真・恋姫†無双 一刀立身伝(改定版)   作:DICEK

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第030話 反菫卓連合軍 合流編④

 

 

 

 

 

 

団を結成する前から一刀が思っていたことだが、この世界は娯楽がとても少ない。

 

 勿論この世界なりに人生を楽しんでいる風ではある。一刀も女遊び以外の様々な娯楽に手を出したが、現代日本に比べると選択肢がとても少ない。テレビはない。ラジオもない。車は全く走ってない。歌と違うのはこんな村は嫌だと洛陽に行った所で現代人である一刀の目から見ると文化レベルはそう変わらないということだ。

 

 郭嘉に言わせれば物を楽しむ余裕がないということらしいのだが、このもやもやに一刀は自分が皆に貢献できるところはここだと考えた。腕っぷしでも頭のデキでもこれが一番と思えることがなかった一刀にとって、自分しか知らないことというのは武器になる。

 

 問題はその全てが実用化に至る訳ではないということだ。

 

 物を楽しむ心の余裕がないのだと郭嘉に言わせればそういうことになるのだが、腕っぷしでも頭のデキでもいまいち団に貢献できない一刀は自分に何ができるのかを考えた。最初は現代知識をこちらで応用できないかと考えたのだ。小説などで良く見る展開であるが、その技術を取ってみても、一刀はそれがどうしてそうなるのかを説明できなかった。

 

 例えば一刀は火薬が硫黄と硝石と木炭でできていることを昔の漫画を読んで知っていたが、硝石がどういうものでどこで取れるのかを郭嘉に説明できないし、そもその3つが揃った所でどういう風に火薬にするのかも分からない。解っているのは製造の過程も相当に危険だということだけだ。

 

 よしんば硝石と確信の持てるものが手に入ったとしても、適当な作業で皆が吹っ飛ぶということにもなりかねない。これは危険な例ではあるが、危険を伴わないものでもほとんどの案が実行以前に軍師たちに却下されてしまった。早い段階でゴーサインが出たのは、団員の識字率の向上のための教育くらいのものである。

 

 これでも一刀は挫けなかった。一つしか採用してもらえなかったのではなく、一つ採用してもらえたと考えた。土台他の分野で貢献できる可能性は低いのだ。数撃てばその内一つ二つは当たるだろうと、頭の中で話を練り、ある程度形になった所で郭嘉たちに相談するというのが一刀の日課になっていた。

 

 その中で、孫呉軍に向かって移動を開始してから提案し、採用されたものが二つあった。

 

 ルールがあまり複雑でなく、大量の道具を必要とせず、できれば大勢で楽しむことができ、観戦もしやすい……そうして残ったものがドッジボールだ。

 

 道具はボール一個あれば良く後は地面に線を引けば良い。ルールも球技にしてはシンプルだ。ボールをどうやって確保するかが問題であるが、それもまた楽しみと皆で色々なボールを作って試行錯誤している最中である。一刀団の訓練は厳しいのだが、その訓練の後でもやれるくらいに団員たちはドハマりしている。

 

 一刀団は五百人いるので、十人隊ごとにチームを作って対抗戦だ。そのスタイルを崩さず、それを孫呉軍に合流してからも続けていたのだが、見たことのない娯楽に早速孫呉の荒くれものたちも食いついた。

 

 一刀の世界ではどちらかと言えば低年齢向けのスポーツである。対して孫呉軍甘寧隊の面々はひげ面のいかつい男ばかりで、脛に傷があるものたちばかりだ。一刀団で流行ったのはたまたま。まさか誰でもどこでも流行る訳ないさと適当な気持ちで勧めた所、ひげ面の男たちまでドハマりしてしまった。

 

 一刀団でのブームが、甘寧隊全体に広がった形である。甘寧隊は元々五千人おり、一刀たちが加わって五千五百人になった。十人隊単位での勝負は変わらずだったので五百五十組も相手がいる計算になる。よりどりみどりだ。

 

 それだけいれば試合時間も長くなり、展開が間延びするのではという懸念があったのだが、そこは荒っぽいひげ面の男たちである。避けるのだけ上手いしかも人気者でない人間が最後に残り、クラス全体が興ざめするような事態にはならなかった。

 

 彼らは基本渾身の力でボールを投げて相手を殺しに行くし、受ける側もボールを避けない。慣れない内はボールがあらぬ方向に飛んでいったりもしたが、慣れてからは常に全力投球だ。

 

 手に汗握る戦いとはまさにこのことで、やる人間も見ている人間も常に気合十分。頑張れくらいの感覚でぶっ殺せ! という言葉が飛び交う様は、小学校の体育の時間程度のレクリエーションを思い描いていた一刀の計画とは大分乖離してしまったものの、一緒に何かをするという目的は達成できたし、新しい集団に属するに当たりそれを足掛かりにすることもできた。

 

 隊長である甘寧を始め、シャンや梨晏など実力差のありすぎる人間を『面白くなくなるから』という理由でハブにしているのは心苦しく、当の本人たちからちくちく苦情を言われるが、楽しいドッジボールを続けるためにはそれも仕方のないことなのだ。

 

「熱中している貴様らには申し訳ないが、今日はどっじぼーるはなしだ」

 

 だから甘寧にそう言われた時、一刀を始めとした男性陣は本気で彼女が報復に動き出したのだと感じた。

 

 なんだってー! と普段は鬼将軍と恐れている甘寧相手にも遠慮なく怒号が飛ぶ。最近の彼らはそれを楽しみに生きているようなものだ。甘寧が相手でも物怖じしない。遠慮なく文句をぶつけてくる部下たちに流石の甘寧も動揺するが、いくら文句を言われたところでその決定を覆す訳にはいかなかった。

 

「あと二日もすれば連合軍の勢力圏に入る。そこからは宴会などはできんだろうから、ここらで最後に羽目を外しておこうという炎蓮様の計らいだ」

 

 地獄の鬼よりも怖い孫堅の名前が出てくると、荒くれ者たちもシンと静まり返ってしまう。鬼を恐れない無軌道な荒くれ者でも、鬼を素面で叩き殺す孫堅のことは怖いのだ。一度静かになってしまうと、もう反対意見は出てこない。

 

 それに彼らはドッジボールがしたいだけであって宴会をやりたくない訳ではなかった。一刀団がドッジボールを伝道してから初の中止の憂き目を経て、孫堅主催の宴会が開催された。

 

 あれだけ気性の荒い孫堅の主催である。どれだけ緊張感の溢れた催しものかと戦々恐々としていた一刀だが、当日になってみて驚いた。皆が非常にリラックスして宴を楽しんでいるのだ。飲み食いは自由で酒も出ている。そこかしこで笑い声が響いており、肝心の孫堅の姿は見えない。

 

「静かに飲みたい人間には、聊か苦痛かもしれんがな……」

 

 そう言う甘寧は静かに飲みたい派だったらしい。部下たちには好き放題にさせ、自分は同じく静かに飲みたい人間を集めてちびちびと酒を飲んでいた。周囲にいるのは一刀団の軍師三人とシャン。後は甘寧隊の方々を回ってようやく解放された一刀である。

 

 梨晏はバカ騒ぎしながら飲みたい派であるので、ひげ面の荒くれ者に紛れて大騒ぎをしている。男の中に美少女が一人いて大丈夫かと心配にならないでもないが、ちんちくりんの彼女はここでも少年扱いされているため問題ない。仮に手を出すようなアホがいたとしても腕っぷしで彼女に勝てるはずもないのだ。

 

 単体で戦うのであれば、孫呉軍全体でも甘寧以上を連れてくるしかなく、数を頼みに押し切るのであれば、勇猛果敢で鳴らす孫呉の兵でも百人は必要だろう。美少女をどうにかしたいという願望は男として理解できなくもないが流石にそこまでの犠牲を払って手を出すバカもいまい。

 

「ここまで大規模になるとは思ってもみませんでした」

「未練全てをなくすことはできんだろうが、これから死地に行く人間には良い思いをさせてやろうという炎蓮様の計らいだ。下手をすれば全員が死ぬということもありうる訳だからな」

 

 全く笑顔など浮かべずに言う甘寧にそれが何一つ冗談ではないのだと思い知る。国の歴史の流れを変える転換点になるだろうことは一刀にも解る。ここで菫卓を討てねば、他の勢力に目はなくなる。菫卓にとってはここが正念場だ。

 

 では菫卓を討てれば戦は終わるのかと言えばそうではない。諸侯の力を結集して菫卓に対抗するということは単体で菫卓に匹敵する勢力は皆無ということだ。連合軍においての武功により戦後の序列が決まり、全員がそれに従うという取り決めが仮にあったとしても、守られるはずもない。

 

 結局の所、菫卓以外の誰かが今彼女が座っている椅子か、それに近いものを手に入れるまで戦は続くのだ。何も関係がない庶民にとってはたまったものではないだろうが、この時代の戦は主に権力者の都合によって引き起こされるものである。そうでない人間にそれを止める力はない。黄巾の乱から続く戦に、まだまだ終わる気配は見えない。

 

 不謹慎な話であるが、戦を生業にしている連中にとっては今がまさに稼ぎ時、名前の売り時なのだ。功名心のため、金のため、孫呉軍に合流した人間の中にも、色々な考えの人間がいる。孫の旗に忠誠心を持っている人間は、地元を出発する時から従軍している面々くらいのものだ。

 

 一刀を始め、それから合流してきた人間には、それぞれの思惑がある。一刀にとっても、戦が続くということは良いことではあるのだが、過ごしてきた時代が平和だったせいか、戦乱が日常的に続く環境というのはストレスが溜まるものだ。

 

 早く平和な世の中になってほしいものだが、自分の考えを世に知らしめるためには結局の所力が必要で、それを得るためには戦うしかない。人が死なずに物事を進められるように、今の世の中はできていないのだ。自分の生まれた国は平和だったんだな、と心底思う瞬間である。

 

「前から思っていたのだがな、北郷」

 

 一人でしんみりしていた一刀に、甘寧が声をかける。静かに飲みたい甘寧だったが、沈黙の中で酒が飲みたい訳でもない。普段の彼女からすれば珍しく、自分から会話を切り出すことも多い。何ですか、と空になっていた甘寧の椀に酒を足しながら問い返す。

 

「お前はもう少し良い剣を持ったらどうだ?」

「いえ、用意しようとは思うんですが中々……」

「貴殿が荷物の奥に後生大事に剣をしまっているのを知っていますよ」

 

 椀に視線を落としたまま、郭嘉がぼそりと呟く。機嫌が悪そうに見えるのは気のせいではない。一度も顔を合わせたことがないはずなのだが、どういう訳か郭嘉の荀彧に対する好感度は最悪なのだ。剣のことは荀家であったことを詳らかにした時に話したので、郭嘉だけでなく幹部連中は皆知っている。

 

 そして特に郭嘉の好感度が低いだけで、他の面々が高い訳ではない。幹部連中は誰も彼も、一刀が荀彧の話をするのが好きではなかった。居並んだ仲間にじっとりとした視線を向けられると、持ってこないという訳にはいかない。

 

 一刀は自分の天幕に戻ると荷物の中から袱紗を取り出し戻ってくる。最近は袱紗から出すこともしていなかったので団の中にはその剣の存在すら知らない人間もいるくらいだ。袱紗から鞘ごと剣を取りだし、柄の方から甘寧に差し出す。

 

 差し出された剣を見て、甘寧は少なからず落胆した。後生大事にしているというからどんな華美な剣が出てくるのかと思えば、柄も鞘も無骨な造りである。拵えがしっかりとしているのはこの時点でも解るが、それを使わずにしまっておくとは何と贅沢なことだろうか。

 

 物を大事にするという感性そのものが悪いという訳ではないが、それを命と秤にかけてしまうのはやりすぎだろう。命あっての物種だ。取り分け、良くも悪くも一刀は孫堅のお気に入りでもある。何かあってはコトだと思いながら鞘から抜き、そして甘寧は呼吸を止めた。同様にある程度刀剣の良し悪しの解るシャンも目を丸くした。まさかこんな剣が出てくるとは思ってもみなかったのだ。

 

「そんなに良い剣なのですか?」

「知らずに持っていたのか?」

「世話になった方からの餞別で頂いたものなんですよ。下手に扱って折りでもしたら、後で怒鳴られそうで……」

「これを折るのは相当な労力を使いそうだがな」

 

 手に持った剣を甘寧は振り抜く。この時代の剣に標準の規格というのがある訳ではないが、甘寧の基準では一刀の剣は少しだけ短く感じる。その割に重いのはこの剣の持つ特性故だろう。

 

「間違いなく業物だ。私や明命……周泰が使っているのと同程度と言ったところか。切れ味はともかく頑丈さで言えばこれを凌ぐ剣はそうないと思うぞ」

「……大事にしまっておいた方が?」

「いや、その剣は使うべきだ。鑑賞ではなく実用を考えて打たれた物なのは間違いないが……その割には全く使われた様子がないな。お前にこれを贈った人間はどういう奴なんだ?」

「文官ですよ。来歴はよく解りません。ただ贈られただけなので」

 

 返された剣を、一刀は剣帯に吊るしてみた。いつもと違う感覚に違和感を憶えないでもないが、これが荀彧からの贈り物であることを思うと、しっくりくる気がした。剣を見下ろしてにやにやしている一刀を見て、郭嘉たちの機嫌が急降下する。

 

 ぎり、という小さな音を敏感に察知した甘寧が、僅かに一歩退いた。これから良くないことが起こる。色恋沙汰に無駄に絡んで良いことがあるはずもない。しかも酔っ払いならば猶更だ。ここはほとぼりが冷めるまでだんまりを決め込んでおこうと甘寧が消えた矢先、それを遥かに凌ぐトラブルの予兆が遠くから聞こえた。

 

「北郷はどこだ!」

 

 反射的に立ち上がってしまった甘寧を、誰が責められるだろうか。孫堅の声はまだ遠くにあるが、別に隠れて飲んでいる訳ではない。何もしなくても遠からず、彼女はここまでやってくるだろう。無論のこと、甘寧は孫堅の従者である。こちらを呼ぶ主の声が聞こえたのであれば、何を置いても馳せ参じなければならないのだが、遠くに聞こえた声は明らかに酔っぱらっていた。

 

 気性の激しい人間の例に漏れず、孫堅も多分に酒乱の気がある。正直に言って今時分最も関わり合いになりたくない人間なのだが、甘寧の立場ではそうも言っていられない。一刀たちの間に漂っていた不穏な空気も霧散していた。遠くに聞こえる孫堅の声に、事態がロクでもない方向に転がろうとしていることが軍師たちにも解ったのだ。

 

 しかし、解った所でどうしようもない。甘寧に比べれば自由な立場とは言え、一刀たちにも孫堅から逃げるという選択肢は存在しない。どうあがいた所で迎え撃つしかないのだが、希代の軍師であっても気性の荒い酔っ払いをどうにかするのは、 骨の折れる作業である。

 

 どうしたものかと視線で会話する軍師たちを他所に一刀だけが平然としている。一刀からすれば開き直っているだけなのだが、あの孫堅を前にそうしなければならない人間が他にいるはずもない。一刀の感覚は他者には共有できないものだった。戦場では頼もしいシャンの方が気にしている始末で、彼女は一刀の膝の上で居心地悪そうにしている。

 

 シャンをしても、孫堅は怖い存在らしい。大丈夫だよ、と一刀は小さく呟きシャンの髪を梳きながら孫堅が来るのを待った。

 

「ここにいたか!」

 

 やってきた孫堅は、やはり酔っていた。かなり度が強いらしい酒を酒瓶から直接、水を飲むかのようにガバガバ飲んでいる。一緒に酒を飲む人間は大変だろうなと視線を向ければ、宿将と評判の黄蓋が今孫堅が持っているのと同じ酒瓶を三つ担いでいた。彼女も一軍を預かる将軍のはずなのだが、孫堅を前にするとかたなしである。大変ですねと視線を向けると、それに気づいた黄蓋が小さく笑みを浮かべる。どうやらいつものことであるらしい。誰かに仕えるのは大変なのだなと身を以て理解した瞬間だった。

 

「はい。本日は格別なご配慮をいただき、ありがとうございます」

「詰まらん奴だな。酒を飲むのに配慮なんぞいるものか!」

 

 わはは、と孫堅は楽しそうに笑っている。反対に、周囲の人間の顔が暗くなっていくのが対象的だ。酒を担いでいる黄蓋もそうだが、不景気な顔で黙って突っ立っている孫策と周瑜も印象的だ。

 

「それはそうと、俺に用事とか。どういったご用件で?」

「お前、何か芸をしろ」

 

 しかめっ面をしなかったのは、日頃からの意識の賜物だった。曖昧な笑みを張りつける一刀を見て、孫堅の連れたちは揃って小さく溜息を入った。酔っぱらった孫堅が無茶ぶりをするのはいつものことで、今回はそれが一刀になっただけの話だ。

 

 芸をやる人間にとって不幸なのは、かなりの高確率でつまらん! と怒鳴られて投げ飛ばされることだ。受け身が取れるように投げてくれるだけ、そして拳が飛んでこないだけマシであるが、では何をやっても同じかと手を抜くと、それはそれで怒号が飛んでくる。

 

 豪放磊落を絵に描いたような女傑とは言え、富裕層の出身である孫堅の目と耳はそれなりに肥えているのだ。指名された人間はまさに貧乏くじである。しかも相手が何をやったかは完全に忘れる癖に、つまらんと言ったことと投げ飛ばしたことは覚えているのだから始末に負えない。

 

 誰が見ても面倒臭いと解る申し出に、一刀が動きを止めていたのは一瞬だった。僅かに思案した一刀は、周瑜が脇に抱えていた物に目を留める。

 

「それでは一曲披露いたします。周瑜殿、その琵琶をお貸し願えますでしょうか」

 

 一刀の提案に周瑜は僅かに眉を顰めた。主が性質の悪い酔っ払い方をすると見越した時からいつ芸をしろと言われても良い様に持ち歩いていたものだ。およそ芸と呼ばれるものの中では、音楽が一番自信がある周瑜である。最近披露された芸の中では唯一投げ飛ばされていないと言えばその希少性が解るのだが、音楽の趣味が合わないのか投げ飛ばされないだけであまり受けているという気がしない。

 

 腕に自信がある人間としてはそれはそれで傷つくのだが、周瑜とて立場がある。公然と投げ飛ばされるくらいならば反応がシブい方がまだマシだろうと思って心を無にして先ほども演奏していた所だ。

 

 移動した先で芸を求められた男が、自分と同じく音楽で勝負しようとしている。普通ならばお手並み拝見と行くところだが、これまで出た話題や一刀の立ち振る舞いなどから、彼が音楽に精通しているとはどうしても思えなかった。

 

 自分の琵琶もそれなりに値が張り愛着があるものだ。ズブの素人に渡すのは抵抗があるのだが、この場の主導権は当然主である孫堅にあり、そして彼女が求め一刀がそれに応じた以上、周瑜にそれを拒否するという選択肢はない。

 

 しぶしぶ、というのを顔に出さないようにしながら一刀に琵琶を手渡す。全く危なげない手つきで琵琶を受け取った一刀は弦の調子を確かめるように軽くかき鳴らした。それだけで周瑜は直観する。こいつは完全に素人だ。少なくとも人前で披露するような腕はしていない。おそらく琵琶をかじり始めたのは最近のことなのだろう。様になっているのは持ち方だけで、それ以外はさっぱりだとこの時点で確信が持てた。

 

 同時に不安を通り越して感心さえした。よくもまぁ、この程度の腕前で人前、それもかの孫堅の前で披露できるなと心の底から思った。この男には怖いものがないのかと、孫呉軍の中で評判となっている一刀である。この程度はどうということはないのかもしれないが、長年孫堅を見ている周瑜としては感心するばかりである。

 

 一方、一刀以外の一刀団の面々は気が気ではなかった。周瑜が一目で見抜いた通りに、一刀の腕前は素人の域を出ない。知識人は音楽も教養の一つと、軍師たちは歌も楽器もそれなりに達者であり、今現在はその手ほどきを受けている所で、早い話がド素人だ。

 

「あ、あの、一刀さん! よろしければ私が――」

 

 せめて伴奏くらいは自分がやった方が良いと、軍師の中では一番琵琶が得意な雛里が名乗りを上げるが、酔った孫堅に一睨みされると小さく悲鳴を上げて郭嘉の陰に隠れてしまう。態々一刀を名指しで芸をしろと乗り込んできたのだ。他人の手が入ることを孫堅が好むはずがないのだ。

 

 一刀が妙に自信満々なのもそれに拍車をかけてしまったようで、やってきた時以上に孫堅は乗り気だった。一縷の望みをかけて郭嘉は孫呉側の人間を見回すが、孫策も周瑜も黄蓋も揃って首を横に振った。万策尽きた、と軍師たちは諦めて事の推移を見守ることにした。

 

「北郷の奴は琵琶が達者なのか?」

 

 腕前を全く知らない甘寧から飛んできた質問に、郭嘉は重く、首を横に振った。どうやら深刻に腕が足りていない反応に、甘寧は深々と溜息を吐く。

 

「奴は怖いものがないのか……」

 

 さすがにこの程度の事で首は飛んだりしまいが、誰だって怖いものは怖いのだ。孫呉軍に属する者は大抵孫堅の癇癪を恐れていて、勇猛果敢で知られる甘寧もその例外ではない。それなのに甘寧よりも若く腕っぷしも頼りない男が、孫堅の前で琵琶を抱えて平然としている。

 

 性別の差ではあるまい。おそらく気性の差ではあるのだろうが、酔った孫堅の前で平然としていられる一刀の神経を、甘寧は心の底からおかしいと思っていた。こいつは大物になるのかもなと考える甘寧の視線の先で一刀は演奏を始めた。

 

 演奏自体は、大して音楽に明るくない甘寧でも大したことがないと思わせる程のものだった。開始数秒で孫堅は物を投げる気配を見せたが、それを寸前で思いとどまった。周瑜もその横で眉根を寄せている。音楽に限らず博識で知られる周瑜でも、聞いたことがない曲調だったからだ。

 

 ドッジボールの他に、一刀団で採用されたのが『歌』である。

 

 識字率を上げようと一刀たち幹部が努力していることもあり、一刀団の識字率は他の組織に比べると圧倒的に高いのだが、もう少し簡単に文字を覚えられるような方法はないものかと一刀だけはもう少し先を見ていた。それに娯楽を絡めて発案されたのが歌だった。

 

 読み書きができなくても、言葉を話せない人間はそう多くない。少なくとも一刀団にやってきた人間は全員話すことができた。つまりは歌を歌えるということでもある。それほど教養がなくても伝えられる文化でもあることから、その地方地方でいわゆる民謡のようなものが根付いていることもあった。どんな生まれの人間でも、一曲二曲はレパートリーがあるものだ。

 

 それはつまるところ、一つの筋道の立った文章を大して教養のない人間が正確に記憶しているということでもあった。この歌詞はこういう文字を書くんだよというとっかかりができ、元から覚えている文章だからこそ習熟も早い。ABCの歌とかにはなるほど、こういう根拠があったんだなと効果を実感してほくそえんでいた所、ドッジボールとは別に、皆で歌ったり歌の達者な人間の歌を聴く嗜好が生まれた。

 

 一刀も惜しげもなくレパートリーを披露したが、曲によって受ける受けないがはっきりと分かれてしまった。ポップスの類はほぼ全滅で受けたのは主に音楽の授業でやるような堅い歌ばかり。中でも『流浪の民』は教えた一刀でも信じられないくらいに受けたのだが、今は目の前の孫堅である。

 

 一刀が選んだのはとある女性の黒い瞳を題材にしたあの歌である。その瞳の色を目の前の孫堅に合わせて青く変えている。故郷でやれば寒いことこの上ないが、今時分では本邦初公開だ。この手の曲調は郭嘉や雛里からも聞いたことがないという返事を貰っている。腕が足りない一刀が歌曲で勝負するには意外性でもってするしかない。

 

 勿論、孫堅が聞いたことがある可能性は否定できないし、聞いたことがなかったとしても受けるかどうかはまた別の話だ。一刀とて受けると確信があってやった訳ではない。平然としているのは見た目だけで、内心では殴りとばされやしないかと冷や冷やしていた。

 

 そして心穏やかではないのは、一刀たちだけではない。

 

 その歌詞の内容を知るや、孫策を始め孫呉の大幹部三人は驚いた。それが一人の女性に愛をささやくような歌詞であり、炎なり青い瞳なりと歌詞が良く孫堅の特徴をとらえていたからだ。即興で歌を作ったとは思えない。おそらく元からそういう歌であるのだろう。もしかして瞳の色だけ変えて使いまわしているのではあるまいな、と敏い周瑜などは確信に近いものを得ていた。

 

 同時に、一刀の暗い未来を想像する。気性が荒く鬼神もかくやという程に腕の立つ孫堅だが、その匂い立つような色香は異性を引き付けてやまない。性格が知れ渡っていてもそういう誘いは思い出したようにやってくるのだが、周瑜の知る限り、孫堅はそういう誘いを例外なく色々な意味で叩き潰している。

 

 順当に行けば一刀も例外ではない。本人の能力はともかくとして、今彼をつぶされると軍師三人と腕の立つ人間二人を失うことになる。叩き潰すという主人の判断に異論をはさむつもりはないが、せめて戦が終わるまでは待っていただけないものか。溜息と共に孫堅を盗み見た周瑜は、彼女の顔を見てさらに驚いた。

 

 ド直球の歌詞を前に、あの孫堅が居心地悪そうにしていたのである。

 

 傍目には解り辛いが、物心ついた時から孫堅を知っている周瑜には今孫堅が照れているのだということが理解できた。あの豪放磊落を絵に描いたような女が。優男の愛を囁く歌に柄にもなく照れているのである。正直歌唱も演奏も周瑜の耳にはとても聞けたものではなかったが、心情的にはそれ所ではない。

 

 孫策もそれは同様だ。なまじ実の娘であるだけにその驚きは一入である。連れ合いを失って久しく浮いた話は――たまに派手に行う男遊びは別にして――全くない。娘が三人も生まれていることもあり、再婚を勧める声も全くと言って良いほどなかったが、それは孫堅が再婚を全く考えていないという訳ではない。

 

 大事な戦を前に気持ちが高ぶっていることもあるが、今の孫堅はまさに女盛りと言っても過言ではなく、若い男性である一刀は一夜の相手としては悪いものではない。

 

 遊びで済むならそれでも良いが、なまじそれで子供でもできてしまったらと思うと気が気ではなかった。跡目の心配ではない。家督などその時々で能力のある人間が継げば良いと思っているし、仮に弟妹ができてその人物が自分よりも有能であれば、孫策は喜んで後継を譲るつもりでいる。

 

 ただそれと心情は全く別の話だ。二十も過ぎて今更弟妹ができるというのは娘としては複雑な心境であり、できることならやめてほしいというのが本音だった。まさか本気になったりはするまいが、そうなってしまった場合孫策はこの年下の優男を父様と呼ばなければならなくなる。

 

 一刀からすれば立身出世の近道だ。なりふり構わないというのであれば、軍師たちもそれを勧めるだろう。配偶者のいない異性など、容姿能力に自信のある人間からすればカモなのだから。

 

 だが孫堅の配偶者に収まったとしても、そこで頭打ちというのは目に見えている。袁術に頭を押さえられているというのも、好意的な要素ではない。孫策、周瑜からすればそれを排除するのはもう確定事項であるが、外部の人間からすればそこまで見通せるものではない。

 

 結論として、一刀のこの行いにはそこまで深い意図はないはずだと推察できる。仮に本人に多少の邪な感情があったとしても軍師が止めるだろう。若干の不安を含んだ視線を送ってくる孫策に、周瑜は心配することはないと小さく頷く。

 

 それで、孫策にとっての問題は全て解決した。ならば後は、この状況を全力で楽しむだけである。何しろあの母が優男の愛のささやきに照れているのだ。娘としてこれをからかわない道理はない。

 

「――お耳汚し、失礼しました」

 

 

 一刀の歌が終わる。彼が無事に最後まで演奏を終えたことに、一刀団の面々と甘寧からはまばらな拍手が送られた。勝負所はここであると察した孫策は、誰が口を開くよりも早く一刀に近づき、手を握った。

 

「すばらしいわ! そこで年頃の娘みたいに照れてる母に代わって、私が褒めてあげる!」

「……………………雪蓮。お前、少し黙ってろ」

「はーい」

 

 明確な怒気を含んだ母親の声も、この時ばかりはどこ吹く風だ。娘の軽い態度に気の短い孫堅の額に青筋が浮かぶが、ここで声を荒げると恥の上塗りになることは彼女にも解っていた。孫堅にしては珍しいことに深呼吸して怒りを我慢すると、唸るような口惜しさのにじみ出た声で言う。

 

「まぁ、あれだ。よくやった。いきなり押しかけてそれなりの芸を見せてもらったんだ。褒美でもくれてやろう。何かほしいものはあるか?」

「それでは遠慮なく」

 

 遠慮のない物言いに、甘寧の胃がしくしくと痛んだ。外からやってきた人間であるが、今時分預けられている以上、一刀は自分の部下である。部下の不始末はその上司がつけるものだ。

 

 孫呉では信賞必罰が徹底されている。一刀の振る舞いが不興を買えば、甘寧もまた叱責を受ける。一刀以外の人間がこのような振る舞いをしていたら、どこかで必ず甘寧は孫堅から叱責を受けていたはずだ。今回も甘寧はその覚悟を固めるものの、主から責めるような視線は飛んでこない。

 

 やはりどういう訳か、一刀の不遜とも言える振る舞いは孫堅の琴線に触れているようである。一言で言うならば気に入られているということだが、甘寧にはそれが解せなかった。確かに見るべきところは多々ある。それでも叱責ゼロというのは驚異的だ。

 

 胃の痛みと戦っている甘寧を他所に、一刀は車座になっていた所まで戻り、自分が使っていた椀を持って戻ってきた。

 

 そして孫堅の前に膝をつき、恭しく椀を差し出す。

 

「どうか一献。いただけますか?」

 

 ひとしきり笑った孫堅は、涙をぬぐいながら自ら酒瓶を差し出した。直接口をつけて飲んでいたものだが、酒の席だ。今更こんな優男が気にするものでもないだろう。僅かに濁った液体が、一刀の椀を満たしていく。縁のぎりぎりまで注いだ所で、孫堅は酒瓶を離した。地面に垂れる酒の滴を惜しむように酒瓶を持ち上げ、そのまま自分で一気に呷る。空になった酒瓶を地面に叩きつけて破壊した孫堅は、この上なく上機嫌に笑う。

 

「おう。飲め呑め。それなりに高い酒だ。存分に味わって飲めよ?」

「いただきます」

 

 一口に、一刀は椀を空にした。孫堅が好んで飲んでいるだけあって、非常に度が強い。酩酊感に気を失いそうになりながらも、空になった椀を持ち上げ、小さく頭を下げる。

 

「味わって飲めと言ったんだがな」

「この方が良いかと思いまして」

「違いない! その飲みっぷりは俺への挑戦と受け取ったが、二度も三度もくれてやっては褒美の意味もない。今晩はこれまでだ」

 

 邪魔したな、と孫堅はさっさと踵を返す。それに孫策たち三人も続き、嵐のような時間は去っていった。孫堅の背中が見えなくなってからたっぷり数分の時間を待ち、気の抜けた一刀はその場で気を失った。

 

 




なおここで言う酒瓶というのは覇王丸が持ってるようなものを想定しています。


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