風を受けて静かに回る風車のある村に、ふわりと大小四つの人影が地面に足をつける。
陽が落ちたばかりの空の端は、まだ明るい紫に染まっていた。
「すっげええ! これがルーラ!?」
エイトの呪文によって、リーザス村に戻った瞬間、感極まったようにポルクが声を上げた。
「そうだよ。……でも、こんな人数で使うのは、久しぶりだから上手くいくか分からなかったけどね」
「俺も覚えたい! なあなあ、俺も覚えられる!?」
「あのね、ポルク。ルーラってとても繊細な呪文なのよ。一歩間違えると大変なことになるんだから」
ひとさし指を立てて、ゼシカがポルクに言った。
「へえー。だから、センサイじゃないゼシカ姉ちゃんは覚えられなかったんだな!」
「……なんですってえ」
ゼシカが目を吊り上げて、両拳をポルクのこめかみにぐりぐりとえぐるように押し付ける。
悲鳴を上げたポルクに、エイトは何とも言えない表情を浮かべた。
口には出せないが、ポルクの言う事は正しい。
旅の間、一度訪れた場所であればその場所へ戻ることが出来る便利な呪文であるルーラを覚えたいとゼシカが言ったことがあった。
だが、膨大な魔力をもっているせいで、細かい魔力の調整が上手くいかないのか、あらぬ方向に飛んでいきそうになるのを仲間全員で何度も止めた。
結局、何度目かの失敗の後、ゼシカは「……キメラの翼があるんだから、別にいいわ」とルーラを覚えるのをやめた。
口には出さないが、ポルクの言う通りなのである。
「なにかしら、近衛隊長様?」
一切の感情を削ぎ落としたゼシカの眼差しを避けるように、エイトは僅かに視線を泳がせた。
ゼシカの手が緩んだすきに、ポルクが彼女の手から逃げ出すと、捕まらないように距離を取る。
ポルクは涙目になりながら、ずきずきと痛むこめかみをおさえて、呻いた。
「ゼシカ姉ちゃん、ひでえよ!」
「余計な事を言うからだと思うよ」
静かな声音でマルクが言うと、ポルクは唇を尖らせた。
「俺は事実を言っただけだって!」
「事実でも言っちゃいけないと思う」
「……あんた達、後で覚えておきなさいよ」
ゼシカは両手に腰をあてて、二人を睨みつける。
「ほら、二人共! エイトにお礼を言いなさい。あんた達の為に、お城の仕事を休んで来たのよ」
凄まれた少年達は慌てて、エイトの元に駆け寄る。
ゼシカを本気で怒らせてはいけないと、自分と同じように分かっているようだ。
「エイト兄ちゃん、今日はありがとう! おいら達、頑張って強くなるよ」
「ありがとうございます」
「今日は僕も楽しかった。また来るよ。その時には、二人が強い戦士になっているのを楽しみにしてる」
少年達の幼い顔を見つめて、すっと片手を胸にあてた。それは休憩の合間に少年達にせがまれて見せた兵士の略礼だった。
ポルクとマルクが顔を見合わせ、歯を見せて笑いながら、エイトと同じように胸に手を当てた。
何度も振り返っては手を振る二人を見送ると、ゼシカがどこか堅い表情でこちらを見ていた。
「……ゼシカ?」
名前を呼ぶと、彼女は小さく深呼吸をして、唇を開いた。
「エイト、一緒にきてほしいところがあるの」
訪れたのは、リーザス村から東にあるリーザス塔の最上階だった。
エイトが最後に訪れた時と変わらず、最上階は今まで登ってきたいくつもの部屋とは、切り離された異界のように静かな空気が流れ、ゼシカの祖先であるリーザスの像が慈愛の笑みを浮かべて、迎えてくれた。
ふと、エイトはその像の左下へ視線を移す。そこには、以前にはなかった白石でできた墓があったのだ。
ゼシカがその小さな墓に近づいていくので、エイトも彼女の半歩後ろをついていった。
「サーベルト兄さん、今日はエイトも連れてきたのよ」
真新しい墓に刻まれた名は、サーベルト・アルバート。ゼシカの兄の名だった。
途中、村のそばに生えていた野花で編んだ花輪をそっと墓にゼシカが乗せた。
こちらを振り返ったゼシカは、痛みと悲しみをおりまぜた表情を浮かべて言った。
「……母さんと村の人達と話し合って、つい最近、兄さんのお墓をリーザス像のそばに移したの。兄さんはこの村にとっても、とても大事な人だったから。ここで、ずっと村を見守ってくれるように、って」
「そうだったんだ……」
「エイトには、ここに一緒に来てほしいとずっと思っていたの……。私ね。あの夜にここで起きた事をずっと忘れないわ。最後の兄さんの言葉も、ずっと」
「うん。僕も忘れない。忘れる事なんて、しないよ」
とても優しい人だった。声だけの、それも一度聞いただけ。それでも、深みのある低い声を聴いただけで、ゼシカの兄は強く優しく、誰よりもリーザス村を大事にし、妹を大切に想っていたのだと分かった。
「それは、ポルクもマルクもだよ」
「えっ……?」
ゼシカの瞳をつよく見返す。
「今日、稽古をつけていたとき、二人の剣の型がとても定まっていた」
少年達の癖を見ようと、エイトはまず始めに二人に剣の構えと振り上げさせてみた。
すると驚いたことに、自分の予想を遥かにこえて、手首に変な力を入れることもなく、真っ直ぐと振り上げてみせた。
聞けば、サーベルトに習ったのだという。今度は剣を振る稽古をつけてくれると約束して、そのまま彼は還らぬ人となった。それ以来、唯一習ったこれだけを忘れないように二人はずっと鍛錬していたと言っていた。
「今もこれからも、二人の中にはサーベルトさんの剣が生きているんだ。二人はずっと忘れない。ずっとね」
すると、ゼシカの瞳がゆらり、と大きく揺らめいて、小さな涙が頬を滑り落ちた。
「あれ……?」
次々と溢れては落ちていく涙に、彼女自身が驚いたように頬に指をあてる。
「わっ、ごめん!? だ、大丈夫!?」
思わず、ぎょっとしたエイトは慌てて、服のあちこちを叩いて拭うものを探すが、気の利いたことにそんなものはなかった。
そんな自分の慌てぶりを見ていたゼシカが吹きだした。
「ふふ。まったく、なんでエイトが慌てるのよ。驚かせてごめんね、私は大丈夫」
「ほ、本当に? まいったな……。ミーティアに知られたら、怒られそうだよ」
頭に手をやって困ったように天井を仰ぐ。
ゼシカはミーティアにとって、身分というものを気にせずにしてくれる唯一無二の大切な友人だ。彼女を泣かせたと知られれば、自分の事のように悲しみ、怒るだろう。
「ふふ。じゃあ、秘密にしておいてあげるわ」
片目をつぶって微笑んだゼシカは、目元をぬぐうと頬を軽く叩いて、ふっきるように大きく深呼吸をした。
「ねえ、エイト。……私、兄さんが言った言葉の通りに、自分の道を信じて進んでいたかしら」
ゼシカの真剣な眼差しが胸を強く刺す。エイトはその両手を掴んで、その瞳を覗き込むと大きく頷いた。
「サーベルトさんが誇らしいと思う位。仲間であった僕らも、君を誇らしいと思う。君がいなければ、今の未来を守れなかったんだから」
ありがとう、と掠れた声でゼシカが呟く。
ゼシカをまるで妹のように思っていた。それで特別扱いというものはしたことはなかったけれど。
彼女は大切な仲間だ。今もこれからも。
握り返してくるその手をエイトは少し力を込める。この思いが伝わるように。
「……ありがとう。やっぱり、エイトは優しいね。私も、貴方と仲間になれた事を誇りに思うわ」
リーザス像と同じようにゼシカは優しい笑みを浮かべて、一粒の涙をこぼした。
空が星を纏い、月がリーザス塔を照らす。
リーザス像とサーベルトの墓は、塔を下りる為に背を向けた二人の後ろ姿を静かに見送った。