「エイトさん! エイトさん! しっかりして下さい!」
悲痛な声と共に体を大きく揺さぶられる。
重いまぶたを上げると、大きな茶色の瞳に涙をあふれんばかりにためたキラの姿があった。
「よかった……」
エイトが目を覚ました事に安心したのか、彼女は顔を歪めて、涙をひとつこぼした。
その小さな姿を見ながら、エイトはゆっくりと瞬いた。
少しぬかるんだ地面の冷たさが、横たわった体から伝わっていく。
瞬間、脳裏に閃くように憎悪に深く染まった眼差しを思い出して跳ね起き、キラの細い両肩を掴んだ。
「あの男は!」
「きゃっ!?」
突然、動いたエイトに驚いて声を上げた彼女に構わず、辺りを見回す。
だが、男の姿は既に雨と共に消えており、同時にエイトは体の違和感に気が付いた。
右手を眼前に掲げる。手には剣で貫かれた傷も血痕もない。
そして、確かに折られた骨も、自分で噛んだ唇の痛みも、全て消えている。
痛みも、傷も、雨が全て洗い流してしまったかのようだ。
理解の範疇を超えて呆然とした様子のエイトに、キラがおずおずと声を掛けてきた。
「……私が目を覚ました時、ここには私とエイトさん以外には誰もいませんでした。ただ、エイトさんも倒れていて……」
「その時、僕の体に怪我や変わったところはあった?」
問い掛けた時に険しい顔をしていたせいか、キラが少しだけ怯えたように肩をすくませたのが彼女の肩に置いた左手から伝わってくるのが分かったが、それを取り繕う余裕はなかった。
キラが目を逸らしながら首を横に振ったのを見て、エイトは彼女の肩から手をゆっくりと離した。
何が起こったのか。あれは、質の悪い夢だったのか。
沢山の言葉や感情が頭を駆け巡り、不気味な気配が足音をたてずに無防備な心に忍んでくるかのようだ。
「エイトさん……?」
心配そうに覗き込んできたキラの表情は不安のせいでひどく硬い。
深呼吸をひとつして、エイトは彼女に微笑む。
今、一番囚われてはいけないのは、見えない何かに対する恐怖と不安。絡み捕られれば、あっという間に動けなくなってしまう。
「どうやら、僕らは二人揃って昼寝をしていたという事だね。パヴァン王には、内緒にしておいてくれるかな? キラを守るって約束したのに、僕が真っ先にいびきをかいていたなんて怒られてしまうから」
陽気に言いながら、悪戯っぽく片目をつぶってみせると、キラはぎこちないながらも笑みを浮かべてくれた。
心の底から笑ってくれた訳ではないだろうが、彼女の顔から少しだけ不安が抜けたのが分かった。
頷いた彼女の頭を撫でて、膝に手を当てて立ち上がった。
体は痛みもなく、右手も自由に動いた。
同じく立ち上がったキラが泥のついた服を叩いている隙にもう一度辺りを見回した。
そして、右手を背中に伸ばすと、予想していた通りに宙を掻いた。
そこに収められている筈の剣は、鞘だけを残して消えている。
ふと、エイトは視線を自分の足元に落とす。
足元には根がついたままの丈の長い野草が地面に転がっていた。いくつもの葉を携えたそれは、小さな青い花を一輪だけ咲かせて、エイトの方を見つめているように思えた。
生温い風が何処からともなく吹いて、小さな花びらを揺らす。
間違いない。
あの出来事は夢ではないのだと、エイトは右手を握り締めながら、確信した。
あの時、動く左手を懸命に動かして、この花を地面から引き抜いて男に向かって投げたのだ。
そして、男はエイトの剣と共に消えた。
瞼を落して、もう一度深呼吸をした。見えない恐怖を振り払うためではない。前に進むためだ。
目を再び開いたエイトは、キラを促して丘の頂上へと続く道へと足を動かした。
願いの丘の頂上はもう目の前だった。