真・恋姫†無双 一刀立身伝(改定版)   作:DICEK

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第038話 反菫卓連合軍 虎牢関攻略編②

 

 

 

 

 

 

 平伏する凪の姿を見ながら華琳は黙考した。

 

 汜水関攻めの際の戦闘における曹操軍が被った被害、その沙汰の場である。曹操軍は三千という兵を公孫賛率いる一番槍に貸しだした。そこで胸のすくような大勝利をするとは完全な予想外であったものの、当初の目的であった公孫賛に恩を売ることには成功している。

 

 大勝利のおかげで虎牢関での手番を後回しにできる権利を得るなど他にも嬉しい誤算はあったが、それは全体として見た場合の話である。

 

 一番槍の部隊に参加した凪の部隊はおよそ三千だったが、将として出陣した彼女は死者と重傷者の合計でその過半数を失うことになった。同じく三千を貸し出した孫堅軍の甘寧の部隊の損耗が軽微であったこともありその損害の大きさは際立って見える。

 

 いかなる処罰も受け入れると凪は伏してから身じろぎ一つしない。ここで斬首となっても受け入れるという態度に華琳は深々と溜息を吐いた。

 

 兵の損耗は確かに無視できるものではないがそれ以上に失う訳にいかないものがある。とは言え、信賞必罰が世の習いであるのなら何もなしという訳にはいかない。凪を見逃すにしても何かしら理由づけは必要なのだ。

 

 そう考え華琳は側近である二人の姉妹と軍師に視線を送った。言葉はなくともその意図くらいは汲んでくれる関係である。

 

「秋蘭」

「勝負は水物です。まして相手は華雄軍の精兵であり、凪は将としては此度が初戦。情状酌量はあっても良いかと思いますが、兵半数の損害とあっては無視もできません。連合においては別命あるまで後方にて待機。領地に戻って後は将より一等降格。損耗した兵を新兵の中から調練し補充させる……将への復帰はその後の功績次第ということでよろしいかと」

「春蘭」

「華雄軍の兵の質は帝国内でも有数であり死兵ばかりでした。凪の兵の質は当座申し分ないと私も思いますが、流石に相手が悪かったように思います。寛大な沙汰を願います」

「桂花」

「この戦が終わって後のことを考えれば兵は勿論ですが将の損耗はより避けるべきかと。適当な罰を与えてほとぼりが冷めたら復帰させるべきです」

「皆凪を庇うのね……まぁ、私も同意見だけれど。という訳で私を含めて貴女を庇うということで意見が一致したわ。当面後方にて待機。他の隊の支援活動に従事すること。損耗した兵の補充は貴女の仕事になるわ。しばらく忙しくなるだろうけど覚悟しておきなさい」

「寛大な沙汰に感謝します」

 

 命を落とした兵もある。調練に手を抜いていた訳ではないがあまりに処分が軽いようだと下への示しがつかないというのが凪個人の考えだった。当然のことながら上が決めた処分に異論はなく、まして想像していたよりも軽い処分だったのだから凪の立場からすれば文句を言うのも筋違いである。

 

 個人として納得がいかなくても上から示された『温情』を不適当であると下が突っぱねることは、上の顔に泥を塗ることになる。上から沙汰が下された以上、下の人間はそれを是とするしかないのだ。沙汰を決めるのはそもそも凪の仕事ではない。

 

 失点はこれからの働きで挽回するより他はない。退出を促す秋蘭の声に一礼し、退出しようとした凪の背に華琳が声をかけた。

 

「一つ聞いておきたいのだけれど、凪。貴女、北郷一刀という男とはどういう関係なの?」

 

 華琳の質問の意図が解らなかった凪は振り返った。苦虫を百匹くらい噛み潰したような顔をしている桂花が見えたが、それは無視する。

 

 先の戦闘の報告書にはありのままを書いた。北郷一刀というのは苦戦してた所に甘寧隊から援軍でやってきた部隊長で、汜水関に攻め入る際にも凪は同行させてもらっている。

 

 率いる兵の数を考えれば、三千の将である凪が五百の長である一刀の風下に立ったことになる。有事の際ではあるが角が立つと言えば立つだろう。そういうこともあってもう少し処分は重くなるものと考えていたのだが、それはともかく。

 

 一刀の名前を知ったのも知己を得たのも、汜水関で助けに来てくれた時が初めてだ。凪の解る範囲での部隊の内訳と兵の練度や指揮についての感想は添えておいたが、個人的な関係を匂わすような描写はしていないはずである。

 

 彼らについて聞かれるのならばともかく、個人的な関係を詮索されるようなことは書いていないはずなのだ。もしや彼に何か不利になることが起こったのかと心配する凪に、華琳はその不安を和らげるように小さく笑みを浮かべる。

 

「その北郷一刀からね、貴女と兵が勇猛に働いてくれたことに対する感謝の手紙が来ているのよ。貴女が戻ってくるよりも早く届いたから、戻ってくる途中に書いて急いで届けさせたのね」

「それは……」

「勿論、貴女に対する沙汰に関して口を出すようなことは書かれていないわ。貴女が具体的にどういう助けをしたのかも書かれていない。極めて具体性を欠いたお手本のような『感謝の手紙』な訳だけど、そこにどういう意図があるのかは見て取れるわ」

 

 他の軍の人間が沙汰に干渉するのは角が立つから、実際にあった内容には全く触れずに感謝の気持ちだけを伝えているのだ。凪よりも早くそれが届いたのはそれだけ凪に対する風当たりの強さを慮った結果だろう。兵半数の損耗は軍によっては首が物理的に飛びかねない大事だ。

 

 手紙の内容よりもそれが届くまでの事柄で内心を伝えている。これでも全く角が立たないという訳ではない。回りくどいやり方でも意図は伝わっているのだから、華琳の立場からすれば干渉されていると言っても良い。

 

 まして相手は五百人を率いるだけの人間だ。北郷一刀から見れば自分は彼の雇い主である孫堅と同等の立場である。華琳がこれを騒ぎ立てれば自分の立場を危うくする。今はどこの勢力もぴりぴりしている時期だ。その程度の危険も予測できないほどのバカが大事な初戦の一翼を担うとも考えにくく、結果として凪とは元からの知人である可能性に思い立ったのだが、凪の反応を見るにそうではないらしい。

 

「この手紙が貴女の命を救ったなどということは決してないけど、自分に対して行動を起こしてくれた人間のことは忘れないようにしなさい。後で感謝の手紙でも書いておくことね」

 

 特に問題はないということを強調すると凪は深く頭を下げて足早に退出した。幕舎にやってきた時よりも軽い足取りに、華琳は口の端を上げて笑う。

 

「あれは今晩北郷とやらが閨に訪れたら身体の一つも差し出すわね」

「その前に手折るのが華琳様の趣味だと思っておりましたが」

「理解のある臣下を持てて幸せよ。さて、件の北郷だけれどマメな男だと思わない?」

 

 からかうような声音の華琳に秋蘭は苦笑を浮かべ頷いた。出世に貪欲な人間は方々に顔を繋ごうとするものだがそれにしても仕事が細かい。凪を有望と見たのだとしても少々行き過ぎなように思う。

 

「凪ではなく華琳様に繋ぎを取りたかったのでしょうか?」

「それなら最初から私の所に来るのではなくて? 私も北郷団の名前くらいは聞いたことはあってよ」

 

 黄巾の乱からこっち各地で大小様々な集団が起こった。その多くは既に潰えたが今も勢力を維持拡大している集団もある。公孫賛の所で大活躍した関羽の一団はこの筆頭であり、北郷団はそれに次する集団の一つだった。

 

 筆頭の関羽たちに兵数では大きく溝を開けられているものの、『神算の士』郭嘉を筆頭にその筋には知らぬ者のいない智者を複数抱えておりその動向には華琳も注意を払っていた。自分の所に来るならば温かく迎えてやるつもりだったのだが、連合軍結成の折彼らは孫呉軍へと合流した。

 

 その判断は解らなくもない。彼らが根城にしていた荊州からだと集合地に到着するまでの間に合流できる大勢力は孫呉軍しかなかったし、勢力の中で出世するにしても手柄を立てて独立するにしても、あちらの方がやりやすいことは華琳にも解った。

 

 何より自分が北郷たちの立場ならば曹操軍には来ない。自分の能力に自信があるのならば猶更、独立の目がある方に行くのは当然のことだ。曹孟徳は才能ある人間を逃がしたりはしないのだから。

 

 それに激情家の孫堅のことだ。共に戦った凪ならばまだしも、他の勢力の代表とこっそり繋ぎを取ることに良い顔をしたりはするまい。詰まる所現時点でさえ全てが公になれば北郷の立場は危ういのである。最終的な目標がどこであれ北郷たちの今の代表は孫堅なのだ。

 

 いずれにせよ北郷がこちらに秋波を送るにしても今更感は拭えない。単純に凪を心配してという方がまだ筋は通るがそれだとやはりマメな男だという結論に帰結する。評価をするに値するにはするのだけれども女として微妙に気持ち悪さも覚えた。万事この調子なのだとしたらそれはそれでお付き合いは考えなければならない。過ぎたるは猶及ばざるが如しである。

 

 結論として華琳の北郷一刀に対する評価は注目するに値する、という微妙なものだった。集団として見れば軍師たちのこともある非の打ちどころがないと言っても過言ではないが、軍師たち全員が北郷に紐づいているのであればお得ではあるけれども、その逆とも考えられる。

 

 釣り上げる前提であれば北郷一人だが、逃すのであれば彼ら全員である。引き抜く前提で行くのであれば、接触には注意を払う必要があるのだろうが、恐々と手を伸ばすのは弱者のすること。曹孟徳のすることではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、そこでかわいい顔をしている桂花。知っていることを全て話しなさい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 適当に桂花をいじめながら彼女から情報を引き出した華琳は、ならばと直接北郷に会うことにした。およそ桂花から彼を誉める言葉は聞けなかったが、説明を強いたとは言え桂花が男性についてここまで長時間も話すのは初めて聞いたからだ。

 

 桂花の口からは男性の名前が出てくることさえ稀であるし、出てきてもその評定は一言二言で済ませてしまう。好悪の向きは別にしても桂花が強い興味を持っていることは察せられた。

 

 早速、孫堅軍に人をやって北郷に会いたいという旨を伝えたら、彼は公孫賛軍に趙雲の見舞いに行っていると言われ出鼻を挫かれてしまった。他の軍の人間に会うのにさらに他の軍の陣地に行くというのも妙な話であるがそれもまた一興であると、時間を貰えるなら一席設けるという孫呉からの使者に丁重に断りを入れて送り返し、華琳は腰をあげることにした。

 

 これには桂花がそこまですることはないと烈火の如く反対したのであるが、貴女も行くのよと言ってやると無言になってしまった。それは嫌だとはっきりと顔に書いてあったがしかし、主張はしてこない。

 

 基本桂花は聞き分けが良く、自分の言うことに対して口答えなどはしてこない。

 

 華琳から見ればよく躾けられた犬のようであり実に愛らしいのだが、この態度が自分の前だけであることを華琳は良く知っていた。華琳以外の人間には好き放題に物を言い、男嫌いを公言しているだけあって特に男性への風当たりが物凄く強い。

 

 全員が女性で編成されている親衛隊以外、男性がいない職場というのは存在しないのだが桂花の周囲だけは例外的に全て女性で固められている。高い才能に我儘はつきものというのが華琳の考えだ。我儘放題してもそれを補ってあまりある結果を出すならば華琳としては文句はない。

 

 これは桂花に限った話ではなくおよそ華琳が才人と認めた人間には最低限業務に支障が出ない範囲内で好きにさせているのだが、文官の中では誰よりも結果を出し、かつ華琳のその方針が軍団内に知れ渡っているにも関わらず、周囲の桂花に対する評価は良くはない。

 

 男性には立ち上がれなくなるくらいに罵詈雑言を浴びせるだけで女性に優しい訳では決してない。子供相手には多少の手加減をするが、桂花は万事において評価が厳しい。これでは好かれるはずもなく機会さえあれば桂花を蹴落とそうという人間も少なくないのだが、図らずもその環境が彼女の優秀さを際立たせることになっていた。周囲に嫌われていても結果を出せるのであれば、その才能は本物だ。

 

 その孤高さは華琳にしてみれば頼もしくもある。とは言え周囲全て女性であの評判。男に対してはあの態度なのだから近づいてくる男性などこの世に存在しまい……くらいに思っていた華琳だったが、公孫賛の陣地を訪れるとその例外を見ることになった。

 

 世の中広いものだと心底感心する。同じ立場であれば華琳なら二、三発は蹴りの飛んでいそうな罵詈雑言を笑顔で聞き流していた。そのへらへらした態度が気に食わないのか会話の合間に桂花からはガンガン蹴りが飛んでいたが脛を蹴り飛ばされながらも北郷は平然としている。

 

 閨の桂花のような被虐趣味かと思えばへらへらしつつも至福という感じではない。楽しいとは思いつつもこれを当然として受け止めている。度量が広いのか感性が鈍いのか。いずれにせよこと桂花の周囲に置く男性としてこれほど適当な人間もいないだろう。

 

 こういう性格の娘がこんな男を連れてきたのだ。その実家に一月も滞在していたというのだから、ご母堂を始め荀家の人間たちの受けも良かったに違いない。下手をすればこのまま婿になんて話があってもおかしくないはずなのだが……桂花からはそういう報告は聞いていない。

 

 あってもよほど強く問い詰めない限り口を割らない気もするが、まぁ、相手のことを何でも知っておきたいというのも無粋な話だ。

 

 その仮想婿殿の話である。桂花がああまで言うのだから二目と見れない程のブ男を想像していたのだが、実際に会ってみると北郷一刀というのはまぁまぁ見れる面をした優男だった。兵としては細身であり上背はそれ程でもない。流石に華琳よりは大きいが、それなりの都会でそれなりに遊んでいるのが似合いそうな顔だちであり、間違っても戦場が似合うような厳つさはない。

 

 都で洗練された男を見慣れた華琳からすると美形に分類するには抵抗のある面構えだ。中の上と言った所で上に分類はされまい。街ですれ違ったとしてもそのまま気にも留めなかっただろうその男が、今目の前でにこにこしながら桂花の罵詈雑言を聞き流して――いない。彼はしっかりその内容に耳を傾けて一々相槌を打っていた。ますます頭がおかしい。

 

 これは特殊な趣味をしているのではあるまいな、と聊か微妙な気分になりつつ、目を横に動かす。元々二人で話でもしていたのだろう。えらくめかし込んだ様子の関羽が一刀から僅かに離れた所で立ち尽くしているのが見えた。

 

 むりやり感情を押し殺しているのだろう。血の滴る両の拳から控えめに言って激怒しているのがよく解る。それでも声を荒げたりしないのは一刀の立場を慮ってのことだろうか。音に聞こえる程の武芸者だ。よく我慢しているものだと思うが、それだけ一刀への思いが強いということなのだろう。

 

 程よく()()()その表情に華琳は全てを忘れて関羽を落としてしまうことも考えた。人間、物事が思い通りに行っていない時ほど心に隙があるもので、華琳の感性が今ならいけると告げていた。実際、懸想している相手が見知らぬ相手に罵詈雑言を浴びせられてへらへらしていたら、色々思う所はあるだろう。千年の恋が一瞬で冷めるというのもないではない。

 

 視線が強く桂花に注がれていることから一刀のふがいなさではなく桂花の物言いに激怒しているのだと見て取れるのは、一刀にとって幸いなのか。眼前の男女の関係は程よく良好のようで微笑ましい。

 

 北郷の精神的な特殊性癖は桂花と付き合う上では美点でも、他に女がいるのならそうとは限らない。そこを美味しくいただくのは華琳の得意技でもあったのだが、部下の礼を言いに来た場で修羅場を演出する訳にもいかない。自分の間の悪さを天に呪いつつ、

 

「そう言えば荀彧。実は俺少し背が伸びたんだよな」

「へーそうなの。全く興味がないんだけど」

「まぁ聞いてくれよ。その背が伸びた俺から見て、前に会った時よりも視線が近いように見える。俺より背が伸びたんじゃないか?」

 

 とっさに出てしまった反応だったのだろう。満面の喜色を浮かべ顔を挙げた桂花は、視線の先にいるのが北郷であることを思い出すと顔を真っ赤に染めながら奇声を挙げて、凄まじい勢いで北郷を蹴り続けた。そんな桂花を心底楽しそうに眺める北郷に頭痛を覚えた華琳は、視線で人間を射殺せそうな顔をしている関羽を見ないようにしながら、大きく咳払いをした。

 

「桂花。楽しいのは解るけれど私を紹介してもらえるかしら?」

「……申し訳ありませんっ。華琳様、こいつは北郷一刀。私の知人です。北郷、こちらは私の主人である曹操様よ。無礼な口をきかないように」

「お噂はかねがね。お会いできて光栄です」

「うちの子を助けてくれて感謝するわ。貴方が助けに入ってくれなければあの子も無事ではなかったでしょう。苦労をかけたけれど、これに懲りずに付き合いを続けてもらえると助かるわね」

「こちらこそ楽進殿には大いに助けていただけました。関係を続けるのは願ってもないこと」

 

 荀彧がここに来たのも想定外ならその主の曹操が現れたことも想定外だ。この世界に来る前よりは多少マシになったとは言え、一刀は自分の頭のデキを全くと言って良い程信じていない。平均よりはマシという自覚はあるがそれはあくまでこの時代の教育水準が低い故のことだ。

 

 下々が学ぶ余裕がない社会であるが故に下流層の教育水準はびっくりするほどに低いが中流以上の家庭では子女の教育に力を入れており、上流層の所謂『知識人』などと呼ばれる連中は本当に知恵者だ。

 

 学び始めるのに遅いなどということはないとその知恵者たちは言うのだが、それはできる人間特有の余裕である。早ければ早い程、かけた時間が長ければ長いほど基礎の力というのは開いて行くものなのだ。

 

 そんな恵まれた環境の中にあり、更に才能に恵まれ、その中でも一際輝くような天才がいる。一刀団では郭嘉などの軍師たちがそうであるし、公孫賛軍においては朱里などがそうだ。

 

 違う集団に所属する一刀の耳にさえ、傑物の情報というのは嫌という程集まってくる。

 

 その中でも『曹操』という人間は傑物中の傑物として評判だった。早い話が一人では関わり合いになりたくない人間の筆頭である。

 

 あたりさわりのない言葉を適当に並べながらも、一刀は如何にこの場から逃げるかを考えていた。雛里たちが戻ってきてくれるのがベストなのだが、気を利かせて席を外した人間がすぐに戻ってくるとは考えにくい。

 

 状況から考えて隠れて覗いていても不思議ではないが、それなら曹操が現れた段階で特に雛里はすっとんで来てくれるだろう。今来ていないということは本当にこの近くにいないのだ。曹操がやってきたということは遠からず伝わるはずで、そうなれば雛里もやってきてくれるはずだが、それが一刀がボロを出す前になるかどうかは天の差配に任せることになった。

 

 せめて三国志知識でもあれば違ったのだろう。もっと勉強しておけば良かったと思う毎日だが過去は変わるものではない。手弁当で一刀が引っ張り出した曹操に関する知識は人材マニアであること、当時の男性にしても背が小さかったらしいことと、同じクラスだった及川が『ならばよし!』と一時期言いまくっていたことくらいだ。何かのマンガに出てきた『曹操』の台詞なのだそうだが、その知識は金髪縦ロールの美少女を相手に何の役にも立たなかった。

 

 同様に男性にしては背が小さいという情報もあまり役に立たない。目の前の、直感で判断するにおそらく年下であろう美少女は確かに小柄だったが、視線には言いようのない力があり、佇まいが既に大物だった。

 

 往年の漫画ではよく大柄な不良が威圧的に振る舞うシーンが見られるが、小柄であろうとそれどころか美少女であろうと怖いものは怖いのだと良く解る。

 

 そのまま時代の行く末だの今後の展望だの聞かれたらどうしようと当たり障りのないことを答えながらも心中身構えていた一刀だったが、曹操はそれこそ本当に当たり障りのないことを二三言交わすとそのまま荀彧を連れて踵を返してしまった。

 

 一つの軍団のボスが他陣営にまで来たにしては帰るのが早い気もする。一刀としては願ったり叶ったりであるが、一体何をしに来たんだろうという疑問も残った。

 

 言葉の通り本当にお礼を言いに来ただけという風にも見れるが、自分を見定めに来たようにも思う。合理的というかデキる女というか。郭嘉のように話してみれば意外と気のいい奴だと解るのだろうけれども、あの手のタイプは取っ掛かりができるまでが難しい。

 

 もう随分とこちらの世界にいるような気さえする。それだけこちらに来てからの生活がそれまでに比べて濃いということでもあるのだが、過ごした時間だけを見れば元の世界での方が長い。同年代以下に郭嘉や曹操のようなタイプは全くいなかった故に、一度身構えてしまうと微妙な苦手意識が首を擡げてくる。

 

 学校で堅物教師を目の前にしたかのような緊張感とでも言えば良いのだろう。郭嘉たちの指導のおかげで人付き合いにも慣れてきたと思っていたのだがまだまだだったようだ。去りゆく曹操の背中が見えなくなるまで見送ると、一刀は深々と溜息を吐いた。疲れる時間はこれで終わりだ。さて、と振り向き関羽を見て、一刀は驚きで目を見開いた。

 

「関羽殿、お手を」

 

 は、と気づいた関羽は何も考えず言われた通りに手を差し出し、その段階でようやく自分の手が真っ赤になっていることに気が付いた。自覚するとじくじくとした痛みが襲って来る。兵として将として痛みには慣れている。この程度大したことではないが愛紗は羞恥で顔を真っ赤にした。

 

 自分を制御できなかった故の自傷がかっこいいものであるはずがない。まして憎からず思っている相手の前で恥をさらすとなっては、愛紗の性格では平静でいられるはずもなかった。

 

 走って逃げたい衝動に駆られていたが手は既に一刀に握られている。その事実がまた愛紗の混乱に拍車をかけた。だって手を握られているのだ!

 

「貴女が怒ってくれたことを、俺はとても嬉しく思います。これだけ怒りながら口を噤んでいてくれたことには感謝しかありません。ですが、そのために貴女が傷つくことは本意ではありません」

 

 何か嬉しいことを言ってくれている……ような気がするが愛紗の視線はぼんやりと握られた手と一刀の顔を行き来していた。猫耳頭巾相手にムカついたばかりだがこんなことがあるのなら全てを広い心で許せそうな気がしないでもない。

 

「今日は日が悪いようなのでまたいつか、時間を取っていただけませんか? お茶でも飲みながらゆっくり話をしたいんですが――」

 

 

 

 何やら色々言われたような気がするが、その内容を愛紗はほとんど覚えていなかった。彼女が正気を取り戻したのは一刀がその場を辞し、席を外した雛里たちを探しに行った数分後、入れ替わりに戻ってきた静里に声をかけられてからのことである。

 

「よー愛紗。何か曹操が来たって話なんだが一刀とはどうだった? 接吻の一つもしたか?」

「手を握られた! 今度、一緒にお茶をすることになったぞ!!」

 

 空に浮かびそうなくらいに舞い上がっている愛紗の姿に静里は思わず目がしらを抑えた。男なら思わず飛びつきたくなるような身体をしているようなこの女が、学院に入学したての後輩たちよりも初心な反応をしていることに一種の哀れみを覚えたのだ。

 

 男性とお付き合いなどしたこともない静里であるが、子供を作るような行為が逢引の約束のように十分な時間を取って事前に示しを合わせて行われるものでないことくらいは察しがつく。手を繋いで舞い上がるような女が十全に種付け行為を行えるとも思えないし、愛紗有責で失敗などした日には彼女は羞恥で腹でも斬りかねない。

 

 静里にとって初めての男性の友人である一刀は気の良い男だ。可愛い先輩たちのためにもあの男には是非ともつつがない性生活を送って経験を積んでおいてほしいものなのだが、比較的良い位置にいるはずの愛紗は経験値になりそうもない所か、良くない経験を積ませそうな気配さえあった。

 

 

 

(こりゃうちの先輩たちの方が早く女になるかもだな……)

 


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