

 だが、あの不思議な夜に確かに存在していた崩れた壁と窓枠はない。仲間全員が見ていたそれらはどこへ消えたのだろうか。

 あの男といい、消えた壁や窓枠といい、この丘はおかしな事ばかりだ。

 視線をまた違う方へ転じると、あの時エイトを救ってくれた青い花がこの頂上にも沢山咲いている事に気付いた。

 服の泥を払って歩き出した道の先々のあちこちでも、この花が沢山咲いているのを見かけていたのだ。

 名も知らない花達は、エイトと目が合うと、沢山の葉をこすり合せて、くすくすと笑った。

 思わず、目元をこすって、もう一度花を見る。

 花は、風に静かに揺られながら佇んでいるだけだった。

 

「夕焼けに染まった丘……」

 

 風だけが聞き取れるような小さな声が隣から聞こえて、視線を戻す。

 静かというより表情を消した娘の両手が祈るように胸の前で組まれる。

 

 

「私の一族はアスカンタという国ができる前から、この土地に根を下ろしていました。そして、私達一族には女性だけが引き継いでいく言葉があるんです」

 

 キラの様子は、頂上へと足を進めていく内に変わっていった。

 たおやかな少女の肉体に別の誰かが潜り込んだかのように、キラの纏う気配は老成し、ひどく落ち着いていて、こうして隣にいる彼女の姿を見なければ知らない人物が隣に立っているような気がしてしまう。

 

「私の母は早くに亡くなってしまったので、去年の冬に祖母が息を引き取る間際に教えてもらいました。困った事があれば、この言葉を丘に捧げなさいと」

 

 キラの体が滑るように前に進み出て、スカートの裾を広げながら膝をつき、深くこうべを垂れた。

 

『陽よ、今はその熱き身を潜めよ 我は、月なるものに仕える者 銀の輝きは、清廉なる風と共に彩られるもの』

 

 言葉を重ねていく内に彼女の体が淡く輝き、服の裾が音を立ててはためいた。

 暖かさを帯びた魔力の波動が華奢な体を中心に波紋のように広がっていく。

 これは、祈りの為の言葉ではない。ゼシカの最強呪文と同じく、いにしえより伝わる呪文の一つだ。

 そうエイトが悟ったと同時に、キラが言霊を優しく囁いた。

 

『空に月を纏いたまえ、ラナルータ』

 

 キラの体を包んでいた光が洪水のように溢れて光の柱となり、厚い雲を貫く。雲に隠されていた青空が覗いた瞬間、空全体がざわめくように大きく震えた。

 青空は瞬き一つの間に橙色に変わり、橙色もまた紫へと変わっていった。

 そして、紫は徐々に色を変えて、紺――夜へと染まった。

 空が色を変える度に、重く厚い雲は伸びたり縮んだりを繰り返しながら、彼方に消えていき、代わりに無数の星と大きく丸い月を浮かび上がらせる。

 鈴を転がすような花達の笑い声が再び聞こえたような気がしてエイトが視線を天から地上へと戻すと、辿り着いた時にはなかった大きな窓枠とその真向かいには崩れた壁が待ちわびたかのように佇んでいた。

 月に照らされた窓枠は、大きな影を作り、ゆっくりと壁に伸びる。

 かつて二度見た光景と同じく、月光を浴びて、影は静かに光り輝く。

 キラが立ち上がる。

 そして、音も立てずに壁の方へと向かうと、ゆっくりとこちらを振り返った。

 降り注ぐ銀の光のせいか、キラの姿が一瞬だけ、古代の衣装を纏う背の高い女性と重なる。

 キラはまるで誘うように不思議な微笑を浮かべながら、細い手を持ち上げて月影の扉に触れた。

 空に浮かぶ月と同じ色の光を零れさせながら開いた扉は、眩い光で二人を包み込んで異世界へと引き込んだ。

 


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