よろしくお願い致します。
第一話 夢の中の王
煌めく天界の空を、聖鳥シモルグ・アンカが優雅に飛んで行く。
六枚の燃えるような翼を羽ばたかせて、向かう先には巨大な一本の樹木。
その巨大樹に
シモルグは美しい灰色の人間の女の顔で、小さな木の実を一つ口にくわえむしり取った。
止めろ!
叫んでもシモルグには届かない。
まるで僕が存在していないように、物事が進んで行く。
聖鳥は巨大樹の周辺をゆっくり旋回しながら降下し、雲に覆われた地上にいる二人の人物に近付いた。
セルジン!
二人とも長い黒い髪をしている。
一人は長身の男セルジン・レティアス・ブライデイン、もう一人は華やかな鎧を装着した美しい戦いの女神アースティル。
僕の胸は、引き裂かれるようにきりきりと痛んだ。
止めろ……。
シモルグが女神の横に舞い降りた。
美しい女神は微笑みながら、シモルグの口から巨大樹の木の実を受け取る。
虹色に輝く木の実は、神の妙薬の如く魔力に満ちていた。
女神は優しい表情で、木の実をセルジン王の口元に押し当てた。
駄目だ、セルジン!
食べないで!
王は一瞬ためらった後、ゆっくり口を開けた。
綺麗な指先が唇を撫でるように、木の実を滑り込ませる。
止めろ――――!
王の喉が動き、永遠の生命をもたらす木の実を飲み込んだ。
光り輝く闇の中で、もがき苦しむ王の姿が遠退いた――――。
「セルジン! セルジン……」
「オリアンナ様!」
僕の叫びとミアの大きな呼び声が重なり、ようやく目が覚めた。
あの日から何度も見る夢に、冷汗と荒い息遣いで飛び起きる。
夢と現実が、セルジン王がいない苦しみを見せつける。
ミアが優しく僕を抱きしめた。
「大丈夫です。陛下は必ず戻られます!」
天界の城で起きた事は、王の側近以外誰も知らない。
無用な混乱を避けるため、皆には一時的な不在とだけ伝えられている。
戻らない可能性が高い事は、宰相エネス・ライアスによって、決して悟らせないように厳命されていた。
「本当に……、戻ってくる?」
「はい! 今までもそうでした。必ずオリアンナ様の元へ戻られますわ」
「そう……だね」
皆の前で、悲しみ苦しむ姿を見せてはいけないのだ。
天幕に出入りする者達の手前、たとえ事情を知るミアの前でも……。
「さ、お着替えください。皆さま、お待ちですよ」
「うん」
無感動に微笑む。
王が代償とした国王軍の貴重な平穏を、僕の苦しみで乱したくはなかった。
セルジンが望んだ事だ。
僕は……、それを維持させる。
着替えるために鎧の下に着る肌着を受け取った時、左上腕にはまる〈抑制の腕輪〉が目に留まる。
それは今も天界の女神に支配される証のように、取り除く事も出来ずに存在していた。
どうして取れなくなった?
こんな
無理を承知で、引っ張ってみる。
まるで肌に吸い付いているように、腕輪はビクとも動かない。
怒りをぶつけるように、叩いても引っ掻いても外れる気配もない。
これさえなければ、セルジンが連れ去られる事はなかった……。
マルシオン王の警告を聞かずに、セルジン王に触れてもらいたいだけで、簡単に天界の罠にかかった自分が許せなかった。
何度も繰り返し取り除こうとしたために、腕輪の周りの傷口が再び血を滲ませる。
まるで自傷行為のように肌を傷つけ、ミアに止められた。
「お止め下さい! 傷を作るだけですわ」
両手をがっちり掴まれ、それ以上怒りをぶつける事が出来なくなった。
再びミアに抱きしめられる。
「落ち着いて……、信じるんです。陛下は必ずお戻りになる。その時にそんな傷を作っていたら、私が怒られますわ」
「…………うん。ごめん」
次に王が戻った時は水晶玉の〈管理者〉となり、不死の人間としての帰還だ。
きっと影の方がマシだ……、《ソムレキアの宝剣》で断ち切れる。
〈管理者〉は水晶玉が消滅するまで、死を迎える事は出来ない。
永遠に時間を
ふと、誰かの声が心に浮かんだ。
《真実を知った時に王がどんな風に変わるかを、循環する運命の輪にしがみ付きながら見届けるのが、娘さんの役割のようにわし等には思えるがのぉ》
メイダール大学図書館に住みつく、ウロボロスの言葉だ。
セルジンが変わる?
水晶玉の〈管理者〉として、どんな風に……?
〈管理者〉としての王の姿を想像してみた。
見届けるって……、僕にはもうそんな時間は残されてないのに。
王を水晶玉から解放した段階で、僕の命の光である〈ありえざる者〉オーリンが王に移り、僕は死を迎える。
…………セルジンはきっと、僕の事を忘れてしまう。
そう思うと、悲しかった。
僕の生きた時間が、王のこれからの長い一生の中で、ほんの一瞬にすぎない事がとても嫌だった。
[やいっ、くそ王太子オーリン! 俺のイリを、勝手に返しただと? どうしてくれるんだよっ!]
[別に……、僕がやった訳じゃない。文句なら、テオフィルスに言え!]
悲しみに暮れている暇などない。
いなくなったセルジン王の代わりを、王の天幕で務めなければならない。
今一番の問題が目の前で大騒ぎしているアルマレーク人のルギーを含む、怪我をして同行する事になった竜騎士達と、彼等に反感を覚えている国王軍の一部の者達との対立だ。
[王太子殿下に対して、その口の利き方は何だっ!]
慌てて駆け付けたマシーナ・ルーザが、ルギーの頭にげんこつを食らわせた。
彼は国王軍の傭兵部隊にいつの間にか紛れ込み、テオフィルスについて来ていたのだ。
「大変申し訳ありません、オーリン殿下! 私が忍び込んだ上に、怪我人が元気になると問題ばかり起こして……」
「いいんだ、マシーナさんがいてくれて本当に助かってるよ。僕達だけじゃ、対応しきれないから」
言葉の壁と習慣の違いから、摩擦は深まるばかりだ。
竜騎士達全員がエステラーン語を堪能な訳ではなく、国王軍にアルマレーク語が解る人間も少ない。
通訳に駆り出される事は平気だが、竜騎士と国王軍の騎士との溝を埋めるのは、本当に大変だった。
「王の天幕の警備はどうなっているんですか? こんな小僧が入り込むなど……」
「アレインさん、僕が許可したんだ」
[嫌な奴が来た!]
[ルギー!]
天幕に入ってきた国王軍の大将アレイン・グレンフィールドに、ルギーが顔を
事ある毎に行動の規制を言い渡すアレインに、アルマレーク人達の不満は募る。
若い大将は、容赦がない。
「殿下、いくら天界人に守られていると言っても、人間の敵に対しては我等で防衛するしかありません」
「アルマレーク人は敵じゃないよ。陛下が認めている」
何度も天界の城での出来事を説明しても、アレインは聞き入れる気がない。
王配候補の一人でもあった彼は、王がテオフィルスに僕を預けた事を認めたくないのだ。
気持ちは解るよ。
僕だって、認めたくない。
王の意図がまるで解らない。
このままではエステラーン王国は、アルマレーク共和国に吸収される。
神々に滅ぼされるのは現実感がないが、アルマレークは過去に敵対した国、エステラーン人として当然反感を覚える。
僕の半分は、アルマレーク人なのに……。
一番困惑しているのは、僕自身だ。
アレインが吐き捨てるように言った。
「奴は陛下に取り入ったのです。王国を乗っ取るために……」
「エステラーン王国等、いらん!」
突然、低い声が天幕中に響き渡った。
出来れば目の前に現れて欲しくない人物……、テオフィルス・ルーザ・アルレイドが無表情に入り口に立っている。
「こんな荒廃した王国を押し付けられても、共和国にとっては迷惑なだけだ!」
[若君、言い過ぎです!]
慌てて止めるマシーナを尻目に、テオフィルスは挑発するようにアレインを見て笑った。
アレインが怒りの目を向け、今にも剣を抜きそうになる。
「もう、いいっ! 皆、天幕を出て出立の準備をしろ、時間だ!」
執務のための椅子から立ち上がり、入り口を指差した。
年下の女子が、年上の男達相手に命令を下す……、自分でも意味の解らない光景だと思う。
天幕にいる者達は慣れた様子で、移動の準備に取り掛かる。
「決闘は厳禁! 協力しあえない者達は、行軍から去ってもらう。これは命令だ!」
どう見ても子供が真っ赤になって、ただ喚いているようにしか見えない命令の仕方。
それでも気力を振り絞って、この場を収めなければならない。
アレインは渋々命令に従う素振りを見せたが、テオフィルスは馬鹿にしたように鼻で笑う。
「ふんっ、ヘタレ小竜のくせに、俺に命令をするな!」
[若君っ!]
思いっきり蔑んだ目で睨んだ後、さっさと天幕から出て行った。
マシーナが平謝りしながら、ルギーを連れて後を追う。
アレインも憤りを隠せない様子で、天幕を後にした。
一番の問題は、テオフィルスのあの態度だ。
僕を預かる事を承諾した彼は、極端な程冷たくなった。
僕を預かりたくないんじゃないのか、そう思うとどう対応して良いのか全然分からず、彼を避け続けた。
暗い屍食鬼の空が、エステラーン王国に届く光を奪っている。
王の天幕から外に出た僕は、朝でも常にうす暗い王国の空を見つめて重い吐息を漏らした。
セルジン王が身を犠牲にした戦いで、女神アースティルとの契約が国王軍を守っている。
上空には天界の兵士達が守りを固め、その上にいる屍食鬼が襲ってくる気配はない。
セルジン、戻ってきて……。
古のエステラーン王国の王マルシオンは姿を消し、ありえざる者オーリンも僕の中で眠ったまま、天界に関わる者の姿は、星のように輝く天界の兵士のみ。
セルジン王の行方の手がかりは、手を伸ばしても届かず知る事が出来ない。
「出立の準備が整いました」
近衛騎士隊長トキ・メリマンの低い声に、物思いから否応なく現実に引き戻される。
ディスカール領の南西にあたる今の夜営地は、近くにイルーの大河が流れるかつての大都市サージ近くに設営されていた。
薄明りに浮かび上がる堅牢なサージ城塞は、そのままレント城塞を思い出させる。
見張りの塔が少ない違いはあるが、城塞内に温かい宿屋があるように見える。
何もかも投げ出して帰りたくなった。
「城塞に入ればいいのに……」
廃墟の都市に入らないのは、屍食鬼を警戒しての国王軍の規則だ。
解ってはいるが、しっかりした建物での日常が恋しかった。
「在るのは人のいない廃墟だけです。何が潜んでいるか分かりませんし、建物が倒壊する危険もあります。広い場所での夜営の方が安全ですよ」
待ちわびていた宰相エネス・ライアスが、迎え答えた。
「うん……」
がっかりしながらサージ城塞を眺めた。
そこはレント城塞ではないのだ。
セルジン王の隣にいる間は幸せで見えなかった現実が、今は冷ややかに幾度となく訪れる。
まるで屍食鬼に覆われた空が、そのまま僕の心に入り込んだように、気力を萎えさせていた。