無意味だ。
この手も。この手が奏でるものも。存在も。
すべて、無意味である。
***
足が止まった。
すると、廊下の大理石の床を叩く靴音が一つ消えた事に気付いたのか、前を歩いていた初老過ぎの男性が同じように足を止めて、振り返った。
「どうなされました、エイト殿」
「あ、いえ。なんでもありません」
穏やかな低い声に問いかけられて、エイトは慌てて、早足で追いつく。
相手はこちらを見上げるとあご髭を撫でながら、気遣うように目を細めた。しわが刻まれていても、涼しげな目元は優しい。
「少し、疲れましたかな?」
「大丈夫です。ローレイ様。ただ、アスカンタ城内の広さに少々……。このお城には久方ぶりに来たので……」
なるほど、と頷いて微笑んでくれたアスカンタ国の大臣ローレイに同じように笑い返した。
エイトは今、アスカンタ国の城にいる。
何故、この国にいるのか。それは、トロデ王の計らいによってだった。
ほんの数日前。玉座の間に呼び出されたエイトは主の顔を見て、すぐに回れ右をしそうになった。
王が子供のように無邪気に、心から楽しそうな笑みを浮かべる時は、特に注意しなくてはいけないのだとトロデーン城では暗黙の了解だった。
悪い予感の通り、王は「アスカンタ国で開かれる市にトロデーンも招待されておる。という訳で、おぬしが行くのだ」という恐ろしい事をあっさりと告げられた。
同席していたミーティアが、エイトを心配し、共に行きたいと王へ願い出ていたが、王は珍しく顔を険しくさせて、愛娘の願いを聞き入れなかった。
それからは、あっという間だった。徹底的に礼儀を叩き込まれ、蹴りだされるようにアスカンタへ送り出された。
ああ、と口から魂でも飛び出しそうだ。いっそ、気を失うかでもして、目が覚めたら終わっていないだろうか。
「義兄上の考えは、貴方にこのような場に少しでも慣れてもらう為でしょうな」
自分が遠い目をしている事に気が付いたのだろうローレイは、こめかみをかきながら、同情するように言った。
「来賓といっても、座っているだけです。そんなに肩肘を張らなくても大丈夫ですよ。何かあれば、わたくしが手助けいたしますゆえ」
「ありがとうございます」
「はっはっ、気になさるな。義兄上の気まぐれには、これでも慣れておりますから」
頭を下げて、もう一度、ローレイに礼を言う。
この人も王が突拍子のない行動を起こす事をよく分かっているようだ。恐れ多い事だが、ローレイに対して妙な仲間意識が芽生える。
なんといい人だろう。大臣という忙しい身であるだろうに、わざわざ自分に時間を割いて、客室まで案内をしてくれている。
止まっていた足を動かして、前を行くローレイが気を紛らしてくれるかのように話しかけてくれる。
「貴方はトロデーンのお客であると同時に、我が国の恩人です。貴方がいらっしゃったとなれば、……きっと我が王も喜びましょう」
最後の部分が妙に重く聞こえて、内心首を傾げた。
だが、前を歩くローレイの顔は見えない為、その時どんな表情をしていたのかエイトには分からない。
その背中を見ながら、エイトは先程感じた胸が詰まるような感覚を思い出す。
何かを失ってしまったような、一瞬で駆けぬけていった感じにエイトは僅かに表情を曇らせた後、すぐに振り払うように頭を軽く振った。