降っていた雨もアスカンタ地方とパルミド地方を遮る森を抜けた途端に止み、厚い雲に隠れていた太陽もその光を地上に伸ばし始めた。
アスカンタの城壁前に続く道で馬車から降ろしてもらったヤンガスは御者台に座る男に手を差し出した。
「本当に助かりやした。あんたとはまた呑みたいもんでげす」
「もちろんだよ、友達」
差し出した手をしっかりと握り返してくれた男に、ヤンガスは自分の額を軽く叩く。
「おっとこりゃ、いけねえや。あっしとしたことが。気前のいい友達。あんたの名前を聞くのを忘れてました。あっしは、ヤンガスっていいやす。あんたの名前を教えて下せえ」
「名前……」
黙り込んだ男は少し考えるそぶりをみせた後、ぽつりと囁いた。
「ラバ」
「……ラバ、でげすか?」
ヤンガスは馬車の先に繋がれた本物のラバをちらりと見る。ラバは耳をぴくぴくと揺らしながら、口をもごもごと動かして、ぼおっと突っ立っていた。
視線を男に戻したヤンガスは、彼の顔を窺おうとして、止めた。
ヤンガスは生まれも育ちも裏の住人である為、名前という些細なものは気にしない。
誰にだって知られたくない過去というものがあり、人間はそれを押し殺して今を生きている。
もちろん、彼自身にだって年を重ねている分、山程ある。例えば、エイトにしか話していない苦い青春のメモリーなど。
それこそ名前が知られていれば、名前を聞いただけで感づく者もいるし、悪ければその者に悪意をもって攻撃するのだ。
きっとこの男にも、知られたくない過去があるのだろう。過去に何があったのであれ、今は普通の百姓として生きているのだ。それを踏みにじる権利はない。
ヤンガスは歯を見せてにっかりと笑った。
「そうでげすか、ラバ。世話になりやした。また会いやしょう!」
詮索することをしないヤンガスに、ラバは少しだけ驚いたそぶりを見せたが、ゆっくりと頷いた。
「うん。またね、友達」
手綱をゆっくりと握りなおしたラバの幌馬車が進み始める。
なだらかな坂道を登って、その馬車の姿がマイエラに続く方へと小さくなっていった。
「ラバ! あんたの酒は美味かったでげすよ!」
もう聞こえる筈がないと思いながら、ヤンガスは大きな声で満足そうに言うと、アスカンタの城壁を潜った。
中に入ったヤンガスの目には、整理された石畳の道と大きく広がる広場と行きかう人々の群れが映る。がやがやと活気のあるアスカンタ国の姿に、ヤンガスは感心したように声をあげる。
「相変わらず、ここは大きな国でげすなー」
昼が近いせいなのか、色んな所から美味そうな匂いが漂ってきて、ヤンガスは空腹感を覚えて、腹をおさえる。
早く懐にある手紙を送り届けて、ご馳走にありつこうと思ったヤンガスは城下町の中を歩き出すが、すぐに止まった。
視界の横でよく知った背中が若い娘の肩を組んで、路地裏の方へと消えていったのが、見えたからだ。
城下町の先にある建物を一度眺めて、ヤンガスは路地裏の方へと足を向けた。