ドラゴンクエストⅧ シアンの人   作:松ノ子

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第21話

 

おひさまがあたたかい。

 

手を伸ばしたら、届くだろうか。

 

わたしは――、

 

 

***

 

 伸ばした手が、何かを捕まえ損ねたかのように、宙を彷徨う。

 ミーティアは、ぼんやりとしたまま、熱い涙が頬を滑るのと、横になった体に感じる冷たい床の感触に少しだけ浸る。

 だが、徐々に頭がはっきりしてくると、今、自分が置かれている状況がおかしい事に気が付いた。

 どうして、自分は柔らかい寝台の上ではなく、固く冷たい床の上にいるのだ。

 慌てて、跳ね起きながら、辺りを見回すと、一気に身体中から熱が引いていった。

 

「……こ、こはどこ……?」

 

 いつものように自室の寝台に潜り込み、眠りに落ちる前にアスカンタ国へ旅立った彼を心配していたのを覚えている。

 どうして、という言葉は、恐怖で唇が凍ったせいか、空気が漏れたような音にしかならない。

 恐怖と心細さによって、体が小刻みに震える。胸元で握りしめた自分の両手が氷の塊のように思えた。

 なんとか落ち着こうと息を吸った。だが、どくどくと心臓がやけに大きく音を立てて、上手く吸えない。

 

「……エイ、ト……!」

 

 名前を呼びながら、左手の薬指に唇で触れ、優しい笑顔を必死に思いだして息を吸うと、今度は上手く呼吸ができた。

 何度か深呼吸をゆっくりと繰り返し、膝の上で両手を祈るように強く握りしめて、ゆっくり顔を上げると周りを恐る恐る見回した。

 そこは、まるで古いおとぎ話に出てくる神殿のような美しい建物。白く磨き上げられた石柱が並び、外の景色は見えず、ただ白い風景が広がる。そして、沢山の楽器が踊るようにして、音楽を奏でて宙に浮いていた。

中央には螺旋をえがいた階段と高台。自分の後ろを振り返れば、どこかへ通じるであろう扉。この扉を潜れば、少なくともここからは出られるかもしれない。

 その時、楽器たちが奏でる音楽の間を縫うように、足音が一つ響いた。

 心臓が痛いぐらいに大きく鳴って、体が金縛りにあったかのように動きを止めた。

 

「よくおいでになった」

 

 声に引かれるようにゆっくりと振り返る。不思議な事に、その声を聴いた瞬間、恐怖が消え去っていた。

 中央の高台の螺旋階段を滑るように下りる人物は、奇妙に凪いだ瞳でこちらを見ていた。

 まるで彫刻のように整った顔。海や空より深い青をした長髪が揺れ、人ではない証の尖った耳が見えた。

 手を差し伸べられて、ミーティアはその手を借りて立ち上がる。

 一度しか会っていなかったが、目の前にいる人物を自分は覚えていた。それは、旅をしていた時。

 

「あなた、は……あの時、魔法の船を動かして頂いた精霊様?」

 

 精霊は目を細めて、僅かに口元に笑みを作る。その手には美しい琴があり、淡く輝いていた。かつて、エイト達が見つけだした月影のハープ。

 

「イシュマウリと。人間の姫君よ」

「イシュマウリ様、……これは夢なのでしょうか。ミー……私はどうして、ここに?」

 

 尋ねると、精霊は手にあるハープを小さくつま弾いた。

 

「私が呼んだからだ」

「え……?」

 

 尋ね返そうとするが、ハープの美しい調べによって遮られる。

 それは、ミーティアの知らない古代の曲だ。

 ゆったりと音が伸ばされるように始まったそれは一定のリズムを刻んだ後、川のせせらぎのように小さくつま弾かれていく。次いで、音色は風のざわめきのように大きく。そのまま、烈しさを増して、炎のように燃え上がるかのようだ。

 複雑な曲ではないのに、何故だろう。何処か、悲しげな調べに感じてしまうのは。

 ふと、ミーティアはこの曲に何か足りないような気がした。

 唐突に演奏は止まった。

 滑るように絃を紡いでいた彼の手元を見ていたミーティアは、驚いたように顔を上げる。

 こちらを見返す精霊は、言葉も発さずに、表情も静かだ。無表情ともいえるだろう。

 でも、とミーティアは思う。先ほどつま弾いた音色は、悲しい感情がつまっていた。まるで忘れたものを追い求めるように。

 何かを言おうとミーティアは口を開くが、その前に精霊が言葉を発した。

 

「あなたの歌は美しかった」

 

 突然の賛辞に驚いて固まるが、そんな事にも構いもせず、イシュマウリは淡々と続ける。

 

「あなたの歌を聴いて遙か昔、我らが人と共にあった事を思い出した」

 

 遠くを見るようにイシュマウリの眼がすっと細まり、手遊びのように小さくハープを弾いた。

 

「だが、もう私には必要のないもの。人の信仰も供物も。……そして、巫女も」

「巫女……?」

 

 ミーティアは聞き返すが、予想通り答えは返ってこなかった。どうやらこの精霊は、人と話す事があまり好きではないように思えた。

 完全な拒絶という程ではないが、こちらからの干渉を避けているように思える。友人の令嬢であれば「人のことを呼んでおいて、何様よ!」と烈火のごとく怒りだしそうではあるが。

 だが、彼女はできるだけ彼から話してくれるのを待つ事にした。この精霊が自分をどうにかしようという風には思えなかったからである。

 呪いのせいで馬に変えられたとはいえ、旅の間、自分なりに世界を観た。

 少し進むだけで、海を越えるだけで変わる風土。様々な町。そこに住まう人々。考え方。少し怖い思いもしたことがあるけれども、それも一つの経験になった。いろんな事を観てきたから、彼らの、彼の傍らで。

 全てがミーティアの一つで。どれを欠けても今の自分ではなかっただろう。

 あまり動揺している様子がないミーティアに、精霊は不思議そうに首を傾げた。

 

「人間の姫。怖くはないのか」

 

 問いかけに瞳をゆっくりと瞬かせると、ぎこちなく微笑んだ。

 

「怖くはないと言ったら嘘にはなります。けれども、貴方が私に何かをしようとは思えません。それに……」

 

 ミーティアは宙に浮かぶ様々な楽器を見てから、今度こそ笑顔になった。

 

「……おとぎばなしにでてくる月精霊さんのお家には、小さい頃からミーティアは行ってみたかったんです」

 

 その言葉に、イシュマウリは心から驚いたように眼を大きく広げた。

 

「……人間の姫君は、我らの事を知っておいでか」

「はい。幼い頃に亡くなった母が寝る前に聞かせてくれました」

 

 亡くなった母が話してくれた誰も知らない夢物語。

 今では、おぼろげにしか思い出すことができない母の顔だが、それでも語ってくれた物語は彼女の心で生きている。

 

『ミーティア、古いおとぎばなしをしてあげましょう。月の大きなかげには月精霊さんのお家の扉がありました。そこを開けば、とても素敵で不思議な――……』

 

 大切な母からの貰ったひとつの愛。その中で、とても印象に残っている月のおとぎばなし。

 

「そうか、なるほど……」

 

 イシュマウリは納得がいったように頷くと、こちらを静かに見据えた。

 いつの間にか、あれほど好き勝手に演奏していた楽器たちがぴたりと口をつぐみ、こちらの会話を盗み聞きするかのように静かになっていた。

 

「姫よ。私が貴方を呼んだのは、忠告する為だ」

 

 急に不安が暗雲のように押し寄せてくる。まさか、また世界に異変が起きているのだろうか。

 

「貴方の、その力を使ってはならない」

 

 何を言われたのか分からなかった。きょとんとしたように目を大きく開くが、精霊は静かに続けた。

 

「貴方は、何度も無意識に使っていたようだが……」

 

 人の話を遮るのは不作法だが、このままでは話が見えない。慌てて、声を上げる。

 

「あの、待ってください! 何のことでしょうか。私には、力なんて」

「使っていただろう。何度も。愛しい者の夢にもぐりこんでいた」

 

 夢、という言葉でミーティアはあっと声を漏らし、精霊の言う力とは何のことか思い出した。

 旅の間、不思議な事があった。毎日というわけではなかったが、彼女が想いを伝えたい時、強く願った日は、何故か決まって、彼の夢を見たのだ。後で聞けば、彼も同じ夢を見ていたという。

 表情で悟ったことに気付いたのだろう。精霊は深く頷いた。

 

「そう、それはふるき世界の力。まさか、まだ持つ者がいるとは思わなかったが……。姫よ、貴方の力は夢を渡ることができる」

「夢を、ですか……?」

「その力はふるき世界では大いなる力だった。そして希望だった力。だが、新しき世界には不要のものだ。だから、人間の姫君、その力を使ってはいけない。このままでは、眠る魂のかけらまで揺り起こしてしまう」

 

 表情は淡々としているが、有無を言わせない口調に押されて、頷く。

 彼は何を恐れているのだろうか。だが、それを聞ける雰囲気ではない為、疑問を呑みこんだ。

 

「わかりました。ですが、精霊様。どうすれば、力を消すことができますか」

「既に目覚めてしまった力を消すことは無理だ。赤子が己の足で立ち上がり、歩くのを忘れられないように。……だが、封じることはできる」

「それは?」

 

 イシュマウリは胸に抱いたハープを軽く鳴らした。

 

「姫よ、想うのだ。愛しい者の事を。そうすれば、いくつもの夢の世界を彷徨う事なく、愛しい者の夢にとどまり、力を封じることができる」

「……そ、それはつまり……、エイトをずっと想っていればよろしいという事ですか……?」

「そうだ。愛する者への想いというのは想像できない程に強い。それはあなたの楔となる」

 

 自分の顔が赤くなっていくのを不思議そうに眺めるイシュマウリに、ますます恥ずかしくなった。

 ふと、精霊は誰かに呼ばれたかのように顔を後ろに向けた。視線の先には透き通るように浮かび上がる青い球体があった。

 やがて、ぽつりと精霊は呟く。

 

「新しい太陽が産まれたようだ。……人間の姫よ、そろそろ人の世界に戻るのだ。じきに夜が明け、産まれたての太陽が顔をだすだろう。世界へは、その扉から戻れる」

 

 さあ、と一方的に促され、ミーティアは扉の前に立つ。だが、すぐに後ろを振り向いて、イシュマウリに尋ねた。

 

「あ、あの。またお会いできますか?」

 

 虚を突かれたように精霊は瞬いた。だが、すぐに首を横に振る。

 

「もう会うことはないだろう。私が、人間と会うのは一度きり。そして、これはただの夢」

 

 イシュマウリはすべてを包み込むように柔らかい笑みを浮かべた。その笑みに何処か寂しさが滲んでいるのをミーティアは気づく。

 

「さあ、新しき世界に戻るのだ」

 

 精霊の手が琴を優しくつま弾いた。

 それを合図に扉がひとりでに開かれ、そこから溢れた光がミーティアを包み込んだ。

 


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