β世界に生きる   作:銀杏庵

9 / 15
09 ナイトウォーカー

 葛葉老人が、有栖川家執事を退職してカフェを始めたのは、コーヒー好きということもあるが、家の井戸水が良質な軟水であったことも関係していた。関西は、関東よりも硬度(水に含まれるカルシウムやマグネシウムなどの濃度)が低い土地柄であり、コーヒーは軟水で淹れると円やかさと酸味が増し、逆に硬水で淹れると苦みが増す傾向がある。 

 帝国が主権を回復し、コーヒー豆の輸入が解禁されると、帝都や東京等では、個人経営の喫茶店開業が──客が一日に、四十から五十人入れば、二年から三年で開店資金を回収できるということで──ブームとなり、そうした店でコーヒー豆の大半が消費されるようになった。しかし、純粋にコーヒーを楽しむカフェの数は少なく、美人(で集客する)喫茶、(男女)同伴喫茶やジャズ喫茶などの方が多かった。食事一食分にもなるラーメン一杯が五十円の時代に、一食分にもならないコーヒー一杯が五十円もしており、庶民にとってコーヒーは贅沢な嗜好品であった。

 そんな贅沢品を、豆から自家焙煎して本格的なコーヒーを出す葛葉老人のカフェは、三日間の塩パン無料配布で評判が広がった影響か、五月の予想以上に多くの客が訪れるようになった。贅沢品にお金をかけることが出来る地位にある客が集まれば、貴重な情報も集まり、伝が出来るという五月の狙いは見事に当たった。

 そんな客の一人に、独特の雰囲気を持つ四十歳代始めの男──容姿は黒髪を真ん中から左右に分け、黄色い鼈甲フレームの眼鏡、口の両端にまでチョロっと伸びたどじょうヒゲの人物──がいた。

 その男は、眼鏡のフレームをクイと指先で上げ、初対面の五月をじっと見つめた後、

 「実にお美しい──お嬢さん、モデルになりませんか?」

と軽いノリで声をかけ、サッと名刺を差し出す。サラリーマン時代の癖が染みついた五月の中の人は、反射的に名刺を受け取る。

 (!? 人材勧誘派遣会社○○○……な、何でこんな所にいるのよ、プロスさん!)

 そう、創作であるはずの機動戦艦ナデシコの登場人物プロスペクターが、生きた人間として五月の目の前に──それも、マブラブ世界に存在している想定外なことが起きたのである。

 五月は、内心の驚きを抑えながら、プロスの顔を穴が空くほどに見つめると、関心があると誤解した彼は懐からミニソロバンを取り出して、パチパチと珠を弾いて彼女の方に差し示す。

 「”一流の”ファッションモデルならば、年収はこれぐらい稼げますな」

 「!?」

 金額に驚いた顔でソロバンの珠に魅入る五月に、プロスは手応えを感じて更に珠を弾く。

 「更に雑誌や広告のモデルも加われば……」

 「そ、それって税抜きですか?」

 両目に¥マークを浮かべた五月がプロスに訊ねる。

 五月が、税を気にしたのには訳がある。帝国が、大東亜戦争に敗北し、β世界ではα世界と違って米国・英国は賠償請求権を行使しており、帝国は支払いが未だ続く重い賠償金と反共の防波堤たる軍事費を捻出するために、所得税を始め色々と税金が高いのである。因みに、帝国における所得税・住民税のセットでは、最高税率が八十八%にもなる。

 プロスの話を聞いた五月は、モデルの件は気が向いたら連絡すると答えて先送りにした後、海外で原料元素回収中のデコを呼び戻し、デコの中のモノリス(仮想人格)に問い質すことにした。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

  『……なる程。君の訊きたいことは理解した』

  『考えられる原因は、G弾の爆発で発生した次元歪曲特異点が、無数に存在する並行世界のどこかにあった創作とそっくりな世界にも出現し、一時的に繋がった状態になった。そこに、変化を引き寄せる因子を活性化した状態の君(情報体)を、こちらのβ世界に送り込むため次元歪曲特異点に突入させた影響で、創作とそっくりな人物の情報体をも引き寄せ、D型端子と一緒にβ世界へ転移してしまったのだろう』

 (そんな……でも、どうしてナデシコの登場人物なのですか? それに、私はデコに再生してもらいましたが、プロスさんはどうやって受肉出来たのですか?)

 『君自身は無意識なのだろうが、創作世界の人物を強く求める執着心が原因で引き寄せたのだろうね……それと、受肉については、君に巻き込まれた情報体の存在力が高過ぎて、”世界”が人物置き換えという情報改変をしたためだろう。君が同様に情報改変されていたら、因子を危険と判断した”世界”によって、消去される可能性があったから、再生という手間のかかる方法を取ったのだよ』

  (プロスさんは、私のせいで別世界へ強制召喚されたようなものなんですね……)

 『そういうことだね』

 (……うん? ちょっと待ってください! ナデシコの映画を見てキャラ愛を再燃させた私に原因がないとは言いませんけど、因子を活性化させた状態で、次元歪曲特異点に放り込んだモノリス様にも責任の一端はあるでしょ!)

 『ほ~う、この偉大な僕が、ミスを犯したと言うのかね?』

 不機嫌そうなモノリス(仮想人格)の声音に、

 (滅相もありません! 全ては、G弾で次元歪曲特異点を発生させた米国の責任です──絶対ギルティです! 因子活性化させたモノリス様のお蔭で、ナデシコの有能な協力者候補を見つけることができ、感謝感激です! 寛大なるモノリス様、私めの失言をお許しください)

 悲しいかなサラリーマン根性が染みついた五月の中の人は、コロっと態度を変える。

 『分かればよろしい……しかし、別世界からも引き寄せる程の因子の強さ──君なら出来ると判断した”僕”の判断は正しかったようだ。流石、偉大な”僕”だ』 

 (どうせ引き寄せるなら、人物よりもBETAを一掃出来そうな戦艦ユーチャリスの方が、私としては良かったのですが)

 『世の中は思い通りに行かないものさ』

 (まあ、そうなんですけど、ユーチャリスがあれば、月と地球のBETAのオリジナルハイブなんて、グラビティブラスト(重力波砲)一発で片がついて、依頼も完了なんですが)

 『”世界”は、天秤のようにバランスをとるから無理な願いさ。こちらの”世界”も、己の知恵と勇気と友情で何とかしろというご意向なのだろう』

 (そんなもんですかねぇ……取り敢えず、友情を育む一貫として、性格はアレだが能力は一流なナデシコの登場人物が、他にもいるかもしれないので探してみます)

 五月は、店のカウンター内側から、ソロバン片手に何やら計算しているプロスを眺める。

 (私の因子に頼るだけでなく、顔の広そうなプロスさんにも探してもらいましょうか……依頼するとなると、人材を探す理由と資金が必要ですから、何か起業しないといけませんね──どうせなら、ネルガルのような多国籍企業を目指したいわ)

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 五月達が、検査結果の説明を受けに、帝国大学付属病院を再び訪れ日の深夜、乾燥し凍てつくような空気に帝都が覆われる中、車も人気も絶えた堀川通に面したS神社の近くに一台のアメリカ車が停まった。

 「様子を探って来い」

 後部座席に座る男──六条が偉そうに命令を出すと、助手席に座っていた小柄な男が、目出し帽をかぶって車外に出て、早足にも関わらず足音も立てずに神社横の脇道へ入って行った。

 暫くして戻ってきた小柄な男の報告に、六条は暗い笑いを浮かべる。

 「ククククク……金縛りにするおかしな術も、寝込み襲えば使えまい……俺を(強姦未遂に)はめた、あのメスガキを本当に凌辱してやる! 放火で証拠を消すのに、おあつらえ向きの今日まで我慢したんだ。俺のこの手で、じっくりとガキをいたぶり、めちゃくちゃに壊してやる」

 六条は、青い復讐の炎を目に灯し、異様な気配を周囲に発しながら、部下の男達に合図を送ると、助手席と運転席にいた男達は同時に車外へ出て行く。六条は、小瓶の酒を飲みつつ、少女を凌辱する妄想に耽けりながら、部下達の下準備が整うまでの時間を車内で潰す。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 闇に溶け込む服装をした二人の男は、周囲を警戒しながら、葛葉家の古い木造の戸の鍵を巧妙に開け、誰にも見咎められることなく侵入を果たす。

 男達は、明らかに荒事に馴れたプロの動作で、灯もない室内を物音も立てずに一階の各部屋を検めて行く。そして、奥の部屋で眠る葛葉老人を見つけると、中背で太った男が、似合わぬ程に敏捷に動いて、薬を染み込ませた布で葛葉老人の口を塞ぐ。

 太った男が、葛葉老人の無力化を確認して、部屋の入り口にいる小柄な男の元へ戻ると、今度は小柄な男が葛葉老人に接近する。目出し帽から覗く、小柄な男の目は喜色に溢れており、葛葉老人の掛け布団を払い寝間着を緩めると、取り出した長い針で老人の腹の急所にス~っと突き刺す。

 小柄な男は、目出し帽の下で満足そうに微笑むと、次の獲物に向かう前に、とある準備を太った男に指示する。

 二階では、布団に包まった五月が、スピー、スピーと呑気そうな寝息を立て眠っており、不思議なことに彼女の枕元に置かれたウサギのぬいぐるみが仄かに光っていた。それは、五月の身体から放出されたナノマシン群が、ぬいぐるみ内のメモリーカードに流れ込む影響であった。

 そんなぬいぐるみに目もくれず、部屋に侵入した男達は各自の役目を完璧に遂行する。太った男は、五月の胴体に馬乗りなって動きを押さえつけると同時に、大きな手で彼女の口を押さえて声を封じてしまう。小柄な男が、ほとんど間を置かずに五月の首のつぼへ長い針を刺し込む。

 無理やり覚醒させられた五月は、悲鳴を上げ、抵抗しようとするも、声は出ず身体も力が入らない異常事態にパニックになる。

 (□+*@#&%$)

 五月の様子を冷めた目で見ていた小柄な男は、処置が効果通りであることに満足する。

(坊っちゃまも面倒なことを言われる。薬で眠らせず、わざわざ意識を残したまま動けない様にしろとは……)

 小柄な男は、内心で愚痴をこぼしながら、五月の首の針をそのままにして立ち上がり、車で待機している主へ報告に向かうおうとする。しかし、ドサという音を立て、不法侵入者の二人は突然倒れてしまう。パニック状態から抜け出た五月が、P2P接続で呼び戻したデコに命じて、男達の肺の中から大半の酸素を奪い、二人を気絶させたのである。

 五月は、デコの更なる亜空間収納により、首に刺さった針を消してもらうも、デコは再現機能が回復していないため、彼女は生体強化のナノマシンによる自動修復で、身体が動けるようになるのを待った。

 漸く自由に動けるようになった五月は、首に残る痛みで顔をしかめながら、不法侵入者二人の正体を確かめようと、目出し帽をはぎ取り顔を検めるも、両方とも見たことない人間であった。彼らの持ち物も検めた所、長い針、ブラックジャック (殴打用の棒状の武器)及び紐等に加え、怪しげな薬品の小瓶も出てきた。

 襲われる理由が一向に分からない五月であったが、目を覚ましたら厄介な相手と判断し、不法侵入者らが持っていた紐を使って二人の両手両足を縛り上げる。

 それが終わると、五月は不法侵入者の件を葛葉老人に伝えるため一階に降りることにした。念のために、他にも侵入者がいないか、デコの帯の輪を拡大して家丸ごと囲い調べさせたが、葛葉老人の弱々しい生命反応以外はなかった。 

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 一階に降りた五月は、葛葉老人の部屋の襖を開け、部屋で寝ている葛葉老人に何度か呼びかけるも返事はなかった。五月は、暗い部屋を僅かな星明りを頼りに、部屋の中央で寝ている葛葉老人に近づこうするも、途中で居間にあるはずの石油ストーブに足をぶつける。漸く、五月は部屋の中央にある電灯のスイッチである紐を探りあてて引くと、灯が死人のように血の気を失った葛葉老人の顔を露にした。

 「葛葉のおじい様!」

 五月は、布団に横たわる葛葉老人の枕元に膝をつき、彼の状態を確かめようとする。葛葉老人の呼吸は浅く、五月が彼の首筋にあてた指から伝わる脈も弱々しいものであった。

 「葛葉のおじい様! しっかりして下さい!」

 五月は、葛葉老人の意識を覚まそうと、必死に何度も耳元で呼びかけるも、彼の目は開くことも、唇も動くことはなかった。

 困った五月は、何が原因なのかを探ろうと、デコに葛葉老人の身体を調べさせた所、彼の下部肋骨辺りにある腎臓──心臓から出た血液の二割も受け入れる臓器──の片方から大量に出血していることが判明した。五月は、葛葉老人の寝間着を開いて、腹部の傷を確かめた所、極小さな傷口から血が滲んでいるだけであった。

 「まさか……暗殺の手口なの?」

 背筋がゾッとする五月であったが、今は葛葉老人の命を助けることに意識を無理やり向けた。

 葛葉老人の腹には、既に大量の血が溜まり危険な状態であり、近所の医師の手におえるとは思えないし、深夜で病院に運び込み手術するまでに相当時間を要して助かるかどうかも分からない。

 (この状態で、デコの亜空間収納でおじい様を情報体化させれば、時間を止めることは出来るけど、どう誤魔化して病院に運び込んだら良いのか……)

 五月は、泣きそうな顔をして、必死に良い方法がないか考え続ける。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 「一か八かに賭けるしかないか……」

 決心した五月は、右手を葛葉老人の腹部の怪我に、左手は彼の首筋の内頸動脈(頭に血液を送り込む血管)に添える。

 「ナノマシン、活性レベル最大で放出!」

 ブ~ンと空気を震わせながら、五月の髪を含む身体全体が輝きを強め、青白い散乱光を周囲に放ち始める。

 五月の両眼(虹彩)は金色に戻り、整った顔は浮かび上がった幾何学模様の光るラインで埋めつくされる。葛葉老人の身体にかざした五月の両手の甲には、C(上向き)と∴が重なった光る模様が浮かび上がる。体外に溢れ出る光(ナノマシン)群は、次第に彼女の両手へ集まり、手のひら側から光の筋となって、葛葉老人の首と傷口に注ぎ込まれる。

 (……最優先は脳細胞のダメージ阻止の実行……腹部に溜まった血液を回収し、リフレッシュして下大静脈へ──不足する酸素や栄養は私の血液から抽出して供給……第二優先は、損傷した腎臓の止血の実行……時間がないから、損傷細胞等を素材として近隣正常細胞のデッドコピー(模倣複製)によるパッチ充てで自動修復を逐次実行……)

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 六条は、イライラしながら車内で、部下からの下準備が整った旨の報告を待っていたが、一向に戻って来ないことに痺れを切らし、自ら出向くことにした。

 物音一つしない葛葉家に、土足で足音を立てながら上がり込んだ六条は、一階の廊下の奥にある部屋から漏れる光に誘われるように足を進める。

 六条は、部屋の外から中に向けて、

 「ガキとジジイ相手に、何を遊んでいるんだ!」

と怒りをのせて声を放つも、部屋の中の様子を見て足が止まる。

 部屋の中央辺りに正座した、少女らしき人物の身体が、何故か青白い光をまとっており、おかしなことに少女の長い髪は、重力に逆らって浮き上がっていた。

 更に、首だけ振り返えった少女の顔を見た六条は、金色に妖しく輝く目と顔中の奇怪な光る模様──未開地の原住民の化粧のようなもの──に、人外の存在に対する恐怖が生まれた。

 「化け物……」

 六条の呟きに、五月は己の今の容姿の問題を思い出した。

 「ちっ!」

 舌打ちした五月は、身体を翻して逃げ出そうとする六条に反応し、

 「デコ、逃がすな! 気絶させろ!」

と命じた。

 葛葉老人の治療で動けない五月の代わりに、デコは彼女の意志に従って、帯の輪を瞬時に拡大し、先の侵入者と同様に六条を気絶させる。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 「あの時の記者か……どうやら仲間を連れて、私に仕返しに来たようね」

 出来る治療を葛葉老人に施し終えた五月が、廊下に転がって気絶したままの不法侵入者の顔を検めた結果、ようやく不法侵入者達の正体を理解した。更に、五月は、居間にあったはずの石油ストーブが、家の物ではない小さな灯油缶と一緒に、葛葉老人の部屋にあった訳に思い至る。

 「私を乱暴した上で、放火して証拠隠滅を図ろうとしたようね」

 「さて、どうしましょうか。相手が武家の人間では、警察に突き出しても揉み消されるだけ……私の秘密を見られた以上、放置は出来ないわ……叔母のようにナノマシンを寄生させて、幻覚で狂人に仕立て上げるべきか……」

 「否! 私やおじい様を殺そうとした相手に情けは不用ね。憂いを絶つ為、仲間と一緒に、この世から退場してもらいましょう」

 五月は、迷いを断ち切るように決断し、デコに命じて侵入者三人の身体を亜空間収納で消去してしまう。

 更に、五月は家の周囲に侵入者の仲間や移動手段がないか、デコに帯の輪を更に広げて隅々まで調べさせた。S神社の近くに停められた不審車、家の中に残る侵入者達の土足の跡、葛葉老人の寝間着に染みついた血痕も、デコが綺麗さっぱり亜空間収納で消す。

 これで武家の関係者による不法侵入の痕跡は、葛葉老人の記憶と怪我だけである。生体強化のナノマシンによる緊急治療で、葛葉老人の脳へのダメージ進行は止めることができたものの、既に壊死した細胞や神経が散見され──壊死部分の記憶は諦め、自動修復によるレストア(再生)を進めているが──、記憶の欠損の影響がどの程度出るか心配が残る。

 問題は、生体強化のナノマシンによる治療が完治する前に葛葉老人が目覚めた場合、腹部の痛みの原因を問われたら、五月はどう答えるかであった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 夜が明ける頃、葛葉老人の意識が一端戻ったが、発熱の影響もあって再び眠ってしまう。デッドコピー(模倣複製)による強引な細胞のパッチ充てで、傷の修復を急いだ反動が出たのかもしれない。

 その後、意識を再び取り戻した葛葉老人は、不運中の幸いと言うべきか、刺されたことを覚えておらず、病気で寝込んでしまったと思い込んでいたので、五月は黙っていることにした。

 結局、葛葉老人は二日間寝込み、付きっ切りで五月が看護することになった。

 その間、五月の帝大病院での検査結果の連絡が無いことを心配した紅井夫人が葛葉家を訪ねてきた。紅井夫人は、寝込んでいる葛葉老人に病院への入院を勧めたが、本人は回復は順調だと言って固辞した。

 止むなく紅井夫人は、運転手の黒井と買い物に出かけ、葛葉家の台所を使って、消化に良い料理を作ってくれることになった。五月も料理を手伝うと言って、紅井夫人を台所に案内するも、片隅に置いてあるα世界の冷蔵庫が、海外に精通した商社社長夫人の紅井夫人に英国製品でないとバレかねないことに直前で気づき、デコに収納させる冷や汗をかく場面があった。

 一方、六条家ではその頃、問題児だけでなく、使用人も突然消えてしまったことで、一騒動になっていた。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 三日目には、体調が回復した葛葉老人がカフェを再開すると、馴染みの客に対して臨時休業したことを詫びるため、コーヒー一杯無料でサービスしていると、目付きの悪い刑事らが店を訪れ、客を追い出してしまう。

 刑事は、葛葉老人や五月に三日前以降の行動を根堀り葉堀り聞いてきた。聞かれた五月は、顔色も声音も変えず、病気の葛葉老人を付きっ切りで看病していたと答えた。

 刑事が、唐突に天河村の診療所で会った記者と再会していないかと質問して来たので、五月は「強姦未遂を揉み消した記者とは、その後会ったこともないので知らない」と皮肉を込めて答える。

 すると刑事は、「警察をなめとるんかぁー」と、ヤクザ紛いのドスを効かせた声で五月を威嚇して来た。別の刑事が、間に入っては、相方をなだめ、猫撫で声で五月に記者のことを訊いてきた。

 (Aが威嚇して心理的圧迫を加え、Bが優しく声をかける手口で聞き出そうということか……こいつら消したアイツの実家である武家の犬のようね)

 刑事達を敵認定した五月は、密かにナノマシンを放出して彼らのとある神経に寄生させる。

 その後、五月は、刑事達から何を聞かれても、黙秘を貫いたため、目付きの悪い刑事の矛先は葛葉老人に向けられ散々脅しを口にし、最後には思い出すまで毎日店に顔を出すと言って帰って行った。

 (公権力を笠に営業妨害するつもりね──敵は排除しかないわ。デコ、透明化したまま敵を追跡してちょうだい)

 五月は、思念でデコに命令した後、刑事達が座っていた席や入り口に塩をまく。その様子に、葛葉老人は苦笑いを浮かべた。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 二人の刑事は途中で別れ、目付きの悪い刑事が、六条家を訪ねると直ぐに応接間に通され、対応に出てきた当主と執事へ今日の捜査の結果を報告する。

 (このブルドックのような顔をしたヤツが親玉か)

 五月は、透明化しているデコとのP2P接続による情報共有で、応接間に集まった当主らを観察しつつ、デコに運ばせたナノマシンを密かに散布させ、当主のとある神経に侵入し寄生させる。

 刑事が帰った後、六条家の当主と執事は別件で密談を行い、それを透明化しているデコを介して盗聴した五月は、隠し金庫へデコを向かわせた。

 少なくない謝礼を懐に入れた刑事は、六条家から警察署に戻り、上司に報告をしようとするも、声帯を支配する反回神経に寄生したナノマシンによって、一切声が出なくなってしまう。その後、刑事は治療を試みるも、声が戻ることはなく、職を追われてしまう。

 相棒の刑事の方は、警察署の玄関前で、内耳神経に寄生したナノマシンにより、平衡覚を失ってコンクリート床で転倒し、大怪我を負い長期入院するはめになる。

 一方、六条家の当主は、視神経に寄生したナノマシンによって、ツキノワグマに襲われる幻覚を延々と見せられ、飾ってあった軍刀をつかみ、狂ったように振り回して使用人に大怪我を負わせてしまう。更に、通報で駆けつけた警察官に対しても、当主は斬りかかったため、拳銃で撃たれて重傷を負うことになった。

 また、六条家の隠し金庫から消えた脱税書類は、後日、税務署のポストの中から発見され、その大口で悪質な脱税から国税局査察部(マルサ)による強制調査が、有力武家である六条家に対しても断行されることになった。

 一連の事件によって、六条家は有力武家の地位を失ってしまう。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 葛葉家の方は、毎日店に顔を出すと脅して去った刑事が、一向に現れることなく平穏な日々が続く。

 家庭裁判所からの呼出しも未だなく、五月は、朝から塩パンを焼き上げ、昼間は葛葉老人のカフェを手伝い、時折空いた時間に塩パンの生地を作る。夕方には商店街での買い物に同伴し、夜はデコが再現したコンピュータミシンにより百貨店の生地等で衣装作りして過ごしていた。

 借りた小学校の教科書は既に勉強する必要はないのだが、午前中の自宅学習時間に勉強する振りだけして、国会図書館の蔵書情報を元に帝国の分析を進めていた。

 二つの並行世界の分岐は、五大武家と同じ氏や姓を持つ有名武家がα世界にないことから、1867年の大政奉還以前に生じているのだが、五月が帝国の現状を理解するには、第二次世界大戦以降を押さえれば十分であった。

 α世界と同じくβ世界も、大日本帝国が米国との間で戦争が勃発したのは、両国の地政学上から来る宿命なのか、”世界”の紡ぐ運命のどちらであろうか悩む所である。

 大東亜戦争において、帝国は開戦当初は破竹の勢いで勝利したものの、中盤以降は地力の差から米国が優勢となった。米国にとって、大市場である欧州のドイツ支配を阻止するのは、極東の小さな帝国との戦争よりも優先事項であった。故に米国は、連合国(米英ソ)の一員として欧州反攻に加わり、ドイツに先んじて開発した原爆二発をベルリンに投下した。

 ソ連は、欧州反攻に参戦する一方で、世界共産主義革命を密かに推進し、周辺の東欧やアジアの各国に社会主義政府を次々に樹立させた。極東においては、ソ連が支援する社会主義政府が、中国や朝鮮での内戦に勝利し、帝国には大量の難民が押し寄せ、その多くは戦後米国に渡った。

 マリアナ沖海戦に負け、原爆の威力を知った帝国は、未だ保有する戦争継続戦力を誇示しつつ、共産主義勢力の拡大阻止を訴えることで、米国・英国との間で戦争を条件付き講和に持ち込むことに成功した。

 国号を大日本帝国から日本帝国に改め、八十年弱続いた帝政──実質は、帝国議会の上位執政機関である元枢府──による政治から、立憲君主制の帝国議会と内閣による政治体制に変わったが、実質は占領軍(米国)による半属国化政策下に置かれた。

 β世界の米軍による占領政策は、反共の防波堤となるように帝国の早期復興を基本に実施されたが、米国の基本理念(平等・自由・幸福追求)に則って、華族制度の廃止等法の下の平等、女性の参政権付与等選挙の民主化、独占禁止法の制定等市場経済の民主化、封建制度の残滓である小作人を解消する農地改革等にも及んだ。

 α世界では、進駐した米軍による占領は、日本の国を民主化するだけに留まらず、豊かな欧米文化や行事をも日本に広めた。β世界の帝国では早期講和にこぎ着けたことで、α世界のように国土と国民をボロボロに叩かれずに済み、欧米の文化を崇拝する風潮は上流階級の一部に留まり、欧米の外来語やクリスマス等の行事といった文化的侵略は広まらなかった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 

 β世界が、α世界よりも宇宙に関する科学技術が進んだ根底には、大戦中に著しい進化を遂げ、ミサイルを宇宙空間に到達させたり、大戦末期には長射程の弾道ミサイルを完成させるに至ったドイツのロケットエンジン技術がある。

 ドイツの降伏で、開発に携わったドイツ人科学者達は、米ソによる争奪対象となり、米国に移住させられた研究者達は、ロケットエンジンの研究開発を新天地で継続することになった。

 大戦が終了しても、大戦の最中に表面化した東西イデオロギー対立による緊張状態は継続し、世界は米ソを盟主として東西に分かれて冷戦状態に突入することになった。

 ソ連は、米国が開発した原爆に対抗するため、米国から原爆技術を盗み出し、自国に強制連行した原爆開発に従事したドイツ人科学者を使って、短期間のうちに原爆を開発し、大戦終了後直ぐの実験で自国が原爆を保有したことを顕示して見せた。米ソが互いに原爆を保有するに至り、米ソは軍事的な拮抗状態が生まれた。

 米国は、大戦が終わったばかりということもあって、ソ連を刺激する軍事的動きを表向きは避け、平和的宇宙開発を名目に、他国を核兵器で攻撃出来る手段等潜在的軍事力となり得る、宇宙開発に必要な技術開発に注力することになった。

 その宇宙開発が本格的に開始したのは1950年であり、米国と欧州の西側諸国が共同して、系外惑星探査のダイダロス計画(極秘)の表向であるマーキュリー計画(地球周回軌道を回る有人宇宙飛行)に着手すると、ソ連も東側諸国と共同して同様の計画を開始し、東西陣営の威信をかけた宇宙開発競争が繰り広げられることになった。

 米国が、本格的な宇宙開発計画を開始出来たのは、1940年に英国で発明されたトランジスタが1944年に実用化され、40年代末には量産化が整い、宇宙ロケットの重量軽減(推進力の向上)や制御技術向上が背景にあった。

 東西陣営による月面到達レースは、ロケット開発に秀でたソ連が率いる東側陣営が当初リードしていた。しかし、1951年に米国で発明された集積回路(IC)が1953年に実用化されると、大気がほぼない月面での着陸制御や宇宙船誘導を行なうコンピュータの性能が大幅に向上したこと等により、1955年に西側陣営は有人月面到達レースを制した。

 なお、東側陣営は、月面到達レースに破れた以降、地球の低軌道への衛星投入や無人探査機による地球外探査に開発の軸足を移して行った。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。