死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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64:悪夢

 雪降る夕暮れ時の雑踏。

 

 あまりに自然な動作で外した視線。

 

 肩が触れそうなほどの距離ですれ違った時の横顔。

 

 一度も振り返らなかった背中。

 

 そして――

 

 

 

 

 

『大丈夫?』

 

 

 

 

 

 地に伏した自分に語りかけた、笑顔。

 

 初めて、その眼は「自分」を見た。

 

 ……だから、殺してしまいたかった。

 

 * * *

 

「や。シルバさん、ひさしぶり」

 

 客間のソファーに座っていかにも不本意そうな顔でソラは挨拶を交わすが、シルバからは返答が少し遅れた。

「シルバさん?」とソラが怪訝そうにもう一度呼びかけると、「あぁ、すまない。ずいぶんと珍しい格好をしているな」とシルバは率直な感想を口にする。

 

 珍しいと言っても、ソラは天空闘技場にやって来た頃のような恰好ではない。

 しかしその時の格好と方向性は対極に近いが、あのウサ耳パーカーと同じくらいソラが「女性」だと一目でわかる格好であったことが、数回程度とはいえ付き合いのあるシルバにとっては意外に思えた。

 

「ただの(ナンパ)よけですよ。あんまりナンパが多いと、キルアが拗ねるんで」

 

 ひじ掛けに頬杖をついてシルバのささやかな疑問を気だるげにソラが答えると、シルバはさらに怪訝な顔をして「……逆効果じゃないか?」と訊いた。

 そりゃ、余計に疑問が深まるだろう。

 

 ソラの格好は以前よりさらに伸びた白い髪をポニーテイルにして、赤いライダースジャケットに白いチューブトップ、デニムのショートパンツというやたらと露出の激しい格好なのだから。

 しかしジャケットが無ければ水着のような格好なのだが、ソラのモデルの理想と言っていいが肉感的ではないスレンダーな体形の所為か、チューブトップもショートパンツも色気を強調させるためのものではないシンプルなものだからか、露出が激しくなってもツナギ姿と印象はさほど変わらず、相も変わらずソラは中性どころか両性、もしくは無性の稀有な美人である。

 

「何か私、髪を下ろしてると男にナンパされやすくて、でも髪を纏めていつも通りの格好してると女にもてるんですよ。だから、髪纏めて一目で女とわかる格好をしてりゃ減るかなと思って実行してみたら、実際に減ったのでこういう格好です」

「なるほ……ど?」

 

 シルバの突っ込みにソラは気だるげなまま答えるが、その答えに一瞬納得できた気がしたがそんなことはなかった。

 だけど実際にソラの言う通りなのだから、仕方がない。

 

 ソラは「美人」を自称しても自意識過剰に見えないどころか、無自覚である方が嫌味なレベルの容姿だが、何度も言うように女性美と男性美が奇跡的なバランスで調和しているが故に両性、もしくは無性的な美人である為、男女問わず「すごい美人」と称賛されるが、恋愛もしくは性的な対象になるかと言えば微妙だった。

 

 どうしても同性であるように感じてしまうので、その手の趣味がない女性でも瞬間的にソラに対してドキッとするように、男はその手の趣味がないからこそソラに対して性的な対象にはならないと、この世界にやって来る前にあまりにソラに構うのでちょっと嫉妬した凛に士郎が言い訳として熱弁し、「それはそれで失礼だろ!」と凛だけではなくルヴィアにも殴られていたが、士郎の熱弁は姉弟子たちの言う通り失礼だが事実だろう。

 

 なのでソラは美人の割にはあまりナンパ等はされない女だったが、髪を伸ばしてからは話は別。

 ソラは髪が長ければ長いほど女性的な雰囲気が増して、「無性の美人」から「絶世の美女」へと形容する言葉が変貌するため、いつも通りの洒落っ気も色気も皆無なツナギ姿でも、誘蛾灯のように恐れ知らずのバカな男どもを惹き寄せ、「髪を下ろしていた方が似合う」とデレたキルアが「お前、髪くくれ!!」と逆ギレした。

 

 髪が長くなれば女性的になるが、その髪を長髪の男がしてもおかしくないシンプルな髪形にしてしまえばソラはまた無性の美人になる為、キルアの逆ギレを実行してみたら男のナンパは確かに減ったが、今度はダボダボのツナギという体のラインがわからない格好の所為で男と勘違いされて逆ナンされて、ソラの闘士時代のトラウマ復活。

 

 そんな訳で、「男女問わずナンパされない為にはどんな格好をすればいいのか?」という切実だがバカらしい相談をして、ゴンやウイングは「髪をくくって最初に着てたみたいな恰好をすればいい」と言ったのだが、ソラにとってはあれは黒歴史以外の何物でもなかったので拒否して、彼女なりに自分が着てもいいと妥協できる「女性らしい」恰好がこれだった。

 

 もちろん、ゴンやウイングは「それはちょっと……」と難色を露わにして、キルアは「お前何のために俺が髪くくれって言ったかわかってるのか!?」とまたキレたが、最終的に「普通に服屋に売ってた服を着て歩いて、何で痴女呼ばわりされなくちゃいけないんだ!」というソラの主張で全員黙らされた。

 同時に、女のファッションと羞恥心の在り様は男にとって永久の謎であるということも思い知らされた。

 

 しかし本当にこの格好が一番効果的だったのだから、男性陣からしたら頭が痛いだろう。

 女だとはっきり分かる部分を露出しても、髪をポニテにしているソラはどこまでもユニセックスであるため、女性はもちろんこんなに露出してるのに男のナンパも綺麗になくなったことで気を良くしたソラは、そのままクラピカにものすごく怒られそうな格好を続けて現在に至る。

 

 もちろんソラの髪を下ろしたところを見たことが無いシルバからしたら、どうして髪を下ろしたらナンパが増えたのかも良くわからないので、いくらソラに言われても完全に納得することは出来なかったが、別に納得する必要もないただの挨拶代わりの雑談だったのでそれ以上は追及しない。

 

「それで? お宅のちょっと言いにくいけど割とバカなんじゃないかなって思う長男はどうしてるんですか?」

 

 ソラの方も無駄な時間をこの家で使う気はないので、さっさと本題に入る。

 実の父親の前で本当に言いにくいと思っているのか怪しい発言をするが、シルバもこの件に関しては「うちの息子、バカすぎないか?」と思っていたので、特に何も反論はなかった。

 

「今のところは独房に自分から拘束されて入っている。……ソラに依頼しないことを条件に入ったからな。お前を連れて入った時の反応が今から考えただけでも頭が痛いな」

「私の方が頭痛いんですけど……」

 

 相変わらずなあまりの嫌われっぷりにソラが頭を抱えて項垂れて、シルバはその頭に「すまん」と返して彼もまた深々とため息をつく。

 これが他の兄弟なら全員が割とキキョウに似た癇癪持ちなので、「そういう性格の子だ」と思ってまだ諦めがつくのだが、イルミはソラのこと以外ならば良くも悪くも合理的で使えるものは何でも使うタイプだからこそ、あの意地の正体を知るミルキ以外は「何でそんな意地を張る? いつものお前はどうした?」と思ってやまないからこそ、頭痛が増す今回の事態である。

 

「……それで? どうする?

 もうこのまま独房に行ってさっさと終わらすか、とりあえず一応どういう経緯で能力を掛けられたかの詳しい話を聞いておくか?」

「そうですね。一応話を聞いておきますよ。以前にも何度か説明しましたけど、私の除念は正確に言えば除念じゃないから、外せないで相手を死に至らしめる可能性もありますし。

 どういう経緯で能力を掛けられたかを知れば、私が殺せるか殺せないかわかるかもしれないから、殺せないんならお互い、会わないうちに帰った方が良いでしょう?」

 

 元々念押していた、除念できない可能性について改めて口にすれば、シルバは何とも微妙な顔で「わかっている」と答える。

 微妙な顔なのは、ソラがダメならあらゆる意味でイルミに掛けられた念を外すことが絶望的なことと、除念が可能なら可能でおそらくは自分と自分の父親であるゼノ二人がかりで押さえつけなくてはならないという、どっちにしろえらく苦労するのが目に見えていたからだろう。

 

 前者はともかく後者の苦労は、何だか歯医者を嫌がる子供の治療みたいだなとシルバは大分イルミに対して失礼だが一番現状にピッタリなことを思いつつ、カルトを呼ぶようにゴトーに命じる。

 

 カルトが来たのは、それから数分もかからなかった。

 自分を庇ったせいで兄が、「死者の念」を掛けられたかもしれないという不安と罪悪感で胸が潰れそうな日々を数日間過ごしたのだろう。

 走ってやって来て部屋の扉を乱暴に開けたカルトは、憔悴しきった顔でソラを見るなり大きな目に大粒の涙を溢れさせ、飛びついてしがみついて泣きだした。

 

「ソラ! ソラ!! お願い! 兄さんを助けて! ……僕の所為で、僕が相手の力量を見誤って、相手が念能力者だって気付けなくって、その所為で兄さんが……イルミ兄さんが!」

「カルト」

 

 しがみついて縋り付いて、兄を助けてと泣きながら懇願するカルトにシルバが厳しい声音で呼びかける。

 

「助けて欲しいのなら、責任を感じているのなら泣き喚いていないで落ち着いて話せ。

 何が起こってどんな能力を掛けられたのかイルミ自身が口を割らないのならば、あの時イルミの一番近くにいたお前の話が重要だ。責任を感じて償いがしたいと思えるほどもう子供ではないというのなら、毅然と経緯を話すくらいしろ」

 

 厳しく10歳になったかならないかな末息子へ「責任」の重さを教えるシルバに、カルトはヒックヒックとしゃくりあげながらも「子供ではない」ということを証明するように、泣くのを何とかやめようとする。

 しかし暗殺者としてのプライドだけで、ただの弟としての幼い心配を押さえつけるのはまだ困難らしく、なかなか泣き止まない。

 

 シルバはため息をついて、落ち着くまでカルトを下がらせようかと思ったタイミングでソラはカルトに声を掛けた。

 

「カルト」

 

 泣きじゃくって真っ赤になっている頬を撫で、両手でその頬を包み込んでこつんと熱でも測るように自分の額とカルトの額をくっつける。

 そして、決して目が逸らせない至近距離で、ミッドナイトブルーの眼でカルトをまっすぐに見て言った。

 

「大丈夫」

 

 ただ、その一言だけだった。

 カルトもシルバからソラの除念に関しての話は聞いていた。

 

 ソラの除念は強力無比だが、だからこそ使いどころが難しい部分も多く、下手したらソラでもイルミに掛けられた念は殺せない、殺すとしたらイルミごと死に至らしめるかもしれないというリスクの話は聞いていた。

 

 それでも、ソラは「大丈夫」と言ってくれた。

 イルミを助けてやれる自信があるからこその言葉ではないことくらい、わかってる。

 慰めの言葉だということくらい、わかっている。

 

 けれど、そのたったの一言がカルトを蝕み続けた不安をすっと軽くさせた。

 

 一番考えたくなかったのに、それしか思い浮かばなかったくらいの最悪の可能性、兄が死んでしまうかもしれないという可能性以外をようやくカルトは見出すことが出来た。

 確定されかけていた未来以外を、見ることが出来た。

 

 だから、カルトはまだ涙で瞳は濡れているが、それでもここ最近全く動かしていなかった部分の筋肉を動かして言った。

 

「……ありがとう、ソラ」

 

 欲しい未来を、そこに至る可能性を与えてくれた人に、まずは笑って礼を告げた。

 

 * * *

 

 長兄と末弟という組み合わせで受けた仕事は、さほど規模の大きくないマフィアを潰してほしいという依頼だった。

 暗殺対象一人当たり億単位が普通なこの家に、小規模とはいえマフィアを潰せという依頼を出した相手が誰なのかはもちろんシルバもカルトも言う訳なかったが、ソラも大体察しはついていたので気にならなかった。

 

 おそらくは、犯罪を見逃したり何らかの融通を利かせる代わりに、闇献金を受け取ったり自分にとって都合の悪い相手を葬ってもらっていた政治家あたりが、下剋上されかかってこの家に泣きついたのだろう。

 

 そしてイルミとカルトという組み合わせでこの仕事を受けたのは、9月にもっと規模の大きい仕事が入っており、その仕事を行うには少なくとも“念”に目覚めて四大行をマスターするくらいの実力が欲しかったから、カルトの修業を兼ねての仕事だったらしい。

 

 本来ならカルトに“念”の修業をさせるのはまだまだ先のはずだったが、キルアが家出したことで9月の仕事に人手が足りなくなったことと、ソラと一緒に行った仕事の所為で“念”の存在がカルトに既にバレていたのもあって、偶然だがゴンやキルアがウイングによって精孔を開けてもらった頃と同時期に修行を開始したようだ。

 

 キルアと違ってゆっくり開けたのもあって、精孔を一度開けてから2カ月のブランクがあったキルアよりスローペースだが、現在キルアと同じくらい“練”と“凝”をマスターし、後は“発”だけという成長っぷりは、ゾルディック家という血統の優秀さを怖いくらいに表している。

 

 今回の仕事は、そんなカルトに「念能力者との実戦」とはどんなものかを教える為の、教材のような仕事だった。

 マフィアの幹部に一人だけ、優秀とはとても言えない、天空闘技場200階クラスでも下の方な実力だが念能力者がいたので、イルミならカルトに「こういう場合はどうしたらいいか」と教えながら片手間で殺すことは余裕だろうと思われて、その仕事はこの組み合わせで行われた。

 

 その際、やはり修行の一環で一般人の組員は全員カルト一人で殺すように言われていたので、カルトはイルミの指導を受けながら逃げ惑う組員たちを皆殺しにしていたのだが、一つだけソラとの仕事と同じように想定外なことが起こった。

 

 いや、ソラの時よりは想定できても良い出来事だったので、もしかしたらそれがまたイルミの口を割らない事情の一端なのかもしれない。

 

 末端の構成員、チンピラでしかない奴らの中にもう一人、念能力者がいたのだ。

 ただそのチンピラの能力は戦闘能力が皆無だったのと、自分が能力者として大成することもなければ、この組で重宝されることもなく、能力がバレたら使い潰されることが目に見えていた為、幹部の能力者がいくらオーラを垂れ流しでも良く観察したら一般人とは違って淀みない流れをしていたことにすら気づかないレベルなのをいいことに自分の能力を黙っていたのだろう。

 

 いざという時、自分だけは助かる切り札としてその下っ端は能力を隠し持ち、そしてカルトに襲い掛かられた時にその「切り札」を発動させた。

 

 一般人だと思っていた男にいきなり“堅”でガードされては、まだ四大行も完全にはマスター出来ていないカルトではその防御を貫通は出来ず、むしろ怪我を負った。

 その隙に、男は自分の能力を発揮した。

 

『俺の眼を見ろ!!』

 

 しかし、その言葉で男の眼を見たのはカルトではなく、いきなりオーラ量が増幅したことに気付いて、教材代わりに甚振るように相手にしていた幹部を即座に殺し、カルトと男の間に割って入ったイルミだった。

 なので別にイルミは、とっさに言われた通り反射で相手の眼を見た訳ではない。

 

 相手の言葉を聞いていなかったわけでもないが、カルトにはまだ荷が重い相手でも、全然大したことなどない相手だとイルミは正しく相手の実力を見極めていた。

 制約と誓約もなしに即死系の能力が使えるほどのオーラ量ではなく、何らかの複雑な制約(ルール)にのっとった行動も起こしていなければ、大きな誓約(リスク)を背負えるほどの覚悟もない小物と一瞬で相手を冷静に観察して判断して、だからこそ「眼を見ろ」がブラフだった場合の方が「眼を見ろ」と言われて見て能力を受けるよりリスクが高いとイルミは読んでいた。

 何らかの効果があっても自分の針を打ち込めたら、そこから操作して解除は容易いとも計算していたのだろう。

 

 その計算が全て無意味になるほどの想定外が、その男の能力効果そのものだった。

 

 イルミが針を打ち込んで、男が自由意思を奪われて廃人のように虚空を見上げて口から涎を出して座り込んだときはまだ、イルミは普通だった。

 振り返ってカルトに怪我の有無を尋ね、「仕方なかった部分もあるけど、油断しすぎ」と叱責していた最中にそれは起こった。

 

「初めは、イルミ兄さんも多分気のせいだと思ってたみたい」

 

 カルトはそう言った。

 叱責の最中、イルミが信じられないものを見たようにいつもかっぴらいている眼をさらに見開いて、顔を上げた。

 そのことに驚きつつ、カルトも振り返ってイルミの視線の先を確かめたが、そこにはカルトが殺した組員の死体しかなかった。

 

 カルトがそのことを確かめて「どうしたの?」と尋ねれば、「……何でもない。ただの気のせいだったみたい」といつも通りの無表情と棒読みで答えた。

 しかし、家族だからこそ分かる程度にわずかでかすかだが、イルミは確かに苛立っていた。

 

 その苛立ちが爆発したのは、イルミの「気のせい」で説教する気も失せたのか「……まぁ、次からは気をつけろ」と話を切り上げて、針を打ち込んだ能力者に掛けられた能力を解除させようとして振り返った瞬間、またしてもイルミは眼を見開いた。

 そして、やはり何もない、何の変哲もないただの壁を見つめて彼は、忌々しげ舌を打ってから叫んだ。

 

『何で……どうしてお前がここに!!』

 

 イルミはそう叫んで、右目を押さえながら針をその壁に向かって何本も投げつけて打ち込んだ挙句、そのまま自分のすぐ足もとに座り込んでいた能力者である男の胸を手刀で突き破って殺した。

 

 それが、カルトが見てきたイルミが念能力を掛けられた経緯。

 カルトが話し終わると同時に、ソラはすごく嫌そうな顔をして言った。

 

「……あいつ、私の幻覚でも見てるんじゃない?」

 

 カルトが語った経緯と、その後のイルミの行動からして導き出された能力効果、イルミにとって最大に効果があった「嫌がらせ」の内容を推測して口に出してみたら、カルトやシルバだけではなく彼らの後ろに控えていた執事達も全員、そっと眼を逸らした。

 どうも全員、イルミが口を割らなくてもあのイルミが取り乱す時点でだいたい予想は出来ていたようだ。

 

「シルバさんのバカーっ!! 『嫌がらせ』の内容、推測できてたのに言わなかったのは言ったら私が仕事受けないってわかってたからだろ!!

 もうヤダ! あいつ、本物の私が来たら今までのストレスを全力で絶対にぶつけに来るに決まってるじゃん!!」

 

 ソラはテーブルに突っ伏して、シルバを子供っぽく罵りながら悲痛な声を上げる。

 さすがにこの泣き言の合間に叫ぶ当主への罵倒に関して、鋼鉄の忠義心を発揮してソラに何らかの行動を移す執事もいなかった。ソラの罵倒は、むしろだまし討ちしたシルバに対して優しいくらいである。

 

 ただでさえ助けに来たのに絶対に恩を感じてもらえない、それどころか「余計なことをしやがって」と全力の逆恨みをされるとわかっていたが、それ以上に理不尽な理由で自分を殺しにかかる相手を除念しなくてはいけない事態は、本当に泣きたくなるぐらい嫌な仕事だ。

 いくら社会は理不尽で仕事は大変なものであるといっても、これは本当に今からドタキャンしてもゾルディック家は何も文句は言えない。

 

 文句は言えないが今更キャンセルされるわけにはいかないので、シルバとカルトは慌ててフォローする。

 

「だ、大丈夫だ! 昨日も言ったようにいきなり襲いかかりはしないように手を打ってある!」

「そ、そうだよソラ! 今頃兄さんはおじい様とマハおじい様の二人がかりで取り押さえて、ソラに襲い掛からないようにしてるは……」

 

 カルトが最後まで言い切る前に、やたらと派手な破壊音が聞こえた。

 具体的に言うと、壁を力づくでぶち破ったような音。

 

 思わず全員が黙って、その音がした方向を見る。そしてそのまま、誰も何も語らない。

 奇妙な沈黙が30秒ほど続き、その沈黙を破ったのはシルバのケータイ。

 

 シルバが音がした方向に顔を向けたまま、やたらと遠い目をしてケータイを取って言った。

「もしもし」

 

 一縷の希望を託して、この電話は妻や次男あたりからの電話であること、あの破壊音はミルキが作った爆弾の暴発かキキョウのヒステリーであることを期待して電話を取るが、「おぉ、シルバ」と自分の父親の声がした時点で全てを諦めた。

 諦めたシルバに、さすがにちょっと気まずそうだがゼノは飄々と報告する。

 

《すまん。わしらが近づいた時点で気づいたようじゃな。独房に入る前に逃げられたわい》

 

 しっかりシルバの電話を聞いていたソラは叫ぶ。

 

「お宅の長男、バカですね!!」

 

 ソラが来たから殺しにかかるために脱走したのではないだろう。それならば今頃、いつも通りソラとイルミの鬼ごっこは開催されている。

 そうではないというのなら、未だにイルミの殺気も気配も誰も感じていないのならば、イルミはソラを殺すために脱走したのではなく、言葉通り本当に逃げ出したようだ。

 

 そこまでソラに除念してほしくない妙な意地を根拠に、ソラはついに疑問形を捨てて断言した。

 もちろん父親は、反論出来なかった。

 

 というかシルバも、頭を抱えながら確信した。うちの長男、割とバカだと。

 

 * * *

 

 苛々しながらもう何度目かわからない、自分の右目を抉りだしたい衝動を何とか押さえつけながら、イルミは当てもなく自分の家の庭を、ククルーマウンテンを彷徨う。

 

 眼を抉っても、この視界の一部を支配する“念”に効果はないだろう。

 おそらく自分に掛けられた“念”が支配しているのは右目の一部だけではなく、脳の一部も使われている。

 能力を掛けられた対象にとって、一番無視できない映像を記憶から掘り出して、視界の一部を占領して再生する。これはそんな、まさしく嫌がらせでしかない能力なのだろう。

 

 そう思ったのは、その「幻」が赤の他人が作って見せられる訳がない、イルミの過去を、記憶を知らなければ見せられる訳がないものであったことと、5か月近く前の記憶の所為。

 

『バカか、お前。この「眼」が私の視力と連動してるのなら、私はそれこそまずはじめにこの「眼」を抉ってる』

 

 自分の「眼」がもたらす異能と視力は連動していない、むしろ反比例していると告げた女の言葉によって、自分に掛けられた“念”も目を抉れば解決するとは限らない。むしろ、眼を失ったことでその視界は最悪の記憶を永遠に再生し続ける可能性に気付き、何とか抉り出したい衝動を堪え続けるが、同時にその可能性に思い至った理由が自分の右目を抉りだしたい理由でもあることで、余計に苛立ちが募る。

 

 苛立ちを募らせながらもここ2,3日、自分がとんでもなくバカなことしかしていないという自覚はあるので、自嘲気味にイルミは溜息をついた。

 いつも通りの冷静で合理的な自分は、「変な意地を張ってないで、さっさとあの女に除念してもらえばいい」という結論を出しているが、普段なら存在しないに等しいはずなのに、ソラのことになると肥大する愚かで感情的な自分が、「それだけは嫌だ」と言って譲らない。

 

 わかっている。さっさとソラに頼ることを了承してしまえば、この右目に掛けられた“念”の効果を、「嫌がらせ」の内容を訊かれることもなかった。

 そもそも、言わなくてもおそらく家族も執事達も気付いていることをイルミも察している。

 自分が冷静さを保てず、感情的になるのはあの女に関することだけなのだから。

 

 それでも、イルミは語る気などなかった。

 頼る気はそれ以上にない。

 

「……こんな“念”、自力でねじ伏せて克服してやる!」

 

 押さえていた右目に爪を立て、抉り出したい衝動を何とか堪えて手を離して眼を開いた瞬間、ふわっと視界の端になびいた髪。

 

 毛先だけ墨汁で染め上げたような白髪が見えて、とっさにイルミは振り返る。

 そこに誰もいないことはわかっている。これが自分に掛けられた念能力だということなど、とっくの昔にわかっている。

 

 それなのに、無視できず反応してしまう自分が、……あの日のように振り返って目で追ってしまう自分を殺したくなりながら、やはり幻覚だとわかっていながらも視界の端に佇む白い髪の女に針を投げつけた。

 

 針を投げつけられても当然、幻影の女に突き刺さる訳もなく、黒かった毛先を自分で切り落としたのか、実に乱雑なショートカットの女が笑って言った。

 

『大丈夫?』

 

 声は聞こえない。けれど、もう何度も見てきた、見せられた唇の動きがイルミの耳にあの日のソラの声を鮮明に再生させる。

 

「……俺を、憐れむな!!」

 

 発作的にまた叫んで幻影を殴りつけるが、イルミの拳は大木の幹を抉ってブチ折るだけで、やはり視界の端にチラチラとイルミを嘲笑うようにその女はいる。

 

 ソラ=シキオリの幻は、そうやってイルミの視界から消えることはないのに、それなのに彼女はイルミを見ない。

 

 1年前の雪降る雑踏での邂逅と同じように、目が合ったのにあまりにも自然にその視線を外す。

 すぐ傍らをすれ違ったのに、横のイルミの視線に気づきもしなかった。

 立ち尽くしたイルミと違ってあの背中は、歩を緩めることもなく離れて行った。

 

 翌日、仕事で鉢合わせた時もそうだった。

 

 視線はイルミに向けられていたが、あの眼はイルミを見てなどいなかった。

 所用で主の元から離れた老執事を殺して化けて入れ替わって部屋に戻ってきた瞬間、驚きつつもあの女は一目で老執事が別人と入れ替わっていると気付いて、即座に攻撃してきた。

 

 そのまま交戦したが、あの女は戦いつつもイルミのターゲットだった雇い主の動きに一番注意を払っていたのはわかっていた。

 それが、腸が煮えくり返るくらい気に入らなかった。

 ソラはボディガードだったのだから、交戦しながらもその守るべき対象がパニックを起こして余計な行動をしないかを気にかけるのはプロなら当然であることなどわかっていたが、それでも気に入らなかった。

 

 人体蒐集という悪趣味な仲間を集めて、自分たちのコレクションを自慢するパーティーという、さほど多くはないとはいえターゲット以外の人間が集まっていたあの場で、変装を解いてしまうくらいに気に入らなかった。

 変装を解いて素顔を見せれば、少しは意識がこちらに向くと思ったのに全くの無意味だった。

 

『うわっ!? 何それ気持ち悪っ! って、おぉう!? じいさんがイケメンになった! 能面みたいだけど! 爆発しろ!!』

 

 こちらの針も、周囲にいた使用人や客人を操作して襲い掛からせても、すべて捌いて避けきりながらソラは挑発しているとしか思えないことしか言わなかった。

 当時はそう思ったがソラという女を知れば知るほど、あれは挑発ではなくいつも通りの歪みなく空気を読まない、ただのソラの素の感想であることを理解すれば、なおさらに憎悪が積もる。

 

「挑発」という形ですら、ソラはイルミを見はしなかった。

 ただの上っ面、イルミの変装を解いた顔を見て率直な感想を口にしただけという事実が許せなかった。

 確かに一度、目は合ったのにソラはイルミのことなど全く覚えていなかったことが、仕事などどうでも良くなるくらいに許せなかった。

 

 イルミもプロ失格な理由で、ターゲットのボディーガードだからではなく完全に個人的感情でソラと交戦して殺そうとしていたが、ソラはイルミ以上に初めからプロ失格だった。

 雇い主を守る気などなかった。

 

 イルミと交戦していた最中、イルミのターゲットにしてソラの雇い主はもっとちゃんと自分を守れだの、屋敷内を破壊するなとソラに対して始終文句をつけていた。

 イルミが既に仕事を忘れ去ってターゲットなど眼中になく、ソラを殺すことだけに執心していたというのもあるが、ソラが五体満足でイルミからの攻撃を避けきって捌ききっているのがどれだけ規格外なことなのかも、自分が今生きていることがどれだけ運がいいことなのかも、その男は気付いていなかった。

 

 イルミがソラに執心していたからこそソラが屋敷内を逃げ回っても追いかけてきたのだから、その間に逃げれば良かったのに、男はミルキのように転がった方が速そうな腹をぶよんぶよんと見苦しく波立たせながら追いかけてきて、屋敷や調度品が壊れるたびに悲鳴を上げていた。

 

 自分の命に比べたら、屋敷や自分の秘蔵の「コレクション」が破壊されることくらい安いものだと思っていれば良かったものの、その男はソラとイルミが廊下のある壁の前で交戦しだした時、今まで以上に焦って切羽詰まった声で「やめろぉぉぉっっ!!」と叫んだ。

 

 そんな声はもちろんイルミは無視した。

 反応したのは、ソラだった。

 

 夜空色の目に光を灯して笑って、防戦一辺倒だったソラが初めてイルミに向かってきた。

 向かってきたと思った。

 

『ここか!』

 

 イルミなど見ていなかった。

 屋敷内を逃げ回っていたのは、雇い主からイルミを引き離すためなんかではなかった。イルミと交戦することで、どさくさに紛れて屋敷内を壊して回り、イルミにも壊させてソラは隠し部屋を探していただけだ。

 雇い主が非合法で蒐集した人体が並べられた、コレクションルームを。

 

 隠し扉だった壁を破壊して、護衛対象をほったらかして、イルミなど目もくれずソラはそこから地下に繋がる階段を駆け下りた。

 あの雑踏での邂逅と同じように、その背は振り返りなどしなかった。

 

 ターゲットを殺せたのは、ソラの雇い主がこの上なく愚かなことにイルミが自分を殺しに来た暗殺者であることを忘れて、階段を駆け下りたソラを止めようとのこのこ近づいてきたから、八つ当たりでその首を刎ねたに過ぎない。

 自分を無視して、イルミなど初めから眼中になかったことに対して、昨日からほとんど変わらないイルミに対してのソラの認識が、さらにイルミの執着に火をつけた。

 

 だから、その背を追った。

 当時まだ名前すら知らなかった女を殺すために、仕事だからでもなく、何らかの目的があったわけでもなく、イルミ自身も何故こんなにもあの女が気に入らないのか、どうしても殺さないと気が済まないのかなどわからないままに追う。

 

 幻覚の、幻影のソラを今もイルミは手が届かないとわかっていながらも、針を投げつける。

 

 自分のしていることが、どれほどの愚行かなどわかっている。

 今、イルミがしていることなど水面に映った月を網で捕えようとしている子供と大差ない。

 

 それでも、視界の端に映る自分など眼中にないあの背中を無視することなどできない。

 

「あれ」が、初めてイルミを、「自分」を彼女が確かに「見た」瞬間だとは認められず、イルミは自分を見下ろして笑う女の首に手を伸ばす。

 

「……イルミ。マジで大丈夫か、お前?」

 

 イルミの伸ばした手はやはり女の首をすりぬけて、幻影はイルミが一番聞きたくない言葉を吐き出す。

 けれど、今度は記憶が蘇らせた幻聴ではなかった。

 

 声がした方へ、振り返る。

 視界の端にはやはり、毛先だけ黒い髪がなびく。が、今度はその髪を無視することが出来た。

 

 夜空が、見ていた。

 藍色の瞳をまっすぐこちらに向けて、自分と相対して立つ女。

 その女にダブるように、絶対に振り返らないとわかっている忌々しい背中が見える。

 

 自分に背中を向ける、イルミなど眼中にもない幻影と、「嫌がらせ」でしかない“念”に振り回される自分をあの日のように、あの日と違って笑いもせず憐れむように見ている女。

 

 イルミは自分にとって最悪の悪夢めいたその情景に、舌を打った。






イルミがくらった念能力の元ネタは「DDD」2巻に登場して日守秋星に瞬殺された悪魔憑き「画面潰し(ブラクラ)」です。
わかる人いるんだろうか? と思いながら書きました。
というか、これもスターシステムなのかな?

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