――――暗い井戸から引き上げられるように、意識が浮上する。
目の前にはベニヤ板で覆われた壁。周囲は灯りも無く薄暗い。
……ベニヤ板?白い壁紙じゃなかったか。俺の部屋は。
ああ、そういやゲームでの壁紙は低予算の壁紙だったか……。
とめどない思考が頭を流れ、半分眠っている意識のまま身体を起こす。
周囲を見渡しても自分が何処にいるのか理解できず、混乱してしまう。
数瞬の思考後、ホ級との訓練が終わった後に、コンテナに潜り込んで眠ってしまった事を思い出す。
「一夜明けても元には戻らず、か」
誰に言うわけでもなく、ぼそりと呟く。
ぶるぶると頭を左右に振り、残っていた眠気を完全に飛ばす。
そのままあくびをしながら身体を大きく伸ばすと、身体のあちこちからポキポキと関節がなる音が聞こえた。
床が固い板だったせいか、下にしていた右手の感覚が無い。
何気なく、痺れたままの右手を見る。
元の世界では節々が太くゴツゴツとしており、どちらかといえば武骨だった俺の手。
今では節々は細く、透き通るように白い。一種の清らかささえ感じられる程だ。
服の袖を捲くると、染みも無い雪の様な肌がするりと現れる。
「本当に、以前の身体とは違うな」
握ったり開いたりを繰り返していると、段々と感覚が戻ってきた。
肺の底に溜まった空気を押し出すような、小さな溜め息が口から漏れる。
その溜め息が、元の世界に戻れない望郷の念からくるものか、いまだにこの身体に変化したことが受け入れられない精神からくる物かは、自分でも分からない。
「起キテイルカ?」
微かに金属がきしむ様な音を立てながら、半開きになっていた扉の片側が開けられる。
扉から太陽の光が射し込み、俺の顔を照らしてくる。
目の奥まで差し込んでくる眩しさに、思わず眼を細めてしまう。
半開きになっている扉からひょっこりとホ級の顔――正確には人の形をしている部分が顔を出す。
ビジュアル的に、テレビ画面から這い出てくる名状しがたきものを想像してしまった。
be cool……be coolだ俺。内心を表情に出さず、ホ級へ挨拶を返す。
「……おはようございます、ホ級」
「オハヨウ。ソロソロ訓練ヲ始メルゾ」
その言葉の意味する所を理解し、ついさっきまで無表情を保っていた顔の筋肉が硬直する。
口の端が歪につり上がっているのが、自分でも分かるほどだ。
もし目の前に鏡があるのなら、さぞかし引きつった少女の顔が見つめ返してくるだろう。
……まあ、その少女とは自分自身の事なのだが。
「ドウシタ?ソンナ露骨ニ嫌ソウナ顔ヲシテ」
軽く笑いながらホ級が話しかけてくる。
その様子を見るに、どうやらまた俺をからかっている様だが、一応聞いておかないと。
「冗談ですよ、ね?」
「冗談ダ」
強気に返そうと思ったが、自信が持てず後半の語尾が上がってしまった。我ながら情けない。
そんな俺に対し、ホ級は堪え切れなかったのか――喉奥からこみ上げるようにクックッ、と笑っている。
「勘弁してください……本当」
深呼吸をする様に大きな息を吐き出す。
硬直していた筋肉が一気に弛むのを感じる。
「悪カッタ。ソウ言エバ、オ前ハ人間ノ住ム島ニ興味ヲ持ッテイタナ。一緒ニ行ッテミルカ?」
全く悪びれた様子もなく、今思い出したかのようにホ級が提案してくる。
たしかに以前、ホ級に対して周囲に島があるか聞いた記憶がある。ここから西の方角に誰もいない島があるといっていたか。
提案自体はありがたい。海の上でどの方向に進めばいいのか、俺には全くわからない訳だし。
だが、一方でホ級を俺のわがままで振り回してしまっているのでは、との疑念も湧いてくる。
「それは助かりますが……いいんですか?そこまでして私に付き合う必要は」
「気ニスルナ、私ガ好キデ行ッテイル事ダ。ソレニ」
そこでホ級は一端言葉を区切り、腕を組み考え込み始めた。
どうやら次に言うべきことが出てこないように見える。ここは相手の出方を待ったほうがよさそうだ。
ほどなくして、意を決したようにホ級が口を開く。
「ソレニ、オ前ガ心配ダカラナ」
――直球。予想だにしない直球。
段々と語尾に力が無くなり、ホ級は言い終わった後にぷいっとそっぽを向く。
心なしか頬も多少血色が良くなっているような、端的に言えば照れている様子だ。
「勘違イスルナ。訓練ガ終ワッテイナイノニ、唐突ニ放リ出スノハ私ノプライドガ許サナイダケダ」
教エタ責任トイウモノガアル、とそっぽを向いたままホ級は続ける。
「そ、そうですか……ありがとうございます、ホ級」
いきなりの直球に面食らった俺は、なぜか感謝の言葉を返す。
それにホ級は小さく頷いてくれたが、恥ずかしいのかそのまま口をつぐんでしまった。
お互いに黙り込んでしまい、微妙な空気がお互いの間に漂う。
この空気は駄目だと本能的に感じた俺は、わざとらしく咳払いをし話題を切り替える。
「じゃあすみませんがホ級、その島まで案内をお願いします」
「ワカッタ。デハ、向カウトシヨウカ」
善は急げだ、とばかりにホ級は海に向かっていく。
俺はそれに対し、この感じ前にもあったな、とのんきな感想を抱きながらついて行く。
――その前に、コンテナの片隅に置かれていた緑色のバケツを手に取る。
深海棲艦であるホ級や、異物である俺に効くかどうが不明だが、何かあったときの保険に、だ。
そう自分に言い聞かせ、再度ホ級を追いかける。
願わくば、バケツ――高速修復材を使うような事が起きなければ良いのだが。