β世界に生きる   作:銀杏庵

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07 弁護士

 1月29日(水)

 盆地で底冷えする帝都の冬の朝は氷点下にもなる。空が白み始める前の寒さが一段と厳しい中、五月は冷蔵庫等の再現に必要な不足原料元素が期待できる近隣の鉱山にデコを派遣する。

 五月の方は、朝日が昇り、人々が通勤ラッシュとなる頃、白い息を吐きながら葛葉老人と一緒にとある弁護士事務へ向かう。

 五月と葛葉老人が、雑居ビル二階の弁護士事務所の中に入ると、スーツを着た五十歳代の女性──光月が入り口近くで二人を出迎える。

 光月は知人である葛葉老人と簡単な挨拶を交わし後、来客の二人に応接用のソファへかけるように勧め、眼鏡をかけた若い女性の事務員にお茶の用意を頼む。

 光月は、すぐに依頼内容に入ることはせず、寒さで身体が冷えている客の二人の身体が、お茶と石油ストーブで温まるまでの間、自己紹介と談笑を交わす。

 「そろそろい良いかしら。昨日、葛葉さんからお電話でご連絡頂きました、五月さんに関する相談内容について、詳しくお聞かせください」

 光月の催促を受けて、ローテーブルを挟んで反対に座る葛葉老人が、相談内容──未成年である五月の後見人手続き、遺産相続手続き、帝国航空機墜落事故に伴う賠償交渉──を語る。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 葛葉老人の説明を聞き終えた光月は、次に五月に対して幾つか確認のために質問を行った後、用意しておいた書類をローテーブルの上に広げて、葛葉老人達へ説明を始める。

 「未成年後見人は、家庭裁判所に申立てを行い、裁判所で審問・調査・審判により選任される必要があります。今回の場合、葛葉さんを後見人候補者として申立ては可能ですが、葛葉さんが必ず選任されるとは限りません」

 「「?!」」

 「家庭裁判所は、未成年本人の意向以外にも、親族の意向も踏まえて選任者を審理する決まりです。裁判所から見て葛葉さんは、彼女の親族でも利害関係人でもない単なる知人でしかなく、先ずは親族の中から後見人選定を考えるのが通例だからです」

 「でも……父様は実家から勘当されており、私も縁が切れている身の上になるので、親族が選ばれることはないのでは?」

 「勘当は、単に付き合いをしないと宣言しているだけで、法律的には五月さんと実家の親族関係は存続しています」

 「そうですか……でも、父様は絶縁された以降、実家の親族とは一切交流がないとのことでしたし、あるい意味赤の他人の子である私の後見人を、絶縁先の親族が引き受けるとは思えないのですが?」

 「少し回り道な話になりますが……未成年後見人の家庭裁判所での審理は、一か月程度で結論が出る場合もありますが、事案内容によっては三か月以上かかるものもあります」

 「長くなるのはどういう場合ですか?」

 「親族間で、未成年の財産管理を誰が行なうかで揉める場合です……下世話な話になりますが、五月さんのお父上は高給取りの外交官であられたので、遺産はかなりの額になるはずです。そうなりますと、勘当を申し渡した当主以外の親族の中から、五月さんの後見人に複数名乗り出る可能性があると思います」

 「長年弁護士業をやっておりますと、公家の方の依頼を受けることがありますが、武家に比べて財務基盤の弱い公家の御家では、相続でもめることは少なくありません」

 「つまり、私の後見人になって、財産管理者の立場を悪用し、父様の遺産を食い物にする懸念があると?」

 「そうした不正がないように、家庭裁判所が後見監督を行なっているのですが、後手に回ることが少なくないですね」

 光月は残念そうな表情を浮かべる。五月は、遺産トラブルに巻き込まれるかもしれないことに憂鬱な気分となる。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 「墜落事故に伴う賠償交渉に関してですが、近い内に帝国航空から示される賠償和解案を検討し、不満があれば会社と交渉し、それでも駄目なら裁判に訴えることになります。通常、裁判を起こすには、訴える側が相手側の過失と事故の因果関係の立証が必要であり、飛行機墜落事故のような場合、個人で行なうのは極めて困難です」

 「しかし、今回の事故は、国際航空事故における航空会社の責任を規定した国際条約に従うため、条約では航空会社側の過失推定主義を採用しており、訴える側の因果関係の立証は不要なので、訴訟を起こすことは比較的容易です」

 「国内線の飛行機事故でしたならば、外交官であられたお父上の生涯所得に対する損害賠償として高い額を請求することが可能でしたが……今回の場合、条約で定められた損害賠償責任の上限は、約百四十万円と低い額に抑えられてしまっています」

 「父様の死に対する償いが、たったそれだけなんですか?!」

 光月の告げた国際的な取り決め額の低さに、驚愕する五月であった。

 「問題があるということで、上限額を二倍にする等の改定が近年行なわれましたが、残念なことに我が国は二年経っても未だに改定した条約を批准していません。今回の事故の被害者には外国人も多く、各国から強い非難を浴びて、政府は批准に向けて動き出す一方で、噂では帝国航空に改定条約の倍増した上限額で賠償に応じるよう働きかけているそうです」

 「(このβ世界の政府も、相変わらず外圧に弱いのか)……」

 「次に五月さん自身への賠償についてですが、記憶障害を除くと身体に表立った怪我を負っていないということなので、帝国航空は見舞金程度の額しか応じることはないと思います」

 「そんな! 墜落で死の恐怖にさらされた精神的苦痛に対する慰謝料は、加味されないのですか?」

 不満そうな顔をした五月が光月に訊ねる。

 「残念ながら民事訴訟の判例でも、肉体的な障害に比べ、精神的苦痛に対する慰謝料は、限定的でかつ極めて低い額しか認めていません」

 「(帝国航空から高額の賠償を得るのは難しいか)……」

 契約等に法定代理人の了解が必要な身の上の五月としては、表立って使えるお金を少しでも確保したいという思惑が外れて内心ガッカリする。

 「いずれにしろ、五月さんが未成年であるため、相続や賠償等といった法律行為に着手するには、法定代理人となる後見人が選定されてからとなります」

 求められた説明を終え、光月は入れ直されたお茶で喉を潤し、向かい側の二人による話合いを静かに見守る。

 葛葉老人は、五月に最終確認を取り、未成年後見人の選任に関する申立手続きを光月に依頼した。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 光月弁護士事務所を辞した葛葉老人と五月は、小学校入学のために学区内の小学校を訪れていた。

 「そうですか……とても辛い思いをされたのですね……悲しみから立ち直れるように、学校で友達作りや勉学に励めるように配慮が必要ですね。保護者未定の件については、葛葉さんを仮の保護者として、有栖川さんの当校への入学を認めたいと思うのだが、教頭先生どうかね?」

 五月の境遇に同情的な校長が、隣に座っていた気難しげな教頭に話しかける。

 「反対ですな! 教育委員会の定めた規則では、当校の生徒になる者には保護者が必須となっており、未成年者に対する法的権限のない者を保護者と扱うのは明らかに規則違反」

 「教頭先生、そうは言うが……一か月も学校に通えないのは、子供にとって可哀相ではないか。教育者として配慮をしても良いと思うのだが」

 「校長! 我々は教育者である前に、法令を遵守しなければいけない公立学校の公務員なのですよ。校長自らが、教育委員会の規則を破ろうとするなど言語道断ですな!」

 「それに、英国人の学校に通っていたその子供(五月)は、日本の学習指導要領に基づく教育を受けておらず、学力不足は明らか! 多少日本語の会話ができるからといって、学力のない状態で入学させても授業についていけず、クラスの授業進行の足を引っ張る問題児になるのは間違いないですな!」

 教頭は、蔑む色を浮かべた眼で五月を見ながら、口汚く言い放つ。

  一方、五月の方はと言うと、顔色一つ変えず、

 (こういう輩は、反論する程反発するからスルーが基本ね)

と内心で思いつつ、教頭の言葉を右から左に聞き流す。

 その後も校長と教頭との間でやり取りが行なわれたが、教頭の反対により校長は、五月を二月から入学させるのを諦めた。なお、五月の学力を心配した校長は、彼女が入学できるようになるまでの間、同い年の生徒の学力に追いつくために、自宅学習用に教科書を貸し出してくれることになった。

 この結果に五月は全く不満はなかった。五月にとって学校は、交友関係を広げる場でしかなく、教科書の内容を学習する授業時間は無為に拘束されるだけであり、直ぐに入学したい気持ちがなかったのである。五月には、補助脳コンピュータと生体分子素子メモリーという裏技があり、既に確保できた空きメモリーに貸出教科書を情報体(データ)として保存すれば、同学年並の学力を備えることは簡単であった。それ故に、一か月以上もありそうなモラトリアムの時間を、五月は自宅学習の振りをして、帝国の社会・経済・軍事・科学の分析に充てることを考えていた。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 昼食を外食で済ませた五月達が、市電に揺られて帝国大学付属病院に向かう途中、時計台のあるノッポな建物が窓の向こうに姿を現した。

 「?! 葛葉のおじい様! 葛葉のおじい様! あの時計台のある建物は、父様が通っていた帝国大学ではないですか?」

 小さな子供がはしゃぐような感じて、五月は窓の外を指さしながら、隣にいる葛葉老人に振りむいた。

 「ええ」

 そう返事した葛葉老人は、二月からの小学校入学を断られ、落ち込むことなく明るい五月の様子に顔をほころばす。

 五月は、窓の外の大学の建物をもっと良く見ようと、市電の座席に膝立ちして、窓ガラスに顔を張りつける。天河村で紅井達が、五月に楽しそうに語った父親の思い出の地である大学を目の前にして、彼女の眼は興味津々な光が溢れていた。

 五月が、大学の校門周辺を熱心に見ていると、意外に多くの黒い詰め襟学生服を着た者が、門を出入りしていることに気がつく。私服姿の者もいることはいるのだが、彼らは学生服の者が近づくと脇に寄り道をあける光景がしばし見受けられた。五月の元いたα世界の記憶に照らして、大学で学生服を着ているのは応援団ぐらしか思い浮かばなかったが、数が多すぎることに五月は疑問を感じた。

 「葛葉のおじい様、あそこの門を出入りする方々は、帝大の学生さんですよね? 帝大は、詰め襟学生服を着るのが正式なのですか?」

 「あの詰め襟学生服を着ているのは確かに帝大の学生で、武家又はその縁者の家の子弟達です。昔からの習慣として男子は、武家関係者は詰め襟の学生服を着用し、そうでない者は学生服を着ないというのが、暗黙のルールとのことです」

 「そんなルールがあるのですか。服装ぐらい自由でも良いように思えるのですが?」

 「同じ学生とは言え、この帝国では、武家とそうでない者との間には、隠然とした身分差があります。誤って武家の子弟に失礼を働いたら大変なことになりますので、服を違えることは不幸な行き違い防止に必要なのです」

 五月は、暗黙のルールの理由を知り、なる程と思いながら、内心懸念を覚えた。

 (暗黙のルールは、服だけではないでしょうね。成人前から特別扱いが当然だという意識を助長することになり、人格馬鹿を増やすだけな気がしますが……)

 五月は、大学の校門から遠ざかりつつある市電の窓から、歩道を歩く学生達を見ている中で、更に疑問を覚える。

 「葛葉のおじい様。帝大は、女性の学生の方は少ないのですか?」

 「残念なことですが、この国は男尊女卑が根強く、女性の大学進学は親が認めないことが多いです……しかし、数は少ないですが、紅井夫人や光月弁護士のように、帝大を優秀な成績で卒業された方もいますよ」

 「そうですか(逆ハーな環境で人脈作りは捗りそうですが、大学内も男尊女卑がはびこっているなら、過ごしづらいかもしれませんね)……」

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 市電が、帝大の敷地前の通りを過ぎると、半球形(ドーム)の屋根が特徴の大きな建物が現れた。

 「葛葉のおじい様、あの丸い屋根の建物は何ですか?」

 「ああ、あれは国会図書館です。帝国で流通する全ての出版物はあそこに納本されるそうですから、帝国一の蔵書量を誇る図書館ですよ」

 「それにしては、建物は高くなく本を沢山収蔵しているように見えませんが?」

 「ああ、それは地下にも書庫があって、そちらの方に沢山収蔵しているからです。温度や湿度の変化が少ない地下の方が、本の保存には適しているのだそうです」

 「そうなんですか」

 (帝国一の蔵書量なら、帝国の社会・経済・軍事・科学を分析する基礎データに丁度良いわ。生体分子素子メモリーに十分な空きが出来たら、デコに国会図書館を丸ごと亜空間収納で情報体(データ)化──刹那で再現により元通りにしてバレないように──させましょう。情報体してしまえば、私の補助脳コンピュータに自動プログラムを走らせ、分析テーマ毎に私の生体分子素子メモリーに保存し、いつでも、どこでも、分析OKになるわね)

 五月は一人嬉しそうに微笑む。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 帝国大学付属病院を訪れ五月達は、紅井の手配のおかげで、直ぐに医者の元へ通された。

 五月達が、脳神経科の診察室に入室すると、四十歳代の男の医師が机に向かってカルテを書き込んでいた。書き終えた医師が、視線を五月に振り向け、美しい西洋人形のような五月に暫く見とれてしまう。看護婦の咳払いで再起動した医師は、診察に取りかかる。

 医師は、五月から事故前の記憶欠損に関する症状を事細かく聞き出してカルテに書き込み、その後精密検査前の準備として、彼女の体調に関する問診及び触診を行う。

 医者の触診に当たって、五月は着ているものをパッパッと脱ぎ、上半身裸になる。天河村の診療所の時と同様、未だに男の意識の残る五月は、今回もチッパイな胸を異性の目にさらけ出すことに羞恥心が働いていなかった。胸に当てられた聴診器が、こそばゆいとしか思っていない五月には、まだまだ女の子への道は遠い。

 五月の脳の精密検査は、帝大で開発されたばかりのエックス線回転横断撮影機──エックス線管を少しずつ回転させ、人体内部の断層を撮影する、CTのさきがけのような機械──で行なわれた。

 五月は、コンピュータなしのアナログな手法で、ここまで出来るようにしたβ世界の技術者の創意工夫に感心する。しかし、いざ撮影が始まると、五月は長時間に渡って頭・胴体・四肢をがっちり固定された苦痛で気分は最悪になる。

 医者から検査結果の説明は一週間後と言われ、五月達は病院を辞する。病院を出ても不機嫌な様子の五月に、葛葉老人は近所にある和菓子屋に彼女を連れて行く。独特のニッキの香る、餡入り生八つ橋の美味しさに、あっさりと機嫌が治るチョロい五月であった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 五月達が、御所の近く──鴨川の反対側──にある英国国教会の教会に牧師を訊ね、父親の葬送式の件で依頼を済ませて外に出ると、既に夕闇が迫っていた。葛葉老人が、近くに寄ったついでに、帝都の台所と呼ばれる錦市場へ食材の買い出しに五月を連れて行く。

 錦市場は、東西約三百九十mの錦小路通に、元々の始まりである魚を始め、野菜、漬け物、乾物等の食材を扱う店が百軒以上も建ち並んでいる。卸売市場(しじょう)としての機能は、琵琶湖運河の建設に伴う、桂川と宇治川の合流地帯に整備された中央卸売市場へ移行したが、錦市場は庶民の身近な市場(いちば)として存続した。

 錦市場は、夕食の食材買い出しに来た人々で溢れ、葛葉老人に手を引かれた五月は、各商店の店先に並べられた食材の豊富さと、店員の掛け声の元気さに、流石は帝都の台所だと感心する。

 葛葉老人が、とある魚屋で足を止めて、三十cm前後のクロダイを店主と値段交渉を始める。店主の話によると、今日、旧宇治川でつり上げられた新鮮なものだそうだ。海の魚であるクロダイがなぜ川でつり上げられたのか、疑問に思った五月が店主に尋ねると、運河整備により汽水域(淡水と海水が混在した状態の場所)が旧宇治川まで上がってしまったためだそうである。五月は、大阪湾と琵琶湖をつなげた琵琶湖運河の影響が、意外と生態系に影響を及ぼしていることを知る。

 この日の夕食のクロダイのプリッとした刺身の美味しさに、五月は箸が良く進んだのに対し、葛葉老人は時折箸を止め、何か浮かない表情をしていた。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 1月30日(木)

 葛葉老人は、今日も店を休業し、午前中からどこかに出かけていた。 一方、五月は、昨日小学校で貸し出された五年生の教科書を、二階の自室で学習するように葛葉老人から言われていたが、直ぐにやることがなくなってしまった。五月は、瞬間移動で呼び戻したデコに、全教科の教科書を亜空間収納させ、その情報体(データ)化したものを彼女の生体分子素子メモリーに保存してしまったためである。

 取り敢えず五月は、昨夜デコが再現した空microSDメモリーカードに、頭の仲の生体分子素子メモリーに保存されたα世界の情報の引っ越し作業の続きを行なうも、ナノマシンが自動処理するため本人は暇を持て余していた。

 しかたなく五月は、体外に放出したナノマシンで空中に形成したディスプレイ用スクリーンに、情報体化した社会科の副教材である地図帳を映し、一ページずつじっくり眺めて行った。特に、五月が関心を寄せたのは、地図帳上に記された資源マークの場所であった。

 五月が、地図帳の中東のページを開く。

 「あら? ペルシア湾周辺の油田マークが、湾北部近くのイランかイラクぐらいにしかない……小学校の地図帳だから漏れがあるかもしれないけど、湾中央部近くにあるはずの世界最大のガワール油田(α世界では1948年に発見)が、マークされていないなんて……」

 五月は、その後、地図帳で西側各国の資源マークを確認するも、β世界では未発見の資源地が結構あることが分かった。

 「BETAが地球侵攻し、ユーラシア大陸を始め各大陸を席巻すれば、石油の戦略的価値は非常に高まる。石油以外の軍備や産業に欠かせない非鉄金属類のマイナーメタルも同様ね」

 「BETA大戦は、ある意味鉱物や石油といった資源の消耗戦だわ。技術があっても、兵器は資源がなければ作ることも運用することもできない。資源を押さえた者は、国連や各国の対BETA戦略をも左右することができる……ならば、デコの亜空間収納で各国の戦略的資源を先取り確保すべきね」

 「デコの原料元素回収は、海外の戦略的資源地を優先させましょう」

 「資源があれば人類は百年戦える……偉大なマ・クベ先生に見習うべきね」

 五月は、文机の上に飾られた白い花瓶を指で弾いて呟く。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 昼になっても、葛葉老人は戻ってこなかった。五月は、おひつの冷や御飯とクロダイのあら煮を温め、一人で昼食を取る。

 食後の休憩ということで、五月が二階の自室の窓から外をぼ~っと眺めていると、郵便配達人が自転車でやって来た。

 ポストに投函された郵便物が気になった五月が、一階に降りてポストを覗くと、一枚のハガキがあった。ハガキは、鉄道会社からのものであり、英国から船便で送った五月達の荷物(コンテナ)が、陸揚げされて鉄道で京都貨物駅(京都駅の隣)に到着したので、引き取りに来るようにという内容であった。この時代(α世界・β世界ともに)、一般人を相手にした引っ越し屋も宅配屋もなく、荷物は鉄道の駅に取りに行くのが普通であった。

 五月達の荷物がコンテナで届いたのは、β世界ではα世界(1967年頃から普及)よりもコンテナの普及が早まったのが原因である。

 鉄道や船舶による輸送量の増加に伴い、非効率な荷役を解消しょうと金属製コンテナを部分的に利用する試みは、両世界でも古くから幾つも行なわれたが、メリットを示しきれずに消えていった。

 β世界では、第二次世界大戦における軍事物資輸送のボトルネックである集積・荷役の非効率性を改善するため、米軍は規格化された小型スチール製コンテナ、同コンテナ輸送船や荷役装置を作り、大量に運用した。戦後、コンテナ等が民間へ大量に放出された結果、コンテナを媒体とした一貫輸送体系(コンテナリゼーション)が、西側各国間の貿易で急速に普及する。

 α世界のベトナム戦争においても、米軍の補給物資搬入で港が大混雑する問題をコンテナ導入で改善しており、コンテナリゼーションは兵站改革の決め手と称された程であった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 葛葉老人は、昼をだいぶ回った頃、家に戻ってきてが、昼食も取らずに五月を居間に呼び寄せる。

 渋い表情の葛葉老人は、五月がいれたお茶にも手をつけず、しばし黙っていたが、重い口を漸く開いて、外出及び遅くなった理由を語り出した。

 時間を葛葉老人が、有栖川家を訪れた時に戻す。

 葛葉老人は、有栖川家当主の文人及び長男の春人と面会して、天河村での有人の火葬や帝都の教会で予定している葬儀式のことを説明する。そして、葛葉老人が、候補者となって五月の後見人申立の手続きを行なう旨説明する。

 「何っ! あの敵国人の娘を有栖川のまま引き取るだと──っ!」

 椅子から立ち上がった当主の文人は、顔を赤くして怒声を上げる。

 「わしが命じたのは、勘当した愚息の子をおまえの養子にして、有栖川の姓を捨てさせろじゃ! わしの命令に逆らうか、葛葉!」

 まなじりをつり上げた文人が、葛葉老人を睨み付ける。

 「……五月様のご意志は大変固いため、後見人を引き受けることに?!」

 葛葉老人の発言を遮るように、文人が手元にあった湯飲みの熱いお茶を葛葉老人にぶっかける。

 「ち、父上!」

 文人の横に座っていた長男の春人が叫び、文人と葛葉老人の間をオロオロと視線を往復させる。葛葉老人は、何事もなかったかのように、顔に浴びせられたお茶を布で拭うも、皮膚の一部が赤くなっていた。

 「ご当主様……有人様同様に、五月様も非常に賢く聡明な方であることを、お会いして直ぐに分かりました。五月様ならば、有栖川の名(姓)に恥じぬ功績を「黙れ!」」

 声を荒らげた文人が、怒りに任せて重量のあるガラス製の灰皿を掴んで、葛葉老人に投げつけようとするも、すんでの所で春人が腕を掴んで止める。

 「ええーい! 放さんか! 長年世話になったこの家への恩を忘れて後足で砂をかける、このクズに罰を与えるのじゃーっ!」

 「いけません、父上! 大怪我をさせて警察沙汰になったら、家名に傷が付くだけでなく、(宮内)省での私にも責任が問われることになります!」

 春人が、必死になって背後から文人の両腕を掴み、なだめ続ける。

 何とか落ち着いた文人だったが、その後も五月に名を捨てさせろと執拗に葛葉老人に迫るも、話は平行線が続く。

 それを見守っていた春人が、橘家に嫁いだ妹の養子にさせてはどうかと提案すると、文人は春人に命じて、直ぐに妹を実家に呼びつける。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 数時間後。

 「兄上、明日は息子の学習院高校の外部入試日なのですのよ! この忙しい時に、実家に呼び出すなんて一体何事ですか!」

 派手な化粧をした中年女性──橘正美が、ヒステリックそうな甲高い声を発しながら、応接間に入ってきた。橘は、室内にいる父親に挨拶をするも、文人のただならぬ様子に、揉め事に巻き込まれたことを察し、心の中で舌打ちをする。

 兄の春人に言われて、橘は不機嫌そうな顔をしたまま席に座る。そして、春人は、橘に対して一連の経緯を説明した上で、有人の子(五月)を養子にと彼女に求めた。

 「何で勘当された馬鹿(有人)の子を、我が家で養子にしないといけないんですか! 橘の嫁としてお断り致しますわ!」

 「有栖川の名を守るためだ、正美!」

 文人が、威厳のある声で言い放つと、小動物のようにビクと震える橘であった。

 「ち、父上……でも……」

 「わしに逆らうのか!」

 亀のように首をすくめる橘であった。

 「父上、一方的では駄目です。正美の話も聞きましょう」

 「……ふん!」

 春人にかばわれ、橘が恐る恐る口を開く。

 「息子の成績では、今回が学習院(高校)の外部入学出来る最後の機会なんですの。何としても、学習院に入学させたいので、頂いた父上の推薦に加え、高額な寄付金を確保するため借金を方々にお願いして回っています……今日、私がこちらに顔を出したのも、借金のお願いもあったからですの……そういった事情ですから、とても余所様の子を預かる余裕はありませんわ」

 橘の理由を聴かされた文人も春人も、眉を寄せ困り顔になる。文人としては、有栖川の血を引く孫が、学習院に入学することは名誉なことであり、応援したいところであった。有栖川家は、公家の名家ではあるが、有力武家のように広大な山林等不動産や高額配当の株を大量に持っている訳でもない。しかし、公家の名家、あるいは宮内省の幹部である春人として、見栄を張ることが多いため、家計に余裕がある訳ではなかった。

 「……そうだ! 愚弟(有人)は英国大使館に勤める外交官でしたから、高額な給与に加えて高額な赴任手当が出ており、遺産はかなりの額があるはず。他にも、今回の墜落事故の賠償金も高額になるはずだ……有栖川の家門に泥を塗った愚弟だったが、遺産を有栖川家のために役立てたらどうでしょうか、父上?」

 役人の特権に詳しい春人は、素晴らしい考えだと自画自賛するように笑顔で語る。

 「ふん! 私に逆らった愚か者だが、少しは役立ちそうだな」

 「兄上……どういうことかしら?」

 春人の真意を察することができないでいた橘が尋ねる。

 「正美が、遺産を相続する愚弟の子を養子にして、その財産管理者となって、遺産の金を無利子で借りて息子の寄付金に回し、返済については残りの遺産を橘の家の事業拡張等に充て、得た利益で返済すれば良いということだ」

 「流石は兄上! もう借金の申し込みで、頭を下げて回る必要もありませんわ」

 両手を叩いて、喜びの声を上げる橘であった。

 「そのような財産管理者の立場を悪用する行為は、違法で許されないものです! お止め下さい、皆様!」

 葛葉老人の言葉を、春人は元使用人風情が何を言っているんだと鼻で笑い、

 「親族が助け合うのは、公家の昔からの伝統で当然な行為だ」

と言ってのける。

 兄の話に食いついた橘は、葛葉老人に有人の遺産額に加え、墜落事故の賠償金はどれくらいになるかと執拗に訊ね、また、五月と会えるように手配することを求めた。

 葛葉老人から実家でのやり取りを聞き終えた五月は、後見人選定が揉めるのが確実となり、父親の遺産を狙う親族の出現に頭が痛くなってしまった。

 


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