真・恋姫†無双 一刀立身伝(改定版)   作:DICEK

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第044話 反菫卓連合軍 洛陽戦後処理編②

 

 

 

 

 

 

 及川という友人がいた。目の細い関西弁を話す愉快な男で、こちらの世界に来る前ならば一番の友達と言っても良かっただろう。

 

 その友人が教室で力説していたことがある。

 

『かずたん! これからは異世界転移の時代や。チート能力もらってラクチンにモテモテなんやで!』

 

 顔の広い及川の趣味は多岐に渡り、何でも広く浅くという感じだった。スポーツに凝っていたこともあればオシャレに凝っていたこともある。その成果として女性にモテるということはなかったように思うがそれはともかく。こちらに来る直前、及川はネット小説にハマっていたはずで、文筆家になれるというやたら強気な名前の小説投稿サイトを行きつけにしていた。

 

 その小説投稿サイトで『異世界転移』なるジャンルが流行っているという彼の話を、実際に異世界転移を経験してみてから何度も思い返したものである。及川の話は全部ではないが一部は本当だったと。

 

 確かに女の子との出会いはあった。フランチェスカにも美少女はいたが、共学とは名ばかりの元女子高であったため、近くにいても接点はなかった。モテモテかは自信がないが確かに異性運は上向いていると言えるだろう。美少女と一緒に馬に乗って二人で汗だくになったばっかりだぜと自慢したら、及川はきっと泣いて悔しがるに違いない。

 

 そしてラクチンかと言えば……断じてラクチンではないと言える。チート能力はまだ目覚めていないだけと期待するのもとっくの昔にきっぱり止めた。何で学校でもっとまじめに勉強しておかなかったんだと後悔しない日がないくらい日々勉強漬けだし、年齢的にはまだ学生の時分のはずなのに朝から晩まで働いて剣の訓練までしている。

 

 訓練の当然の成果として、自分で武器を振るって自分の意思で人も殺した。参加した大規模な戦争はついこの間終わったばかりだ。

 

 ラクチンではない生活の中、ふと周囲が静かになった時にあちらの日々を懐かしく思うのも事実だ。気心の知れた及川とバカな話をまたしたいと思うこともある。ユーハバッハは本当に倒せたのか。鬼滅の刃打ち切られたりしてないか。お前が言ってた馬が女の子になるとかいうゲームはそろそろ出たのか。

 

 しかし、思いを馳せることはあれど不思議と帰りたいとは思わないのだ。苦労はしている。泣きたくなることもある。それでも、今の生活は短い人生の中でも最も充実していたし、自分にしかできないことがあるというのなら、やり遂げてみたいとも思っている。

 

 この感情を野心と呼ぶには幼い気もする。目の前にその塊とも言える人間がいるのならば猶更だ。

 

 過去に思いを馳せ終わり、同時に現実逃避も終わると、恐ろしく整った少女の顔が目の前にあることを嫌でも意識せざるを得なくなる。金色の髪に青い瞳。小柄ではあるが覇王としての威圧感を持った少女、曹操が一刀の顔を掴んでじっと見つめている。

 

 皇帝陛下に召しだされ、謁見することになっているその当日。会場に向かうまでの馬車の中である。服の着こなし謁見の際の作法、何かとちった時のフォローの仕方までありとあらゆるモノを徹夜で教え込まれ、眠気と戦いながらの道程である。

 

 今の連合軍陣営では唯一の皇帝陛下に謁見したことがある人材ということで、曹操が最後のアドバイザーとして残り、こうして同じ馬車に揺られているという訳だ。知らない仲ではないが顔を合わせれば話が弾むというほど仲良しでもない。

 

 話をするにも話題を探さねばならないほど、一刀は曹操のことを知らなかった。共通の話題と言えば荀彧のことであるが、女の経験がない一刀でも荀彧と曹操がただならぬ仲であるということは察しがついている。

 

 荀彧のことはかけがえのない友人と思っている一刀だったが、何でもかんでも知りたいと思っている訳ではない。女の友人の下の話なんて聞きたくもないし、もし聞いたと知られたら怒り狂った荀彧が殺しに来かねない。

 

 荀彧の話を封じられると曹操相手には手も足も出ないのだが、顔を掴まれ無言で見つめられては共通の話題も何もない。顔を合わせたことはあるが、曹操という少女は別に友人でもないのだ。こういうことをされる理由に皆目見当がつかない一刀としては、ただされるがままにされるか、現実逃避をするより他はないのだった。

 

「解せないわね」

「なにが、でございましょうか」

「桂花が貴方に執着する理由よ。まさか顔が好みかと思ってこうして眺めてみたけれど、どう贔屓目に見ても上の下ね。まぁ、この辺りまで来れば好き好きなのでしょうけど、あの娘が理由にする程ではないと言い切れる」

 

 あの曹操でもオブラートに包んだ言い方をするのかと内心で感心しつつ、面と向かってブ男と言われなかったことに安堵する。自分がイケメンだとは口が裂けても言わない一刀だが、女性からの評価というのはやはり気になるのだ。

 

「自己分析するに、足を踏ん張って目の前に立っているのが物珍しいんじゃないかと思います。荀彧殿のご母堂様から聞いた所によれば、荀彧殿の周囲はご実家の家人でさえ男性を遠ざけているとのことですので」

 

 お世話をしていたのは基本的には功淑一人であったし、一刀本人は荀家の家人と交流はあったが、思い返してみれば荀彧と一緒にいる時に男性の家人の顔を見た記憶がほとんどない。男性の家人がいないという訳ではなく、家人の方が荀彧の視界にさえ入らないように気を使っているのである。

 

 見上げた心遣いであるが、同じ男性としては何もそこまでと思わなくもない。そういう環境の中で、視界に入ることを許されていた自分は荀彧の内心がどうであれ、少なくともその他大勢よりは距離感が近かったのだろうと思う。

 

「うちでも似たようなものだけれど、その自己分析はハズレだと思うわ。あの桂花が口答えをする案山子に価値を見出すとは思えないもの」

「言われてみるとそんな気がします」

「でしょう?」

「では、荀彧殿は一体何を考えておいでなのでしょう」

 

 友達が何故自分と友達でいてくれるのか。今までの人生で一度も考えたことのない事柄であるが、およそ友人と呼べる人間の中で荀彧は間違いなくとびっきりの曲者である。言われてみれば何故という疑問は、一刀の中で渦巻くようになった。眼前の曹操がその答えを知っているのでは。ぶら下げられた答えにあっさりと飛びついた一刀に、曹操は嗜虐心に満ちた笑みを浮かべて答えた。

 

「さあね。お気に入りのお気に入りに助言してやる義理はなくってよ」

「もっともなお話です」

 

 曹操の立場であればどう考えた所で面白くはなかろうと一刀は追及を諦めた。元より解らなかった荀彧のことなのだから現状維持である。諦めも早い。

 

「それが長続きの秘訣かもしれないわね」

「なにか?」

「なにも。さて、北郷一刀。そろそろ目的地に到着という訳だけれど、私たちの注意は覚えていて?」

「余計なことを言わない。余計なことをしない。対応に困った時は、何も言わず何もせずにその場で待つ」

「よろしい。完璧な作法が望むべくもない以上、それが最善の方法よ。彼を知り己を知れば――」

「百戦危うからず。己の不甲斐なさを恥じ入るばかりです。ご指導ありがとうございました」

「恩はいずれ返してもらうから結構よ」

「曹操殿とは良い関係でいたいものです」

「私もよ。さて、ついたわね」

 

 気づけば馬車は止まっていた。身なりを整え立ち上がる一刀を、曹操は座ったまま含みのある笑みで手を振っている。

 

「拝謁の栄誉を賜った成人男性が、女の保護者同伴では沽券に関わるもの。私が同行できるのはここまで。ここからは一人で行きなさい」

「ここまでありがとうございました」

「武運を祈るわ。しっかりね」

 

やたら含みのある笑顔の曹操に意外に優しい言葉に見送られ、馬車を降りる。その馬車が見えなくなるまで見送った後、うんざりするほど大きく広い宮殿を前に、一刀は一度大きく息を吸い、そして吐いた。

 

 怖い物がないと孫呉に合流してから良く言われる一刀であるが、英傑などと呼ばれる人種でないことは本人が良く理解している。ただの一般人である所の北郷一刀は緊張もすれば恐れもする。自分の肩に自分についてくる人間の人生がかかっているという思いに突き動かされているだけなのだ。失敗よりも自分の死よりもある意味恐ろしいものが、緊張も恐れも凌駕しているだけなのだ。

 

 そんな一般人は、周囲に仲間がいないと自分がただの一般人であることを思い出してしまう。うんざりするほど大きな宮殿に、痛いほどの沈黙。自分が酷く場違いで異様な異世界に放り出されたのではないかと、今更ながらに自覚する。

 

 自分はただの高校生だ。こんな所にいるような人間ではないし、大それた身分でもない。いままでのことは全て夢で、目を閉じて、起きたら、またいつもの生活が始まるんじゃないか。きりきり痛む胃と、尋常でない冷や汗。傍を通る風が一刀の身体を撫ぜるとあの呂布の一撃からもこの身を守ってくれた、友人からの贈り物である腰の剣の重さが自分が何者であるのかと自覚させた。

 

 胃の痛みも汗もそのままに、ゆっくりと今の自分が何者であるのかが身体に浸透していく。

 

 北郷一刀。自分の名前と、自分についてきてくれている仲間たちの顔を順繰りに思い出すと、緊張は収まり怖いものはなくなっていた。彼女ら彼らの代表なのだ。惨めな思いはさせないと言ったその口で、弱音を吐くことなどあってはならない。

 

 案内人の声に、その後について宮殿を歩いて行く。

 

 洛陽はこの国の大都市の一つであり、今は大火のこともあり城下は良くも悪くもにぎわっている。ここに来るまでの馬車でも喧噪の中を走ったものだが、その喧噪も遠く、宮殿の中は静寂に満ちていた。剣の立てる音は元より、衣擦れの音さえ耳に大きく聞こえる。

 

 今まで訪れたどの場所とも違う異質な空間。ここに皇帝がおり、それが自分を呼んでいるのだと思うと、今更ながら酷い違和感に襲われる。勘違いもここに極まれりだが、それを現実にしてしまえるのが皇帝という人物であり、権威である。

 

 一刀に逆らうという選択肢など存在しない。無難にやり過ごすことが最善であるが、呂布を撃退したという虚名くらいは受け入れることになるかもしれない。酷く据わりが悪くても名前を売る機会だと思えば悪い気はしないでもない。

 

 そもそも、本人を呼んだ所で事実が変わる訳ではないし、現実がお話よりも面白くないということは往々にしてある。

 

 曹操から魂に刻まれるのではというくらいに聞かされた手順では、皇帝に拝謁する際の手順は二通り。ざっくり言えば控室などで待たされてから入るか、直行するかである。ほとんどのケースは待たされるそうだ。理由は実務上の問題で、その方が対応を調整しやすいからだが、面会をする人間が少ないのであれば、調整も何も必要ない。

 

 できれば仕事を早く片付けたいという気持ちに、身分の上下は関係ない。今回の拝謁は完全に皇帝の私事であり、公務としての向きはない。皇帝の意向即ち公務であると言えなくもないが、皇帝が態々人を呼んで話を聞くというのは、戯れの向きの方が近いだろう。

 

 ならば素通しされるのではないか。拝謁する前に一息入れたいというのが一刀の本音だったが、念ずれば通じないのが世の中というもの。案内の人間は広い廊下を行き、一刀を謁見のための広間の前に立たせた。案内の人間に銀木犀を預け、大扉を前に一刀は溜息を吐く。

 

「どうぞ」

 

 気持ちが整うのを待っていたらしい案内の人間が、来場を告げる。ゆっくりと、謁見の大扉が開いて行く。広間に入るのは、扉が開き切って、さらに少し間を空けてからだ。背筋を伸ばし、視線を下げずに堂々と歩く。

 

 徹夜で孫堅にブッ叩かれながら練習しただけあって、とりあえずの合格はもらえた歩き方である。曹操からは何で普段から練習しておかないんだと小言をもらったものだが、そんな辛口の彼女も孫堅の合格には同意してくれた。二人の目から見ても、最低限のラインには達しているらしい。

 

 だからと言って何も不安がない訳ではない。一刀の所作は箸にも棒にもひっかからないというレベルでないというだけで、見る人間が見れば付け焼刃というのは解るものだ。それを乗り切るためにどうすれば良いのか。クソ度胸だ、と孫堅は言い切った。

 

 得意技だろう? とにやりと笑って送り出した孫堅の意思には、報いねばならない。

 

 軍人が、ただ行進するだけのことに膨大な時間を訓練に費やすのが良く解る。一人で歩くのでさえこれなのだから、更に大人数で揃えるとなると大仕事になるのも頷けた。

 

 広間の中央。何段も高くなった場所に皇帝の席が用意されている。御簾で囲まれており玉座の形さえ見えないが、その手前で一刀は止まり、膝をついた。そこが曹操たちに説明された所定の位置である。一刀が跪いてしばらく、

 

「皇帝陛下の御成りである」

 

 司会進行の役目である段の麓にいる女の声に、一刀は更に頭を低くする。視線を上げて罰せられることはあっても、低くしていて怒られることはない。対応に困ったら頭を下げろというのが孫堅からのアドバイスだ。間違っても視線を上げないよう、床とにらめっこをする一刀の耳に、小さな足音が届く。

 

「面をあげよ」

 

 司会進行の声に、一刀は跪いたまま顔を上げた。御簾の向こうの人影を見通すことはできないが、御簾の脇に二人、女が立っているのが見えた。武器も持っていなければ鎧を始め防具を身に着けてもいないが、この二人が指一本でも自分を殺せる存在であると、一刀は見ただけで解った。流石に皇帝の警護である。

 

 跪いたまま次の言葉を待つ一刀に、司会進行の女が寄ってくる。早速何か粗相でもしてしまったのだろうか。怯えつつちらと視線を向ける。

 

 紫色のアンダーフレームの眼鏡の奥に、碧色の瞳が見える。胸元の大きく開いた装束の左肩の肩当が辛うじて武人であるという特徴を示しているが、理知的な風貌は頭の回転の速さを思わせる。二十の後半くらいの年齢だろうか。母校で数学の教師でもしていそうな風貌にどことなく親近感を覚えていると、

 

「陛下は直答を許すとの仰せである」

 

 早速完全に予定外の言葉が降ってきた。

 

 今回のようなケースでは、皇帝が直接言葉をかけることはない。その言葉はそのために用意された人間が代わりに伝えにくる。予め定型文を作っておき、皇帝はその場にいるだけということもあるそうだが、とにかく会話はしないために、進行に時間がかかるというのが曹操の教えだったのだが。

 

 単にまどろっこしいというのであれば一刀にも気持ちは解るが、それがそこそこにあることであれば、曹操からも何か一言あってもよさそうなものだ。

 

 そう考えて曹操の顔を思い浮かべる。あれは何というか、他人の苦しむ姿を見て悦に入るタイプの人間だ。勿論、良い意味であり、相手が何とかできる範囲でという言葉はつくが、その客観的な信頼は嗜虐心と表裏一体である。話したのは少ない時間であるが、あえて黙っているくらいは曹操ならばやりそうだ、という嫌な信頼が一刀の中で既にできあがっていた。

 

 階段を足音を立てずにゆっくりと上る。御簾の前で立ち止まると、改めて一刀は膝をついた。嗅いだこともないような香の匂い。御簾の向こうに玉座の影は見えない。ぼんやりとした皇帝の気配を感じながら、一刀は声をかけられるのをただ只管待った。

 

「小さいな。あの呂布を退けたというから、見上げるような巨漢であると思ったが」

 

 鈴を転がすような少女の声である。女性、おそらく十代という情報はあったが、正確な年齢は曹操でも知らないとのことだった。帝位につくまでの情報がなく、ともすれば十にも届かない可能性さえあると。御簾の向こうの姿は小柄に見えるが、現時点での印象としては朱里や雛里よりも少し下といった所だろう。現代に合わせて考えるならば、小学生か中学生か迷うくらいの辺りである。

 

「ご期待に沿えず申し訳ありません。呂布のことにつきましても、仲間との共闘の結果でありますれば、私一人の功績ではございません」

「まあ、そんな所であろうな。現実というのはなんともつまらぬものよ」

 

 当事者としては同意されるのもそれはそれで凹むのであるが、それは高望みというものだ。ともあれここで『我が剣を受けてみよ』をやれと命令されるという最悪の事態は回避できた。

 

「だが朕の立場では風聞というのも無視はできぬ。今洛陽はお前の講談で持ち切りという。そんなお前に何もやらぬとなっては、朕の沽券にも関わるのでな。協議の上、その名声に相応の褒美をくれてやる故、楽しみにしておれ」

「もったいないお言葉にございます。ありがたく拝領いたします」

 

 くれるというものを、しかも皇帝陛下その人が言っているのに断るという選択肢は存在しない。平身低頭、一刀は二つ返事で受け取る旨の言葉を返したが、名声が今の自分にとって過分な以上、それに相応する褒美というのがどの程度の物になるのか怖くて想像もできない。

 

「時に北郷、お前は洛陽にきたことはあるか?」

「二年ほど前に一度。知人の邸宅に一週間ほど滞在しました」

「ここは良い街である。知人はその者以外にもおろう。いつまでおるのか知らんが、滞在を楽しむと良い」

 

 ふむ、と一刀は違和感を覚えた。マナーを仕込まれながらある程度の想定問答はした。定番の世間話から先の戦の話。武勇伝を聞かされる可能性は割と高めであったため、講談の一つを覚えるまでしたのだが、今聞かされている内容は曹操も孫堅も想定していないものだった。

 

 何より、これを言うために呼び出したのではという気さえする。そんな気がしてくると、皇帝の声がどこかで聞いたことがあるような気さえしてきたのだが、緊張と胸の動悸で記憶が上手く引っ張り出せない。

 

「仔細は追って知らせる。大儀であった」

 

 言うが早いか。皇帝は誰の言葉も待たずにさっさと退出した。どっと疲労が押し寄せるが時間にして10分も経っていない。聞きたいことがあったから呼び出した。聞きたいことは聞けたから話を終わりにした。皇帝の立場からすればそんな所なのだろう。

 

 呼び出された小市民としては堪ったものではないが、大過なく過ごせたのであれば御の字だ。徹夜で作法を仕込まれた甲斐もあったというもの。きっと今日は枕を高くして眠れることだろう。

 

 さて、と一息吐いた一刀は、退出して良しという眼鏡女の言葉に一礼し、そそくさと広間を退出する。そのまま、誰にも話しかけられないようにできる限り早足で出口まで進む。

 

 幸い、誰にも話しかけられないまま宮殿を後にすることができた。深々と、深々と一息吐きどっと出てきた汗を袖で拭う。今まで触れたこともないような滑らかな服の感触に冷静さではなく落ち着きのなさを取り戻すも、周囲に自分の関係者が一人もいないことに気づいた一刀は、一回りして冷静になった。

 

 

「どこに、どうやって帰れば良いんだ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幸い、通りを二本も越えれば人通りも多くなるという守衛の言葉を頼りにそこまで歩き、馬車を拾って孫呉の本陣に向かった。出火騒ぎにより洛陽正門付近は被害を受けた訳だが、その復興作業に連合軍の一部は尽力している。どの勢力も復興班が洛陽の中に本陣を敷き、残りの軍が外に本陣を敷いている。

 

 一刀が向かっているのは中の本陣であり、そこでは郭嘉が復興班の指揮を取っているという。

 元々の孫呉の軍団は帝室他、関係各位と話をまとめるので忙しいのだそうだ。袁紹がいなくなったこと、それに呼応して公孫賛が連合軍を離脱してしまったことにより、論功行賞の調整が難しくなっているのだという。

 

 董卓一派が洛陽を離れたことによる、空いたポストの調整もしなければならない。本来の帝室のあるべき姿に戻ったとも言えるだろう。これでこれから平和な時代が来るのであれば、ここ洛陽に腰を据えても良いのだが、戦乱の時代は既に始まっている。

 

 面倒な調整などさっさと終えて、本国に戻って戦の準備をしたいというのが本音なのだ。時間に余裕があるのは去就が軍団に依存しない一刀や、関羽団くらいのものである。

 

 そう言えば関羽はどこにいるのだろう。ぼんやり考えながら孫呉の本陣で馬車を降りると見知った顔が駆け寄ってきた。

 

「団長。お疲れさまです」

「お疲れ。復興作業はどう?」

「順調でさ。街の連中とも連携が上手くいってまして。想定よりも早く終わりそうだと程先生がおっしゃってました」

「そりゃ何よりだ」

 

 応答している男は一刀団の一人であり、厳密には程立の部下である。戦闘集団として見た場合、例えば今回の戦のような時、団に所属する兵は全員一刀ないし梨晏やシャンの指揮下に入るのだが、それ以外の時は個別に誰かの指揮下に入ることになっている。

 

 ほとんどは一刀と梨晏、シャンの指揮下に入るのであるが、人数にして約二十人が程立の直属として活動している。一刀が団員全員に読み書き計算を覚えさせることに拘ったように、集団が膨れ上がってきた時、先々を見据えた程立が拘ったことがあった。

 

 土木工事の専門集団を作りたいというのだ。

 

 そもそも兵や将というのはこの時代に限らず陣地設営の専門家である。何しろ設営する本人なのだから、専門にもなろうと言うものだ。築城などに駆り出されるのも現地の人足を除いては兵が中心になるので、土木工事の専門家とも言える。

 

 実際の手順や器用さというのは兵をやっていれば自然と磨かれていくものであるが、程立が求めたのはもっと先――もっと大がかりな街道やら城塞やらの設計は元より、それを作成する際の指揮。翻って、それらを破壊するエキスパートを育成したいというものだった。

 

 反対する理由はなかったし、何より自分よりもずっと賢い人間が先々のことを見据えてと理詰めでこられては、賛成するより他はない。できることが増えるというのは一刀にとっても嬉しいことだし、仲間が手に職を持つというのも好ましいことだった。

 

 そういった事情もあって、一刀の直属に盗賊稼業のエキスパートが集まったように程立の部下には元大工やらの見込みのある人間が集められ、専門知識を詰め込まれるようになった。虎牢関攻めの際には戦闘にも参加したが、孫呉軍が虎牢関を離れ洛陽を攻める際、程立の直属兼、何かあった時の虎牢関への連絡係として程立についていって現在に至るという訳である。

 

 たまたまついていった連中が土木工事の専門家というのは、復興作業をするには幸いだったと言える。

 

「軍師先生たちは中か?」

「ええ。いや、団長に客が来てましてね。軍師先生方は皆さんでその応対をしてるとこです」

「客? 俺に?」

 

 この地で自分を名指しにというのも解せないが、今日この日にというのもさらに解せない。

連合軍の面々ならば今日呼び出されたことは知っているだろうし、彼女らの話では呼び出されたこと自体洛陽中で噂になっているとのこと。

 

 ならば洛陽にいる数名の知人友人もそれは知っているだろう。だが呼び出された当日に、しかも帰ってくるのを待っているなど考えにくい。

 

 何にしても、孫呉の陣地にまで来るのだからそれなりに緊急の用件なのだろうと察するが、そこまで急ぎの案件が持ち込まれそうなことに、一刀は心当たりがない。

 

「いやー、団長は女の趣味が広いと思ってやしたが、俺の理解は浅かったようで驚きやした」

「客は女の人か。趣味とか言われると遊んでるように思われるけど、男としては普通に可愛い子は好きだよ」

 

 冗談を返すとそれでこそ我らが団長と畏まる工兵に挨拶すると、本陣の中を進んでいく。本陣と言ってもそれほど広くはない。ガレキをどけた中に幕舎を作り、無事な家屋を本営としている程度で、外の本陣に比べると常駐の復旧作業員しかいない中の本陣は大分狭い。中央に近い場所から復旧が進んでいるため、正門に近いこの辺りはガレキの一時置き場と化しているのだ。

 

 扉の前に立って呼吸を整える。中で会話でもしているかと聞き耳を立ててみるが、本当に人がいるのかというくらいに静まり返っている。一度本当にこの部屋かと戻って確かめてみるが他の部屋は全て扉が開いていて、見知った顔しかいなかった。消去法的にここで間違いはない。

 

 客って誰だという疑問が燻る中、意を決して扉を開けた一刀が最初に見たのは、椅子に座る猫耳の頭巾と、それを囲む三人の軍師たちだった。

 

「ああ、客は荀彧か。いらっしゃい」

 

 喜色に富んだ一刀の言葉に、軍師たちの機嫌が急降下する。軍師の中で最も気持ちがブレた女、荀彧は椅子から立ち上がると、一刀を頭の先から足の先まで眺め、

 

「…………流石に華琳様が手配しただけあるわね。下の下の下が下の下の中くらいにはなって見えるわ」

「褒めてくれてありがとう。今時分直接来るってことはそれなりに急用なんだろ? 何があった?」

「実家のお母さまから今日早朝に『絶対にあんたにも伝えろ』って連絡が来たから仕方なく来たわ」

 

 うんざりした様子で持っていた木簡を一刀の胸に押し付ける。用件はそれだけだと、居並んだ全員の返事も待たずに荀彧は踵を返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「橙花――荀攸が一年程前から行方不明だそうよ。洛陽があんな状態だったから人を入れられなかったそうだけど、連合軍が開放したからこれから人を寄越すって」

 

「詳しいことはそれに書いてあるわ。洛陽のどこかにいる見立てらしいから、復興作業の途中にでも探してちょうだい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




追記

拙作の一刀は改訂版第一話が投稿された日に恋姫世界にやってきたという体でお送りしております。

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