《これは避ける事が出来ない、お前は俺の花嫁になるんだ》
誰があんな
冗談じゃない!
テオフィルスの言葉を思い出し、僕は憤りのあまり、今すぐ抑制の腕輪をはめそうになった。
セルジン王が僕の手を掴んで止める。
「待て! 死にかけたのだぞ、傷痕が完全に消えて、体力が戻ってからだ。今は休んだ方がいい」
王はそう言って、僕から腕輪を取り上げ、薬師マールに渡した。
唯一の盾を取り上げられたような不安に、僕は抗議する。
「でも、彼が来るかも……」
「私のいる隣室で、好き勝手はさせぬ。だから、今は眠れ」
「…………はい」
王には逆らえない。
僕は項垂れ、ぼんやりとハラルドから受けた傷を見つめた。
長い爪で切り裂かれた皮膚が、赤みを帯びてひきつれている。
顔の傷は見れないけど、似たようなものだろう。
泉の精の魔力で、しばらくすればその痕も消える。
でも、その少し下にある魔王から受けた古傷は、泉の精の魔力でも消える様子がない。
毛布を引き上げて、醜い傷痕を隠した。
「僕はなぜ、生きているの? こんな傷じゃ、普通は死んでいるよ……」
「……そなたが死にかける度に、私の影は揺らぎ始める。水晶玉の魔力に負けそうになって、人の形を保てなくなる」
「陛下?」
王の姿は、今にも消えそうに見える。
彼は悲しく笑った。
「そなたを失えば、私も魔王になるだろう。だが、そうなる前にいつも、助け手が現れる」
「助け手?」
王の手が僕の額に触れた瞬間、意識に何かが流れ込む。
僕は怯みながら、彼を見つめた。
「恐れるな、これは私の記憶だ」
――――どこかへ落ちている。
抱き抱えている何かが、抗えない力で引っ張られ、共に急激に落ちて行く。
『オリアンナ、死んではならぬ!』
セルジン王の切迫した声が聞こえた。
腕に抱き抱えてているのは、幼い僕。
剣で貫かれた胸からは、大量の血が流れ、完全に死んでいるように見える。
その僕が異常な重さで、地の底と思える場所を落ちて行く。
必死に抱き抱えなければ、王は振り放されてしまうだろう。
彼の焦りが伝わってくる。
『オリアンナを、魔界域へ連れ去られて良いのか! 《ソムレキアの宝剣》の主だぞ!』
誰かに向かって、彼が叫ぶ。
こんな慌てている王は、見たことがない。
これは僕が魔王に殺された直後の、王の記憶だ。僕達は魔界域の入り口に吸い寄せられている。
魔王に殺された者は魔界の
僕は、王の恐怖心を感じた。
『見捨てるのなら、私も魔界域へ堕ちるぞ! 天の神ラーディスよ!』
王が天空神の名を口にし、僕は驚愕した。
王都で育つ事が出来なかった僕は、レント領にいる家庭教師に学んだ。
今は天の神を崇める者は少なく、地に降りた神々の方が身近だと聞いて育った。
だから、王が口にする神の名が天空神である事に、強烈な違和感を覚えたのだ。
《王族》が古い存在とは知っていたが、その知識を僕は学び損ねている。
突然、目の前に小さな光が現れた。
暗闇に浮かぶその光は、不思議なほど鮮明で、意志を持ち話しかけてくる。
『お助けします、父上』
『…………』
父上?
陛下の子供?
ほんの小さな光なのに近付いたそれは、強い力で僕と王の魂を包み込み、急速に魔界域から遠ざかる。
『そなたは……、オーリン?』
オーリン!
……誰?
王の驚きと
なぜ僕の通り名と同じ名前なのか、意味が解らず戸惑いと不安が増す。
『僕はオリアンナの生命の光になります。だから僕の意識は、消える……』
『オーリン……』
王が悲しんでいるのが分かる。
突然何かが僕の身体に入り込込み、自然と一体となった。
身体から強烈な光が湧き出し、魔王から受けた傷が見る見る塞がってゆく。
追い縋る暗い魔手を吹き飛ばし、僕と王は魔界域から逃れた。
僕は、そうして生き返ったのだ。
「オーリンって、誰?」
いつの間に眠ってしまったのか、気が付くと僕は朝の光の中にいた。
〈生命の水〉のおかげで、すっかり元気になり飛び起きた。
胸の傷も、綺麗に消えている。
「お目覚めになられましたか、殿下」
「おはよう、マールさん。オーリンって、誰?」
再度の質問に、マールが苦笑いをする。
「ご説明する前にお着替えを、それから食事にしましょう」
渡された服を受け取ろうと伸ばした僕の左上腕に、美しい抑制の腕輪がはまっていた。
それは重さを感じさせないほど、腕になじんでいる。
「これ、奥さんの物でしょ? 僕なんかが借りて、嫌がったりしない?」
マールの表情が、一瞬曇った。
何か聞いてはいけない事を、聞いてしまったようだ。
「……嫌がりはしないでしょう。昔、妻が私を助けて消えた時に、残していった物ですから」
「……奥さんの形見? 駄目だよ、そんな大事な物を人に渡したら!」
外そうとしたが、つなぎ目がどこにあるのか分からない。
マールが優しく微笑む。
「私には宝の持ち腐れです。アルマレーク人から正体を隠すためには、それが必要でしょう?」
「そうだけど……」
「では、遠慮なくお使いください。妻も殿下なら、納得するでしょう。陛下は今、大事な会議中ですから、ご説明は私からいたします」
「うん、ありがとう」
マールの微笑みが、少し悲しそうに見えた。
王太子の服に着替えようと肌着を取った時、はらりと美しい布が足元に落ちた。
見慣れない文様に僕は顔を
重なり合う二枚の翼の中に、飛び立つ竜の姿。
テオフィルスのハンカチ?
「怪我の止血に、アルマレーク人が使った物でしょう。廃棄するよう指示が出たはずですが、行き届きませんでしたね」
気付いたマールが取り上げようと手を伸ばしたが、僕はそれを握りしめ脇に置いてある腰鞄に入れた。
綺麗に血を洗い落とされたハンカチは、とても高価な物に見える。
あんな傲慢男でも命の恩人、お礼と一緒に返したい。
「姫君、捨てた方がよろしいですよ。陛下の傍に居たいのであれば」
「解っているよ、僕が捨てる。着替えるから、ちょっと出てくれない?」
戻ってきたマールと一緒に、食事に取り掛かる。
美味しいパンを頬張りながら僕は、少し離れた場所に立つ彼が話すのを待っていた。
ある程度の食事が済み人払いがなされ、二人きりになった。
僕は少し緊張する。
「陛下を助けられるのは、殿下しかいません」
何度も聞いた言葉に、僕は頷く。
「うん、僕が《ソムレキアの宝剣》の主だからでしょ? でも、陛下を消したりなんて、絶対にしないよ」
「そう願います。それとは別に、《王族》同士は惹かれあうのです。殿下が生きている限り、陛下は簡単に死を望まないでしょう」
「…………」
惹かれあうの一言に、僕は真っ赤になった。
僕がセルジン王に惹かれているのは確かだけど、婚約破棄した彼はどうだろう。
「陛下は……、僕にはきっと惹かれないよ」
「まだ、幼いままの印象なのでしょう。いつか、気が付かれます」
僕は少し、不貞腐れ気味にボソリと呟いた。
「誰か、好きな
聞いた直後に、あまりにも素直すぎる質問に恥ずかしくなった。
「陛下は影ですから、それはありませんよ。水晶玉に入る前に、ご寵愛された方はいらしたようですが……」
「え?」
マールが暗い顔で、遠くを見る。
「アミール・エスペンダという寵姫です。陛下との御子が生まれる直前に、《王族狩り》で殺されたとか。それがきっかけで、水晶玉に入られたのです。陛下は人である事を捨てられた」
「…………」
「生まれる御子が男子であればオーリン、女子であればオリアンナ、そう名付けるつもりだったそうです」
悲しい話だ。
生まれる事の出来なかった王子オーリンが、僕を蘇らせたのだ。
セルジン王はどんな気持ちだっただろう。
「全部、僕が名前を
「関係ないと思いますよ。殿下を助けた光は、意識を持たなくなったと聞いています。陛下はただ、人に戻る希望を失っているだけでしょう」
「そうなのかな……」
王の心は読めない。
会う時はいつも、悲しみは微塵も見せないから。
彼の心の傷は、癒えたのだろうか。
僕は陛下の事を、何も知らないんだ。
「人に戻す方法って、あると思う?」
「思います。殿下なら見付けられます」
「皆そう言うけど、僕は宝剣すら持ってないんだよ、どうしたら……」
マールが僕の肩に手を置く。
顔を上げると、彼らしくない怖い表情で見下ろしていた。
「十六年前、メイダールの大学図書館とトレヴダールの侯爵私設図書館に、ブライデインの王立図書館からある物を運び入れました」
「……何?」
「《王族》の関係書物と極秘文書類、それと謎めいた遺物です」
「…………」
マールがなぜそんな事に関わったのか、疑問が湧き起こる。
王立図書館は、《王族》の中でも王位継承権六位までの成人と、王の側近と政治を担う一部の高官のみが、入館を許された場所と聞いている。
薬師が立ち入れる場所ではない。
「マールさんって、何者?」
僕の聞き方に、彼は苦笑いした。
「昔、カドル公爵ベイデル家で薬師見習いをしていたのですよ。ベイデル家の二男が大変優秀な高官で、
「ふーん」
「運び入れた物の中に、《王族》にしか開けない物が入っていました」
驚きに目を見開いて、マールを見た。
《王族》にしか見せられない事柄が、隠されている!
背筋を、何かが這い登った。
「それ、大事な手掛かりかも!」
「私も、そう思います。ずっと姫君に、この事をお伝えしたかった」
「陛下には、伝えてあるの?」
マールは急に黙り込み、しばらくして悲しそうに首を横に振った。
「一度お伝えしましたが、姫君がいるレント領に近い事から却下されました」
「もう一度、話すべきだよ」
「消える気でいるのに? 禁止されませんか?」
「あ……」
確かに、婚約解消をして僕に王配候補を選ばせようとしている王は、禁止するかもしれない。
生きる希望を見つけない限り、王は僕を女王に
「レント領を出たら、メイダールに向かうの?」
「その予定です。大学街に着いたら、私達だけで大学図書館を訪ねましょう」
「そうしよう。きっと何かが、隠されているんだ。それで、何時レント領を出発するの?」
「《ソムレキアの宝剣》が、殿下の手元に戻ったら」
「え? でも、いつ現れるか分からないのに?」
マールが頷き、言いたい事を飲み込むように黙り込んだ。
僕にはその言いたい事がよく解る。
待ってないで、僕自身で見付け出さなきゃいけないって事が。