全身を巨大な毒蛇に絡みつかれ噛みつかれている感覚に、テオフィルスは苦しみ足掻いていた。
常に彼を守るはずの七竜リンクルの姿がどこにもなく、呼び出すために竜の指輪に意識を向けようにも、毒蛇の毒に
身体が毒蛇に締め上げられ、骨が折れる音が聞こえた。
身体中の痛みに悲鳴を上げたが、口から出たのは大量の血だ。
折られた骨が内臓を突き刺す。
このままでは全身の骨を折られ、人の形を留めぬただの肉片となる。
いっそ、殺せ!
血にまみれ、ぼろぼろになった意識で、彼は死を願った。
『安心しろ、すぐにお前は死ぬ』
聞き覚えのある声が、毒蛇から聞こえた。
セルジン王の声だ。彼の怒りを買って、こうして死の淵を漂っている。
オリアンナ姫を無理やり連れ出した罰だ。
彼女の事を考えると、苦しみが増した。
テオフィルスは血反吐を吐き、涙を流しながら、意識は絶望の奈落へと向かう。
〈七竜の王〉が……、
アルマレークの危機を救うどころか、自分さえ救う事が出来ない。
故国は七竜を失い、竜は制御を失う。
人間にとっての敵に変わり、国は竜の炎に焼き払われる。
最悪だ。
竜が敵になるなんて……、見たくない。
もはや肉塊と化した彼は、最後に残った意識も手放そうとした。
――その時、間近で竜の咆哮を聞いた。
咆哮は彼に絡みつく巨大な毒蛇を吹き飛ばし、身体を人の形に戻す。
五感を取り戻したテオフィルスは、すぐ側に七竜リンクルがいるのを感じ取る。
そして……、他の竜達の怒りの声を聞く。
彼は目を覚ました。
[リンクル、セルジン王と竜達の争いを止めろ!]
七竜リンクルが竜達の元へと消えた時、彼の上に何かが圧し掛かってきた。
上体を起こし、危険を回避するために身構える。
彼の体力は目覚めた瞬間に、リンクルが回復させていたのだ。
自分の上に倒れ意識を失っているのが、オリアンナである事に驚いた。
ゆっくりと彼女の身体の線を目で確かめる。
オーリン王太子がオリアンナ姫であると解ってはいたが、彼女の姿は男子を装い、女性である事を拒否していた。
それが今、目の前に倒れ、彼女の本来の姿を彼に見せつけていた。
青ざめた顏は生気を失い、死んでいるように見える。
テオフィルスは彼女に手を伸ばそうとしたが、ある事に気が付いた。
すぐ傍にある蝋燭の灯りが、揺らめきながら彼女の首筋に照らし出す。
赤い痕。
瞬時にそれが、くちづけの痕である事を悟る。
そしてセルジン王の、強烈な怒りの理由が解った。
オリアンナ姫は……、王の女だ!
力が抜けるような感覚に襲われた。
七竜の定めた婚約者は、既に他の男に愛されている。
男子の姿に惑わされ、どこかで安心していた自分の愚かさに気が付いた。
エアリス姫として彼の前に現れた彼女は、確かにセルジン王の婚約者だったのに、それは自分を欺くための嘘だと思い込んでいた。
一国の王の婚約者を、どう奪い取れば良いのだろう。
彼女を得る事の困難さに打ちのめされ、伸ばした手は彼女に触れる事も出来ない。
そして、その手を激しく払い除ける者がいた。
「イリを連れて、王国を出ていけ! アルマレーク人!」
テオフィルスを激しい憎悪の目で睨むエランが、罵声を浴びせる。
エランは意識を失っている彼女を抱き起し、自分に寄り掛からせ立たせた状態で抱きしめた。
まるでテオフィルスに見せつけるように。
こいつが、相手じゃない。
やはり、セルジン王だ……。
彼の鋭い勘が、エランを否定する。
「ふん、王太子の腰巾着か。お前は彼女の相手じゃないだろ」
蔑んだその言葉にエランは憤り、オリアンナを離してテオフィルスに掴みかかった。
彼を殴ろうとしたエランの手はマシーナによって取り押さえられ、身動き出来ないように羽交い絞めにされる。
[今のは、若君が悪い! 謝りなさいっ! 彼は命懸けで、協力してくれているんですよ!]
[頼んだ覚えはない。そいつは俺とイリを、追い出したいだけだ]
[それでも、協力者です! 謝りなさいっ!]
マシーナの剣幕に、テオフィルスは浅く溜息を吐いた。
「悪かったな、女をめぐる争いに慣れてないんだ。誰も俺に立ち向かわないからな」
[それが、謝っている態度ですかっ!]
[ふんっ]
テオフィルスはベッドから立ち上がり片膝を折って、あくまで儀礼的に頭を下げた。
「すまなかった。引き続き、協力を頼む」
マシーナから解放されたエランは、凄い形相でテオフィルスを睨みつけながら警告した。
「今すぐ、王国から出て行け! お前が彼女の立場を、危なくしているんだ!」
「彼女じゃない!」
甲高い声が、全てを否定した。
エランの後ろに身繕いを済ませたオリアンナが、怒りに顔を真っ赤にして立っていた。
意識を取り戻した僕は、テオフィルスの寝ていたベッドの上で、マントを肌蹴させた状態で横になっていた。
薄い肌着で完全に体型が露わになっており、慌てて飛び起きマントを身体に絡ませる。
見られた。
テオフィルスに、女だって……。
困惑する意識の中で、エランが駄目押しのように女を肯定した。
僕の中で、激しい怒りが沸き起こる。
「何が、彼女だ! 僕はオーリン、この国の王太子だ! それ以外の何者でもない!」
今さら否定しても手遅れなのは分かっていたが、言わずにはいられない。
肯定してしまえば、それまでの僕が全て崩壊してしまうからだ。
それだけは、避けなければならない。
虚勢を張る僕にテオフィルスは苛立ち、皮肉を込めて笑いながら断言する。
「は! だったらお前のその貧弱な身体を晒すな。もっと豊満になってから見せに来い、ヘタレ小竜」
[わっ、若君! 何という事を……]
マシーナが慌てて
その言葉は僕の心を、酷く傷つけた。
嫌味や罵声を浴びせられる事には、幼い頃からハラルドで慣れている。
いつもはそんな言葉は、気にもならない。
それなのに……。
僕の目から、大粒の涙が零れ落ちた。
止めようとしても、涙は次から次へと溢れ出て、止める事が出来ない。
なぜ泣いているのか自分でも意味が解らず、もどかしかった。
止まらない涙に、下を向いて他人に見せないようにする。
その様子にエランは逆上し、テオフィルスに飛びかかり顔を殴りつける。
テオフィルスも苛立ちが頂点に達し、捌け口をエランとの格闘に求めた。
体格差では圧倒的にエランの方が不利だ。
長身のテオフィルスから繰り出される蹴りの威力は凄まじく、エランは何度も蹴り飛ばされる。
それでも剣も魔法も使わず果敢に素手で立ち向かうのは、彼の中に眠る武人の血が騒ぐからだろう。
激しく掴み合い殴り合う若者達の喧嘩に、巻き込まれるのは御免だと、マシーナは大きな溜息を吐くだけで今度は止めようとしない。
「もう、いい! 二人とも、止めろっ」
何とか涙を止めて格闘の中に割って入ろうとした時、マシーナが僕の行動を抑えた。
「私にお任せを、殿下」
彼はそう言うと、殴り合う男二人を引き剥がし、それぞれの
二人はそれぞれ吹き飛ばされて倒れ、鳩尾を押えて
「喧嘩なんかしている場合ですか? あなたを連れて脱出出来なかったら、ここにいるアルマレーク人は全員殺されますよ、若君!」
マシーナはエランにも分かるように、エステラーン語でテオフィルスに警告する。
「リンクルクランで精鋭といわれる私を怒らせると、どうなるか解りますか?」
いつも低姿勢でよく喋るマシーナが、殺気を漲らせて黙り込む。
テオフィルスに脅しをかける姿は、普段の彼とは別人に見えた。
エランに殴られ口の中を切ったテオフィルスは、血を床に吐きながら切れた口元を押えた。
「ああ、解っているよ。感情的になった……。悪かったよ、オーリン」
苛立ちは性別を認めない僕に対してのもので、エランに八つ当たっても意味のない事だ。
対照的に、エランの憎しみは消えない。
僕があんな事ぐらいで涙を流したから、テオフィルスに特別な感情があると見做し怒りを覚えているのだ。
憎しみは殴られた痛みと共により増幅し、モラスの騎士隊での訓練で得た自己制御の限界を超えそうになって見える。
エランがまた黒い渦を纏わりつかせるのを恐れて僕は、抑制の腕輪を持って彼の側で
「エラン! 抑制の腕輪を付けてくれ」
「え?」
僕は彼の前でマントを
エランは受け取った腕輪を見ながら、戸惑ったように僕を見る。
「君……、こんな物をはめて大丈夫なのか? 凄い、手が痺れるみたいだ。これ、何だろう?」
その腕輪はまるで意思を持つように、エランをあからさまに拒否している。
テオフィルスに対する怒りと憤りが、別のものにすり替えられた。
「これは危険だよ、オーリン。はめない方がいい!」
「解っているけど、仕方がないんだ。僕はまだ泉の精の魔力を制御しきれてないから」
「……どこで、手に入れた?」
「マールさんに、もらった」
「薬師が? なぜこんな危険な魔法具を……?」
マールが古の王だとは、エランには知らされていない。
マルシオン王に会っていても、マールと結び付けていないのだ。
「エラン、時間がない。結界を解いた時、陛下に知られている。早くここを出ないと、大変な事になる。早くはめてくれ」
「……分かったよ」
彼は注意深く腕に抑制の腕輪をはめ、僕から滲み出ていた泉の精の魔力が姿を消した。
そんな僕達を、テオフィルスは不機嫌そうに見つめていたが、はっとしたように視線を天幕の入り口に向ける。
「マシーナ、ここを出よう。王が来る前に」
「え? はい」
「待て、テオフィルス。聞きたい事がある!」
僕が入り口に向かう彼を追いかけ、行く手を阻む。テオフィルスはなぜか優しい目を向けた。
「竜が僕を呼ぶんだ。心を奪われているみたいで、落ち着かない。どうしたらいいんだ? この感覚を消す方法を、教えてくれ!」
「……それはお前が、七竜レクーマの指輪をはめれば落ち着くだろう、オリアンナ姫」
「え?」
僕は耳を疑った。
彼の真っ青な瞳が、少し拗ねたように僕を見つめる。
テオフィルスは明確に、僕を本当の名前で呼びかけたのだ、オリアンナ姫と……。