領主の妻サフィーナの部屋の前に二人の護衛とは別に、もう二人男が立っていた。
僕の幼馴染みのエラン・クリスベインと、王の薬師マール・サイレスだ。
彼等は僕に微笑みながら、《王族》に対する礼を取る。
顔を上げたエランには、明らかに王配候補としての喜びが見て取れる。
僕はなんとなく腹が立ち、さりげなく彼に近寄り、小声で文句を言ってやった。
「どうしてここにいるんだよ? 君はまだベルン長官の従騎士だろ? 早く持ち場に帰れよ!」
彼にドレス姿を見られたくなくて、追い払おうと少し強めの口調で言った。
最もエランは一向に気にする様子がなく、逆に喜んでいるように見える。
「エアリス姫の側にいるように、陛下に命じられたんだ。その姿で男言葉は変だよ。君は本当に姫君か? 怪しいからヴェールを上げて、僕だけにこっそり顔を見せてくれよ」
「絶対に嫌だ!」
僕達はヴェール越しに
唐突に領主ハルビィンが割って入り、彼に忠告した。
「クリスベイン、国王軍がレント領を出るまでは、君はまだ私の指揮下にある。
「…………はい」
辺境伯である領主と、トルエルド公爵家の次期領主であるエランは、僕を廻って事ある毎に対立してきた。
僕は十歳までエランの館に暮らしていたので、養父として僕達の仲は面白くないらしく、城に僕が移り住んでからは、
それでも彼とこっそり会っていたのは、僕にとって一番大切な親友だから。
親は王国中心部からの避難民だけど、僕達はこのレント領で生まれた。
親の身分はどうあれ共に孤児で、まるで兄弟のように育ったんだ。
今さら引き離そうたって、それは無理だよ。
……でも、セルジン王への想いを、エランにすり替える事は出来ない。
不機嫌そうに最後尾に行く彼に、僕はヴェールの中で親しみを込めて手を振った。
不意に横から、太い威嚇するような声が聞こえてくる。
「なぜ、お前がここにいる、マール・サイレス?」
王の薬師に、トキが憮然と問い質す。
僕は一瞬、この二人の仲が悪いのかと心配になった。
マールは慣れた様子で、トキを睨み返す。
「陛下が到着なさるまで、部屋の守りを固めておくよう申し付けられた。魔法を使う竜騎士が場内に入って行くのを、エランが目撃したらしい」
「エランが?」
トキが問うように視線を向け、エランはそれが本当であると、少し離れた場所から返事を返す。
「では殿下、極力姫君らしく振舞うように。どこで魔法使いが見ているか、判らない」
僕は苛立ちと同時に緊張し、辺りを見回しながら頷いた。
あの男――――テオフィルスはどこにでも入り込める不思議な魔法を使う、まったく厄介な存在だ。
トキが皮肉に微笑みながら、マールの鳩尾に剣の柄を当てた。
「まずは、お前が魔法使いじゃないかを確認する。俺達が初めて会った場所を言ってみろ」
「…………」
マールが呆れ顔で、盛大な溜め息をついた。
「まだ根に持っているのか? 十年前、コトリのイルー河畔で、初めて会ったお前を打ち負かしたのは、私だ」
「薬師のお前が、なぜ俺より強い? 怪しいんだよ、お前は!」
「偶然に運が味方しただけと、何度も言っているだろう。薬師には薬師の戦い方がある。それ以降は負け続けているんだ、いい加減疑うのは止めろ」
「ふふんっ。だったら、その薬師の戦い方とやらを、もう一度見せてもらおうじゃないか」
そう言ってニヒルに笑い、扉を開けと指示を出した。
仲は悪くないのだと、僕は少しホッとした。
国王軍内の人間関係を、もっと知っておくべきだ。
前室の扉が開き、少しきな臭いけど良い香りが漂い始める。
サフィーナの部屋でこんな香りを嗅ぐのは初めてで、僕は違和感を覚えた。
義母はまだ息子ハラルドが、〈沈黙の獄〉に入れられた事を知らない。
領主がどう伝えるのか、彼女がどう反応するのか、緊張しながら領主の後に続き、部屋へ入った。
広い部屋にはサフィーナとお気に入りの侍女一人と護衛二人だけが、美しい調度品に囲まれ静けさの中に存在していた。
領主の奥方としては地味なドレスを装い、僕の姿に気を遣っているのが見てとれる。
夫に挨拶のくちづけをしてから、
ミアがヴェールを持ち上げ、変装した僕は姫君の意識を装う。
「まあ、素敵。お母様の若い頃にそっくりだわ。陛下もお喜びになられたでしょう。思った以上に姫君の所作も身に付いていて。頑張りましたね、オリアンナ姫」
彼女は僕の母とは友達で、セルジン王とも親しい。
だから余計に、僕に執着している。
気持ちは解らなくもないけど、今は本当の名前を呼ばれるのはまずい。
「あの……」
「サフィーナ、エアリス姫だよ。間違えないでくれないか?」
領主の言葉に、彼女はやんわり微笑み反論する。
「ここにアルマレーク人はいないと思いますわ」
「奥方殿、用心に越した事はない。相手は魔法使いだ」
強面のトキの低い声に、サフィーナは顔を曇らせた。
マールが苦笑いしながら説明する。
「サフィーナ様、彼は陛下の近衛騎士隊長トキ・メリマンという無骨者です、お気になさらずに」
睨み付けるトキを尻目に、マールはサフィーナに微笑む。
いつの間にか親しくなっているところが、優秀な癒し手と噂される
僕は極力不自然にならないように気を付けながら、彼女に対して貴婦人の礼を取った。
「このドレスのおかげで、私はアルマレーク人との接見を、無事乗り越える事が出来ました。義母上に感謝いたします」
サフィーナは満足して
「陛下は今、ドゥラス様を亡くされて、とても辛い思いをしておられるわ。陛下をお救い出来るのは、最後の《王族》である貴女にしか出来ない事です。どうかその事を忘れないで」
サフィーナのこんな真剣な表情を、僕は見たことがなかった。
彼女の中に流れる《王族》の血を、初めて感じ取った気がした。
これまでの
「はい、
彼女は僕の手を取り、力強く握りしめる。
そこから何かが、僕の中に流れ込む。
それは陛下の側にいる時に感じ取れる、勇気が湧き起こる波動。
僕はその息吹に、感動を覚えた。サフィーナが力強く頷く。
「オリアンナ姫、あなたは陛下の希望の光におなりなさい!」
それが《王族》の魔力だと気付いた時、彼女は手を放し少し
「義母上?」
僕と、隣にいた領主が支える。
「大丈夫か、サフィーナ?」
「駄目ね。陛下のように、上手く出来ないわ。《王族》の遠縁じゃ、これが精一杯よ」
「もう、十分です、義母上。無理しないで下さい、伝わりましたから」
陛下の希望の光になる!
とても難しい要求だが、サフィーナからもらった勇気で
初めてそれを認識出来た。
そんな僕達の間に割って入るように、トキが低い声で僕に伝えてくる。
「姫君、領主夫妻と三人だけで、この部屋を出るんだ。マールの作ったコルの実の調合薬が、屍食鬼を炙り出した。もうすぐ姿を見せ始める」
「え?」
「屍食鬼? この城に入り込んでいるという事か?」
領主が信じられないという顔でトキを睨み付る。
部屋に充満するきな臭さが強くなったと気付いた時、部屋の隅から大きな呻き声が響き、皆が何事かと声の方向に目を向ける。
トキが剣を抜き、逆手に持ち替え、振り向きざま鋭く投げた。
広い部屋ながら、剣は目標を外す事なくレント騎士隊の一人を貫き、大きな音を立てて剣ごと壁に突き刺さる。
女達の悲鳴が上がる。
あまり出来事に、他の騎士達は逆上し、王の近衛騎士隊長に対して剣を向けた。
トキは腰にもう一本剣を下げているが、それを抜こうとせず堂々と騎士達に向き直る。
「レント騎士隊諸君! あれがお前達の仲間か?」
腹の底から響く低い大声が、
トキの指差す方へ、警戒しながら目を向ける。
赤い血が流れる無残な仲間の死体を思い浮かべていた皆は、その姿に衝撃を受ける。
剣で打ち付けられた者は生きてもがき、黒い霞が薄っすら覆い人の形とは違う何かを形成していた。
醜く歪んだ顔は顎が徐々に迫り出し、背からは尖った骨のような翼が伸び始める。
腹に受けた剣から緑色のドロッとした粘液が垂れているが、死ぬ様子はない。
急速に形を取り始めた黒い翼をバタつかせ、
「
トキの号令にレント騎士隊はかつての仲間だったそれを、迷う事無く切り付けた。
屍食鬼の脅威は八年前に経験している。
多くの人間が惨殺され、食べられた。
新鮮な死肉を求める翼の生えた悪魔は、見境なく殺戮を繰り返す。
ここで仕留めなければ、殺されるのは自分達だ。
僕は恐怖に打ちのめされた。
八年前に父の館で起こった悲劇が、サフィーナの部屋で再現されようとしている。
僕の身体は震え、呼吸が乱れた。
母の悲鳴が耳元で聞こえ、耳を塞ぐ。
もう、恐怖に動く事が出来ない。
「姫君、しっかりするのです! 早く、部屋の外へ!」
マールが駆け付け、僕を連れ出そうと肩を抱き、無理やり移動させる。
慣れないドレスに足がもつれ、僕は混乱する部屋の中で転倒した。
「殿下!」
僕を助け起こそうとするマールの側に、近衛騎士やレント騎士が駆け付けた。
多くの者が、僕に近付く。
その中に異常に長く爪が伸び、身体から黒い渦が吹き出しているレント騎士隊の男がいた。
屍食鬼に変化し始めているのだ。
あまりの恐怖に、僕は声を上げる事すら出来なかった。