『あなたの王は今、絶望の中で、もがいています』
「……え?」
父が消えた泉の水中に、人とも魚ともつかない泉の精が姿を現した。
混乱する僕の心に冷や水を浴びせるように、清らかな声でセルジン王の苦しみを伝えてくる。
『エステラーン王国の
「嘘だ! 陛下が魔王になんて、なるはずがない!」
いつも優しいセルジン王からは、想像も出来ない推測に、僕は断固として否定した。
『最後の《王族》のあなたの存在が、彼の理性を
「…………」
『セルジン王を救えるのは、《ソムレキアの宝剣》の主である、あなたしかいないのです、オリアンナ姫』
「それは……、父上が言った通り、陛下を消滅させるって事か?」
『彼の理性があるうちに、水晶玉から解放するのです。エドウィンの言う通り、消滅させた方が彼の救いになると、私達には思えます』
僕の目から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
「そんなの、嫌だ! なんで僕が、陛下を消滅させなきゃいけないんだ! 僕は陛下を助けたいんだ。人に戻したいんだ! 消滅なんて、絶対にさせない!」
僕は《聖なる泉》の前で、身を屈めて泣き続けた。
涙はまるで湧き続ける泉のように、僕の目から流れ続け止まらない。
どのくらい時間が経ったのか解らなくなった頃、泉の精の優しい声が僕を現実に引き戻した。
『嘆かないで、オリアンナ姫。私達が、あなたを助けます』
清らかな泉の精が、揺らめく水の中から、僕に手を差し伸べる。
僕は泣いて赤くなった目を、おずおずと泉の精へ向けた。
『王を助ける望みは、きっと叶えられるでしょう。あなたをよく見れば、解ります』
望みが叶う?
あまりの驚きにそれまでの嘆きが、一気に僕の中から吹き飛んだ。
「本当に? 本当に叶うの? どうやって、助けられるの? 方法は?」
涙を拭いながら、期待を込めて
『私達が教えなくても、いずれ
「父上が、犠牲? どういう事?」
急に不安が頭をもたげてくる。
父エドウィンは、今どういう状況にあるのか?
王都ブライデインは、屍食鬼の巣窟になっていると聞いている。
そんな場所で、どうやって生き延びているのか?
『《ブライデインの聖なる泉》で、彼に会えば解ります、オリアンナ姫。契約の代償は、彼が払いました。あなたは
「え?」
突然、泉から強烈な光が噴出し、周りの全てを呑み込み膨れ上がった.
あまりの眩しさに、手で目を覆い隠す。
「わあっ!」
訳が分からないまま、身体が宙に浮く感覚に声を上げた。
光が身体中に侵入し、焼き尽くされる感覚に足掻いて、必死に振り払おうとした手は、虚しく宙を掻く。
世界も僕も消えてなくなる恐怖に怯えた。
「止めろっ――――!」
―――突然光は消え、浮遊感も消えた。
恐る恐る目を開けると、《聖なる泉》は何事も無かったように静かで、湧き出る水の音だけが聞こえる。
僕の荒い息遣いが、不協和音のように木霊した。
「何だ……、今の?」
不意に違和感を覚え見ると、左手の周りを水が取り巻いていた。
冷たさも濡れた感覚もないのに、視覚は意志を持って
「うわあああっ!」
慌てて振り払ったが、それは左手に吸い込まれ、水の紋様を左手全体に刻み込む。
違和感が体中を駆け巡り、左手だけが僕とはかけ離れたものに感じる。
「止めてくれ、泉の精!」
その瞬間、紋様は消えた。
『それは〈生命の水〉という私達の魔法です。あなたの命の灯が消える時まで、命を守り続けます。あなたが立ち向かうのは、人の魔力の及ばぬ者達です。オリアンナ姫、全てはあなたに掛っています』
「え?」
『《聖なる泉》が消えれば、魔界域の扉が開くでしょう。そうなれば、この世は滅びます』
「…………」
魔界域……、その言葉に言いようのない恐怖が、胸の痛みを伴って沸き起こった。
魔王アドランの剣で胸を貫かれ殺された僕は、魔界域へ堕とされたはずだ。
魔王に殺された者が堕ちる場所、魔界域。
僕にはその時の記憶がまったくない。
それでも胸から背に残る傷痕が、切り裂くような痛みを訴えている。
僕は、なぜ生きている?
いつもの疑問が、痛みと共に頭を占める。
『エステラーン王国の、各地の泉が枯れ始めています。魔王が魔界域を呼び寄せ、ブライデインに近付いているのです』
「だから僕に、魔王を消滅させろっていうのか?」
『その通りです。あなたにしか出来ない事です』
いきなり肩が重くなり、身動きが出来なくなる。
世界を背負う重責に打ちのめされ、足元も見えない程、この世が暗く感じる。
どうして、僕に?
僕は《ソムレキアの宝剣》なんて、持ってないのに……。
心を読んで、泉の精は答えた。
『ただ前へ進みなさい、オリアンナ姫。《ソムレキアの宝剣》は必ず現れます』
「どうして……、僕なんだ!」
『生まれた事に役割があるなら、あなたはそれが定めです。乗り越えるのです。そうすれば、望みは叶うでしょう』
「陛下を人に戻す方法は、あるんだね?」
『…………あなた次第です』
僕、次第?
王の姿を思い浮かべた。
希望という火が、心の中に灯った気がする。
この世の生存より、セルジン王の生存の方が大事に思えた。
僕次第で、陛下を人に戻す事が出来る?
すべて乗り越えれば、望みが叶う?
自分の思考に呆れながら、魔力を秘めた左手を見つめた。
ただの左手にしか見えないが、まるで剣を手にした心強さを感じる。
この手で、陛下を人に戻す。
まだ方法は解らないけど、必ず戻す!
希望を掴みとるように、左手を握りしめる。
『メイダール、トレヴダール、ディスカール、それぞれの《聖なる泉》を見つけ出し、四つの導を受け取ってエドウィンに会いなさい。彼の遺産を受け取るかは、あなた次第です』
「遺産? 父上は、生きているんじゃないのか?」
泉の精は一瞬、悲し気な表情で僕を見つめ、ブライデインの方角を指差した。
『行くのです、エドウィンの待つ《聖なるブライデインの泉》へ。会えば、全てを理解出来るでしょう』
そのまま突き放すように泉の精は交信を絶ち、湧水の中に姿を消した。
《聖なる泉》の光は消え、湧き出る泉の音だけが大きく木霊する。
あまりの出来事に呆然としながらも、ただ一つの考えだけが心を占める。
前へ進めば、陛下を人に戻す方法に行きつく!
僕は前を向き、突き動かされるように《聖なる泉》に背を向けた。
緩やかな泉の階段を駆け上る。
すると急速に景色が動いている感覚に囚われ、軽い
倒れそうになるのを、必死に堪えながらなんとか頂上まで辿り着く。
めまぐるしく変わる景色を想像していたのに、目の前には巨大なアーチ門。
僕の考えを、読み取っているみたいだ。
ありがたい……。
早くセルジン王に会いたい、心の中にはそれだけしか無い。
微笑みながら飾り門を
『天界の罠に、気を付けて……』
「え?」
また視線を感じて、アーチの頂きを見上げた。
明らかに
泉の精とは違う意志が、僕に呼びかけている。
「……誰?」
答えはなく、楔石はただの石にしか見えない。
気のせい?
何かに気を付けてって聞こえた。何に……?
疑問に思いながら、アーチ門を抜けるとそこは深い森の木々、そして目の前に泉の〈門番〉が立っていた。
『聖なる水を、一滴所望しよう』
「え? は……、はい」
戸惑いながら水袋に汲んだ聖なる水を、差しだされた〈門番〉の
すると〈門番〉の全身が薄ら光りだし、喜んでいるように見えた。
うわっ!
この人、本当に人間?
初めて会った時と同様の疑問が、心に浮かぶ。
『退場を許可する』
そう言って〈門番〉が消え、途端に閉ざした森の木々が、生き物のように
不思議な光景を、今日一日で一生分体験したように思えた。
〈成人の儀〉とは、この世とは別の世界に行って、帰ってくる儀式なのだろうか?
日常から離れた聖なる場所で、僕は心に希望を焼き付けて帰って来た気がした。
開かれた木々の先に、セルジン王の姿があった。
黄昏時の薄暗がりと松明の灯りに、他の者達の姿は霞んで見える。
「陛下!」
王は優しく微笑みながら両手を広げ、出迎えてくれた。
よろけ
そうして彼の腕の中に飛び込んだ。
「よく無事で戻った。あまりにも遅いから、心配したぞ」
「陛下」
安心感に涙が流れた。
婚約を解消されても、王はいつものように優しく、僕を抱きしめる。
嬉しくて涙で霞む目に、微笑む彼の姿がグラついて見えた。
「オリアンナ?」
「僕は……」
支えるセルジン王の腕の中で、なぜふら付いているのか意味が分からない。
王が耳を触り、顔を近付けて額に手を当てる。
彼の手は冷たく心地良い。
「薬師を呼べ! 高熱を出している。早く、手当を!」
「あ……なた……を……」
王の緊急の声が、遠くに聞こえる。
彼が、僕の身体を抱き上げる。
その心地よさに微笑みながら意識を失った。
必ずあなたを、人に戻します、陛下……。