揺らめく門の前で僕は、再度セルジン王の姿を見ようと振り返る。
だが、周りは薄く暗く揺らめき、その姿を確認する事は出来なかった。
《聖なる泉》の圏内に入ったという事だ。
先へ進もうとした時、門の端に人影があった。
誰もいないと思っていた僕は、その姿に思わず大声で呼びかける。
「マールさん!」
緩やかな金髪を揺らしながら、その男は琥珀色の瞳を無表情に僕に向けている。
顔の輪郭を
柔らかな色合いの服装を好んで着ていたマールと違い、今はセルジン王のように、まるで喪に服した服装だ。
金色の髪が黒服に映える。
「やあ、ブライデイン」
その呼び掛けに、僕はハッとした。
彼は
王の薬師マール・サイレスとして存在する事を辞めたのだ。
「マルシオン王……」
僕は怯えた。
強力な魔力を隠す事なく、彼は僕を威嚇し睨み付けてくる。
「ブライデイン、そなたに頼みがある」
「……頼み?」
頼む姿勢ではなく、完全な命令だと感じる。
古の王は長い時間を経ても、なお王として存在しているのだ。
「妻に、会いたい」
僕は目を見開き、マルシオン王を凝視する。
泉の精と取り引きして望みを叶えると同時に、《聖なる泉》を構成する一員となったロレアーヌ妃。
自由がなくなった存在に会う事が可能なのか、僕には判断がつかない。
「それは……、僕には判らない。〈門番〉に許可された者しか入れない」
「そなたも〈門番〉に許可されてない」
「あ……」
〈門番〉が暗黒に呑まれた時点で、《聖なる泉》の常識は崩れている。
「僕は構いません。でも、なぜ? そんな強力な魔力をお持ちなら、自分で入場出来るんじゃ……」
「ロレアーヌはそなたの前に現れた。私の前ではなく」
「……」
どうしても、会いたいんだ。
そう思うとマルシオン王に、少しだけ親近感が湧いた。
僕がセルジン王の側にいたい気持ちと、同じだと思ったからだ。
僕は暗黒に歪む門を見た。
彼はこの門の前で、どれだけロレアーヌ妃を待ち続けていたのだろう。
門の
メイダールの《聖なる泉》で、楔石はマルシオン王を呼んでいた。
上部は歪みがひどく、楔石を確認する事は出来ない。
「ロレアーヌ妃が現れるか、判りませんよ」
「構わぬ」
彼は門の中を見ている。
そこから暗黒が噴き出し、渦巻いている。
「魔界域に踏み込めば、恐らく帰る事は叶わなくなる。そなたの護衛として、私は適任だろう?」
そう言って振り返った彼は、何かを決意しているように、僕に手を差し伸べる。
「覚悟を決めろ、ブライデイン」
この古の王を、信用して良いのか?
「……条件を出して良いですか?」
「条件、私にか? 生意気なブライデイン、場合によっては許さぬぞ!」
古の王は怒ったように、僕に迫る。
泉の精の魔力〈堅固の風〉が、マルシオン王の髪を激しくなぶる。
彼は僕の持つ魔力を、恐れる様子がない。
僕は恐怖に顔を強張らせながら叫んだ。
「マールさんに戻って下さい! それが条件です!」
マルシオン王は、その瞬間に姿を変えた。
「これで宜しいですか、オリアンナ姫?」
彼はマール・サイレスの優しい顔立ちに戻り、僕に微笑む。
僕はホッとして、地面に座り込んだ。
「あんまり怖がらせないで下さいよ、マールさん」
「外見とは案外、当てにはならないものですよ、姫君」
そう言って彼は、門の前を指差した。
僕は不承不承、立ち上がる。
「それでも、マールさんの方がいいです」
「分かりました。しばらくこの姿でいましょう」
外見は優しいマールに戻ったものの、マルシオン王の溢れる魔力は変わらず、僕の恐怖心は治まらない。
二人で、門へ向かった。
「魔界域に踏み込まないで、泉の精を呼びだすにはどうしたらいい?」
「あなたが一番ご存じでしょう?」
「僕が?」
メイダールの《聖なる泉》で、廃墟の荒涼とした幾重にも連なる景色の中、泉の精を呼んだ時を思い出す。
「……水?」
僕は腰に提げた水袋を手にした。
あの時、荒涼とした世界から出られない恐怖を味わって、必死に泉の精に呼びかけた。
今、横にマルシオン王がいる状況で、あの時の必死な精神状態になれるのか不安になる。
「出来ないのですか?」
マールは物腰柔らかく、僕に聞く。
微笑む優しい外見なのに、その中身はマルシオン王そのものだ。
逃げ出したい気分になる。
「……マールさん、もう少し魔力を出さないでもらえますか?」
「ふふ、こんな危険な状況で? それは無理だな」
僕はマルシオン王に、マールを望む事を諦めた。
そして、前から気になっていた事を口にする。
「《王族》は泉の精に嫌われている。どうして?」
彼は声を上げて笑った。
「私やセルジン王の事を、怖いと感じた事はないのか?」
「あなたの事は怖いと思います。でも陛下の事は……」
強力な魔力を操るセルジン王は、魔王にもなりうると存在だと思う時がある。
それでも、怖いとは感じなかった。
「《王族》は怖い存在だよ。天界人の能力を秘めているのだからな。そしていつの間にか入り込んだ、魔界域の住人の能力も……」
「え?」
彼は目の前に広がる魔界域から、溢れる黒い渦に顔を
「我等は水晶玉に捕らわれた、人間でない者。泉の精が好む訳がない」
「それじゃあ、なぜロレアーヌ妃は、取引に応じてもらえた?」
「解らぬか、制御の腕輪のせいだ!」
怒ったように僕を睨み付け、彼は腕輪のはまった位置を見た。
「外してきたのだな。あの男が取り上げたか? あれは泉の精の魔力を制御すると同時に、《王族》の魔力も制御した。ロレアーヌは天界人の罠にはまったのだ」
「あれは、天界の物? 泉の精はどうして腕輪に気付かない?」
「彼女の命の光となった〈ありえざる者〉が、天界の気配を消したせいだ」
「……」
状況は僕と似たようなものだろう、〈ありえざる者〉がそこまで干渉している事に恐怖を覚える。
「ロレアーヌを助け出す。《聖なる泉》が完全に魔界域に呑まれる前に、彼女を解放する。ここまで来て、嫌とは言わせぬぞ!」
「嫌じゃない。彼女が反応したのは、あの腕輪を所有している僕だからだ! それで解ったよ、あの警告の意味が……」
メイダールの《聖なる泉》で彼女が姿を現したのは、天界人に対する警告を伝えたかったからだ。
「マールさん、ロレアーヌ妃を解放するって、天界人の意思に反するんじゃ……?」
「私の半分は、天界人ではない!」
そう言いながらも、マルシオン王の背からは光輝く大きな翼が現れた。
その姿を見て、何かが心に引っかかる。
天界の罠?
ロレアーヌ妃が警告したのは、自分と同じ罠にはまるなという事だ。
天界人は僕を、どんな罠にはめるつもりだ?
彼の姿が〈ありえざる者〉オーリンの姿と重なった。
警戒心と緊張がいや増す。
オーリンと一心同体の状態では、逃げ出す事も出来ない。
「さあ、無駄話はここまでだ。泉の精を呼びだしてもらおうか!」
あきらめの気持ちを抱えながら、僕は腰に下げた水袋を取り出し、栓を外した。
「トレヴダールの聖なる泉の精! 導を受け取りに来た、出て来てくれ!」
そう言って門柱の地面の両側に水を垂らす。
すると門柱が輝き始め、水が光輝き一ヶ所に集まり人形を取る。
小柄なその人形は長く濃い金色の髪をなびかせて、細い腕には銀色に輝く制御の腕輪がはまっている。
「ロレアーヌ!」
マルシオン王が彼女に近寄ろうとした時、声が聞こえた。
『彼女を返して欲しければ、近寄ってはなりません!』
ロレアーヌ妃の背後の暗闇が
『魔界域に入り込みたくなければ、〈管理者〉よ』
マルシオン王は、寸でのところで踏み留まる。
『時間が限られています。オリアンナ姫、父上の伝言は、自身の魔力に溺れるなと伝えています。あなたを心配しての言葉です』
僕は頷いた。
《聖なる泉》に父の姿を映すだけの余力がない事が見て取れる。
『
ロレアーヌ妃の光輝く身体から、清らかな炎が現れた。
それは真っ直ぐ僕に向かい、包み込む。
導は熱のない状態で、僕の左手に凝縮し……、やがて消えた。
僕はもはや、導に違和感を覚える事もない。
『〈祥華の炎〉はあなたを助け、ブライデインへ導く』
炎が僕の中に消えたと同時に、ロレアーヌ妃の姿は空中に浮かぶ光の玉となる。
「ロレアーヌ!」
「待って! どうかロレアーヌさんを返してあげて!」
僕は消えゆく泉の精に願い、必死に叫んだ!
『あなたの中に、既に彼女はいるでしょう?』
マルシオン王はハッとして、自分の胸元を見る。
そこには、彼の中に入り込もうとする小さな球体があった。
「ロレアーヌ……」
彼の顔に歓喜の表情が浮かび上がる。
球体は彼の胸の中に消えかけた。
『〈管理者〉よ。あなたのこれ以上の干渉を、我等は拒否する!』
泉の精は、そう言い残し消えた。
その瞬間、《聖なる泉》の門が崩壊した。
門を支える楔石だったロレアーヌ妃が消えたせいだ。
石が僕に向けて落ちてくる。
マルシオン王が咄嗟に僕を庇おうとした時、その手は弾かれた。
「何?」
僕の身体を、美しく煌めく炎が包み込む。
降り注ぐ石は炎に焼かれ、僕に当たる前に焼失した。
「なるほど、新たな魔力に守られているという事か」
その魔力を忌み嫌うように、彼は顔を
「マールさん、暗黒が!」
門が崩壊したと同時に、魔界域の黒い渦が二人に押し寄せた。
黒い渦は触手を伸ばし二人を絡めとり、魔界域へ引き摺り込もうとする。
触手は僕に触れそうになった途端、激しく燃え上がりあっという間に焼失した。
マルシオン王は光を
「オリアンナ姫! ここに長居は無用だ」
「マールさん、暗黒が外に出る!」
二人の間をすり抜け黒い渦が、《聖なる泉》の〈門番〉目掛けて押し寄せた。
「……!」
マルシオン王の胸元から、光輝く人物が現れる。
「ロレアーヌ!」
『私は門を構成する楔石。この世が暗黒に呑まれる事はありません』
「私は望んでないぞ! そなたは、いつも……、私を置いていく」
『マルシオン……』
ロレアーヌ妃は優しく微笑み、やがて光の球体となり、門の頂上部分があった場所へ飛び立った。
彼女が所定の位置に戻った途端、壊れた門石が元の場所へ戻り、《聖なる泉》の門は再構築された。
暗黒は門内に閉じ込められ、流出は止まる。
彼女は《聖なる泉》を構成する一員に戻る事で、最悪の事態を防いだのだ。
『あなたと……、共……に……』
ロレアーヌ妃の声が聞こえた。
永遠に生きる彼に彼女だけが寄り添う、たとえ会う事が叶わなくとも。
マルシオン王は暫く門を睨んでいた。
花のような、獣のような、人の顔のような楔石は、ただ無機質な門の飾りと化し、彼の怒りをはね除けている。
「帰るぞ、オリアンナ姫。流れ出た暗黒を排除しよう」
彼は何事も無かったように、踵を返し《聖なる泉》の〈門番〉の元へ向かった。
僕は何度も楔石を振り返り、引き裂かれるマルシオン王とロレアーヌ妃の悲しみに、涙が出そうになるのを必死に堪えていた。