願いの丘では異変が起きていた。
冬に近い季節の為、陽は夕暮れに向かって傾いてはいるものの、それでも夕暮れと呼ぶにはまだまだ早い。それなのに丘は霞みがかかったかのように、薄暗く感じた。
そして、それは丘だけではなく、丘の辺り一帯が異様な雰囲気に包まれていた。川を挟んだ教会側の方は何もない。
だが、橋を渡り、一歩足を踏み入れると辺りの空気は様変わりしていた。
エイトは全身の神経を尖らせながら、抜身の剣を携えてじめついた洞窟を歩く。
「前に来たときはこんな風じゃなかったはずなのに……」
すぐ後ろを歩くキラのか細い声に、エイトは心の中で同意した。
一言でいうならば寒々しく、そして恐ろしい。
それは、丘へと続く川沿いの道に足を踏み入れた時から漂ってきており、まるで纏わりつくかのようだ。
かつて足を踏み入れた暗黒神の城に漂っていた瘴気に近いような気もする。
神経を尖らせながら、キラに声を掛けた。
「キラ、辛くない?」
「はい。エイトさんにかけて頂いたトヘロスのお陰で苦しくなくなりました」
重苦しい空気にあてられ続けたせいか、キラは一度、願いの丘へ繋がる川沿い奥にある入口で座り込んでしまったのだ。
慌てたエイトが一時ここから離れようとすると、キラがその腕を掴んだ。
「……足手まといなのはわかっています。エイトさんにご迷惑が掛かってしまうのも。それでも、どうか一緒に行かせて下さい」
揺るぎのない眼差しに戸惑う。
パヴァン王に言われたとはいえ、最初からキラが付いてくることに疑問を感じていた。理由を聞いても、「すぐに分かります」というような曖昧な答えしか返ってこない。
「お願いします、エイトさん」
青褪めた顔で、それ以上に強い眼差しにエイトは承諾するしかなかった。
試しにと掛けた魔除けの呪文のお陰か、今は普通に歩けるようだ。
それでも、洞窟内は外と比べ物にならない程、息苦しくなっていく。エイトは無意識の内に喉を押さえた。
「祖母が沢山してくれた話には、不思議なもの以外に恐ろしい話もありました。全ての物語が楽しく幸せなものとは限らない。祖母は話を聞かせてくれる度に、最後にそう言っていたんです」
ぽつぽつと話す彼女の言葉は、じめじめとした洞窟によく響く。
「エイトさん、私……」
キラの言葉を遮るようにエイトは片手をあげると立ち止まり、剣を静かに構えた。
洞窟に入った時から、刺すような視線をあちこちで感じていた。最初は物言わずにこちらを見ているだけだったが、やはり素直に通してくれないようだ。
低く呻く声がいくつも重なり、視界の端を横切る影にキラが小さく悲鳴をあげた。
その悲鳴と共に腐肉と腐臭を纏った動く死体達の群れが姿を現して、あっという間に囲まれる。
体を左右に揺さぶる度に腐臭が強く臭い、顔をしかめる。キラは口を手で覆って、吐き気を懸命に押さえこんでいるようだ。
行く手を塞ぐように立つ屍の魔物は倒しても倒しても、生者を求めて群がってくる。
魔物の討伐に来た訳ではないから、現れている魔物全てを相手にする必要はない。
「僕が合図したら、走って」
キラが後ろで頷いたのを確認して、エイトは剣を持った手とは別の手を横に大きく広げた。
『 大いなる炎よ 今ここに迸れ 熱き焔よ 今ここに立ち昇れ 炎よ焔よ――…… 』
詠唱をここで止める。熱い力が奔流し、手元に集中するのが分かる。
エイトは地面を強く蹴り走ると、一気に魔物達との間合いを詰めて、丘へ登る為に通じる道を塞ぐ魔物達だけを一閃で斬り払う。
少しだけ道が拓けた瞬間、留めていた魔力の奔流を解き放つとともに、言霊を口にした。
『 二つに燃え上がれ ベギラマ 』
斬り捨てた魔物がいた場所に炎と焔が二つ立ち昇って走り、階段までの道に両壁を作った。側にいた魔物達が『ほのお』を恐れて、呻き声を上げながら後退する。
「キラ!」
「はい!」
キラの手を引いて走りだし、二つの炎の間を潜り抜ける。地上へと通じる階段をキラに先に上らせると、エイトは立ち止まって振り返り、円を描くように手を払った。
流れるように二つの『ほのお』が交じりあい渦巻いて、魔物達がこちらに来ないように大きな壁を作った。
自分はゼシカに比べれれば、攻撃魔法を上手く扱う事ができない。だが、魔力によって燃え盛る炎を少しだけ動かすことならば出来る。
「さあ、今のうちに上ろう」
炎を忌々しそうに呻く死体達の声を後ろで聞きながら、エイトはキラを促した。