手足はいまだに凍ったように動かない。
「…………っ」
考える間もなかった。
影が覆い被さる前に、唇に歯を思いっきり突き立てる。
肉を破る鋭い痛みと同時に、キラを抱き上げている腕と剣を持った手が跳ねるように動く。
瞬間、エイトは剣を短剣のように下から振り上げ、影に向かって投擲した。
怯んだように影が動きを止めた。
無理な態勢からの投擲に腕の関節が軋み痛んだが、構わずにキラを両手で抱きしめると、ぬかるんだ地面に体を投げだすように転がった。
衝撃と共に息がつまりながらも、すぐにその反動を利用して、後ろに飛ぶように立ち上がって影と距離を取る。
視線を僅かに落とし、気を失ったままのキラの顔を見る。
転がった時に跳ねた泥が顔に付いてしまっているが、顔色の悪さ以外に擦り傷は見当たらない。
鉄の味が口内に広がるのを感じながら、エイトは影に視線を戻す。不思議な事に影は被さる姿勢のまま、動きを止めていた。
先程投げた剣は、影の魔物シャドーとは違ってすり抜けて、奥にある後方の岩に突き刺さっている。
この魔物もまた、昨晩の魔物と同じく、自分が知る魔物ではない。
キラを連れてすぐに逃げるべきなのは分かる。だが、ここで引けばこの魔物がどうなるのか。
考える間に雨が強くなり、落ちた雫が目に入る。影と風景が二重にぶれて反射で目を瞬くと、視界はすぐに鮮明になる。
すると、その一瞬の間に不気味な影はエイトの視界からその姿を消していた。
エイトは目を大きく見開く。消えた、という表現は正しくない。
影と入れ替わるようにして、顔を俯かせた男が一人、そこに佇んでいたのだ。
「返せ」
驚く暇もなく、先程の影と同じ声が顔を伏せた男の口から音となって、辺りに響く。
長い髪を大きくうねらせて、顔をゆらりと上げた男は片方だけ空いた眼窩を晒して、こちらを憎悪のこもった眼差しで見ている。
エイトは今度こそ驚き、言葉を失った。
片目のない事や粗末な服を纏った姿に驚いたのではない。その顔が、エイトに衝撃を与えた。
浮世離れした風貌はまるで彫刻のように整っている。乱れた髪は海より青く、人とは違う尖った耳。瞳は憎しみという感情を何度も塗り重ねているかのように昏い。
空気を食うようにエイトは唇を開いた。
「あな、たは……イシュマウリ?」
途端に男から発される空気が大きく歪み、凍りつく。
吹雪のように凄まじい怒気にあてられ、反射的に抱きかかえたキラを庇う姿勢をとりながら、目を細める。
かつて、力を貸してもらった月の精霊と同じ顔をしたこの男は、何者だ。
その者は、血の気のない唇をぬらりと動かした。
囁くような声量の筈なのに、声はこちらまで届く。
「……お前も、あの裏切り者の仲間ということか」
「裏切り者……?」
答えはなく、男の眼差しに殺気が混じり、その手が僅かに持ち上がって、ゆらりと気だるげに動いた。
すると、岩に突き刺さったエイトの剣がひとりでに引き抜かれ、吸いつくように男の右手におさまる。
オリハルコンの刃が鈍い光を放つ。
剣を奪われた事で、エイトは状況がますます悪化したことを悟る。
後退しながら、無駄と分かっていても話しかける。
「その剣は、僕のものです。返して頂けますか」
男は憎しみに染めた瞳を僅かに揺らして、剣とエイトを見比べた。
形の良すぎる唇が、愉悦によってゆるゆるとつり上がった。
「そうか。返してやろう」
男の姿勢がぐんと低くなり、剣を突きだすように地面を蹴る。
「お前の頭を貫いてな」
恐ろしい速さで距離を一気に詰められ、真っ直ぐに向けられた剣はエイトの眉間を指していた。
咄嗟にエイトは呪文を唱える。
『 壁となれ ギラ 』
初級呪文の威力は弱いが、動きを鈍らせることは出来る。
だが、火にまかれても男の動きは怯むことなく、止まらない。キラを抱えたまま、エイトは顔を反らした。
剣は顔のすぐ横を通り過ぎ、男はすぐに腕を引いた。
避けられたのではない。男はわざと攻撃の手を緩めたのだ。
肩で息をしながら、男を睨みつけると、エイトが悟ったのが分かったのか、その片目に昏い輝きを放った。
その表情は、なぶってから殺し、捕食する獣のようだ。
次々と突きだされる剣撃はエイトの顔のあちこちに浅い切り傷を刻んでいく。
何度も繰り出される攻撃を避けながら、じりじりと後ろに下がった瞬間、男が深く嗤う。
同時に、岩壁に背中がぶつかった。
すぐに横へ走ろうとするが、距離を詰めた男によって足払いをかけられて、うつぶせに転倒した。
その拍子に、キラの体も投げ出される。
「キラ……!」
伸ばした右手に剣が深々と貫き、激痛に声を上げる。
エイトの声に、男が美しい目元をすがめた。
「なんて、やかましい声だ。醜くて、聴いていられない」
躊躇われる事なく、剣は手から引き抜かれて、血が細かく散った。
降り続ける雨が、その赤を流す。
それを眺める暇もなく、腹部を強く蹴られて、仰向けに転がされた。
「さあ、裏切り者の醜犬よ。どこにいる」
突きだされた剣が髪一本の隙間を残して、喉に伸びる。呼吸をするたびに、剣先の冷たさを感じた。
この男がなにを求めているのか、分かる筈もない。
分かる事は、イシュマウリを裏切り者と呼んだ男は、かの精霊と関係のある人物に間違いないという事だ。
エイトが何も言わない事に焦れたのか、男の片足が上がって、エイトの胸を勢いよく踏んだ。
凄まじい力によって、骨が何本も砕ける音と激痛と共に、折れた骨が肺に刺さり、口から血を吐く。
仰向けのせいで、喉に血が絡んで、上手く息が出来ない。
ひうひう、と呼吸に雑音が混じる。
「さあ、言え。……それとも、何度も痛みを繰り返し感じる恐怖を味わいたいか」
「な……にを、……言っている……か」
痛みと戦いながら、呼吸の合間に声を絞りだす。
点滅する視界で、男の方を見上げるが、長髪の間から見える憎悪に染まった瞳が、その答えに戸惑う色はない。
「虚言を吐く力はまだあると見える。ならば、手足を順に切り落としていこうか。どこまで、お前の精神が持つか、見物だな」
――まずは、手首を。
歌うように呟いた男が剣を振り上げた瞬間、エイトは怪我のしていない手を動かして、手近にあったものを地面から引き抜いて投げつけた。
それは土をまき散らしながら、宙を舞う。
男の動きが、音を立てて止まった。
エイトの顔に土がかかるが、背ける力はない。
男は目元を押さえるとよろめいて、後ろに下がり、呻いた声が苦しげに、何かの言葉を発する。
だが、それを聞きとる前にエイトの視界が大きく揺らいで、そのまま気を失った。