見たことのない魔物だと思った。
突如、姿を現した魔物は、月明かりにその姿を浮かび上がらせながら、こちらに向かって突進をしてくる。
それを真横に飛んでかわすと体をひるがえして、すぐに魔物の行方を目で追う。
魔物は、そのまま近くの木々にその巨体を突っ込んでいった。不気味な音を立てて木々が何本も薙ぎ倒されていく。
体を起こして、こちらを見た魔物は、闇に溶け込みそうなほど黒く長い毛に覆われている。両手両足は丸太のように太く、爪は鋭く尖って、長い尾が別の生き物かのように大きくうねる。爛々と輝く黄色い眼は知性の欠片もなく、剥きだしになった長い牙から滴る唾液がゆっくりと垂れ下がる。
最初はパルミド地方にいるコングヘッドに近いかと思ったが、この魔物は手足はがっしりとして長く、そしてその図体はエイトの体の三倍はあるように思えた。
これほどの魔物を、旅の間に見かけなかった事に驚きを隠せないが、ゼシカがここにいないのであればそれでいい。
両手の中にある剣の柄を少し滑らせて、剣先を右に構えると、地面を蹴った。
同時に魔物も地面を揺るがしながら、覆い被さるように襲い掛かってきた。それを左にかわして、長い腕を下から上に斬りつける。
魔物が高く吠えて、斬りつけられたとは別の腕を振り回してきたのをのけぞるように後ろに下がって、距離を取る。
腕を斬り落とすつもりで剣を振るったが、毛が思った以上に硬く、皮を裂いた程度にしかならなかった。
そっと刃先に触れてなぞる。世界一の硬さを誇るオリハルコンで精製された剣は刃こぼれ一つないが、それを弾く毛は厄介だ。
だが、倒す方法がないわけではない。
魔物と正面から立ち向かうように走る。先程と同じように魔物が爪を伸ばしながら、襲い掛かってくる。
伸ばしてきた鋭利な爪を避けると、その腕を足場にして伝い走り、肩を踏みつけて宙へ高く飛び上がる。体をひねって剣を頭上に掲げると、魔物の背中に深々とそれを突き刺した。
舞いあがるように血飛沫があがり、魔物が悲鳴を上げて、体を左右に大きく揺らす。
それに振り落とされないように、懸命に柄を握りしめると、魔力を刃へ一気に流し込んだ。
途端に、魔力が熱を帯び、吹きだすように焔が燃え上がって、魔物の背中と肉を焼く。
肉の焼ける臭いに吐き気が込み上がりそうになるが、歯を食いしばって耐える。
すると、エイトを乗せたまま、魔物が急に走り出し、あちこちの大木に手当たり次第、体当たりをし始めた。
何度も揺らされて耐えきれず、柄から手が離れて、地面に背中から落ちる。
痛みに呻きながら両目を開くと、魔物の足が頭を踏み潰そうと迫り、体を転がして、なんとか避ける。
地面にのめり込んだ足を引き抜こうとしている間に態勢を整えようと立ち上がるが、その時、足を引き抜いた魔物の鋭い爪が左の脇腹を抉った。
火箸を押し付けられたかのように熱い痛みにエイトは顔を歪めさせて、後ろに下がろうとする。
だが、魔物の方が数秒早く、太い腕がエイトの身体を弾き飛ばした。
みしみしと骨が鈍い音を立て、遥か先の木にエイトは激突する。
「……ぐぅっ!」
ずるずると根元に寄り掛かるように落ちて、エイトは唇を開こうとするが、鈍い咳と共に血泡が溢れて、視界が霞みそうになる。
痛みをこらえながら、もう一度唇を開く。
『 痛苦を取り払え ホイミ 』
大きな呪文は時間と魔力を喰う。今の状況で唱えられる回復呪文は、初級呪文のみ。
頼りないほどの小さな緑光がエイトを包んだ。強い痛みは僅かに消えた。これならば、立てる。
魔物の吼える声が聞こえて、徐々に近づいてくるのが分かった。血の臭いですぐにここが分かるだろう。
剣は魔物の背中に突き刺さったままだ。素手で戦えるような相手ではないが、騒ぎを聞きつけたアスカンタ国の兵士がまもなくやってくるだろう。それまでの時間稼ぎになればいい。
ふと、視線が無意識に後ろを見て、思わず苦笑した。
ここに、仲間はいない。彼らが、来る筈もない。独りで戦うしかないのだ。
よぎるのは、悲しそうな翠の瞳。今の自分を見たら、彼女がどんなに悲しむだろうか。
いってらっしゃい、と見送られた笑顔にもう一度触れる為に、自分は死ぬわけにはいかないのだ。
旅をしていた時と背負っていたものは違う。
だからこそ、
「帰る」
一際大きく魔物の鳴き声が近くで聞こえて、殺意に満ちた黄色い眼が二つ、こちらを真っ直ぐ見据えている。
脇腹の傷を押さえて立ち上がると、魔物は低く唸りながら、体を低くしてこちらに向かって跳躍した。
避けようとした瞬間、胸を押すような違和感が襲われ、咳き込んでしまう。
そのせいで、反応が遅れる。しまったと思った時には、鋭い牙がずらりと並んでいるのが大きく見えて、エイトは目を大きく開いた。
「危ない!」
声と共に、身体を強く引かれて、脇の茂みに倒れ込む。
獲物を捕らえることの出来なかった魔物はまたもや、木を薙ぎ倒した。
驚いたエイトとは反対に、引っ張った相手はすぐに体を起こし、杖で魔物を指すと、凛とした声で呪文を唱えた。
『 大地の奥底で眠る番人 大いなる炎竜の尾に巻かれよ ベギラマ 』
赤い粒子が煌めき、魔物を凄まじい炎が一瞬で包み込む。
暗闇に閉ざされた辺りは、魔物のつんざくような悲鳴が響き、炎によって明るくなった。
「エイト。あなた、腕がなまったんじゃないの? それじゃあ、マルクとポルクの先生とは言えないわね」
明かりがなくとも、彼女が誰なのか分かる。
勝気そうな強い眼差しに、エイトは痛みをこらえて、小さく笑った。
すると、柔らかい光がエイトを包み込み、傷の痛みが和らいでいく。
「とりあえず、お説教は後回しよ。もちろん、一緒に戦ってくれるわよね?」
杖の先にエイトを包んだ光と同じものを灯しながら、ゼシカが微笑んでいるのを見て、エイトは無性に泣きそうになった。
「当たり前だよ、ゼシカ。僕と共に戦ってほしい」
差し伸ばされた細くも、頼りになる仲間の手をエイトは握り、頷いた。