先程現れたオリアンナと見知らぬ男のせいで、ハラルドの魔力はてきめんに衰えたようにエランには見えた。
黒い渦はハラルドの姿を覆い隠し、明らかに背後の男を恐れ委縮している。
オリアンナは不思議な光に包まれて、エランに近づいて来る。
「エラン、呪いを解くんだ!」
なぜ、いきなり黒い渦の中に彼女が現れたのか見当も付かないが、揺らめく炎のようなものに守られているのは感じ取れる。
事情の解らないエランは、戸惑いながらもハラルドに斬りかかる。
動きの鈍いハラルドを、難なく追い込んで行く。
元々、剣技は彼の方が得意なのだ。
あと一歩踏み込んでハラルドに止めを刺そうとした時、それは突如起こった。
周りを包む黒い渦が爆風で吹き飛ばされたのだ。
ハラルドの姿は黒い渦と共に掻き消え、エランも飛ばされ意識を失った。
突然現れた光の爆風の中で、僕は身を屈め《聖なる泉》の魔力のおかげで、何とか意識を保っていた。
マルシオン王は強力な輝きを放ち、怒りを滲ませて叫ぶ。
「何を考えている、セルジン王! この世を滅ぼすつもりか!」
僕達から遠い位置で、光に包まれたセルジン王が立っていた。
周りの臣下や近衛騎士達は、王を中心とした爆風に吹き飛ばされ、王から少し離れた先に円を描くように倒れていた。
王はやつれた表情で、マルシオン王と僕を呆然と見ている。
「……確かに、水晶玉は兵器だな。周りの人間を守るだけで手一杯だった」
僕は倒れたエランを助け起こそうとしたが、僕を覆う炎が彼にどう影響するのかを思うと
「安心しろ、片方の魔力は私が抑えていた。この程度の被害なら、問題はない」
マルシオン王が顔を
僕は吹き飛ばされた木々や、大地の荒廃ぶりに
セルジン王が何をしたのか伺い知れないが、何かを試したのは確かだ。
「それで、何が掴めた?」
「アドランの意識は、魔界域の
「助けようとしても無駄だ。我等に出来るのは、せいぜい水晶玉から切り放す事。それだけだ」
マルシオン王は厳しい顔で、国王に忠告する。
「一度異界に囚われた意識は、この世には戻れぬ」
僕には、彼の言いたい事がすぐに理解出来た。
ロレアーヌ妃は彼より、《聖なる泉》の楔石となる事を選んだのだ。
そうした事で黒い渦の流出を食い止めたが、《聖なる泉》の役目から、逃れる事が出来なかったのだ。
セルジン王は頷きながら、少し悲しい顔で言った。
「助け出したい訳ではない。たとえ今、水晶玉から切り離したとしても、魔界にあるアドランの意思は永遠に残る。それはいずれ、この世に再び現れると私には思える。今なら、滅ぼせないのか?」
「無理だな。そなたはまだ水晶玉の〈管理者〉ではない。今はせいぜい彼を水晶玉から切り放す事だけだ」
「……マール」
「マルシオンだ。セルジン王」
「……」
セルジン王は戸惑いながらも、古の王マルシオンを心に刻み込むように見詰めていた。
王が彼の存在に慣れるまで少し時間がかかりそうな事に、僕は同情を覚える。
彼の薬師マールに対する信頼は、僕の比ではなかったからだ。
王は僕に気付き、微笑む。
「新しい
そう言いながら、制御の腕輪を取り出した。
僕はその腕輪に恐怖を覚える。
マルシオン王の妻、ロレアーヌ妃が天界人の罠に落ちたのは、その腕輪のせいだ。
「姫君、天界の罠に堕ちたくなければ、嵌めるべきではない」
「マルシオン王、女神の意思に逆らえないんじゃないんですか?」
「私は妻を人質に捕られたようなものだ。そう仕向けたのは、他ならぬ女神!」
マルシオン王から憎しみにも似た感情が滲み出る。
長い年月を生きても人間らしさを失わないのは、ロレアーヌ妃がいるからではないかと僕には思えた。
セルジン王は制御の腕輪を見て
「この腕輪に何かあるのか?」
王は僕に触れようとしたが、〈祥華の炎〉に弾かれた。
僕は驚き炎を制御しようとしたが、どうしても出来ない。
このままでは、王と触れ合う事も出来ないのだ。
「セルジン、腕輪を下さい!」
「……」
王は躊躇しながらも、僕に腕輪を投げる。
腕輪は弾かれる事なく、僕の手に収まった。
なんとか竜騎士の腕甲を外し、腕輪を嵌める。
そうして僕を取り巻いていた炎は、姿を消した。
「セルジン!」
僕はセルジン王の、腕の中に飛び込む。
「愚かな姫君、後悔するぞ」
マルシオン王は、そう言い残して背を向けた。
セルジン王は僕を抱きしめながら、立ち去ろうとする異質な存在に声をかける。
「マルシオン王! 貴殿は誰の味方だ?」
「……誰の味方でもない。私は水晶玉の〈管理者〉。今は……、新たな〈管理者〉の誕生を待ち望む」
そう言ってマルシオン王は振り返った。
新たな水晶玉の〈管理者〉、即ちセルジン王の事だ。
二人は睨みあう。
僕を抱きしめる腕に力が入り、王が珍しく緊張しているのを感じた。
「セルジン……」
マルシオン王が立ち去り、王が腕の力を弛めた。
「私は本当に、水晶玉の〈管理者〉になるのだな」
青ざめた王の顔に、僕は手を添えた。
「どうぞ陛下の、ご意志のままに」
王は驚いたように僕を見つめ、そして激しくくちづけした。
水晶玉の魔力がぶつかり合ったせいで、《聖なる泉》の〈門番〉を取り巻いていた黒い渦は消えた。
〈門番〉は意思を失った大きな騎士人形のように、ただ立ち尽くしている。
泉の門は僕のいる位置からは見えないが、《聖なる泉》の〈門番〉の後ろに存在しているのだろう。
先ほどの王が放った何かで、《聖なる泉》は正常に戻ったのだろうか。
少なくとも泉の〈門番〉に、黒い渦は見えなくなった。
〈門番〉の鎧が、煌めく赤である事に、僕は驚きを感じる。
まるで僕がもらった
「これでしばらく屍食鬼は近寄れない」
王は周りを見渡しながら、自分の張った魔法の障壁が完全に機能している事を確認し、《聖なる泉》を取り囲む歪んだ木々の森の向こうにある、切り立った断崖に立つトレヴダール城を見つめた。
屍食鬼が支配する薄暗い空を背に、その異様な廃墟の城は、国王軍を暗黒に引きずり込む迷宮の入口のように見える。
マルシオン王は先にあの廃墟へ行ったのだろうか。
女神が待つ山城へ。
先ほどから兵士達が、慌ただしく行軍の準備に取りかかっていた。
僕も行軍の用意をしようとしたが、王が歩み寄る。
「あの男が来る。気をつけるのだ」
僕はハッとした。
セルジン王の見ている方向をわざと見ない事にして、王太子である事を意識する。
青い目の竜騎士は、足早に歩み寄り、王の前で膝を折った。
「国王陛下、先程の衝撃の影響で負傷者が出ました。出来れば暫し、国王軍に滞在を願えないでしょうか?」
「負傷者が出たとあっては致し方ない。滞在は許可しよう。しかし、竜が我が国に留まる事は許さぬ」
テオフィルスは解っている素振りで頷き、セルジン王の意思に従う旨を伝えた。
竜が水晶玉の魔力の圏内に留まる危険は、彼もイリの変化を目の当たりにして実感していた。
「もとより、そのつもりです」
僕は彼が危険を承知しても留まる事に、戸惑いを感じた。
イリもこの危険な場所に留まるという事だ。
「僕は反対です!」
テオフィルスは冷たい青い目を僕に向ける。
「イリがアルマレークへ帰れない! 君が連れて行くんだろう」
「動かせない、怪我人がいる。それに視力を失い、死にかけている竜も」
「……」
「イリは、俺より君を選ぶ。何とか制御してくれ」
僕は真っ青になった。
イリが留まるという事は、竜騎士の訓練をするという事だ。
王は僕の肩に手を置き、落ち着くように促した。
「今は戦時故、命の保証は出来ぬ。また、戦いは避けられぬし、客人としての扱いは出来ぬ」
「承知しております、国王陛下。私共は必ず国王軍のお役に立つ事を、約束致します」
テオフィルスは毅然と王の前で宣言する。
これじゃあ、この男の行軍参加の望みを、叶える事になるじゃないか!
僕は憮然としながら彼を睨みつけ、その視線に気付き彼は口角を上げる。
僕の中で憤りが沸き起こる。
彼は王との仲を、完全に邪魔する存在でしかない。
王はその心を察したように声がけた。
「オーリン、アレイン大将を呼んで参れ」
「は……、はい!」
僕は戸惑いながら王の命令に従った。
人を呼びに行くのは、王太子の仕事ではない。
何か意図があって、アレインの元へ向かわせるのだ。
僕は竜騎士を見る事なく、王の側を後にした。
アレインの居場所は、同行する近衛騎士が教えてくれた。
「アルマレークの竜騎士が来たのですね」
大将アレインは僕が伝える前にそう告げ、僕は頷き、不思議そうに彼を見る。
「陛下と事前に決めていたのです。アルマレークの竜騎士は、私が引き受けます。オリアンナ様は安心して王のお側にいらして下さい」
「……はい」
僕は微笑みながらも、どことなく釈然としないものを感じる。
アレインが引き受けるという事は、彼等は最前戦に配備されるのが、決定している事になる。
父の国人を、そんな危険な場所へ配備していいのだろうか。
ふんっ、自分から好きで飛び込んで来たんだ。
心配なんてするものか!
そう思えば思う程、心の中で何かが引っ掛かる。
アレインと共に王の元へ行こうと歩き出した時、後方から兵達の大騒ぎする声が聞こえた。
振り返った僕は、地響きに気付く。
大きな何かが、こちらに駆けてくる。
近衛騎士達が警戒し剣を抜き、兵達がそれの前進をくい止めようとするが、勢いに負け慌てて飛び退く。
僕の前まで来たそれは、瞳孔を真ん丸にさせて可愛い金属的な声を上げた。
そして頭を地面まで下げ、服従の姿勢を取る。
かわいい……。
僕は溜息を吐いた。
これでは拒否出来ない。
「分かったよ、イリ。君の竜騎士は、僕なんだね」
僕は、頭を抱えた。