始まり
とある学校の教室の中。
昔は真っ白だったことが伺えるカーテンを開けると、暖かい太陽の光が射し込み、その窓からは曇り一つない晴天と桜の木が見えた。
そんな理想的に思える天候の中での入学式の日のこと。学園生活に心を踊らせている生徒や早く帰りたそうに時計をまじまじと眺めている生徒、知り合いとクラスが同じになったことを喜び合う生徒たちが同じ空間にいる中で……その少年は、目を伏せている少女に謝られていた。
「ご迷惑をおかけしてすみませんでした。
謝っても謝り足りません」
教室の中では、少女の謝罪の声も周りの生徒達の話し声に紛れて聴こえづらくなる。
聴き取りづらくはあるが、蚊の鳴くように小さな声と言う訳ではないので、すぐ目の前にいる少年には届いたようだ。
「迷惑なんかじゃねえよ。無視すんのも後味が悪いし、お前が謝るのもおかしいだろ」
そう言って、少年は困ったように頬をかいた。
少年は困っている人がいると助けてしまう、いわゆるお人好しと呼ばれる性格の持ち主だった。
それ故に、同じクラスの女子生徒たちに囲まれて混乱している少女を見て、見過ごすことが出来なかったのだろう。
「それでは言い方を変えます。本日は、助けてくれてありがとうございました」
深々とお辞儀をした少女に、周りが少しざわめいた。
これでは自分が悪者にされると思ったのか、少年は焦ったような声を上げた。
「いやちょっと声をかけただけだし、助けただなんて大層なことはしてないから気にすんな!」
だから顔を上げてくれとぶっきらぼうに言われ、少女はやっと下げっぱなしだった顔を上げて、初めてまともに少年の顔を見る。
すると少女は、信じられないものを見たというかのように目を見開き、震える声音で少年に声をかけた。
「士道くん……?」
「お前は」
少年、士道は名前を問いかけてきた少女に目を見やる。
最近視力の低下が気になっているせいか、少し睨むような顔つきになっていた。
それが原因なのかは分からないが、それを見た少女の顔色は死にそうな程に真っ青だ。
しかし当の士道は、問いかけに応じようと記憶を思い起こしている為に少女の様子には気がつかずにいた。
そして数十秒後、ひとしきり悩んだらしい士道の険しい表情が緩んだ。
「ああ、隣の家に住んでいるやつか。クラス同じになったことはなかったけど、中学も一緒だったよな。すまん、名前教えてくれないか?」
士道がそう答えると、少女の不安そうな表情が安堵したようなものへと変わり、そうして今度は花開いたような笑顔になった。
「は、はい。私の名前は……」
♢
とは言えどももう少し寝ていたいという気持ちの方が勝ってしまい、目覚まし時計を止め二度寝に試みようとしたが、数分後にもう一度アラームが鳴り、それを止めてももう一度アラームが……と言った形が十数回続いたことにより、面倒くさくなり起き上がることにした。
全く、こんなにアラームをかけたのは誰だ……って、自分でやったことだった。
「……ん……もう、朝……?」
アラームの音が聴こえるってことはそうなんだろうし、目覚まし時計を見てみても6時半を指しているのが分かる。
しかし、実は大ボカをやらかしてしまって夕方の6時半で一日の大半を寝過ごしたのかもしれない。
それを確かめる為に窓の外を見ると、
これで夕方の6時半ってことはないだろう。
それは分かったのだが、自分は何故目覚ましをかけたのだろうか。少し考えた後に、明日から学校だから生活リズムが崩れてては不味いと思い、春休み最後の日である今日から早く起きようと思ったのだという答えに辿り着いた。
……しかしまあ、6時半ってのは早すぎたかもしれない。
今日もすることと言えば、趣味に没頭するか不定期に来る友達を待つくらいだ。
ああ、暇だ。こんなに自分にはすることがなかったのかと思えてしまえる程に暇だ。
そんなことを考えながらゴロゴロとベッドに寝転がっていると、壁に貼ってあった広告が目についた。どうやら今日は近くのスーパーが特売日らしい。
暇だし、今日は買い物にでも行こうかな。
毛糸を補充しておきたかった所だし、それに明日から学校なんだし何か必要な物でも探しに行こう。
簡単に今日の予定を決めた後に、のろのろと
洗濯物を洗濯機の中に突っ込んでボタンを押した。
その後に気まぐれに玄関口に行き郵便ポストを開くと、手紙が一通入っていた。
その内容を確認した後に、慣れた調子で返事の手紙を書く。
まあどうせ今日は家から出ようとは思っていたのだから、ついでに郵便局に寄って出せばいいだろう。
そんなことを考えながら鼻歌交じりに出かける身支度を整える。
朝食のゼリー飲料を口にしながら、天気でも調べようかと思いテレビをつけると、速報で
空間震。
三十年前にユーラシア大陸を焦土に変えた自然災害。
発生原因は分からないが、何十、何万キロにも渡る範囲に地面にくり抜かれたような穴が出来た現象は、何億もの人の犠牲を伴い、人類史に大きな傷跡を残した。
学校の授業でも幾度となく教えられてきたことだ。
三十年前以降、あれ程大規模な空間震が起きることはなかったが、不定期に空間震が起きるようになった。
それは日本も同様で、特に最近は
ただの一般人の私でもそう思うのだから、お偉いさんはてんてこ舞いなのかもしれないが、そんなことは私にはどうでもいいことなのだった。
だってシェルターに籠っていれば大した問題もないのだ。その為の防災訓練だって、小さな頃から何度だって学校でやっているわけだし。
それにしても、ニュースの場所ってここの近くだったはずだよね……?
大丈夫だろうか。一抹の不安を覚えながらも、それこそシェルターに入れば大丈夫なのだと気を落ち着ける。
テレビの時計を見て、洗濯物を干せる頃合いかと思って脱衣所に行き、洗濯機に入れたものをかごに突っ込んでベランダに干す。
幸いにも量は少ないので、さほど時間はかからないだろう。
適当に鼻歌を歌いながら、シワを伸ばしてハンガーに衣服を通す。曲はうろ覚えだけど、たしか宵待月乃という人の歌だったかな?
色々あって大変だったようだし、最終的に芸能界引退まで追い込まれたアイドルだったはずだ。
アイドルはそこまで好きではないけど、彼女の歌は好きだったし……落ち込んでいたときも勇気と元気を貰っていた。
だから彼女が引退することは少し寂しかったのかもしれない。……なんて、他人事ではあるんだけどね。
最後の一枚を干した後に部屋に戻って時計を見ると、予想通りそこまで時間はかからなかったらしいことが分かった。
少しの達成感を胸に、出かける準備を整えて玄関で靴を履く。
「行ってきます」
私以外は不在だが、いつも通りに挨拶をしてから家を出る。
外は春になったばかりと言うこともあってか、少し肌寒い。薄手のカーディガン一枚では心もとなかったかと思いつつも、もう一度家に戻るのも着替えるのに時間を取られるのも嫌だったからとそのまま歩き始める。
家を出るのも久しぶり……詳しく言うのであれば、春休み中はまともに外に出ていないような気がする。
今のままでは運動不足が否めない。
少し遠回りをして家の近くの郵便局に手紙を出しに行った後に、家近くのショッピングモールに入った。
やはり特売日と春休み最後の日なのも相まってか店内は人で賑わっている。とは言っても一階は食品売り場であり、食材を大量に買い込むことになるであろう私は大量の荷物を持って歩くのを嫌い、ここを後回しにすることに決めた。
人混みの中を押しつぶされないように抜け出して、違う階に行く為にエスカレーターに乗り、まずは文房具のブースに顔を出すことにした。
やはりいつもよりも賑わっているフロアの中でシャー芯やのりなどの欲しいものを探した後に、新学期に使うであろうノートを探しに行った。
いつも通り、無難な物を選択して買い物かごに突っ込んだが、そのノートの隣にある物を見て思わず動きを止めた。
桜色の和紙が貼ってある表紙のノートに、シンプルながらも目を惹かれた。
表紙をめくってみると、淡い桜色の紙に桜の花びらがプリントされていて凄く私の心を揺さぶる。
買ってしまおうか。いや、だけど教材用のノートはもう買ったし、無駄遣いは良くない。
だが、しかし無駄遣いでなければ問題ないのでは?
そういえば、少し前から日記に使うノートが欲しかったのだ。
それに使うということにすれば、誰も文句は言えないだろう。自分のことなんだし文句を言う人はいないだろうが、自己管理が出来ていない人だと思われるのも嫌だ。
……少し考えた後、結局レジに向かうことにした。
そろそろ
本来なら自炊するのが一番なのだろうが、自分の料理の出来なさを身にしみる程に理解している私は、その行動を取れずにいた。何にしようかと物色している時、後ろに気配を感じて振り返ると、気まずそうな顔をしている彼と目があった。
……あってしまった。
「あ、お前……」
「ひゃ、ひゃい! すすすみません!!」
彼に声をかけられた瞬間に、彼から逃げる為に猛ダッシュで駆け出した。
思わず、条件反射で。
気づいた時には彼の顔が見えなくなっていたので、今更戻るのも気まずいので、食べ物を買うのは後にしてトイレットペーパーやシャンプーなどの消耗品を買いに行くことにした。
レジで会計を済ませながら、先程の彼のことを考える。
五河士道。
彼は去年同じクラスだった男子生徒であり、五年前に私の隣の家に越してきた人物でもある。
妹と両親の四人で暮らしている彼だが、彼の両親はどこかに出張に行っているようで、あまり家に帰っている姿を見たことがない。
気づいていないだけで、もしかしたら帰ってきていたりもするかもしれないが、真実がどうかなど私には分からない。
なにせ、私自体は五河君本人から聞き出すなんてことをするほど仲が良くない。
挨拶をされれば返す、それくらいの関係だ。
でも、それでも私にとっては特別なことであるように感じられる。
まだ落ち着きを取り戻せない動悸を落ち着けようと胸に手を当てる。
私は彼が、五河君のことが恋愛感情として大好きだ。
一目惚れ、と言う訳ではない。
凄く顔が整っていると言うわけでもないし、理由を聞かれると首を傾げざるを得ないが、困った時に助けてくれて、話を聞いてくれた。
それだけで私にとって全てだった。
「明日、五河君と同じクラスになれますように」
なんて。
神さまなんている訳ないのに、こんなんやっても意味ないって分かってはいるんだけどな。
それでも何かに
……まあ、そうかもしれない。
自分の願いを叶えてくれるんだったら、なんだって利用するべきだろう。
全ての買い物を終わらせた私は、一回荷物を家に置きに行き、その後に近所をぶらぶらと散歩して見つけたパン屋さんに入った。
扉を開いた直後、辺りにふんわりと漂う香ばしい香りに涎が出そうになったが、何とか押しとどめる。
美味しそうなラスク一袋と昼ご飯になりそうなサンドウィッチなどのパンを二、三個買い、パン屋近くの公園のベンチでつまむ。
別に焦る必要もないので、もそもそとゆっくり食べていると、公園の様子に目が向いた。
公園には、どうやら数人の子供達とその
子供達は元気にドッチボールや鬼ごっこなんかを疲れる様子なく遊んでいる。
どこか懐かしさを感じる光景に口元が緩むのを感じるが、ここで笑ってしまえばお母様方から不審者を見る目を向けられるのは避けられないかもしれない。
だから私はぐっと堪えて、パンの残りを食べきって持ってきていた水筒の飲み口をあおる。
帰ってもすることがないので、食べ終わってからも立ち上がることなくその場でじっとしていると、陽に当てられてか少しまぶたが重くなるのを感じたので、子供達の賑やかな声をBGMに目をつぶる。
しかし、ベンチで座ったままでは寝れるものでもないし、寝っ転がってしまえば本当に不審人物に転落してしまう。
そのこと実に気がついてしまった私は、日向ぼっこも程々に立ち上がり、またぶらぶらと散歩しながら家に向かうことにした。
この様子をもし友達に見られていたのなら、定年退職した老人のような生活リズムだと言われるのかもしれないし……この現場を見られていなくて良かった。
家に帰った私はすぐに部屋に行き、カーテンを開けた後に目覚まし時計を一時間後にセットして、眠気のままにベッドにダイブして目を閉じて、暫くの間ぬくもりと安らぎを享受していた。
チリリと鳴る時計に起こされて目を開けると、空の外は少し暗くなっていた。
外に干していた洗濯物も丁度いい頃合いだろうと思い、取り込んで畳む。それを終えた後にはいつも夜ご飯を食べる時間となっていたので、今日買った夜ご飯を食べて風呂に入った。
寝る前に今日買ったノートを開いた。
そして思いつくままに真っ白なノートに文字を書き込み、ベッドに身を
しかし、じっとしていれば少しずつ眠くなってきて、気がついた時には意識がなくなっていた。
♢
──約束だからね。また君に会いに行くから……
だから、その時は……
ゆっくりと目を開けると、見慣れた天井が目に入った。
変な夢でも見ていたのだろうか?
今日は大切な日なのだし、それも仕方ないのかもしれない。
少し緊張するが……
着慣れた制服に腕を通し、バターを塗ったトーストを
全ての身支度が整ったことを確認すると、スクールバッグを持って家を出て行った。
今日から、二度目の高校生活が始まる。
そんな中で私が気になるのは……彼と同じクラスになれたのか、ただそれだけである。