ーーーーっと……
抱えている紙袋の中から果物がこぼれ落ちそうになる。抱え直す事で何とか防いだが、紙袋の中身は未だ不安定だ。
ーーーー少し買いすぎましたか…
どうせすぐに必要になるものなのだから買いすぎという事はないのだが、華奢な彼女が持つには重さはともかく、大きさ的に無理があった。しかしそれも仕方ない。生鮮食品とは日が暮れてからの方が安い。安いうちに多く買いだめする事は飲食店では常識だ。
大荷物を抱えているのは金と薄緑が混ざったような髪に細身の肢体を持つ美しいエルフ。
彼女の名はリュー・リオン。『豊穣の女主人』で雇われ、住み込みで働いている従業員の一人。オラリオでも有数の繁盛を見せる酒場だ。昼は一般人を、夜は冒険者を対象に店を開いている。朝と夜でメニューも値段も異なる。実入りのいい冒険者からはたっぷりと絞ろうという、店主ミア・グランドの方針だ。このような差別的な経営をしているにも関わらず、店は毎日大繁盛している。理由は文句なく美味な料理に女将謹製の果実酒の旨さ、そして働くウェイトレス達の美しさだ。リピーターは増える一方である。
朝と夜で忙しさの質は全く異なる。冒険者を対象にしているせいか、酔客が暴れる率は夜の方が圧倒的に高いのだ。最近ではこの店の従業員達、特にミアの腕っぷしの強さは有名になったため、そんな客は滅多にいないが、それでも騒がしさや衛生面など、諸々の問題はほぼ夜の部で起こる。
今日も大きな騒動はなかったが、実に騒がしく、食い散らかされた料理の掃除や食器洗いには大いに体力を奪われた。飲食店がこれほど肉体労働だったとは、リューは働く立場になるまで全く知らなかった。
ーーーー体力には自信があったのですが………
使う体力の種類が違うのだろう。身体もだが、何より心が疲れる。無愛想な彼女でコレなのだから、作り笑顔を常に持続させている鈍色髪の同僚の心労は如何程なのか、リューには想像がつかなかった。
ーーーーさて、後もう少しです。頑張って……
「きゃ!?」
この通りにはこの時間、多くの人が通る。このように肩がぶつかる事もままある。普段であれば鍛えられた彼女の体幹はビクともしないが、今は少し状況が違う。バランスを崩し、紙袋が傾く。
ーーーーあっ!
手の中の重量が揺れる。大惨事の未来が頭を過ぎったその時だった。
がっしりとした力強い何かぎがリューの肩を支える。そしてもう片方の手がリューの手を包みこみ、紙袋を支えた。自分より遥かに大きな、武骨な手。こぼれ落ちそうになった紙袋は再びバランスを取り戻し、大惨事は回避された。
ーーーーこの手は……
リューの視界に入った物はすらっとした美しい指。感じ取ったのは剣だこ塗れの剣客特有の固い感触のみ。コレだけで自分を支えてくれたのが誰か、リューが推察するには充分だった。爪先が伸び上がる。踊り上がりたくなる衝動をそうする事でかろうじて抑えた。
「おかえりなさい、リヴィエール」
「ああ、ただいま。リュー」
リヴィエール・グローリアが帰ってきた。
▼
リューから荷物を受け取ると、二人で並んで歩く。出会った当初は荷物を持ってもらうという事に抵抗していたが、それが無駄な事だという事は長い付き合いで身に染みている。良い男ってのは見栄を張れてナンボだとミアも言っていた。
「いつ戻ってたんですか?連絡してくれれば迎えに行きましたのに」
遠征に出ていた事は知っている。担当官のエイナにスケジュールを聞いて4日前、店に休みを出してギルド近くで待っていたのだ。結局現れず、1日無駄にしている。まあ予定通りに帰ってこない事などいつもの事なので特に憤りはなかった。それにスケジュールが合わなかったらこのような形で会いに来てくれる事も知っていた。彼を待つ事が嫌いではなくなった理由の一つだ。
「今日だよ。最初は店で待ってたんだがな、ミアが迎えに行ってやってくれって」
ーーーー………何一つ自主的でないというのが貴方らしい
せっかく良好だった気分が少し沈む。そういう事は事実でも口に出してほしくなかった。そうすれば幻想は真実となり、つまらない事実は明るみに出なかったのだから。
「ドッキリさせたかったんだがくだらないことしてる暇があるなら会いに行ってやれって怒られてよ。すれ違いにならなくて良かった」
その一言を聞いて沈んだ気持ちがまた上を向いた。単純さに我ながら呆れる。この男にしては珍しく、恥ずかしそうに頬をかく仕草がリューの母性を刺激した。
そうこうしているうちに店に着く。勝手知ったる他人の店。迷う事なく貯蔵庫に向かうと、荷物を店の棚に積み込んだ。コレだけの量の食材が1日2日で無くなるというのだから凄まじい。
「食事は?」
リヴィエールが尋ねる。この子が料理壊滅的な事はよく知っている。もしまだならこちらで何か作らねばならない。
「今日はパスタな気分です」
「あっそ。お前、これから仕事は?」
「私とシルは今日、夕方までです。買い出しが終わればフリーですよ」
「そりゃ良かった。とびきりのペスカトーレを作ってやる」
材料を幾つか棚から持ち出す。ミアにバレたらゲンコツでは済まないだろうが、言いつけはしない。二人とも一度、手を合わせる。材料を持ってリューの部屋に駆け込んだ。扉を閉じた瞬間、二人から笑いが溢れた。
▼
隣に座るリューが酌をする。先ほど、ミアに許可と金を払って用意してきた酒とリヴィエールが作った食事で二人は夕食を取っていた。
此処は二階に設えられている豊穣の女主人、従業員用の宿舎。酒場としては比較的広く、規模の大きい『豊穣の女主人』は店員が住み込みで働ける部屋がある。リヴィエールはその中の一室を隠れ家とするため、1年前、療養していた時に預けていたルグ・ファミリアの金を使って、ミアから買い取ったのだ。
ミアが元冒険者である事も、相当の腕利きだった事もリヴィエールは知っている。此処ほど他人が手を出しにくい場所はオラリオでも中々ない。隠れ家としては最適だ。
しかし空いているとはいえ、従業員用の一室を借りる事にミアも最初は渋った。リューやシルの説得もあり、法外な金をふんだくる事で、なんとか了承した。
本来のリヴィエールの部屋はリューの隣の一室なのだが、遠征から帰ってきた時はリューと食事、もしくは晩酌を共に取る事が決まりとなっている。コレはこの部屋をねぐらとする時に決まったリューとの約束だ。
本日もその例に漏れず、自分の部屋で眠る前にリューの部屋を訪ねたというわけだ。
「はぁ……」
果実酒を口に運びながらため息が漏れる。美味な筈の酒が後悔の味しかしない。
その態度に酌をしているリューはムッとなる。それも当然だ。折角の久しぶりの二人きりなのにつまらない感情の表れとして代表的な行動を取られては不快にもなることだろう。
「ああ、ごめん。そういう訳じゃないんだ」
誤解させた事を感じ取ったリヴィは慌てて手を横に振る。面白くないという思いは消えなかったが、意味のないウソをつく男ではない事も知っているため、一先ずは柳眉を収めた。
「何かあったのですか?先ほどから少し暗いですが」
「ちょっと自己嫌悪でな……」
ザックリと先ほどファミリアであった事を話す。駆け出しも駆け出しの新入り相手に怒気をぶつけてしまったこと。その事をリヴィエールは大いに悔やんでいた。セルフコントロールには自信があった為、尚更だ。
「そこまで落ち込む事でもないと思いますが……」
話を聞いた金髪のエルフは慰めるように言う。彼の努力の凄まじさはかつての相棒だったリューはよく知っている。確かに天に恵まれている部分も数多く持つ男ではあるが、決してそれだけではない。壮絶な経験を経て、彼は今の力を手に入れたのだ。
才能ある者ほど才を褒められる事に怒りを感じ、天才と一括りにされることを嫌う。まるで自分が何もしていないかのような物言いが許せないのだ。フィンが小人族を指して弱者と一括りにされる事を嫌うのと同じだ。
自分も才気に恵まれているから、リヴィエールの気持ちが少しはわかる。それにその少年に何かしたと言うならともかく、怒気を発しただけなのだ。そこまで自己嫌悪に陥る必要はないだろう。
「それでも、だ。力ある者が弱者にやっていい事じゃなかった」
相手は一応新たな仲間と呼べるファミリアの構成員なのだ。身体に流れる王族の血が、己の誇りを貶めるような行為をした事を許さなかった。
ーーーーもう、しょうがない人ですね……
やれやれと思いながらもリューからは優しい笑みがこぼれる。人に厳しく、自分にはもっと厳しい、彼の瑞々しい自尊心がリューは好きだった。他人を褒める事も滅多にしないが、貶すこともまずしない。初めて出会ったとき、エルフや女と言った色眼鏡で自分を見ず、正しく実力と努力を評価してくれた事、そして心からの賞賛を送ってくれた事をリューは今でも憶えている。
「真面目な事は貴方の美徳の一つですが、もう少し自分に優しくなってもいいと思いますよ?完璧な人間なんてこの世にいないのですから」
私も、貴方もね、とリューはリヴィエールにもたれかかる。こうして彼に甘える事は人によっては弱さと映るだろう。しかし自分がこうしたいのだからこうする。誰に弱いと言われても関係ない。
リューの華奢な肩を抱きかかえる。
「昔のお前からは考えられない言葉だな」
人に厳しく、自分には更に厳しい、完璧を追い求める剣士。それがリュー・リオンという冒険者だった。しかし、リヴィエールに出会い、共に行動し、そして豊穣の女主人で一癖も二癖もある仲間と働く事で彼女は変わった。ズルさに欠けるところが唯一のリューの欠点だった。
「人に頼る事を教えてもらいましたから」
ーーーーそれでも貴方は頼ってはくれないのでしょうね……
腕の中で苦笑する。それを嘆いた時期もあったが、今はもうそんな事はない。頼られるだけの女になれば良いだけの事。そう思い、日々努力を重ねている。
「なぁ、リュー」
「…………はい」
我ながら驚くほどしっとりとした声が出る。世の男なら大抵は今のでクラリと来るだろうが、目の前の男にはソレは通用しない。
「シャワー、借りていいか?」
飲食店なだけあり、従業員の衛生面にはとても気を使っている。簡易的ではあるが、お湯が出るシャワーがこの店には設えられているのだ。リヴィエールがこの店を根城に選んだ最大の理由の一つだ。遠征の期間中、ろくに身を清められなかったため、風呂好きのリヴィエールはもう限界だ。
「…………私が先です」
一気に不機嫌になったリュー。すぐに使わせてやる気にはなれなかった。
▼
暁闇の空に風の鳴る音が響いている。たび重なる高い音は鳥の鳴き声に少し似ている。
音が聞こえたからか、それとも温もりがなくなった為か、目が醒める。まず感じた事は寒いだった。隣を見ると夜にはあった男の姿がない。毛布を引き寄せ、自分の裸体を隠す。音の正体が何なのか、リューは知っていた。鍛錬用の衣服を着て、木刀を掴むと外に出る。
月が消え、太陽もまだ出ていない街の一角。白髪の剣士が振るっているのは闇よりも黒い細身の剣。東方の武器で刀という名を持つ。極めれば斬れない物はないとまで鍛治師が豪語していた剣だ。
一流の剣客である彼女の目から見ても、その動きは素晴らしい。素早く、鋭い。
上段から下段。鋒は自在に翻り、縦横無尽に刃が振るわれる。その剣技の冴えはリューを持ってしても正面からはやり合いたくないと思わせるほどだ。
斬閃が翻るたびに白髪が揺らめく。白い肌は情事とは違う紅い色に染まり、薄っすらと汗が光る。その瑞々しさと艶っぽさにどきりと胸が鳴った。
「ふぅ………」
一際鋭い音を鳴らし、腰に剣を納める。
「早いな、リュー」
視線をこちらに一切向ける事なくリューの存在に気づく。流石のセブン・センス。彼に尾行などの隠密起動はまるで通じない。
「お店の朝も早いですから」
稽古をするだけの時間を取るにはそれより早く起きるしかない。その事はリヴィエールもよく知っている。もう冒険者ではないのだから稽古なんてしなくてもいいと思わないでもないが、身に染みついた習慣というのは中々止められない。それに何かと物騒な事が多いオラリオだ。強さはあって困る事はない。
「そら、時間もない。来な」
黒刀の峰を返し、手招きする。豊穣の女主人で泊まる時はリューの稽古の相手をする。ミアが出した条件の一つだ。腕利きの店員が揃っているこの店なら彼に頼らずとも稽古の相手はいそうなものだが、一度尋ねたところ、絶対嫌だと皆口を揃えて拒否した。どうやら手加減が下手な彼女に相当扱かれたらしい。
硬質な音がオラリオの朝に響く。朝稽古と呼ぶにはあまりに真剣な立ち合いが始まった。
▼
「ここまでだな」
「ありがとうございました……」
吹き出る汗を拭いながら、腰に剣を納める。リューも疲れた表情で座り込んでいた。これから酒場の店員としての1日が始まるというのに大丈夫なのか。と心配になる。
ーーーーさて、身を清めて、丘に向かうか。細かい時間は決めてなかったけど、今から向かえばまず大丈夫だろう。
今日はロキ・ファミリアのアイテム売買に付き合う約束をしてしまっている。非常に行きたくないが、あのネックレスを預けている以上、ドタキャンするわけにも行かない。コレが終われば、当分彼女らと関わる事も無くなるだろう。あと1日だけ、頑張ろうと言い聞かせた。
すっかり明るくなった朝焼けを見ながら、簡易シャワールームへと足を向ける。
「あ、待ってください。私も行きます」
慌ててついてくる。制服を用意して、彼女もシャワーを浴びに行った。
▼
和服とローブに身を包む。出かけてくるとリューに告げ、店を出た時、辺りを掃除するキャットピープルとヒューマンと鉢会う。アーニャとルノアだ。
「リヴィエール。久しぶりだにゃ」
「随分と顔見せなかったね。大丈夫なの?」
「ああ、二人とも元気そうだな。何よりだ」
二人ともかつてのオラリオ暗黒期に暗躍した凄腕の戦士。二つ名を『黒猫』、『黒拳』。五年前まで多くの人を震え上がらせた賞金稼ぎと暗殺者。表向きは暗黒期が収束に向かった事で姿を消したとされているが、真実は違う。目の前の剣聖にボコボコにされた後、ミアの元に放り込まれたのだ。
「リヴィエール。私たちは貴方に感謝している。今の私達があるのは貴方のお陰だし、私達が出来る事なら何でも貴方に協力しようと思ってる」
二人が何を言いたいのかがわからず、眉をひそめる。見送りに来たリューがリヴィの背中に追いついた。
「でもアンタらそういう事するんなら宿屋かどっかに行きなよ!リューの声、筒抜けなのよ!」
あー、と白髪の男は空を仰ぐ。リューは真っ赤になってリヴィエールのローブを掴み、顔を隠した。何事にもやり過ぎる彼女は喘ぎ声でも加減ができなかった。
「だからリューもっと声抑えろって言ったのに」
「リ、リヴィのせいでしょう!待ってって何度も言ったのに全然加減してくれなくて……」
背中に隠れるリューと口喧嘩になる。本人は本気で怒っているのだが、端から見ればイチャついてるようにしか見えない。
「そういうのももっと違うところでやるにゃあ!今度こういう迷惑かけたらシルに言いつけるにゃあ!」
「?何でシルが出て……「もう二度としませんから許してください!」おわっ!?」
後頭部をひっ掴まれて無理やり一緒に頭を下げさせられる。
シル・フローヴァ。女性従業員が多く働くこの店で、唯一此処に住み込みで働いていない少女。彼女はリヴィとリューの関係を知らない。そしてこのエルフはどうやらシルに知られたくないらしい。
「私がどうかしましたか?」
ルノアの後ろからひょっこり現れたのは鈍色髪のヒューマン。店の看板娘であり、整った顔立ちと穏やかな物腰で多くの男性客を魅了する美少女。純朴な町娘という印象を受けられる事が多い。しかし、リヴィはこの少女がただ可愛らしいだけのヒューマンではない事をよく知っている。その上で、彼はシルが嫌いではない。
「あっ、リヴィエールさん!いらしてたんですか!お久しぶりです!」
「ああ、久しぶり」
ごく自然な動きでスルリとリヴィエールの懐に入り込み、腕を絡めてくる。既に店の制服に着替えている。よく似合っており、エプロン姿がまた彼女の純真そうに見える外見を引き立てている。
「遠征から帰っていたんですね!今日はどちらかにお出かけですか?」
「ああ、遠征の収穫の事でちょっとな」
「まあ!では懐は暖かいのですね?今夜の食事は是非ウチで!歓迎しますよ」
「あ、シルずるいにゃ!ねえリヴィエール、今夜はウチの招待を受けて欲しいにゃ。ミアお母さんにそう言ってくれれば良いにゃ」
ミアの店の方針は基本的に歩合制だ。金を多く落とす客の呼び込みに成功すれば給金が上がる。ファミリア自体は貧乏だが、単体で見れば冒険者の中でも、かなり金持ちの部類に入るお得意様のリヴィエールを口説き落とせれば、給金はかなり期待できる。見目麗しい女性従業員達はリヴィに群がり、しばらく騒ついた。
しかし、そんな浮かれた空気も一瞬で凍りつく。
「いつまで騒いでんだい!あんたらは!!」
「うっきゅん!!」
リューを除いた従業員達全員及びリヴィに鉄拳が下される。あまりの衝撃に全員が頭を抱えて座り込んだ。
「もう開店時間だよ!サボってないでサッサと用意をしな!」
いつまでたっても雑談をやめない従業員達に痺れを切らした店主、恰幅の良いドワーフ、ミア・グランドが奥からやってきたのだ。手にはトレイを持っている。どうやらリヴィだけはトレイの角の部分で殴られたらしい。
「いってぇ………何で俺まで」
「アンタが来るとウチの女どもがざわつくんだよ。用があるならサッサと済ましてきな!おら、働けガキども!!」
ミアの怒鳴り声に従業員達は散り散りに持ち場に戻っていく。唯一リヴィにくっついて離れなかったのがシルだった。ジトリと上目遣いでミアを見つめている。そこらの男ならこの顔でたいていのお願いは聞いてもらえる事だろう。己の容姿が武器になる事を彼女はよく知っている。しかしこの女傑には通用しない。
「おらシル!アンタも持ち場に戻りな!此処じゃアタシが法だよ!」
また夜来るから良い加減離れろとリヴィもシルを引き剥がす。約束を取り付けたシルは満面の笑みを浮かべるとミアに視線を向ける。店主が頷いたのを確認すると奥へと引っ込んだ。
「弁当か……」
夜に来る事を約束すると、彼女は店の賄いを弁当にして持ってきてくれる。中身は歩きながら食べれる軽食が多い。もちろん味は文句なく美味。
「大したモノじゃありませんがどうぞ。お弁当です」
「言っとくが俺はこんなもん貰わなくても此処にはちゃんと来るぞ?」
この手の施しは今までにも何度か受けている。いまやこの弁当をもらう事が今夜、此処で食事する事の約束手形になってしまっている。今までの自分の行いを知られているのだから信用がないのもわかる。それでもあまり気分の良いものでは無かった。
「ええ、もちろん存じています。私が受け取って欲しいだけです………ダメ、ですか?」
はい、試合終了。別に色香に惑わされた訳ではないが、ダメかと言われてダメだと言い切れるだけの理由もない。黙って受け取り、一度手を振ると丘に向かって歩き出す。ミアとシル、そしてリューの3人に見送られながら、白髪の剣士は中身の軽食を食べた。
▼
大きな背中が朝もやの中に消えていくのを見ながら、リューの胸はうるさいくらいに鳴っていた。
ーーーー聞かれなかっただろうか……
リューが思っていた事はそれだけだった。リヴィエールとリューは別に恋人同士という訳ではない。勿論リュー自身はリヴィエールを愛している。彼も自分の事を好いてくれてはいるだろう。しかし、彼が自分に恋をしているか、と聞かれれば、答えはNOだ。彼が愛する女性は唯一無二、あの太陽の神だけだろう。
それでもあの夜、自分の暴走をリヴィエールが止めてくれたあの時に肉体関係を結んだ事は事実であり、その後も何度か身体を重ねた事もまた事実である。
シルがリヴィエールに思いを寄せている事は知っている。二人の間にはまだ何もない事も。恋人同士どころか、体の接触すらほぼない。ゆえに自分達の関係も知られた所で不義理を働いたという事にはならない。それでも彼女に隠れてこのような関係をリヴィと持っている事は実直な彼女には酷く罪な事と感じられた。
「リュー」
ビクリと震える。隣で彼を見送る少女はまさに人畜無害といった笑顔を見せていたが、奥にある黒さに気づいた。
「私はね、別に貴方達が仲良くする事は良い事だと思うわ。だって私は二人とも大好きなんだもの」
こちらの心を見透かすかのような言葉。まるで嘘の通じない、魂の色の揺らぎから、子供達の心を暴く神を相手にしているような気分になる。
「驚く事じゃないわ。瞳はいろんな事を教えてくれるから」
たおやかに笑う。驚きの感情は顔に出してはいなかったのに、またしても見透かされた。
「貴方の瞳はとても綺麗よ。貴方は善人じゃない。間違いも犯す。でもまっすぐで、純粋。とても真面目で、とても優しい。貴方の今の揺らぎは貴方が優しいから。だから私はその揺らぎの元について、聞く気はないわ。安心して」
瞳の奥の鈍色が輝く。その光には何が見えているのか、かつての凄腕の疾風は自分より遥かに弱い少女に威圧された。
「だからそんな怯えたり、隠そうとしたりしないで?貴方がリヴィエールさんとどうなろうと私は全く構わないから」
ーーーーやっぱり、シルは魔女ですね……
全てお見通しだというわけだ。同僚が時折零す、彼女の評価に、疾風は今日、心からの同意を示した。この心の底を見透かすような眼差しを前に隠し事など無意味だった。
ーーーー彼の瞳だけは何も教えてくれないけどね
声には出さず、口の中で魔女がつぶやく。ポーカーフェイスやブラフといったチャチな駆け引きではない。いや、それもないとは言わないが、彼の心が読めないのはもっと根本的な物だ。
様々な色が混ざって出来たあの黒は正に至高の雑種。純粋さすら感じる闇がリヴィエールを覆い隠し、心を晒す事を防いでいるのだ。
わからない。読めない。見えない。だからこそ知りたい。だからこそ欲しい。
不器用な優しさを持つあの人が私は好き。
ーーーー貴方が誰とどんな関係を結んでもいいの。だってその度に貴方の黒は磨かれ、美しくなるから。極限まで磨かれ、最も美しい輝きを放つ最後の瞬間に私の元に来てくれればこんな幸せな事はないわ
「…………シル?」
怪訝な目つきで金色の髪のエルフがこちらを覗き込んでくる。そこまで妙な顔つきをしていただろうか?口元を指でなぞる。するといつもの完璧な営業スマイルを取り戻された。
「行きましょう、リュー。ミア母さんが待ってます」
踊りだしそうな軽いステップで店の中へと入っていく。リューも後に続いた。
今日もまた豊穣の女主人の1日が始まる。
後書きです。感想での人気に反映したところ、ほぼ完全にリューさん回になってしまった。他にもご要望があればそのキャラのメイン回を書こうと思いますので、どんどん感想欄で希望を出してください。それでは励みになりますので、感想、評価よろしくお願いします。面白かったの一言でも頂ければ幸いです。