騒然とした空気の中、リヴィエールは深くため息をついた。一年という月日が経っても、未だ心に大きく残る傷跡を再び鮮明に語る事は彼にとって難しくはない。何一つ忘れていない、彼にとっては昨日の事のように話せる内容だ。しかし心の痛みだけはごまかしようがなかった。それを紛らわせるために嘆息した。
ふと視線を上げると誰もが鎮痛な面持ちで佇んでいる。リヴェリアはその整った顔を悲哀と愛しさに滲ませ、フィンやガレスは歯を食いしばり、目を閉じている。
そしてアイズとレフィーヤの瞳からは雫が溢れて伝う。静かに、二人は泣いていた。
「…………一息…いれるか」
過去を語るリヴィエールの口から呟かれる。重大な話を一気に語りすぎた。少し心を整理する時間が必要だろう。
「っ!?だ、大丈夫。話して、リヴィ」
自分達が話を切ってしまったと動揺したアイズは慌てて涙を腕で拭き、姿勢を正す。しかし、目の奥から溢れる雫はすぐにまた彼女の瞳を埋める。
その様子を見て、リヴィエールは微笑し、彼女の元へと近づくと、そっとその雫をぬぐった。
「お前らのせいじゃない。俺の都合だ。少し………疲れた」
未だ深く、鮮明に残る古傷。その一つを語るたびに抉られるような痛みが胸に突き刺さる。剣で斬られるより、魔物に殴打されるより、リヴィエールにとってはキツかった。
「…………そうだね、一息入れよう。今から少し自由時間だ。タイミングはリヴィエールが決めていい」
「すまない、フィン」
「この間に周囲を警戒しよう。この辺りは比較的安全なエリアだけど、注意はしておいたほうがいい。結界の中にいる仲間にも今だけは外に出ていいと伝えてくれ」
「はい!」
その言葉を聞いたリヴィエールは再び座り、顔を俯かせる。その後のフィン達の動きは大きく分けて二通りだった。リヴィエールをそっとしておこうと離れたのがフィンやガレス、ティオネといった数名、少しでもそばに居ようとその場を動かなかったのが、アイズとレフィーヤ、ティオナそしてリヴェリアだった。
「…………どうするんですか?団長」
初めて見るリヴィエールの弱々しい姿にティオネも少なからず動揺する。今聞けたのは1年前に何があったかまで。まだ聞きたい内容はあるが、これ以上彼を責めるような真似をするのは気が進まなかった。
「その辺りを含めてリヴィエールに任せるよ。休憩後にもう話したくないというなら無理には聞かない。リヴェリアやアイズにもそれで納得してもらう」
「…………そう、ですね」
それ以外ティオネには何も言えなかった。
ーーーーしかし気になるのはバロールが解放したというモンスター…
宝珠のようなものに封じられていたとリヴィエールは言っていた。しかしそんな事をバロールが出来るとは聞いた事がない。しかもその宝珠から出てきたのは数多のモンスターをほぼ一人で屠ってきたあのリヴィエールさえ見た事がないといった異形。まず間違いなく新種と思っていい。
ーーーー今回の事件とリヴィエールに起こった悲劇………無関係ではないかもしれない。
その事に彼は恐らく気づいていた。だからこそ、自分の古傷をえぐってでも、この話を自分たちにする気になったのだろう。
いずれ彼はその黒幕と戦うつもりだ。そしてその時、自分達の協力を得るために………
▼
数分後、リヴィエールの下に皆が集まってくる。白髪の剣士は未だ顔を伏せていた。組んだ手は震えている。
「リヴィ………」
隣に座るアイズがその手に触れる。少しでも震えが止まるように、優しく包み込む。
「続きを話してくれ、リヴィ。頼む」
整った眉を歪ませながら緑髪のハイエルフが口を開く。それは彼にとって剣で刺されるより辛いこととわかっていながら、リヴェリアはその言葉を紡いだ。ここまで聞いてしまった以上、彼を愛している者の一人として、聞かねばならない。
「…………わかった」
続きを話そう
▼
意識が少しずつ闇の中から浮かび上がる。同時に五体の無事を確認する。考えるより先に体が勝手に動いていた。染み付いた戦士の本能。
ーーーー………腕も足も動く…か。
そこまで確認してようやく今自分が置かれている状況の確認へと意識が向いた。どこかの部屋に寝かされているらしい。部屋に見覚えはある。何度かこの部屋でここの住人と会ったことがある。
「リヴィエール!よかった、目を覚ましたのですね!」
視界に現れたのはウェーブのかかった金髪のエルフ。目にはうっすらと涙さえ浮かんでいる。どうやらかなり心配させたらしい。
「リュー………俺は」
「無理をしないでくださいリヴィエール。まだ動ける体ではないのです。休んで」
体を起こそうとするリヴィと呼ばれた男を元腕利きの冒険者、リュー・リオンは慌てた様子で寝かしつける。
体の損傷は青年の想像以上に酷いらしい。確認すると体中に包帯が巻かれている。どうやら治療もされてるらしい。
「お前が?」
着物をはだけさせながら問いかける。
「…………シルでは貴方の体を支えられませんので」
本人の協力なしにこういった全身治療をするのは意外と重労働だ。リヴィエールは体格にしては華奢な方だ。確かに身長は今や180C以上あるし、鍛えられた剣士の肉体を持っている。が、無駄に搭載された筋肉はなく、動かすための絞った細身の肉体だ。体の線も細い。普段からゆったりした服を好むのもあって、首から上だけを見れば凄まじく容貌の整った優男だ。この細腕にどうやってあの剛力が宿るのか不思議なくらいである。
しかしそれでも一般女性の手に負える代物ではない。ましてシルはヒューマンだ。出来なくてあたりまえだ。
ーーーーっ……
思い出したのだろう。一瞬、顔を紅くし、その後整った双眸が歪む。傷も思い出してしまったのだ。穴の空いた腹。止まらない血液。生々しく浮き上がる赤黒い痕跡。元同業者として、怪我の類は多く見てきたが、その中でも間違いなく最も凄惨な傷跡だった。
「しばらくぶりだな、お前に肌を見せたのは」
そんな顔が見たくなくて、リヴィエールは彼女が苦手とする話に方向を変える。感情を塗りつぶすなら怒りが最も手っ取り早い。まして相手は性に関してあまりに高潔なエルフ。手に触れるのでさえかなり人を選ぶ。
肉体関係を結んだ後でもそれは変わっていない。いつまでも
事実、顔からは哀しみがなくなり、真っ赤になってこちらを睨んだ。しかし聡明な彼女は彼の意図も分かったのだろう。怒るに怒れず、肩を落とした。
「…………一体何があったんですか?貴方ほどの使い手を誰がここまで……」
その質問でようやく全てを思い出した。自分がこうなった理由、先ほどまでの死闘、そして………
恩神を斬った事、その全てを……
助けられた恩義もある。事のあらましをざっとリューには話した。
しばらくリューは無言で立ち尽くす。その後、意を決したように立ち上がり、ベッドに腰掛けると傷を労わるようにリヴィエールの胸に手を添え、そっと寄り添った。
「…………自分を責めないでください。貴方は何も悪くない。貴方は走り過ぎたんです。だから今は休んでください、リヴィ」
「…………」
話を聞いた上で本心から出てきた彼女の本気の言葉。優しい温もり。上辺の言葉よりよほど好きなその言葉なのに今はただ空虚に響く。
彼に残ったのは人知を超えた強さと白くなりはじめた髪のみだった。
▼
「…………ありがとう、リュー。もう大丈夫だ、落ち着いた」
満身創痍の体になんとか鞭を打ち、起き上がる。
「リヴィエール…」
「大丈夫だ、心配するな………ここ豊穣の女主人だよな。なんで俺はここにいる……?」
「シルが偶然倒れている貴方を見つけたんです。慌てて私に知らせに来て、それで……」
「…………そうか、あいつが」
鈍色髪のヒューマンの少女、シル・フローヴァ。非常に可愛らしい少女なのだが、決してそれだけではない女性。彼女の腹の黒さはリヴィエールなりに知っているつもりだが、彼女の強かさがリヴィエールは嫌いではない。
知らせを聞いてリューが疾風の速度で駆けつけた時、そこにはもう何もなかった。焼け落ちたホーム。異形のモンスター達の焼死体。そして……服も体もボロボロの姿で倒れ伏す黒髪の剣士。
「安心してください。貴方の刀も地下の金庫も無事でした。ミア母さんが預かってくれています。全快したらすぐに返しますよ」
「…………ルグはどうなった?」
そんなくだらない事より、自分の主神の状況を尋ねる。言いにくいことだろうから自分から話してくれと頼んだ。
斬った事だけはわかっていたけど、そこから先はどうなったのかは知らなかった。世界が滅んでいないところを見るとだいたい予想はつくが、聞かねばならない事だ。
「…………わかりません。行方不明とだけお聞きしましたが…」
「…………そうか」
「…………コレからどうするんです?」
「わからん。とりあえず俺が生きていた事は公にはしないつもりだ。それから今回の件を調べる」
「な、なんで!?生きていた事をギルドに報告すれば、下手人の割り出しだって」
「ルグ本人だけを狙っていた犯行だったなら俺もそうしただろうけどな……たぶん今回の件はそうじゃない」
バロールは恐らく三下だ。誰かに使われたに過ぎん。ルグの居場所を奴に伝えた黒幕の神がどこかにいるはずだ。そいつを探し出して……この手で。
「世話になった。不必要に隠す必要はないけど、俺が生きていた事は出来るだけ誰にも言うな」
ベッドから降りて部屋から出て行こうとする。しかしリューはガッシリとリヴィエールの首根っこを掴んでベッドに寝かしつけた。
「…………何をする」
「私ごときに組み伏される貴方に文句を言う資格はありません。全快するまでここにいなさい。良いですね」
「断る。これ以上お前らに借りは「借りだと思うなら私の言う事を聞きなさい。こ………友人として言います。貴方に必要なのは身体よりも心の休息です」
「…………………クソ」
枕に頭を沈める。この疾風を相手に力で逆らうのは今の自分では少し難しい。
「とばっちり食っても知らんからな」
「大丈夫ですよ、ミア母さんは強いですし、いざとなったら貴方が守ってくれるんでしょう?」
舌打ちする。これほど巨大な借りを作ってしまってはそうせざるをえない。
「腹が減った。血が足りない。メシにしてくれ」
「すぐに用意します」
部屋を出るためにリューが立ち上がる。治療とは結局のところ、本人の体力がモノを言う。食欲があるというのなら食べて貰わねばならない。
最後にもう一目だけでもと振り返る。頭頂部が白くなっていることにリューが気づいたのはその時だった。
「リヴィエールさん!目を覚ましたんですね!」
「ああ。世話になったようだな、すまない」
「謝らないでください。あぁ、そんなにボロボロになって……」
意識が戻った事を知ったお団子頭に酒場の制服を纏った少女、シル・フローヴァはすぐに部屋に駆けつけてきた。リヴィエールに縋り付き、無事で良かったと呟くと、食事を用意してくれた。
その後包帯を巻き換え、治療を終える。
「ミア母さんはこの部屋になら幾らいても良いとの事です。安心して休んでくださいね」
「ありがとう……ミアにも礼を言わないとな」
「礼を言うならお店で金を落としてけって言うと思いますよ」
「…………かもな」
ドサリと体をベッドに横たえる。
「疲れた。少し寝る」
「はい、よろしければ私も添い寝を……「いらん。一人にしてくれ………頼む」
「ーーーーはい」
それ以上は何も言わずシルも部屋から出て行く。気配が感じられなくなった事を確認すると、リヴィエールは目を閉じる。それでも眠れはしなかった。
▼
数ヶ月後……
「リヴィ、リヴィエール!まだ寝ていますか?」
シルの献身的な看護もあって、身体も順調に快方へと向かいだしていたある日。いつものように早朝に起きて誰にも目のつかないところでリハビリする彼の姿を見つけられなかったリューは彼が寝ている部屋を訪ねていた。
しかし何度ノックしても返事はなく、気配さえ感じられない。
ーーーーまさか……
部屋の扉を開ける。案の定そこはもぬけの殻。残っていたのは一枚の置き手紙。
『世話になった。俺の財布と刀だけは返してもらったがファミリアの金は置いていく。足りない分はまた返す』
「あの馬鹿……」
その日から、しばらくリヴィエール・グローリアは姿を消した。その頃にはオラリオでもリヴィエールの捜索もほぼ終了していた。
▼
まだ陽が昇らない薄暗い闇の中でリヴィエールはとある建物の前にいた。武具の店がひしめくオラリオの中でも一際大きな武具店。真っ赤な塗装の建物の看板には【Hφαιστοs】と刻まれている。
そう、ここは【ヘファイストス・ファミリア】。オラリオはもちろん、世界でも名高い鍛冶師の【ファミリア】。リヴィエールの剣はここの最高の鍛治師に打ってもらっている。
「あぁ、ごめんなさい。今日はまだ………って!?リヴィエール!!あ、あなた……生きてっ」
店の中に唐突に入ってきた客を一度は追い出そうとするが、その人物を見て驚愕する。彼女の名はヘファイストス。燃えるような紅い髪と右眼を覆い隠す黒い眼帯が特徴的な女神。
彼女こそがこのヘファイストス・ファミリアの主神であり、ルグの神友、少なからずリヴィとも付き合いがある女神だ。
「やあヘファイ、椿はいるか?刀の整備を頼みに来た。今、金はねえんだが必ず作るから。あいつに頼んでくれると…」
「そんな事より!貴方今までどこにいたの!?ずっと探してたのよ?生きててくれてホントに良かったけど……て、ちょっと、あなたまだ怪我してるじゃない!一体何やってるのよ!すぐに医者を呼ぶから「うるさいなぁ〜ヘファイストス。こんな朝っぱらから何の騒ぎだい?ボクはまだ眠いよ」
唐突に訪れた友人の惨状に慌てるヘファイストスを尻目に見慣れない少女が枕を持って現れる。外見は整っているのだが美しいというよりは可愛いという形容が似合う。小柄な体に不釣り合いなほど発育した胸。そして見える神威。
「女神?何でこんな所に」
「ん?誰だいこの包帯君は?キミの知り合いかい?…」
「ヘスティア、悪いけど今私あんたなんかに構ってる暇ないの。ああもう、こんな朝からやってる医者なんて無いわよね。とにかくリヴィエール、早くこっちへ。さすがにエリクサーは無いけどポーションなら幾らでもあるから」
「あ、ああ。悪い……」
ヘファイストスに導かれるまま、部屋へと入ろうとしたその時だった。
小柄な女神が手にブレスレットとして付けているアクセサリーが目に入る。そのデザインには見覚えがあった。
「お、おいあんた!」
ヘファイストスの手を振り切り、物凄い勢いでヘスティアの肩を掴みかかる。
「な、なんだい!?ボク、君に何かして……っていたた!」
装飾された両手首を掴み、アクセサリーを彼女の目の前に掲げる。神に対してあまりに無礼な態度だったがそんな事を気にはしていられない。
「おい!このネックレスどこで手に入れた!?」
「え、ええ?それがどうしたって」
望んだ答えが聞けなかった事に頭が一気に沸騰する。腰の黒刀に手を掛け、彼女の頭上の壁を真一文字に斬り裂いた。
「答えろ……次は」
「バカ!落ち着きなさいリヴィエール!」
両肩を掴んで自分に向けさせる。鍛治の女神である彼女の握力は神の中でも上位に入る。リヴィエールの興奮を止めるには充分だった。
「離せヘファイ!」
「そんな態度じゃ答えられるものも答えられないでしょう!そんな事がわからない貴方じゃないわよね」
「…っ………悪い、ヘファイ」
自分の顔を手で掴み、壁にもたれかかる。そのまま大きく息を吸って吐いた。
「………ヘスティア。悪いけど答えてくれない?そのアクセサリー、どこで手に入れたの?」
リヴィが自分を落ち着かせている間にヘファイストスが代わりに聞いてくれる。あまりの黒髪の剣士の勢いに怯えるどころか唖然とする事しか出来なかったヘスティアが我に帰った。
「少し前に拾ったんだ。ネックレスみたいだったけど、ボクにはサイズが合わなかったからブレスレットに加工したのさ。場所は忘れちゃったけど、確かどこかの建物跡だったと思う」
「だって」
視線を向ける。すると聞いてはいたらしく、目が合った。
「そのアクセサリーが一体どうしたって……て、よく見ると」
見覚えがある。手につけたブレスレットをヘファイストスも凝視した。すると彼女の脳裏に過去が蘇る。
【ねえねえヘファイストス。見てくださいよコレ!】
【へえ、素敵なネックレスじゃない。どうしたの?】
【リヴィが買ってくれたんです。いいでしょ〜】
ネックレスでないからわからなかったが、友神としてルグと一緒に飲んだ酒の席で何度も何度もうんざりするほど自慢してきたアクセサリー。見覚えがあるはずだ。
「…………そっか。なるほどね」
全ての事情を察したヘファイストス。あのリヴィエールが感情的になるのも理解できた。
「ごめんなさい、ヘスティア。そのネックレス、ルグのモノだったのよ」
「て事はこの子がリヴィエールくんなのかい」
「…………そういえば俺も聞き覚えがあるな。ヘスティア神」
滅多に人を貶さないあのルグが言っていた。
天界にいる友神が最近下界に降りてきた。降りてきたはいいが、他の神の所に世話になりっぱなしという………ダ女神
【お前じゃん】
【ううううるさいですよ!最初は皆そういうものなのです!】
跡地にあった金品はリュー達が回収したと言っていた。つまり現在ルグに繋がる唯一の物理的な手がかりだった。必死にならないはずがない。
しかし告げられた答えはほぼ絶望的と言って良い内容だった。
あれだけ喜んでくれたネックレスをルグが捨てるわけがない。つまりルグはネックレスを捨てざるをえない状況だったという事。
もうこの世界にはいないという事……
ーーーー覚悟はしていた。確かに俺が斬った。だけど……
まるで夢現つのようだった。あの日の前日までいつも通りの平和な日常を送っていたのに、それが何の前触れもなく崩壊したのだ。現実感が感じられなくても無理はない。
しかし物的証拠が目の前に出てきてようやく実感が来た。
もうこの世界にルグはいないのだ。
リヴィはブレスレットに加工されたアクセサリーを持って立ち上がる。黒刀を一本、腰から外し、壁に置くと踵を返した。
「リヴィ……」
「ヘファイ、刀の整備を椿に頼んでおいてくれ。金は後日絶対払うから」
「…………ええ、頼んでおくわ」
引き止めようかと思ったが、ヘファイストスは黙って要望を聞き入れた。しばらくそっとしておいた方が良いと判断したのだ。それはリヴィエールにとって有難かった。
▼
リヴィエールはヘファイストスの店から出た後、ソーマ・ファミリアから買った酒を一つ持ってオラリオ全体が見渡せる丘の上へと来ていた。
いつ来ても此処は絶景だが今は通常と少し違った。太陽が今まさに昇ろうとする日の出の時。赤と青が絶妙に混ざった美しくもどこか物悲しい太陽がオラリオを包んでいる。
杯の酒を一つ飲む。もう一つの器には酒がギリギリまで注がれたままだ。
ーーーーあいつと飲んだ事ってあんまりなかったな……
弱いというわけではなかったが特別好みもしなかった。ルグはアルコールは薬味だと言っていた。適量なら素晴らしく人生を彩る一つとなりうるが、過ぎると食えたものではなくなる、と。
ーーーーまずいな……
普段酒場でロキの連中やルグと飲んだ酒などより遥かに高級な酒を飲んでいるにも関わらず、何の味もしなかった。血の味しかしない。
ーーーーお前と飲んでいるというのに……マズイよ、
ほとんど残し、地面に捨てる。もう一杯注いだ酒は空へと放った。
ーーーールグ……
世界を紅く染める光に向かう。太陽神がいなくなったというのに、あの光は変わらず世界を照らし、空に君臨している。
【リヴィ】
初めて彼女と朝日を見たとき、彼はまだ何も信じていなかった。周り全てが敵で、信じていたのは自分だけだった。
【貴方が世界を嫌うのもわかります。人間というのは基本的につまらない生き物ですからね】
神が語るにはあまりにあまりな言葉。しかし今も昔も、リヴィエールにその言葉を否定する事はできなかった。
【でもたまに凄く面白いんです。神が思いもつかない行動をしたり、神などより偉大な人間が現れる事もあるんです】
ーーーーそうかもしれない。でも俺にはあんたこそが最も偉大な神だった。
【所詮この世は暇つぶし。それは神も人も変わりません。みんな勝手に生きています】
ーーーーああ、あんたも結構勝手だったな
【リヴィエール、貴方の人生にはきっと不幸や憎しみの方が多かったのでしょう】
ーーーーそんな事はない。俺は自分を不幸とも世界が憎いとも、思った事は一度もなかった。どうでもよかっただけなんだ。世界も、俺自身も…
【しかし、そんな事は絶対にないんです。幸福も不幸も同じ。どちらかが過多な世界では決してないんです】
ーーーーそれでも……あんたのおかげで俺は人間になれた
【世界は貴方に厳しすぎたのかもしれません。しかしそんな世界を変えたければまず貴方が優しくなってください。貴方と同じ思いを誰かにさせないでください】
ーーーー……俺は…結局あんたのように優しくはなれなかった
【そうすれば貴方に優しくされた人はきっと、他の誰かにも優しくなれます。貴方が今まで拒絶してきた優しさに触れられるようにきっとなります】
ーーーールグ………
彼は泣いた。あの夜から一度も零していなかった涙が堰を切ったように流れ出した。それはようやく完全に一人になって、心の枷が外れて見せた彼の素顔だったのかもしれない。
いなくなって初めて気づいたなどと言う気はない。とっくに知っていることだった。けど、それでも思わずにはいられない。
ーーーー俺はこんなにも………お前が好きだったんだなぁ
「……あ……ぅあ……ぁああああああ!!」
【見てくださいよ、リヴィエール。それでも世界はこんなにも美しいじゃないですか】
ーーーーああ、ルグ。あんたが守ったこの世界は………とても綺麗だよ。
でもあんたが……
ネックレスを握りしめ、空を仰ぐ。あの夜からずっと流れていなかった涙が初めて流れた。
「リヴィエールくん」
ヘファイストスのホームで会った小柄な少女が背後にいた。
▼
ヘスティアは驚いていた。ヘファイストスから彼のいるであろう心当たりを聞き、探したところ、二つ目で見つける事はできた。しかし一瞬、本当に先ほどの彼だとわからなかった。
【剣聖】リヴィエール・グローリア。かつてオラリオでその名を轟かせたレコードホルダー。その強さは尋常ではなく、世俗にそこまで詳しくないヘスティアの耳にさえ、否が応でもその名は飛び込んでくるほどの人間だった。
確かにヘファイストスのファミリアで会った時の彼はその噂に相応しい力を有していた。圧力を放っていた。人間が一振りで壁を両断するなど聞いた事もない。
しかし今の彼にはそんなオーラは全くない。大切なものを失い、空を仰ぎ、それに涙する一人の子供に過ぎなかった。
ーーーーこれがあの……剣聖
「…………あんたは」
慌てて自分の目をローブで拭いている。こんなにも弱っている所など、誰にも………もうこの世では誰にも見せたくなかった。
ーーーー俺も焼きが回ったな。
こんな素人にここまで近づかれるまで気づかなかった。まったくスキルは何をしているのだか。
「先ほどは失礼した。みっともないところを見せた」
「何を謝ることがあるんだい?涙を流せる事は人の素晴らしい事の一つさ。誇って良い事だよ」
小さな女神は朗らかに笑う。そして真剣な表情を浮かべ、こちらを見つめた。
彼の前で微笑む女神が小さな手をそっと差し出す。
「もし、キミさえよければボクの所に来ないかい?ボクは今、ファミリアの構成員を探しているんだ」
「初めて聞いたけどそんな事」
「ほ、本当さ!今日から頑張るつもりだったんだ!」
言い訳がましい事を言っているがそんなことはどうでも良かった。
「…………一つだけ聞かせてくれ」
「一つと言わず何でも聞いておくれよ!」
「…………ルグは、良い女神だったか?」
太陽の光のように透き通ったプラチナブロンドの美しい女神を久々に脳裏に浮かべる。すると悔しそうな顔をした後、小さな女神は答えた。
「まさに太陽、同じ女神としてヤキモチ焼けるほど良い神だったよ。彼女以上に優しく、でっかい神をボクは知らないね」
「そっか………」
俺もだ。
ただのお人好しでなく、そう感じ取ってくれたこの神様なら……その小さな手を支えてあげたいと思った。
トン
見えない何かに背中を押された。確かに何かに押されたのだ。驚き、振り返る。視界に入った光景は今まさに太陽が昇らんと世界を燦然と照らしだしている瞬間だった。
ーーーーああ、わかってるよ
まず貴方が優しくなってください
結局俺はあんたのようにはなれなかった。なりたいとも思わなかった。あんたはもういるんだから……けど、この世界にもうあんたがいないというなら……俺はこれからあんたになろうと思う。
代わりを務めようなんて思わない。そんなことが出来るなんて、思えない。けど、俺があんたから貰った恩を誰かに渡す事は出来ると思うから……
ーーーー心配すんな。忘れねえよ、ルグ。俺はこれから、俺があんたから貰った恩をあんたの友神に……あんたが愛したこの世界に返していく。それが今の俺にできる唯一のあんたへの恩返しだと思うから…
差し出された手を取った。
「ようこそ、ヘスティア・ファミリアへ!ルグから聞いて知ってるけど、君の名前を聞かせておくれよ!」
「リヴィエール・グローリアだ。よろしく、ヘスティア」
「僕はヘスティアさ!大歓迎するよ、リヴィエールくん!」
手を取ったまま丘の道を歩き始める。
コレが俺とヘスティアの最初の出会い。
オラリオに名を轟かせた一つの伝説のファミリアが終わり、後にオラリオをひっくり返す新たな伝説のファミリアが始まる。
太陽という陽は沈んだ。しかしそれは同時に新たな火を剣聖によって起こさせる。
太陽のように偉大な炎ではない。それでも人を優しく温める炉の火が燃え始めた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。過去編終了しました。いかがだったでしょうか?次回からは完全に現在の時間に戻ります。それでは励みになりますので感想、評価よろしくお願いします。面白かったの一言でも頂ければ幸いです