アルマレークの竜騎士達がいなくなってすぐに、僕はテオフィルスがくれた竜騎士の鎧を脱ごうとした。
セルジン王に僕の半分がアルマレーク人だと、言われたくなかったからだ。
王の心が離れていくように思えて、身に着けていたくなかった。
ところが、王が止める。
「それはしばらく装備していた方がいい。イリが気を変える事もありうる。何が起こるか判らないからな」
屍食鬼が覆う空の境界線に、竜の後姿が遠く見えた。
引き返してくる様子はないが、確かに用心に越した事はない。
僕は少し困った顔をして、王を見つめた。
知りたいのは、いつも彼の心だ。
王は周りの近衛騎士と話をしていたが、まるで僕の心の動きを読んでいるように振り返る。
緑色の優しい瞳に、僕が映るのを意識した。
「これで邪魔者は、いなくなったな」
王はそう言って、僕を抱き寄せる。
アルマレークの竜騎士達と別れてから半日、国王軍はトレヴダールの《聖なる泉》に到着しようとしていた。
暗雲のように空を覆う屍食鬼の群れのせいで、地上は薄暗く、木々は立ち枯れ、点在する村も街も無人の廃墟ばかり。
このトレヴダールは領主の館のすぐ側に、《聖なる泉》が存在する珍しい場所だ。
アルマレーク共和国があるトルカンディラ山脈の端がエステラーン王国に入り込み、長年の浸食とイルーの大河によって削られた切り立った崖の先端に、トレヴダール城は建っていた。
辺境の城塞でもないのに、難攻不落の山城と呼ばれ、エステラーン王国中域防衛の拠点とされた。
その麓に《聖なる泉》が存在した。
見上げる山城の向こうに、
王の魔力のお陰で国王軍が屍食鬼に襲われる事はない。
それは解ってはいても、僕の心に不安が沸き起こる。
まるで見透かすように、横を並走していたルディーナ・モラスが、可愛い声で話かけてきた。
「エランがオーリン様の事を気にかけていましたよ。せっかく王の婚約者に戻れたのに、反抗ばかりしているんじゃないかって」
僕はその言葉に、大いに狼狽えた。
エランとは、しばらく会っていない。
王と僕が再度婚約した事を、彼はどう受け止めただろう。
僕を含めた周り中が、彼の心を踏みにじっていて、胸が痛んだ。
「エランは……、元気?」
僕には、そう聞く事が精一杯だ。
「ええ、彼の上達ぶりは、群を抜いていますね。元々の素養が、幸いしているんじゃないかしら」
「エランは、武人になるのかと思っていた……」
「彼は呪いを跳ね返して、私の後を継ぐそうですよ」
僕は目を見開き、ルディーナを見つめた。
彼女は人形だと王は言っていたが、とてもそうは思えない。
「彼はモラス騎士の長になる。完全なる、魔法使いになりうる存在です」
僕の知らないエランの未来が語られた事で、彼に置いて行かれた気がしてショックを受けた。
「エランが、魔法使いに? 考えた事なかった」
「《王族》を守る、一番の存在です。不自然な事ではないと思いますわ」
ルディーナは安心させるように微笑む。
「まもなく《聖なる泉》です、オーリン様。泉の〈門番〉は暗黒に呑まれている可能性が強いですわ。どうか、十分お気をつけて」
僕は頷き、国王軍の進行方向を見た。
上空を覆う屍食鬼達とは別に、向かう先に何かが渦巻いて見える。
暗いそれは、まるでハラルドの放つ黒い渦のように、僕の気分を打ちのめす。
「嫌な、場所がある」
「判りますか? 《聖なる泉》が暗黒に呑まれると、聖域は魔界域の入り口になる」
「魔界域?」
「本当に戦うべき相手は、魔王ではなく彼等なのかもしれません」
「……」
魔界域……、《聖なる泉》の精も言っていた。
そんな所に近づきたくないと僕は思う。
「あの中で泉の精を見つけ出し、
そう口に出しただけで気が滅入り、進める馬足が落ちる。
「……オーリン様、お急ぎを。魔王が来ます!」
上空の屍食鬼達が激しく
何かが墜落する
「竜だ! 竜が墜落したぞ!」
僕は青ざめた。竜騎士達はまだ近くにいるのだ。
「なぜ、帰らない?」
「帰れないのでしょう。おそらく、魔王の操る水晶玉の魔力に閉じ込められた」
「そんな……」
竜が水晶玉の魔力の中に長く留まる事は、危険極まりない。
「お急ぎ下さい! オーリン様は導を手に入れる事だけを考えるのです。それがこの状況を打ち破る!」
僕は半信半疑にルディーナを見つめた。
「泉を復活させるのです! 暗黒を寄せ付けなければ、魔王の魔力が強まる事はないはず、彼等も帰れます」
僕は頷き、馬に拍車をかけてルディーナと共に前方にいるセルジン国王の元へ向かった。
気が付くと上空に何騎もの竜と竜騎士が、屍食鬼と戦っていた。
果敢に火を吐く竜に、燃え上がり墜落する屍食鬼達、だか圧倒的な数に竜がおされているのが見て取れる。
不安が過ぎる中、王の元へ辿り着いた。
「セルジン!」
「アドランが来る! 早く泉へ。竜騎士に降りるように指示を出した」
王の言葉の直後に、上空で発光する物体が大きな音と共に打ち上げられた。
「指示に気がつくと良いが……。オリアンナ、泉の精は《王族》を否定している、気をつけよ。抑制の腕輪を外すのだ」
「あ……」
腕輪は竜騎士の鎧の中にある。
僕は馬を降り、王の指示で左手の鎧が外され、腕輪をなんとか自分で外した。
その途端、僕の周りに旋風が巻き起こり、王の長い黒髪をなびかせる。
僕の周りに人が近づけなくなったため、自分で何とか左手の鎧を装着する。
上空で竜騎士が、着陸する場所を探しているのが見て取れた。
王は急ぎ状況を読み、指示を出す。
「エネス、彼等の被害状況を確認し、手当てが必要な者には薬師を向かわせよ。アレイン、トキ、〈七竜の王〉に対する指示はこれまでと変わらぬ。だが、殺すな」
二人の王の臣下は礼を取る。
僕はセルジン王が変わってきている事を感じ取った。
以前はテオフィルスが少しでも僕を連れ去る素振りを見せれば、排除する命令を出していたのだ。
これで彼等の命の危険は、多少軽減される。
僕は王に微笑んだ。
「あの男はエステラーン王国を助ける一因を担っている。それが解っただけだ」
王は僕の微笑みに、冷静にそう答えた。
あちこちに燃え上がる屍食鬼が落ちてくる中、竜が地上すれすれに飛び去る。
王と僕は馬に乗り、モラスの騎士がそれに続く。
「アルマレーク人を頼んだぞ、アレイン」
「は!」
アレインは王の一行から離れ、持ち場へと帰って行く。
上空の竜が着陸し始めた。
王は《聖なる泉》へと、馬脚を急がせる。
泉に渦巻く暗黒に、僕の恐怖は増した。
近づくにつれ気分が悪くなり、馬にしがみ付きたくなる。
僕の魔力に馬が影響されないのが不思議だが、自然に馬脚は乱れ遅れがちになった。
「相変わらず、騎乗が下手だな」
聞き慣れた声が、後ろから聞こえた。
「エラン!」
僕は振り向き、声の主を確認した。
赤い髪は短く切られ、王から賜った銀色の額飾りが煌めき映えた。
ニヤニヤ笑いながら、いつも通りのエランがいた。
僕の気分の悪さが、吹き飛ぶ。
馬を彼の馬に横付けさせようとしたが、エランは前方を指差した。
「早く進め、オーリン。陛下に置いて行かれるぞ!」
どことなく男らしくなったと思った。
そういえば、彼の誕生日が近い。
「もうすぐ成人だね、エラン。お祝いしよう」
「ああ、全部終わったら、そうしよう」
エランは僕の馬を追い立てるように、ぴったり後ろに付いた。
彼が歌うように何かを口ずさんだ途端、僕の気分の悪さが消えた。
「オーリン、ここの〈門番〉は暗黒に呑まれている。〈門番〉が入場を拒否しても、入場しろよ。泉の精を見つけ出すんだ」
エランの周りから、黒い渦のようなものが吹き出している。
それは気分を悪くするものではなく、むしろ僕に襲いくる暗黒の渦を、中和する役割を果たしている。
「エランは……、モラスの騎士なんだね」
彼は微笑む。
「驚くだろ? 僕にこんな能力があるって。つい昨日だよ、モラスの騎士に認められたの。異例の早さだって」
そう言って嬉しそうに笑い、僕も嬉しくなった。
「かっこいいな、僕もモラスの騎士になりたい!」
「ふふ……、何言ってるんだよ、君は王妃になるんだろ。ほら、陛下が待ってるよ」
エランの言った通り、セルジン王が馬を下りて待っていた。
僕達を見つめる王の目は優しい。
「オーリン、〈門番〉に対応するのだ。拒否されても、そのまま入場せよ。後は我等が引き受ける」
王の前に《聖なる泉》の〈門番〉が、全身に異様な濃さの黒い渦を身に
僕は馬を下り、王の前に顔を強張らせながら立つ。
あの〈門番〉に近づきたくない。
恐怖感に身体が震え、足がすくむ。
王はそんな僕に、優しく言う。
「〈門番〉は任せよ。問題はその後だ、魔界域に入り込んではならぬ。泉の精を見つけ、
「……はい」
僕の周りに旋風が巻き起こり、二人の接触を阻んだ。
それでも王が側にいるだけで、僕の心は安心感に満たされる。
僕は微笑んだ。
「セルジン。僕は……、何があっても、あなたを見失わない。たとえ、離ればなれになっても……」
「何を言う。私がそなたを離すと思っているのか? さあ、行って帰って来るのだ。ここで待っているぞ!」
王はエランに気遣い必要以上の会話を避け、僕に先に進むよう促した。
僕の旋風に巻き込まれないぐらいの近くに、トキとその部下が配置に付く。
ルディーナとエランが、僕の後ろについた。
周りをモラスの騎士達が固める。
僕は覚悟を決めて、〈門番〉に近づく。
〈門番〉が恐ろしい大声で言った。
『名を告げよ』
「オリアンナ・ルーネ・ブライデイン」
『入場を拒否する!』
そう言った瞬間〈門番〉は剣を抜き、トキが素早く剣で受け流す。
僕は横を通り抜けようとしたが、〈門番〉は思いの外素早く、是が非でも僕を通そうとはしなかった。
トキとその部下が激しく攻撃し、〈門番〉の動きを封じる。
その隙に、僕はなんとか入り口と思える場所までたどり着く。
〈門番〉が黒い渦を増幅させたように感じた、許可なく入り込もうとする者に怒っているのだ。
モラスの騎士達が、その黒い渦の増幅を抑えていた。
僕は振り返り、セルジン王を見た。
王が頷く。
黒い渦と光が混在する門へと、僕は足を向けた。