ナーベラル・ガンマ、生きる黒歴史との逢瀬   作:空想病

5 / 7
 時系列としては書籍七巻、ワーカーたちがナザリックに侵入している真っ只中です。
 ようするに「愛の巣」ですよ「愛の巣」!

 そこで二人はどのような逢瀬を深めていくのか。

 人気投票はナーベラル・ガンマに清き一票を!






第五話 愛の巣

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天幕へと戻って来た漆黒の英雄・モモンは、注意深く外の様子を確認してから、重厚な全身鎧の兜を外し、その白磁の(かんばせ)――骸骨の素顔を外気に晒す。

 

「さて、ナーベ……いや、ナーベラルよ。私はナザリックに帰還する」

 

 暗く深い声音は、目の前で至高の御方々が創り上げた神域へ侵入する者たちへの偽らざる感情が見え隠れしていた。

 それはまさに超越者の怒り。

 凪いだ湖面に秘められた、地獄の釜の底から這い出てくる憤怒の獣。

 神すらも超える至高の御身が身の内に飼い馴らす暴虐の気配の、ほんの断片であると、ナーベラルは理解する。

 

「ここには代わりにパンドラズ・アクターを送る予定だが、それまでの間、何かあった場合はお前の方で上手く対処せよ」

「畏まりました、アインズ様」

 

 至高の御身は緊急の際には連絡するよう命じ、〈上位転移〉を使用してナザリックへと帰還された。

 

「……ふぅ」

 

 鎧を解除したアインズがしたのと同じ吐息を、ナーベラルもまた漏らす。

 緊張状態から抜け出た脱力感が、彼女の総身を包み込んだ。若干、ピンと跳ね上がっていたポニーテールが力なく垂れさがってしまう。御方の前では無様な姿を晒せないという義務的な感情が、ナーベラルの身体を強張らせていたせいだ。しかも、ここ数日――あの愚かしく浅ましく汚らわしいワーカーたちとの旅の間――は、一瞬たりとも気が抜けない状態が続いていた。張り詰めていた糸が緩むように、乙女の表情から力が抜けきっていく。

 たとえ愚劣な人間たちであっても、あれだけの集団と共に行動する以上、少しの不手際が御身の計画や企図に影響を与えかねない。ナーベラルも冒険者チーム・漆黒の“美姫”として長く任務に励んできたおかげで、少しは(本人の自己評価としては)人間共に対する対応力を身に着けたはず。彼女の超然とした振る舞いは、人を逸脱した力を持つ存在、アダマンタイト級を預かる魔法詠唱者(マジックキャスター)として相応しいほどの威を放っていた。人間への下等生物(ムシケラ)発言については相変わらずであったが、それすらも当然なのだと思える風格があるとワーカーたちには認識されていたおかげで大した問題にはなっていない(はず)。こういう時、人間と徒党を組まねばならない時には必ずといっていいほど現れる連中――下卑た欲望に駆られ、ナーベラルに言い寄り口説こうとする愚物たち――がいなかったことも、幸いだった。

 

「さて」

 

 いつまでも脱力はしていられない。程なくして、創造主からの勅命を受けた彼が、宝物殿の領域守護者にして、漆黒の英雄モモンの代役を務めることを許された唯一の存在、パンドラズ・アクターと相見(あいまみ)えるのだ。気を引き締めておかねば。

 またポニーテールをピンと張り詰めさせながら、ナーベラルは天幕の中を見渡す。

 アダマンタイト級の冒険者が寝泊まりする天幕というだけあって、そこは割と――外の世界の住人からすれば――充実した空間となっている。折り畳み式の木製の机と椅子。永続光を放つランプ。ウォーターサーバーの如く水を供給する魔法の小樽に、硝子製のコップが二人分。寝台(ベッド)もわざわざ組み立て式のものが二つ並んでおり、これでは外というよりもちょっとした宿泊施設の装いである。無論、ナザリックの価値判断基準に照らすと、こんなもの虫の湧くボロ宿よりはマシ程度のものでしかないのだが。

 普通、冒険者や旅人の寝泊まりと言えば、そのほとんどが野宿同然。マントを防寒着として(うずくま)り、近場に火を焚いて寝るくらいしかないのだ。天幕を張るというのは、当然ながら大量の荷物を抱えて移動する必然性が生まれ、数人程度のチームでは運搬すら不可能。大量の布は勿論のこと、天幕を支える柱となる木材も必要になる以上、これは確実だ。

 チームというものは、誰かがチーム全員分の食料や水、燃料や道具などをまとめて荷運びさせることは原則しない。するとしたらそいつは最優先でモンスターなどからの襲撃から守らねばならず、そいつを中心にチームとして動くことになるが、何しろ旅というものは一朝一夕に終えられるものではなく、不意の事故やモンスターとの遭遇、あるいは盗賊団の夜襲などを常時警戒しながら行わなければならない。それでも、万が一の事態というのは起こり得るもので、その第一の犠牲者がチームの要と言える食料などを一手に担っていたら、チームはその時点で瓦解する。谷底へ落下した食料は見捨てるしかないし、モンスターに荷物を奪われて取り返しにいくことはお勧めできないのだ。そういった危険性を減らすには、チームは個人一人一人が最低限自分に必要な食料や水を運び、調理具や燃料などを共有する形をとるのが理想的とされている。そうすれば、たとえ自分ひとりだけが生き延びたとしても、最低限、街へ帰還する見込みだけは立てられるのだから。

 天幕の造営のための道具というのは馬車などの専用の運搬手段が必須となり、そうなると当然の如くチームの規模は倍増しに増える。たかだか数人のチームで馬車を使用するのは、その馬車が依頼で必要なもの――たとえば薬草を詰め込んだ薬壺の積載に使うなど――である場合に限定されるのだ。わざわざ寝泊まりする天幕のためだけに馬車を借りる利点など存在するわけがない。アダマンタイト級の財力とコネがあれば不可能ではないだろうが、アインズたちにしてみれば無用なものだ。こんな手間をかけてキャンプするぐらいなら、グリーンシークレットハウス……魔法アイテムのコテージを使った方がずっと楽だし、汚くもない。内装も遥かに充実していることは、言うまでもないだろう。

 

「……もう少し何とかならないかしら?」

 

 アインズと共に寝泊まりしていた時から常々思っていたが、やはり至高の御方が滞在するには、どうしても簡素過ぎる印象が拭えない。せめてエ・ランテルの最高級宿屋ぐらいであれば、満足とは言わずとも納得はできる。下等生物(ムシケラ)共の技術ではこれが限界なのだと諦めるのは、ナーベラルには無理な話だった。

 彼女は戦闘メイド(プレアデス)の一員である。主人であるアインズの寝食には、万全かつ完璧なものを用意したいと渇望するのは当然の心理。アインズはアンデッドだから寝ることも食すことも不要だという事実は、この際一切合切関係がない。奉仕するということが肝要なのだ。

 机に純白のクロスを被せ、ランプは数を増やしもっと明るいものに変え、コップもガラス製のではなく陶磁器のティーカップにして、尚且つお湯の出てくるポッドがあれば良し。紅茶を入れてティータイムを愉しむくらいの空間は演出できるだろう。そうするとお茶請けも欲しくなるが、はて何が好ましいか。

 そうやって、ナーベラルは天幕の中で出来る限り、メイドとしての本分――というよりも宿命――に従うように、内装の塵や埃を払い、磨かれているコップをさらに輝きが増すように磨き上げることに執心した。

 見るべき人が見れば、それは夫の帰りを心待ちにする新妻のような献身ぶりに見えただろう。

 そうしている内に、

 

「戻ったぞ、ナーベ」

 

 目の前の空間に、漆黒の全身鎧を着込んだ存在が舞い戻った。

 しかし、ナーベラルはそれが彼であることを瞬時に了解する。

 

「パンドラズ・アクター様。お待ちしておりました!」

「御苦労。だが、ナーベよ。今の私を呼ぶ時は、モモンと呼ぶように」

「も、申し訳ありません、パ……モモンさ――ん」

 

 相変わらず名前を呼ぶのは苦手な戦闘メイドに苦笑しながら、モモンに扮したパンドラズ・アクターは何か異常があったかどうか確認する。

 

「いえ特には。ご報告すべきことなど何も」

「よし。私からの報告としては、連中は今しがた、ナザリックへ侵入したとのことだ」

 

 ワーカーたちがナザリックの第一階層に侵入したことを報され、ナーベラルは顔を歪めた。

 予定された通りの筋書きではあったが、自分の目の前で、あの愚昧な連中が神聖不可侵なるナザリック地下大墳墓に土足で踏み込んでいることを考えると、心中穏やかでいられるはずがない。今から転移を使って連中を皆殺しにできればいいのだが、今の自分は“美姫”ナーベとして、ここに留まらねばならない身だ。ここを離れてよい道理などない。

 

「落ち着くのだ、ナーベ」

「ですが、パ……モモンさん」

「彼らを――同胞たちを信じるのだ。それもまた、至高の御身への忠義の形となる」

 

 了承の吐息と共に、ナーベラルは深くお辞儀する。

 今回の襲撃は、帝国への示威行為であると同時に、ナザリックの防衛能力の試験(テスト)を多分に含めている。これは必要なことであり、同時に、ナザリックの同胞たちが力を奮う絶好の機会。であるなら、ナーベラルは自重するべきだろう。そう解ってはいるのだが……

 

「さて。私たちはしばらくここで待機することになるが」

「申し訳ありません。ここにはティーセットの類は備わっておらず」

「気にするな、ナーベ。私はお茶を愉しむために来たわけではないのだ」

 

 ナーベラルは少々残念そうに視線を伏せた。

 姉妹とのお茶会に興じるように、宿屋の食堂で彼と食事を交わすように、ここでそういう時間を共有することができれば、この時間も大いに心弾むものに変わってくれただろうに。

 否。今でも十分、ナーベラルの胸は熱い鼓動に震えているのだが、やはりあの創造されたままの(かんばせ)、自分と同じ造形である三つの深淵を収める卵頭と対面できないのは、少しばかり寂しい想いを抱いてしまう。

 二人は折り畳み式の机と椅子に腰かけ、そして対話を始める。

 悠然と背もたれに身体を預ける彼に対し、ナーベラルは彼の前で常にそうするように、背筋を伸ばして不動の姿勢を構築した。

 

「それよりも……どうでしたか? アインズ様と共に、帝国の都を訪れた感想は?」

 

 彼はモモン――アインズとしての口調から、普段の彼の声色に戻して問いかける。

 この天幕は、ワーカーや冒険者たちのテントなどからは離れた立地に立っており、周囲をうろつき盗聴しようとする者は皆無だ。戦闘メイドであるナーベラルは勿論、Lv.100のパンドラズ・アクターがそういった気配を感知することは造作もない以上、少しくらい二人きりの会話を楽しむ余裕はある。

 その意図を汲み取った黒髪の乙女は、常のように実直な口調のまま感想を紡いでいく。

 

「はっ。エ・ランテルや王都よりもやや洗練された街並みというだけで、建築様式などに特段の違いはないように見受けられました。最高級の宿屋は真新しく、王都の古色蒼然としたそれと趣は異なりましたが、大した差ではございません。市場などを巡り、売買されているアイテムについても明確な差異は感じられず、やはり下等生物が必死に背伸びをしている程度の印象しか持てませんでした」

「なるほど」

「ただ、アインズ様が仰るには、帝都には活気があるとのこと。私程度にはまったく違いなど感じられなかったのですが」

 

 さすがは至高の御方。

 ナーベラルの如きシモベ風情には感知できぬ何かを詳細に分析できる審美眼には、敬服の念を強めてしまう。下等生物(アリ)一匹一匹の表情にまで思いを致すなど、戦闘メイドには及びもつかない偉業に相違ない。

 その後、ナーベラルはパンドラズ・アクターが望む質問に、すらすらと返答していく。

 帝国最強と謳われる魔法詠唱者(マジックキャスター)の実力。

 今回同行している冒険者たちの最低限必要な情報。

 ワーカーたちの強さや保有している武装、チームの構成など。

 そのどれもが、やはりナーベラルの予想を上回るほどの脅威や驚異にはなり得なかった。

 逸脱者とは名ばかりな第六位階程度の魔法詠唱者(マジックキャスター)。金級ということでアダマンタイト級に擦り寄るような卑しい弱者。現在ナザリックへ侵入している連中のことについては、話すのも忌避したいくらい癪に障っていたが、彼の求めとあれば我慢できるというもの。

 それらを吟味するように静聴し、時折相槌を打ってくれる彼の存在は、ナーベラルには心地よい。

 きっと、自分の創造主である弐式炎雷と会話することができても、ここまで頬が熱くなるようなことはないだろうに。

 聞けば、上位(グレーター)二重の影(ドッペルゲンガー)には、対面者に動悸や息切れを起こさせるような能力はないとのこと。また、彼の職業にしても、そのようなスキルは存在していないとか。

 まことに不思議な現象であるが、今ではすっかりナーベラルには馴染みな感覚である。

 むしろ心地よいくらいに、胸の奥が弾むのだ。

 

「帝国にもさしたる脅威はなく、我々の敵にはなりえないようですね」

 

 パンドラズ・アクターは指を組んで熟考に耽る。

 無論、帝国領に居ながらも帝国が認知していない隠れた実力者――プレイヤーなど――がいないという証明には遠かったが、国家としての実力は王国と比べ若干マシということなのだろう。それでも、ナザリックの基準でいえばドングリが背比べしているようなものに過ぎないのだが。

 何はともあれ、これで周辺に潜んでいる冒険者たちと合流しても、スムーズに事を運ぶことができるだろう。誰が司令塔として機能しているか、誰とアインズが言葉を交わしていたのか、ナーベラルは過つことなく記憶している。名前を覚えることこそ完全には出来てはいないが、ナーベラルもまた、御方の傍で任務に励み続けることで成長している、その証左なのである。

 

「ありがとうございます、ナーベラル殿。これで私は遺漏なく、我が任務を果たすことができそうだ」

「か、感謝など、もったいない!」

 

 自分の役目を果たしたまでだと実直に応え両手を振る戦闘メイドに対し、パンドラズ・アクターは(ヘルム)の奥に隠した表情を微笑ませる。

 

「そんなに(へりくだ)る必要はありません。あなたの仕事は、感謝され賞賛されるに値するほどのものであることは確実なのです。過ぎた謙虚は、アインズ様の意に背くものにもなりえましょう。どうか、お受け取り下さい」

「はっ……はぁ……」

 

 ナーベラルは熱に浮かされたように陶然となりながら、彼の在り方に心服する。

 顔を伏せ、上目遣いに彼を見る。

 至高の御身そのものが顕現したような存在感。堂に入った口調と態度、そして姿勢。至高の御方々のまとめ役であられる存在の手により創られた存在だけあって、その言動はすべて、アインズの鏡像であるかのように完璧なものに仕上がっていた。

 自分では、こうはいかない。

 彼は役者(アクター)として、至高の御身という量り知れない存在をすら演じ切ることが可能な、唯一無二の存在。

 それに引き換え、自分の大根役者ぶりには恥じ入るばかりだ。

 御身の定めた偽名をしっかり発音できず、あまつさえ御身を守護し果せようとするあまり、御身の意図や思考とはかけ離れた暴走を人間共に加えようとしたり――あるいは加えたり――することは、一度や二度ではすまない。

 自分は、なんでこんなにも駄目なのだろう――

 熱っぽさが一挙に氷塊を当てられたように冷却される。

 

「どうかされましたか?」

「い、いいえ! 何も……」

 

 自分は何を考えている。

 己の力を卑下することは、創造主の、弐式炎雷様への不忠になってしまう。あの方は、ナーベラルに「かくあれ」と願い、この力と心と体、すべてを与えてくれたのだ。この身を不出来と考えることは、創造してくれた御方への義から反する行為。こんなこと、考えてはいけない。

 もはや何度目とも知れない劣等感の襲撃に耐えながら、ナーベラルは努めて表情を面に出さないよう心掛ける。

 そんな黒髪の乙女の様子をどう捉えたのか、

 

「そう言えば――こんな話を御存知ですか?」

 

 彼はとある話題を口にし始める。

 

「守護者各員の方々が、アインズ様に給金を賜った際、どのようなものをその給金で欲するのかという議が開かれたらしいのですが、皆様方は衣服や武装、食事や遊具用の人間の他に、特筆すべき褒美を希望されたとか」

「は、はい! それにつきましては、私も知っております!」

 

 というか、アインズが守護者たちからの意見書を精査する場に、ナーベラルもまた同席していたのだ。

 

「なるほど。では、どのような褒美を賜りたいかという話もご存知で?」

 

 随分と前のことになるが、あの時のことは覚えている。ユリの困惑した表情や、アインズの態度が気がかりだったので印象に残っていた。

 ナーベラルは指折り思い出していく。

 

「確か添い寝券から始まり、食事でアーン券、一緒にお風呂券、お空をデート券、そして鍛錬券(ガチバトル希望)など、だったでしょうか?」

 

 そのどれもが、至高の御身と共にありたいという当然の欲求が込められていた。アインズの護衛として、モモンに同行している自分にとって、彼らの(こいねが)う内容はどこまでも真摯かつ真剣な望みだということは納得がいく。御方と共に時を過ごせる時間は、シモベたちにとっては至福のひと時。御方と何かをしているという事実は、ナザリックに属するものたちすべてに、素晴らしい感慨を抱かせるのに十分なものとなるだろう。

 パンドラズ・アクターは満足そうに彼女の言に頷き、ひとつ指を立てた。

 

「では、何故アインズ様はそのような給金による褒美を与えることを検討されたのか――お理解(わか)りになりますか?」

「それは、……?」

 

 言われてみて初めて疑問を覚えた。

 ナザリックに属するものはすべて、至高の四十一人全員への忠義に身命を捧げ、御身への奉仕に幸福を感じる信徒たちだ。そのシモベたちの中で最上位者に位置する階層守護者各員も例外ではない。給金や褒美など貰えずとも、アインズに対する信奉の心は失われるはずもなく、むしろお仕え出来ることこそが給金であり褒美であると言っても過言にはならない。

 なのに、ナザリックの最高支配者であられる御方は、わざわざ必要ないであろう給金や褒美を与えるという――その意図するところとは何なのか、言われてみるまでナーベラルはまったく意識していなかった。

 にも関わらず、彼はその奥底に秘められた真意にまで思いを致し、御身の素晴らしい思考に沿えるよう、全力を賭して尽力するために、そこに込められた思いを悟ったというのだ。

 ナーベラル――アインズがその場で要望を吟味していたその場にいたはずの戦闘メイドですら気づけなかった疑問を、彼は当たり前のように思い考えていたという、事実。

 ナザリック最高位の智者、アルベドとデミウルゴスに匹敵すると言われる彼だからこそ可能な業か――否、そんな言い訳を並べ立てて、御身の深慮遠謀の深さ偉大さを無下にしていた事実を忘れることは許されない。

 羞恥にも似た劣等感が、再びナーベラルの胸中に噛みつき始めた。

 

「私は、こう考えております。

 アインズ様は、我々ナザリックの者たちに報いたいのだ、と。

 その忠義を正当な金額という(あたい)として呈することで、日頃から忠節に励み、忠勤に務める同胞(はらから)すべてに、感謝の意を表したいのだと!」

 

 ナーベラルは思わず声をあげて瞠目する。

 彼が涙の気配に似た感情を漂わせ語った内容は、確かに御方の常日頃から明示されている言動から推察できる内容だった。

 忠節、忠勤、忠義、忠誠――それらはシモベたちにとっては極当たり前な思想であり、行動であり、想念であり、生態に過ぎないのに、そんなものにすら「報いたい」と欲する考えは、慈悲深く何者よりも優しい御方の胸中に発生しても何ら不思議でも不自然でもない。

 何という存在。

 何という御心の深さ。

 ナーベラルは気づかぬうちに、静かな雫を瞼の淵から溢れさせ、頬を一筋の煌きで縦断させた。

 その無様に気付いて、戦闘メイドは慌てて頬を服の袖で拭おうとして、その瞬間に、彼からハンカチを差し出されてドキリとする。無下にするのも憚られたので、ナーベラルは遠慮しがちに瞼の淵から雫を吸い上げていくことにした。

 そんな彼女の様子を見つめながら、漆黒の全身鎧(フルプレートメイル)は静かに己の主張したいことを言い含める。

 

「ですから、ナーベラル。あなたも己の功績に見合った報酬や賞賛を受け取ることを遠慮してはなりません。過ぎた欲の無さは、やはり時として主の意に背くことにもなりかねませんから」

 

『配下の無欲は時には主人を不快にすると知れ』と、アインズがセバスに語っていたことなどパンドラズ・アクターは知らない。これは、創造主の言行や意思を無自覚に投影してしまったが故の、ささやかな忠告に過ぎない。

 

「はっ! 今後は、充分に注意いたします!」

 

 黒髪の乙女は謹直の態度というよりも、感動の思いがさせるままに、深く頭を下げた。

 その様に御満悦という風に頷いた漆黒の戦士は、続けざまにこう言い始める。

 

「ということで、私から貴女に御礼と言いましょうか、何かひとつ褒美を差し上げさせていただきたいのです」

「え……そ、そんな……」

 

 もったいないとは言えなかった。

 つい今しがた、そのことについて彼に(たしな)められた直後なのだ。

 ここは、甘んじて受け取る以外の選択肢はない。ないのだが……

 

「……褒美、といいますと……その、具体的には、どのような?」

「私が差し上げられるものであれば、何なりと」

 

 彼は宝物殿の領域守護者にして、ナザリック最高支配者の御手によって創造された唯一の存在。

 その身に蓄えられた財は多く、有するアイテムも種類や数量は計り知れないだろう。未だナーベラルの手中にあるハンカチにしても、見事な刺繍が施されており、涙のシミが残りはしないか心配になるほど真っ白だ。きっと彼のことだから、これと同じくらい素晴らしい宝物を、もしかしたらもっと素晴らしい財宝を賜っていることだろう。

 けれど。

 それよりも。

 

「あ……でし、た、ら……その……ぅ」

 

 躊躇が乙女の口を噤ませ、欲求が少女の心を揺さぶった。

 顔が耳まで(ほて)ってしまって仕方ない。自分は一体、何を口走ろうとしているのか。

 だが、これ以上の褒美など思いつかない。自分が彼に一体、何を望むのかと言われたら、それくらいしか頭の中には浮かんでこない。

 奇跡のような機会を失いたくない一心で、ナーベラル・ガンマは震える唇で主張する。

 

「て、を……」

 

 言い始めて、口元を手で覆う。

 こんなことが許されるのだろうかという懸念と、これ以上など望みようがないという純真さが、少女の口内で拮抗していることを露わにしていた。

 戸惑う彼の視線が突き刺さる。迷っていては彼を困らせる。

 

「手を、握って、いただいても……よろしいでしょうか?」

 

 (ヘルム)越しにも、彼がナーベラルの言葉を怪訝(けげん)に思っていることは容易に知れた。

 

「――え? そんなことで、よろしいのですか?」

 

 意外そうに彼は手を差し出してきたが、ナーベラルは慌てて彼の行為を修正する。

 

「あ、いえ、その……で、出来れば、あの」

 

 思い切り顔を横に伏せて、瞼をきつく閉ざしてしまう。

 

「よ……四本指の、手、で……」

 

 思わず両手で顔を覆いたくなるほどに恥ずかしい。

 自分は何を言っているのかと、自分で自分が理解できない。

 よりもよって、褒美が「手を握りたい」だなんて、どういうことなのだ。

 しかも四本指――上位(グレーター)二重の影(ドッペルゲンガー)の本性の手を所望する意図とは何なのだ。

 きっと彼も困っているに違いないと思い、伏せた視線を対面に座す上位者に流し、見る。

 呆けたように固まっているのか、あるいは乙女の真意を計り損なっているのか、あるいは両方か。

 そんな硬直時間が幻であったかのように、パンドラズ・アクターは悠然と首を縦に振った。

 

「――(うけたまわ)りましょう」

 

 どこまでも優しい声が、ナーベラルを包み込んだ。

 戦闘メイドの背筋を、戦慄させるような感覚が駆け上がっていく。

 パンドラズ・アクターは両手の籠手(ガントレット)を外し、その人間の手を異形のものへ変える。

 細くしなやかに伸びた、美しい四本指。

 上位(グレーター)二重の影(ドッペルゲンガー)の特徴であり、ナーベラルよりも上位者であるという紛れもない証。

 

「……っ」

 

 思わず喉を鳴らしてしまう。

 まさか、本当にやってくれるなんて思ってなかった。

 いきなり手を握ってほしいなんて、どういう思考回路を経たら辿り着く結論なのだ。

 そんな自己への疑念すら、その至高の造形を前にしては、瞬く内に霞んで消え去ってしまう。

 至高の御方々のアイテムやクリスタルを磨きあげる指先は見た目よりも力強く、けれども精緻な作業をこなすが故に、とても繊細で細やかだ。幾度となく目にしていたものであるはずなのに、実際にこれから触れて握ってもらえるとなると、何だか別の物体(もの)のような印象を受けてしまうのはどういうからくりなのだろう。熱くなる頬や耳が、けれども心地よく思えることも奇妙だった。

 

「さぁ、どうぞ」

 

 彼に促されるほど待たせてしまっていたことにようやく気付く。

 謝るよりも先に、ナーベラルは四本指に手を伸ばし、

 

「ふ……ぁ!」

 

 予想外に柔らかな感触が、包み込むように黒髪の乙女の指先に焼き付いた。

 人のそれよりも長い指は巻きつくでも絡みつくでもなく、乙女の肌の感触を確かめるように、優しく握りしめられていることが理解できる。

 でも、それだけでナーベラルは、ありえないほどの感覚に痺れたように動けなくなる。

 

「だ、大丈夫ですか?」

「い、いえ……何とも、ありません」

 

 嘘だ。

 何ともあるのは目に見えて、わかる。

 荒くなりそうな呼吸を何とか整え、表情を鉄面皮なまま固着させようと努力するが、指先が恐怖や畏敬とは異なる感情と共に、小刻みに震えだす。視界が熱く滲むのは何故なのか。

 そこにあるものを確かめるように、ナーベラルは指先に力を込めようと欲した。けれど、力は手首から先が失われたように何処(いずこ)かへと放出されてしまう。

 

「どこか、つらいようでしたら」

「いいえ……大丈夫です」

 

 このままでは、彼の善意を無為にしてしまうように思えて、ナーベラルは己の醜態を心の内で叱咤する。

 眼を瞑り、指先の触覚だけに全神経を動員していく。そうすることで、ようやく彼の手の感覚に応えることが叶った。

 

「ん…………ぅ…………」

 

 あまりにも心地良過ぎて、声がもれるのを我慢しきれない。

 今までにないほどの至近で――というか肌と肌とを触れ合わせながら、彼という感覚を手中にする。

 何かが体の底から、水音を立ててこぼれ出てしまいそうな錯覚を抱くほどに、ナーベラルは陶酔しきっていた。上気した乙女の表情を、彼の目の前に晒している事実にも気づかないで。左手の指を甘噛みして、何とか声がもれぬよう頑張ってみる。心の臓腑が張り裂けそう。瞼の淵からも何かが溢れてしまいそうになる。

 片手でこれでは、両手を握られたらどうなってしまうのだろう。

 いや、今は人間としての感触だった。これが自分の本性である三本指で味わっていたら――

 そんな心配を抱きながら、ナーベラルはその感覚に溺れ始める。

 

「ナーベラル殿」

「……は……い?」

 

 沈着した声に、ポニーテールを力なく垂らしていた彼女はどうにか応える。

 

「誰かが近づいてきます」

 

 その一声で、即座に手を離した。力なく垂れていたポニーテールが復活する。

 天幕に近づいてくる足音を聞くべく〈兎の耳(ラビッツ・イヤー)〉を発動しようとして彼に止められた。

 

「魔法を発動されるまでもありません。

 これは人間の足音……冒険者の方ですね。私が対応してきましょう。失礼」

 

 どこまでも冷静で透徹とした声を残し、彼は籠手を装備してから、悠々と天幕の外へ向かった。

 

「…………ッ」

 

 思わず歯を剥きそうになりながら、小さく舌打ちしてしまう。

 彼の余熱を確かめようと、ナーベラルは右手をさすりながら、近づいてきたであろう冒険者――今回の旅で代表的な位置に据えられている金級の存在だろう――に、暗い感情を抱いてしまう。

 とんでもないタイミングで水を差してくれたものだ。

 下等生物(ゴミムシ)に対して良い感情など抱くはずもないが、さらに嫌悪感が強まるのはどうしようもない。それほどまでに最悪な横槍だった。踏みつぶしてやりたいがそうもいかないだろう。

 だが、それとは逆に、これで良かったのかもしれないという、まるで相反する思惑が鬩ぎ合う。

 あのまま手を握られていたら、それから両手を握られていたら、そして自分が三本指となり彼の四本指を触れて堪能していたら――そう思うだけで首筋から腰のあたりまでが気持ちのいい掻痒感にくすぐられる。

 とても心地よい想像だ。

 胸の奥がそれだけで、高鳴りを強めてしまうほどに。

 

「ふぅ」

 

 想像していた通り――否、むしろ想像以上に、彼の四本指はナーベラルにとって幸せな感覚を供してくれた。

 自分で自分の指を触れ合わせる時に感じるそれとはまるで違うもの。

 はじめて見た時から好奇心を刺激されていた上位種の特徴。

 乙女の指を宝石のごとく丁寧に包んでくれた優しさ。

 茹でた卵のようにツルツルとした柔らかい弾力。

 組み合わさった部分から交換される熱と熱。

 繋ぎ合わせた時に味わった鼓動の甘さ。

 そのどれもが、ナーベラルにとって信じられないほどに素晴らしい何かを、胸の奥に灯してくれる。

 

「本当に、素敵……」

 

 こんなにも素晴らしい想いを抱くのは初めてのことだ。

 故に、ナーベラルはその想いの名を知らない。自分が彼に抱く感情の正体を。

 我知らず呟いた声は、天幕の中に残る彼の気配を掴み取ろうと、あてもなく空を漂う。

 彼が戻ってくるまでの十数分間を、彼女は昂然とした思いをそのままに、待ち焦がれるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜が明け、朝が来ても、ワーカーたちは一人として戻っては来なかった。

 突入した“フォーサイト”、“ヘビーマッシャー”、“緑葉(グリーンリーフ)”、“天武”――誰一人。

 ナーベラルやモモン――パンドラズ・アクターにとっては規定された事実でしかないが、さすがに事態を重く見た冒険者たちは慌てふためき、アダマンタイト級の助言を求めた。

 当初の予定では、非常事態に直面した際には拠点を撤退し、離れた場所で様子を窺うことになっていたものを、パンドラズ・アクターはこの場で一日待ってみようと提案し、受諾させた。

 ワーカーたちはそれなりに名の知れた、ミスリル級冒険者に匹敵する者たち。そこに光明を見出そうというアダマンタイト級の言に感じ入った冒険者たちであったが、実体はまるで違う。

 彼らを少しでも長くここに引き留めることによって、ワーカーを送り込んだ帝国の動きを鈍化させる狙いが多分に含まれていた。帝国は――というかこの世界の住人は〈伝言(メッセージ)〉で伝えられる情報をそれほど重要視しておらず、必ず口頭での伝令による情報のすり合わせを併用することを慣習としているらしい。この場に冒険者たちを留め置くということは、帝国に次の行動を取らせるまでの余裕を奪うことに他ならない。無論、彼らが依頼主の策定したマニュアルに沿った動きを取られても問題は一切ないのだが、時間というのは貴重な貨幣だ。稼げる分を稼ぐことを躊躇う理由など何処にもない。

 漆黒の英雄モモンの言を信じ切った彼らは気付いていない。気づくはずがない。

 自分たちの頭上を、今まさに、帝都アーウィンタールを目指して飛翔する巨大な影があった事実を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アウラ殿とマーレ殿による、帝城の襲撃は成功した模様ですね」

 

 マーレの竜による示威行動と地震魔法によって、帝国皇帝はナザリックへの謝罪に赴くことを決定したという。その報告をアインズから直接聞いたパンドラズ・アクターは、まったく動かない卵頭の顔に笑みを浮かべた。皇帝は完全に御方の掌中で転がされている。これを愉快と思わないで何と思えというのか。

 

「これで、我々の任務も無事に達成されました……ありがとう、ナーベ」

「いえ、私の方こそ――」

 

 御方の口調に戻って賛辞を贈る彼に、ナーベラルは常のように実直な対応をして見せる。

 モモンとしてある彼に対し、彼に付き従うナーベとして、これ以上にふさわしい在り方はないようなお辞儀。

 そんな彼女の胸中は、少しばかり複雑だった。

 結局あの後、彼と手を握る機会は失われてしまっていたのだ。

 ナーベラルとしてはもう少し堪能していたかった所なのだが、さすがにあんなことをもう一度お願いしようという気にはなれなかったし、彼もまた『ひとつ』という前置きをしていたことから、自分から話題にすることはなくなっていた。

 その後の彼は、いつものように漆黒の英雄モモンとしての役目を演じていた為、ナーベラルもそれに倣ってきた。

 それも、ようやく一時の終わりを迎える。

 

「私はこれから、ナザリックへ帰還します。〈伝言(メッセージ)〉によると、アインズ様はまもなくこちらにお戻りになるとのこと」

「かしこまりました」

 

 アインズやアルベド、デミウルゴスの見立てでは、皇帝は数日中――五日程度の後に、ナザリックへの謝罪に訪れるだろうと予測していた。

 引き上げられていく冒険者たちの警護をやり終えるまでが、“漆黒”の役割。

 その依頼に応えるべく、律儀なアインズは再び地上へと戻って来るのだ。仮にも自分が引き受けた依頼である以上、自分が最後まで行うというのが筋というもの。

 パンドラズ・アクターの役目は、ここで終わる。しかし、戦闘メイドは残らねばならない。

 ナーベラルは上位者に、尊敬に値する同胞に、心から礼節を尽くす。

 

「いってらっしゃいませ、パンドラズ・アクター様」

「いってまいります、ナーベラル・ガンマ」

 

 二人以外に誰もいない天幕の中で、その言葉に意気揚々と答えるモモン姿のパンドラズ・アクターは、しかし何故か、転移してナザリックに戻らない。

 彼は何かを探すような、常にはない調子で、視線を虚空に彷徨わせる。

 思わず、ナーベラルは心配げな声を彼にかけてしまった。

 

「どうか、されましたか?」

「――また」

「また……?」

 

 何だろう。そう黒髪の乙女は疑問に思うが、言葉にはしない。

 彼は頬を掻いてナーベラルを見つめ、けれども何も言わずに(きびす)を返した。

 

「なんでもありません」

 

 それだけを言い残し転移していった彼の様子に、ナーベラルは首を傾げるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                    【終】

 

 

 

 

 

 








 ここまで読んでくれたあなたに、感謝の極み。


 これが書きたかった。

 いや、本当、マジで。

 書籍七巻で冒険者たちから「愛の巣」だなんて呼ばれていた天幕で起こった二人の逢瀬ですが、まさか文字通り「愛の巣」になっていたとは、驚きです。

 さてさて、二人の逢瀬も随分と濃度を上げてまいりました。下手するとかなりエロい描写かもしれませんが、ただ手を握ってるだけだからね! ね! ナニはしていないからね!

 作中でも明示しておりますが、ナーベラルはポンコツ故、現段階ではパンドラに対する感情が何なのか、まるで理解しておりません。そこがポンコツかわいいわけで。

 いやはや果たして、
 ナーベラルがパンドラズ・アクターへの想いの正体に気が付く日はやって来るのでしょうか?
(ネタバレ。第一話を見れば、わかる)


 次は誰の逢瀬と巡り合えるでしょうか。


 それでは、また次回。              By空想病




▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。