β世界に生きる   作:銀杏庵

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08 養子縁組

 1月30日(木)午後

 葛葉老人は、有栖川家でのことを五月に説明しを終えると、直ぐに彼女を伴い、光月弁護士の所に相談に向かう。

 事務所で、葛葉老人が光月弁護士に一連の説明を行なうと、話を聴くに連れて光月の顔つきが険しくなった。

 「お話は分かりました。恐らく相手は、養子縁組の手続きに関する欠陥を利用して来る懸念がありますから、直ぐに区役所へ一緒に向かいましょう!」

 光月弁護士は、真剣な声でそう告げ、若い女の事務員に一言留守を頼むと、自らのコートを羽織って早足で事務所を出て行く。慌てて、葛葉老人と五月が、光月弁護士の後を追いかける。

 葛葉老人と五月が、光月弁護士の後を追いかけて表通に出ると、光月は既にタクシーをつかまえていた。

 光月弁護士、五月、葛葉老人の順で、タクシーの後部座席に乗り込み、発車する。

  「……光月先生、養子縁組の手続きに関する欠陥とは何ですか?」

  走るタクシーの中で、五月が光月弁護士に質問する。

 「養子縁組届は、養子側の合意や証人の署名がなくても、養親となりたい者が、勝手に偽造した届出書を役所に提出することが可能なのです」

 「「えっ!?」」

 五月と葛葉老人は、口を丸く開けて驚く。

 「養子本人が合意していない上に、証人の署名を偽造した届出は、無効ではないのですか?」

 疑問を口にした五月に対して、光月弁護士が頭を左右に振る。

 「役所は、届出書の記載内容が所定通り整っていたならば受理してしまうので、その時点で養子縁組が成立してしまいます。一端受理されてしまうと、役所に訂正させることは容易ではなく、家庭裁判所に無効確認を訴えるしかありません」

 「そんな! ……役所は、養子本人の意志確認は行なわないのですか?」

 「行なうのは困難としていますね。役所に出される届出には、婚姻届、離婚届、養子縁組届及びその離縁届、認知届等様々なものがあり、これらの届出が日々何百も役所の窓口に出されるのですから……」

 「一部の悪意のある届出のために、全ての届出の当事者本人の確認を行なうのは、費用・手間・時間もかさみ現実的に難しい。故に、役所は性善説に立って本人確認せずに届出を受理すると……」

 五月の推測に、光月弁護士が頷く。

 「先生に動いて頂けたということは、偽りの養子縁組を阻止する方法があるということでしょうか?」

 葛葉老人が、光月弁護士に問い掛ける。

 「ええ。養子縁組届を受理されないように、五月さんの本籍地──幸い帝都で届け出てありましたから、そこの区役所で不受理申出の手続きを行ないます。この不受理申出の手続きをしておけば、申出人が取り下げない限り半年間は有効です」

 「不受理申出により、叔母からの養子縁組届は防止できたとしても、叔母以外の人からの偽りの養子縁組は防止できるのでしょうか?」

 五月は、光月弁護士に対して疑念を口にする。

 「大丈夫、防止できます。不受理申出書において、相手方の氏名記載欄を空白にすれば良いのです」

 「そうですか、安心しました……でも、性善説に立つ養子縁組届手続きの欠陥を突いて、悪人が資産家本人の知らぬ間に養子(法定相続人)になり、相続財産を狙うことが出来るのではありませんか、光月先生?」

 「五月さんの言う通り、そうした犯罪が度々発生しています。他にも、犯罪を犯した人間が苗字を変えるため、協議離婚中の相手から子供を取り上げるため等、養子縁組を悪用する例があります。弁護士の間でも、当事者本人確認※のない安易な手続きを改めるべきだという声は多いのですが、残念なことに所管する法務省の腰は重いままです」 

 五月達を乗せたタクシーは、彼女の本籍のある区役所──有栖川家の本籍地である区役所──に向かって走り続ける。

 幸いな事に叔母の橘は、明日の息子の入試で忙しかったのか、五月の養子縁組届はまだ役所に出されておらず、五月側の不受理申出の届出は役所に受理され、防止策は間に合った。

 ※α世界(リアル)では、既に本人確認実施へ改められている。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 家に戻った葛葉老人は、五月達の荷物を受け取るため、一人で京都貨物駅へ向かう。

 五月は、昼にハガキを受け取った時点で、デコを原料元素回収先から瞬間移動で呼び戻し、ハガキに記されたコンテナ番号を元に、貨物駅にある彼女達の荷物を収めたコンテナを探させていた。コンテナ内の五月達の荷物は、その半分程は衣類等身に付ける物や身の回り品で占められ、次に父親の形見となった仕事・趣味の品々(ホームパーティ用の陶磁器皿、絵画、自転車)等であった。

 コンテナを探しあてたデコは、透過で内部に入り込み、五月が不用と判断した品々を亜空間収納で回収し、α世界の文明の証”Am○zon”の巨大物流倉庫から冷蔵庫、オーブントースターやミシン等を再現して、置き換えた。

 葛葉老人は、手配した三輪トラックと人足により、京都貨物駅からコンテナ内の荷物を堀川通に面したS神社前まで運ばせる。葛葉家への脇道は、三輪トラックが直接乗り入れるには狭いため、荷物をリヤカーに載せ変え、葛葉家の一階の空き部屋(有人用に用意した部屋)に運び込んだ。

 五月は、翌日の葬送式後に父親の友人達へ形見分けできるようにと、荷物整理に夜まで追われることになった。

 昨日よりも銭湯に行く時間が遅くなった結果、五月は銭湯で若いお姉様方の下着姿とおっぱいの鑑賞という幸運に出会う。中身はエロイ親父でも、五月の外見は人形のように美しい子供なので、あざとく愛嬌を振りまき、お姉様方のスキンシップを楽しむ。少々残念なことは、この時代の日本人女性のおっぱいサイズは、大半がお姉様方と同じAカップであり、ロケットおっぱいをパフパフする夢は叶わずであった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 2月1日(土) 

 五月は、昼前までに帝都近郊の英国国教会の霊園で行なわれた両親の埋葬──父親の遺骨と母親の遺髪を一緒に墓に収めた──を終え、父親の友人である榊、鳳及び紅井夫人と共に葛葉家へ戻った。

 一端自分の部屋に戻った五月は喪服を着替え、その間に父親の友人三人は、今日も休業したカフェ店内で、葛葉老人が淹れたコーヒーを味わってくつろぐ。

 その後三人は、五月に案内されて形見分けの品が置かれた部屋へ向かう。

 部屋の手前には、前日の夜、五月が形見分けに向きそうな品を集めており、有人の趣味であった油絵作品十枚程が壁にもたせかけられ、中央の机には、レコード、万年筆及び写真アルバム等が置かれていた。

 「この部屋にある品から、父様の形見をお選びください」

 五月の言葉を受けて、紅井夫人や榊は油絵の方に向かうも、鳳は片隅に置かれていた小径車輪自転車──英国で最近発売され有人が購入してもの──に張りつき、自転車のパーツに触れ熱心に観察を始める。

 「……そうか! 車体フレームがダイヤモンド形でなくてもいいんだ! この(F字を垂直反転し右斜めに傾けた)フレームならば、格段に跨ぎ易い新商品が開発出来るぞ!」

 興奮気味な鳳は、直ぐに五月に形見分けの了解をもらうと、操作性と乗り心地を確かめると言って、自転車を外へ持ち出してしまう。その怒濤の展開に、五月はしばし目をパチクリくするも、榊や紅井夫人は、やれやれという顔で笑いあっていた。

 五月が、鳳の行動の訳を訊ねると、

 「鳳は、自転車が大好きで、新しいものに目がないんだよ」

という答えが榊から返ってきた。一応納得した五月であったが、鳳と再会した時の疲れた表情──目の下にクマあり──や新商品開発という言葉が気になり、その訳を尋ねると、榊と紅井夫人の顔が曇る。

 「……急きょ社長を引き継ぐことになった会社建て直しで、色々と苦労しているみたいね」

 紅井夫人の説明を聞き、五月は鳳の会社の経営状況を知りたくなり、彼の自転車製造販売会社に関連する情報を、脳の生体分子素子メモリーに保存済みの新聞データを補助脳コンピュータで検索・分析する。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 (国内の自転車市場は伸びず、輸出台数も減少。好景気で、資材も高騰して製造コストは上がっているにも関わらず、小売り価格はほぼ横ばいのため、利益があげられない体質に業界が陥っている……そんな状況下で、業界中堅の鳳の会社は、急速に業績が悪化。更に不運なことに社長であった鳳の兄が急死して、急きょ社長を継いだという訳ね……)

 (今まで目にしたβ世界の自転車は、色はほとんどが黒系で、頑丈・無骨そうな実用一点張りのファッション性に欠ける車体。ああ、そう言えば前籠も前照灯もなかったわね……値段も大卒初任給よりも高い、約一万七千円以上もする。所有したら、毎年地方税を払わないといけない……売れない要素があり過ぎだわ)

 (元いたα世界で街に溢れるママチャリの光景を良く知る私が、自転車の新規需要を開拓するとしたら、大きな潜在的需要層である女性が狙い目ね……購入ネックは、男尊女卑社会の影響で、男の家長が購入決定権を握っていることか……)

 五月は、父親の古い友人ということで信用できそうな鳳を、モノリスの依頼遂行のための協力者にする機会と捉え、乗り易さとコストパフォーマンスを磨いたα世界のママチャリ開発を提案することに決めた。榊や紅井夫人が、形見分けの品選びをしている間に、五月は自室に戻り、ママチャリのイラストと商品化計画概要を作成する。と言っても、五月は生体分子素子メモリー内の情報から適当な絵を選び、補助脳コンピュータで思考をテキスト化し、放出したナノマシンでインク粒子を操って紙表面に定着させる方法により、余り時間をかけずに作成する。

 漸く鳳が、路上での試乗を終えて、葛葉家に再び顔を出す。はやる気持ちを隠せない鳳は、形見分けの小径車輪自転車を直ぐに会社に持って行くと言って、五月達に慌ただしく別れの挨拶を告げ出て行こうとする。しかし、五月に呼び止められ、たたらを踏んだ鳳は、彼女から一通の封筒を差し出される。

 「鳳のおじ様に、きっと興味の引いて頂けるものです。時間が出来たときにでも、ゆっくりと見て下さい」

 ニッコリと笑顔で話す五月の手から、鳳は手早く手紙を受け取ってポケットにしまい込み、急ぎ足で葛葉家を去る。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 東大阪の会社に戻った鳳は、開発課の部下と共に形見分けの小径車輪自転車を分解し、分析と議論を徹夜で行なうことになった。

 徹夜明けの鳳が、思い出した頃に五月の手紙を取り出し、二枚の紙に見て、大いに驚くことになる。

 一枚目のイラストには、軽快車と名付けられた、おしゃれな色の自転車で買い物をする主婦の姿が描かれていた。所々に機能を説明するコメント──長いスカートのまま楽に乗れるU字形フレーム、後輪巻込み防止用のドレスネット、低重心でバランスが取り易くなる低いサドル・ペダル位置とV字形アップハンドル、小回りのきく小径車輪、便利な大きい前籠等──も記されていた。

 二枚目には、商品化計画概要──都市近郊の人口増加で買い物距離が伸び女性用自転車の需要が高まっている商品化背景、従来品より軽く女性でも乗りやすい商品コンセプトと特徴、購入し易くする月賦制度導入や花嫁道具とのセット販売手法等──が書かれてあった。

 鳳は、五月の提案をたたき台にして、軽快車(α世界のミニサイクル)商品開発と販売展開を試みることにした。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 鳳が、葛葉家を辞した時に、時間を巻き戻す。

 形見分け品について、紅井夫人は油絵二点と写真一枚を選び、榊は油絵一点とレコード数枚を選んだ。国会議員である榊は、半ドン(午後半休)の土曜日にも関わらず、次の仕事の予定があるということで、鳳の後を追いかけるように葛葉家を去って行った。

 最後まで残っていた紅井夫人が、葛葉家を辞するということで、五月が家の前まで見送りに出た所、何故か夫人の小脇に抱えられて、迎えに来た黒井の運転する外車に乗せられ、連れていかれてしまう。なお、葛葉老人は、騒ぐこともなく笑顔で、それを見送る。

 五月が紅井夫人に連れて行かれた先は、帝都一番の繁華街にある有名百貨店であった。

 五月と手を繋いでニコニコ顔の紅井夫人は、運転手である黒井を従え、エレベーターに乗って婦人服売り場(子供服売り場もその一角にある)のある三階へ上がる。

 婦人服売り場には、舶来品のオーバーコートやレーザーコートが多数並んでいた。舶来品が多いのは、豊かな欧米に対する帝国民の憧れに加え、帝国内の資本の自由化により、この百貨店が米国系資本に支配されているのも一因であった。

 元々帝国は、成立当初から外国による支配を危惧して、外国資本の国内参入を認めない風潮があった。しかし、大東亜戦争の敗戦により、米軍が帝国を占領し、帝国経済がほぼ復興した占領末期に、占領軍は閉鎖的な帝国の市場解放するため資本の自由化政策を断行した。肥え太らせた豚をディナーにするが如く、財閥系を除く成長が見込める企業が、幾つも米国系大資本に支配されて行くことになった。

 閑話休題。

 五月は、婦人服売り場を歩きながら、α世界と違って吊るしの既製服の売り場が少なく、逆にイージーオーダーメイド物やオーダーメイド物を扱う売り場が多いことに気がつく。五月が、既製服が少ない訳を紅井夫人に訊ねると、どこの百貨店でも大半は両オーダメイド物の売り場であり、既製服物が多い百貨店でも売り場は三割程しかないとのことであった。何故、既製服のシェアが低いかと言うと、両オーダーメイド物でも工賃が安いことや、既製服のサイズがMとLの二種類程しかない──同じサイズでもメーカーによっても大きさが異なる──こと、更にデザインも色のバリエーションも乏しいために、自分好みでかつ体型に合う既製品がないことが原因だそうだ。

 東京のある有名百貨店では、女子大学生の裸体実測定値、イージーオーダーメイド物の採寸値等膨大なデータを元に、既製服のオリジナル六サイズを昨年発表しており、近い将来、既製服の時代が来るだろうと、紅井夫人は持論を語った。五月はある意味、既製服が大半なα世界の未来情報をカンニングする形で知っていたが、それを知らない紅井夫人の先見の明に感嘆を覚えた。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 紅井夫人と五月が、女性店員に案内された先は、会員限定サロンの一室であった。クリーム色の壁紙、花・鳥・草木がぎっしりのペルシア絨毯、豪勢な生け花の飾られた花瓶、西洋のアンティークな猫脚のテーブルと椅子が少数置かれた上品な室内は、上客がプライベートに買い物をする専用の部屋であった。

 席に座った紅井夫人と五月に、良い香りの高級紅茶が出され、衣装をコーディネートをする女性店員が、紅井夫人からの要望と五月自身の好みを聞き出す面談を行なう。女性店員は、五月が滅多に見られないレベルの美少女で、メリハリの乏しい子供体型であるものの、細身で手足が長いモデル体型要素を備えており、やる気に満ちていた。

 (可愛いというには微妙な……)

 コーディネート担当の女性店員が、用意した洋服、コートや小物等の見本を並べて見せられた五月の第一印象であった。

 元いたα世界では、S○ドール(娘)の衣装を自前で作り、写真を撮る趣味のあった五月の中の人には、並べられた見本のほとんどは、デザインや色的にチェンジ宣言したくなる物であった。

 (熱心に選んでくれた店員さんの面子丸潰れは、流石に可哀相だし……我慢できるレベルの洋服とコートを各一点に絞り、後は小物と生地を貰って自作しましょう)

 コーディネート担当の女性店員が、沢山の見本の中から順番に洋服を五月の身体にあてがって、紅井夫人や五月の感想を聞いて、候補を絞り込む作業が始まる。

 五月の中の人は、自分が着たいではなく、ドールのあの娘に着せたい服を選ぶ感覚で見本を評価していたのだが、五月の素材となった少女の着飾りたいという女の本能の浸食の影響なのか、いつしか女の子スイッチが入って、評価の基点が逆転してしまう。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 揺れ動く長い銀髪のツインテール、明るいピンクのワンピースの上には、ヒラヒラのフリル付きの白いエプロン、足元はシマシマ模様のソックス、赤い革靴──不思議な国のアリスのような衣装の五月が誕生した。

 「まあ、可愛い!」

 紅井夫人が、感激して顔の前でパチパチと拍手する。一方、誉められた五月は、はにかみながらも嬉しそうな顔でくるっと回り、そしてスカートの裾を両手でつまみ、膝を軽く曲げ、淑女らしい仕種で紅井夫人に挨拶をしてみせる。

 五月が、ここまで女の子が出来るようになったのは、沢山の見本を相手に自分が着たい服を選ぶ楽しみに目覚め、抵抗──男の意識が邪魔して、女の子の服を着ることへの羞恥心──が、綺麗さっぱり消えてしまったのが二番目の理由。そして一番目の理由は、五月のリクエストに女性店員が凄技で応えた結果、更衣室の姿見に映る”ルリ”の可愛らしさに感動し、自己陶酔してしまったためである。

 (フッフフフ……髪形や衣装で、他人がルリの振りを解消出来るとは! 女って本当に化けるのね──くーっ! 可愛い服を着た生ルリルリ、最高ーっ!)(>﹏<)

 五月は、紅井夫人からプレゼントとして貰う立場なので、あざといぐらいに愛らしい笑顔と色々なポーズ(ピンで仮止めなので、動ける範囲に限度はあるが)をとってみせるサービスを発揮する。部屋の片隅に控えていた運転手の黒井が、何故かカメラマンとなってパシャパシャと撮影しまくる。

 洋服の次に、五月は襟と袖口に白いふわふわのファー(狐の毛)がかわいいコートを着て、洋服の時と同じように楽しんだ。

 五月は、一か月後に出来上がるオーダー物二点を楽しみにしつつ、ホクホク顔でプレゼントの小物や生地と一緒に、葛葉家に帰ることになった。

 なお、カメラマン黒井の撮った五月のポーズ写真の数々は、紅井夫人の宝物となり、一部の写真は大きく引き伸ばしてパネルに加工され、紅井家の邸宅のあちらこちらに飾られることになる。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 2月2日(日) 

 英国国教会の日曜礼拝から戻って五月は、午後、二人の客の訪問を受ける。

 葛葉家の一階の居間に通された二人の客──中年女性と使用人らしき壮年の男が、丸いちゃぶ台(四本脚の座卓)を挟んで五月と葛葉老人と対面する形で正座していた。五月の鼻には、中年女性の身体から発すると思しき香水のきつい臭いが届き、気分が悪くなるも顔に出さないよう我慢する。

 中年女性は、五月に優しげな笑顔を向けるも、その目は笑っておらず、獲物を見る目をしていた。

 「貴方が、弟(有人)の娘の五月なのね……私は叔母に当たる橘正美です……墜落事故に巻き込まれ、亡くなった弟のことは残念でしたが、貴方だけでも助かって良かったわね……新聞では奇跡的だとか?」

 「ありがとうございます。私がこうして生きていられるのは、救出に尽力して頂いた方々のお力もありますが、父様がずっと私の身を守ってくれたからだと思います……それと、遠い診療所まで駆けつけ、私を励ましてくれた葛葉のおじい様のお蔭だと感謝しております」

 五月の暗にお前は何もしていないと皮肉る言葉に、橘は一瞬片眉をつり上げるも、作り笑顔を保つ。

 「……ごめんなさいね。私も直ぐに駆けつけようとしたのよ。でも、勘当した弟に二度と関わるなと、父上からきつく止められていて……」

 すまなそうな顔を作って、言い訳をする橘であった。

 「でも! 一人残された貴方のことが心配で、私は頑張って父上と夫を説得して、貴方を引き取ることを認めさせたのよ……私の夫は○○会社の社長をしており、ここと違って大きな屋敷で──そうそう、上流の方々をお招きしてパーティも度々開いており、貴方も着飾って出席したら楽しいわよ──、こんな貧相な家を出て、今日から私の家に行きましょうね」

 満面の笑みを浮かべた橘が、猫撫で声で五月を誘う。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 「申し出は、お断り致します」

 五月は、そっけない口調で誘いを断る。

 「な、何を言っているの!? 断るなんておかしいでしょ!」

 断られるとは微塵も思っていなかった橘は、信じられない表情をする。

 「ここでの暮らしに、何一つ不自由しておりませんので」

 「?! ……言っては何ですが、名家の有栖川家の縁者が暮らすには……この家は相応しくありませんわよ」

 橘は、居間にある置物や飾り、壁や天井の各所に目をやり、蔑むように薄ら笑いを見せる。

 「趣があって、落ち着いて暮らせる良い家だと私は思いますわ」

 「ホホホッ……そう言えば、貴方は日本に来るのが始めてということを忘れていましたわ。家や調度品の善し悪しが分からないのも仕方ありませんわね……この家は使用人風情が暮らす庶民の家で、この辺りの土地は、そういった貧乏人が寄り集まった長屋街なのよ」

 「父様が住まいに選んだ街ですから、問題のある街だとは思えませんが? 挨拶回りをした時も、この街の方々は実に親切そうな人達でしたし、近くに商店街もあって、生活に適した所だと思いますわ」

 「あらあら……生まれの卑しい女の子供だからかしら? ──それとも、上流階級に相応しい躾けを愚弟が怠ったからかしら……引き取った後が大変そうだわ」

 橘は、やれやれといった表情で深いため息を漏らす。一方、五月の表情は、見る見る間に険しいものになって行く。

 「橘様! 生まれの卑しい女と、母様を侮辱した言葉を取り消して下さい!」

 怒気を孕んだ五月の言葉に、橘は身体をビクンとさせる。

 「な、何よ! 本当のことでしょ──親も知れぬ孤児院育ちの女なんだから」

 「卑しいか否かは、その人間の心の品性の問題です! 名家に生まれたからと言って、心の卑しい者は何人もいます……母様は、孤児院で育ちましたが、本当に心優しく、父様や私を始め沢山の人達から愛されていました……私に言わせれば、父様の遺産を入学の寄付金に充てるつもりの橘様の方が卑しいと思いますわ!」

 子供の五月に反論され、更に思惑も指摘された橘は、顔を赤くしてプルプルと震え出したと思ったら、スッと立ち上がって五月に歩み寄る。

 「私が卑しいですって! 何て無礼千万な子供かしら! 外国かぶれの愚弟の子は非常識この上ない──躾けも出来ていない子には、お仕置きが必要ね!」

 橘は、甲高い声でそう叫びながら、振り上げた右手で五月の頬を叩こうとするも、五月に右手を掴まれ、逆に捻られて畳の上に転がってしまう。

 「キャー!」

 「奥様!」

 壮年の男が叫び、慌てて橘の元に駆け寄り、彼女を抱き起こす。橘は、起き上がるのを手伝う壮年の男の手を乱暴に払い、般若のような恐ろしい顔をして五月を睨み付ける。

 「目上の者に手を出すとは、何のつもりですか!」

 「躾けを騙る、不当な暴力から身を守っただけですわ」

 「キィ──ッ! この鬼子が!」

 そう叫んだ橘は、五月に飛び掛かろうとするも、透明化して待機していたデコの亜空間収納によって神経に流れる電気信号を奪われ、身体を金縛り状態にされる。

 「!? ……」

 更に橘は、眼前に巨体のツキノワグマが出現し、猛々しく吼える恐ろしい映像を体感させられる。それは、五月が出会ったツキノワグマの記憶映像をナノマシンのメモリーに転写して体外に放出し、そのナノマシンは橘の眼から視神経に侵入して、件の幻覚を強制的に見せつけているのである。

 瞬き一つ出来ず、声帯も封じられた橘は、ただただ、心の中で恐怖に震え悲鳴を上げ続けて、二十秒もしない内に、立ったまま気を失ってしまう。

 失神した橘は、壮年の男に抱き抱えられ、葛葉家から出て行くのを、五月は満足げに見送った。

 (……あの女の視神経に寄生させたナノマシンが、私と熊さんの映像を交互に一か月程に見せつけ、サブリミナル効果で潜在意識に私を忌避する感情を植えつけることで、後見人選定の邪魔はされないでしょう)

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 2月3日(月)

 葛葉老人が、昨日の夕方買った塩漬けイワシを朝から焼いて、それを何故か皿に乗せた家のあちこちの部屋に持って回る。

 五月が、何故そんなことをするのかと葛葉老人に尋ねると、節分の日には、塩漬けのイワシを焼いて、家中に臭いと煙を充満させると鬼や疫病を退散させるという謂われがあり、門にもイワシの頭を柊の枝で刺したものを立てかけるのだと教えてくれた。

 また、節分にイワシを食べると、その臭いで鬼が逃げるという信仰から、"イワシの頭も信心から"という諺が生まれたとのことであった。

 葛葉老人が、久し振りにカフェを再開すると、昼前から馴染みの客で店は満席となり、コーヒーの良い香りが、二階にある五月の部屋にまで漂って来た。鰯の臭いより断然コーヒーの方が良いと思った五月は、教科書の自宅学習──実は、国会図書館の蔵書情報を元に帝国の状況を頭の中で分析──を中断する。

 それから五月は一階に降り、昨日の内に仕込んで、デコが再現した冷蔵庫に冷凍しておいたパンをオーブントースターで焼き上げ、彼女は満席の客に挨拶方々、塩パンをプレゼントして回る。

 客の多くは中高年の男性で、近所だけではなく遠くからわざわざ足を運んできた人もおり、西洋人形のように美しい外人の五月が、流暢な日本語で愛想良く挨拶すると、客は皆目尻を下げる。

 五月が配った、見たことも聞いたことも塩パンに対して、客は少し戸惑うも、その香りの良さに惹かれて一口食べる。皮はサクッ、中はもちっとした歯ごたえと上品な美味しさに、客の皆は目を丸くして、あっという間に食べてしまう。客達は、口々に塩パンを絶賛し、コーヒーに合うパンとして店の定番メニューに加えることを葛葉老人に求め、メニューに加えることを葛葉老人は約束する。

 客の一部が、塩パンを土産に欲しいとリクエストして来たが、五月は、数が多く用意できないため、店内限りということで断らさせてもらった。

 客の反応の良さから、五月の思惑通り、塩パンを目当てにカフェの来客数が増え、結果的にモノリスの依頼遂行の協力者候補が見つかるかもと、彼女は内心期待を膨らます。

 


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